江戸時代その7 目次 年表 1700年〜1715


1701年 松の廊下で刀傷事件!
1702年12月 赤穂浪士 吉良邸へ討ち入り!忠臣蔵
忠臣蔵 裏話 赤穂浪士は本当に忠臣!?
四谷のお岩失踪事件 東海道四谷怪談
1704年 綱豊 将軍家の養子となる
綱豊 将軍までの道のり
6月 尾張藩主徳川吉通の母 本寿院 男遊びしすぎた!
1705年 伊勢お参りが大流行
吉宗 5代紀州藩主となる
1707年 富士山大噴火
1709年 将軍綱吉の奇怪な死
6代将軍家宣
火の子 新井白石
家宣の妻達 熾烈な争い
1710年 貝原益軒による「女とはこういうものだ!」本
1713年 将軍家宣死去
七代将軍 家継
1714年 大奥スキャンダル 絵島生島事件




江戸時代その7 1700年〜1715年
1701年 松の廊下で刀傷事件!
この頃、年の初めに将軍の使者が京都へ行き、京都からの使者が江戸へ来るのが慣わしでした。

京都からの使者を迎える儀式は、朝廷の古いしきたりがうるさくって、接待役の大名は頭を悩ましていました。

この年将軍の使いとして京都へ行ったのが吉良上野介央で、京都の使者を接待するのが5万石の小大名 浅野内匠頭長矩でした。ちなみに浅野長政の子孫です。

浅野は吉良にどのようにやったらいいかアドバイスを受けようとしたんですが、その際に付け届け(賄賂)を持っていかなかったのです。

浅野家では家臣らが持ってった方がいいんじゃないの?という声もあったんだけど、いまいち作法をわかってなかった浅野は贈り物をしなかったんですねー。

一説には吉良の領地はいい塩が取れると言われていて、そのやり方を浅野が教わった。

すると浅野の方が「赤穂の塩」としてバカ売れ。これをムカついていたという話もあります。

さぁ、こっから吉良の浅野イジメが始まりました。

大事な場に場違いな洋服を着たほうがいいとアドバイスしたり、畳を新しく替えなきゃいけない時に替えなくてもいいと言って浅野に
恥じをかかせたり・・・。

浅野はとうとうキレてしまい、「吉良上野介!遺恨思い知れ!」と松の廊下で吉良に斬りつけたのです!

これを梶川という旗本が後ろから抱えて止めたため、吉良は軽傷で済みました。

ですが神聖な江戸城での刀傷事件は不届き千万と浅野は事件の7日後に切腹。そして吉良はお咎めナシとなったのです。

幕府官僚はこの処置を正しいと信じましたが、庶民らは「喧嘩両成敗なんじゃないの?」とこのお咎めに不満を持つように。そして梶川は「武士の情けを知らぬイヌ侍」と罵られました。

さらに赤穂藩は幕府に取り上げられ、家臣一同浪人となってしまいました。その数300人。

そして赤穂浪士となり「わが殿は切腹となったのに、吉良がお咎めナシというのはおかしいんじゃないか?幕府の判断が間違っていることを世の中に知らしめるべきである!」と立ち上がることとなったのです。

江戸庶民は「赤穂の浪人たちはどう出るか!?」と話題騒然でした。
1702年12月 赤穂浪士 吉良邸へ討ち入り!忠臣蔵
赤穂浪士47人は大石内蔵助を中心に殿の仇をとるべく立ち上がりました。

忠臣蔵の由来は大石が「忠臣」で蔵助の「蔵」から取ったものです。

ちなみに大石家は平将門を討った藤原秀郷の子孫で、応仁の乱で没落したんだけど、小山久朝によって再興され、信長に滅ぼされたり、秀吉に浪人にさせられたりと常に危ないトコにいました。

そして蔵助ら47人は討ち入りの仕度をするために江戸市内のそば屋の2階へ。

そこで「剣菱」というお酒を飲みました。

足軽の寺坂吉右衛門だけを浅野の未亡人のところに行かせ、残る46人が雪の中吉良邸へ向かった。

表門は大石内蔵助が担当し、裏門には大石の息子主税(ちから)が。

そして「おのおの方 討ち入りでござる!」と、吉良の寝込みを遅い、首を取ったのです。

これは江戸の大ニュースとなり、赤穂浪士はどうなるか!?と皆で噂しました。

殿様の仇をとったんだから立派じゃねーか!とかいやいや幕府の処置が不満だからってこりゃやりすぎだとか・・・。

結局寺坂以外の46人は松平定直・水野忠之らの屋敷に預けられ、切腹を命じられたのです。

そしてこの一連の事件は日本三大仇討ちの一つとして「仮名手本忠臣蔵」として歌舞伎で上演され人気となったのです。
忠臣蔵 裏話 赤穂浪士は本当に忠臣!?
忠臣蔵では、吉良が思いっきり悪者で浅野がすごい同情されるような感じになっていますが、この頃「賄賂」は当然のことでした。

江戸藩邸にいる留守居役はしっかり情報収集をし、見合った賄賂を送らなければならなかったのです。

現に浅野と同じ時にその役目を務めた伊達家は、洗礼どおりのきちんとした賄賂を贈っていたのです。

確かに浅野家の財政は苦しかったんですが、留守居役の情報収集がきちんとできてなかったとも言われています。

また本来なら大石らは吉良ではなく、このような裁決を下した幕府に文句を言うべきなのに、なぜか吉良へ。

吉良家は文化系の家であり、剣術の方はさっぱりだった。そんな吉良に対して完全武装で剣術の達者な赤穂浪士が夜中にやってきたのです。吉良が勝てるわけがない。

赤穂浪士は無抵抗な老人を46人がかりで殺しに行ったテロ集団のようなものなのです。

さらに大石に至っては浅野家の家老だったという地位を利用し、浅野家の財産の一部を京都で遊郭遊びに使っています。「吉良の目をごまかすために・・・」ということになっています。

また幕府もだらしない。

浅野切腹・吉良お咎めナシという裁決をしたものの、江戸中大騒ぎとなり「今更カッコ悪くて裁決をやりなおしできないし・・。だったら赤穂浪士に吉良襲わせちゃわない?」という空気が出てきたのです。

つまり吉良は幕府の失態の犠牲となり、また当時の礼儀作法をわかっていなかった浅野家の留守居によって殺されてしまったということとなるのです。

まぁ、本当のところはわかりませんケドネ・・・。
四谷のお岩失踪事件 東海道四谷怪談
四谷左前町(新宿区)に住んでいた田宮又左衛門の一人娘お岩は19歳の時に疱瘡(天然痘)になり醜い顔になってしまいました。

そのため父はいつもお岩のことを気の毒にと思っていたんですが、とうとう左又衛門が病気となってしまったのです。

「このままワシが死ねば、お岩は一人で寂しく暮らし、生活にも困ってしまう。その前に何とかしてお岩にお婿さんをとってやらなけらば・・」と考え、同僚の秋山長左衛門にお婿さんを紹介してくれるよう頼みました。

そして長左衛門が探してきたのが浪人の伊左衛門(いえもん)でした。

伊左衛門は長屋で傘張りをして暮らしており、小金持ちの田宮家の婿に入ることは超ラッキーでした。この時お岩21歳。伊左衛門は31歳でした。

父は安心したのか伊左衛門が婿入りした後すぐに息を引き取ったのです。

お岩は伊左衛門とともにささやかながら幸せな日々を過ごしていました。

8年ほどたった頃、伊左衛門の上役(上司)である伊藤喜兵衛が伊左衛門にお願いをしてきたのです。

「実はオレお琴っていう若い妾がいるんだけどさ、妊娠させちゃったんダヨー。でもオレ奥さんうるさいからさ。持参金あげるから、お琴&おなかの子貰ってくんない?」と伊左衛門に言って来たのです。

ここで伊左衛門は断わりゃいいのに「持参金か・・・欲しいな。それにお岩はブスだけどお琴は美人だしな。オレもそろそろお岩のブス加減にうんざりしてきたしな・・・」と、なんとこの話をOKしちゃったのです。

それから伊左衛門はお岩を追い出そうと、暴力を振るうようになり仕事も行かずに遊んでばかりの生活に。

困ったお岩は仲人の秋山に相談。すると秋山は「伊左衛門はできた男だ。ちょっと今は貧乏暮らしに疲れてるのかもしれん。お岩がどこかで屋敷奉公して、そのお給料を伊左衛門に渡せば、あいつもお前に申し訳ないと思い心を入れ替えるかもしれんぞ」とアドバイスしちゃったのです。

お岩は素直にその言葉を聞き旗本屋敷に住みこみで働きに出ました。

すると伊左衛門は「ラッキー!」とお琴を家に入れちゃうのです。その後2人の間には3人の子供も生まれました。

そして15年経ちました。お岩の元に商人がやってきて懐かしい伊左衛門の話を聞かされました。するとその商人が「アレ?伊左衛門は美人の女房と4人の子供と一緒に暮らしてるよ?」といったのです。

お岩はビックリ!夫のために住みこみで働き、毎月お金を送っていたのに、そのお金で伊左衛門は新しい家族と楽しく暮らしていたのです。お岩は愕然とし「この怨み、きっと晴らしてやる」と去っていったのです。

それから田宮家では不吉な出来事が相次ぎました。お琴と4人の子供達が次々変死していったのです。伊左衛門は難病にかかり最後は狂死。秋山も病死し、伊藤喜兵衛は悪いことをしちゃって処刑されちゃったのです。

お岩に関わる全ての人が死んだので江戸庶民は「お岩のタタリだ」と噂しあったのです。

庶民はお岩に同情し、この話をもとに四世鶴屋南北が「東海道四谷怪談」として上演しました。

この「東海道四谷怪談」はカラクリを見事に使い、江戸庶民は怖いもの見たさで大人気となりました。

1704年 綱豊 将軍家の養子となる
桂昌院は綱教をプッシュしまくりましたが、肝心の綱教が将軍職を嫌がり、こうなったら鶴姫に男児を産んでもらい、その子(自分の孫)を将軍にするしかないわ!と桂昌院は燃えましたが、なんと頼みの鶴姫が死んでしまったのでした。

さらにダンナの綱教も後を追うように死んでしまったのです。

こうなってしまったら仕方がありません。桂昌院は大嫌いだった順性院の孫綱豊を養子にするしかなくなってしまい名前を綱豊から家宣と改め綱吉の養子としたのでした。
綱豊 将軍までの道のり
綱豊は1662年 家光三男綱重の子として生まれました。

父の綱重は家光が41歳の時の子供で「厄年の子供は育たない」という迷信があり、千姫の養子となりました。

18歳の時に侍女のお保良(おほら)に手をつけて綱豊が誕生したのです。

その後 綱豊は京都から正室を迎えるために綱豊を家老の新見正信のもとに養子に出しました。

が、男児に恵まれず綱豊を呼び戻したのです。

この時に新見正信と仲の悪い島田と大田という家老が「綱豊は本当は死んでいて、新見は自分の子供を綱豊と偽っている」と訴えたのです。

調べると事実無根とわかりましたが2人は切腹を命じられました。

それを綱豊が助命届けを出してなんとか切腹は免れましたが、このニセ者騒動により綱豊はイメージが悪くなってしまいました。

父の綱重が35歳と早く死んだため、綱豊は17歳で甲府藩主となりました。

この頃の将軍は綱吉で、綱吉は自分の子供を将軍にしようとしたんだけど水戸光圀に「次は綱豊がいい!」と言われ、このあたりから綱吉は綱豊を毛嫌いしたのです。

若き藩主 綱豊を支えたのは間部詮房(まなべあきふさ)でした。

猿楽師の弟子であった詮房は、芸事好きだった綱豊に側近として取り立てられました。また学問大好きな綱豊は勉強相手として、木下順庵という儒学の師から推薦された新井白石を重宝するのです。

1704年鶴姫が死んだことにより将軍家へ養子となったのです。

1704年6月 尾張藩主徳川吉通の母 本寿院 男遊びしすぎた!
尾張家の四代藩主吉通の母 本寿院は三代綱誠の側室でした。

綱誠が死に尼となりました。息子が藩主となったら、江戸の藩邸に住み自由を謳歌しまくったのであります。

この時本寿院35歳。そして尼でありながら男遊びを始めちゃったのです。

お相手は芸人・町人・相撲取り・寺僧とバラエティに富んでいました。

そしてエッチした後に相手いお小遣いをあげてたのです。

さらに男性を湯殿に集め、一番大きい人を選びエッチして色んな体位にチャレンジしたそうです。

「藩主の生母たる方がなんということを!」と本寿院のご乱行はたちまち噂になりました。

だけど誰も咎めることができず、とうとう幕府にバレてしまったのです。

そしてとうとう1705年に蟄居を命じられてしまいました。

四谷の屋敷に幽閉された後名古屋城下の屋敷で寂しく幽閉生活。それは死ぬまで34年間続いたのです。

でもさ、男は遊んでもOKで女はダメなんて失礼しちゃうよね。
1705年 伊勢お参りが大流行
江戸庶民にとって神社は病気や心配事をなどをすがる場所でした。

一番人気は伊勢神宮。「男たるもの一度は行きたい伊勢と吉原」と言われたほど。

神社信仰の元締めとして、伊勢参拝は江戸っ子の夢だったのです。

「伊勢参りに行く」と言えば領主も引き止めるわけには行かない!というほど伊勢参りは普及しまくりました。

以後、全国津々浦々から大群衆が伊勢参りすることになるのです。

伊勢神宮は60年に一度「お陰参り」というこの年に参詣するとご利益がある!というものがあって、この時だけはビンボー人だろうがなんだろうが「おかげでさ するりとな 抜けたとさ」と唄いながら一路伊勢を目指したのです。

お陰参りの時は参詣者を助けるとご利益がある!ということになり、道筋のお金持ちとか商人らはタダで食料や宿泊所を提供したのです。だからビンボーな人も行けたのです。

ちなみにこの年はお陰年で、4月から5月にかけて360万人が伊勢へ向かいました。

当時の日本の人口は3千万人とされていたので、まさに1割の国民がこの次期に伊勢を訪れたのです。

他に江戸っ子に人気だったのは商売繁盛の神様である稲荷神社。

数多くある稲荷神社の中でも一番人気は真崎稲荷社でした。

富士講神社・太宰府天満宮・神田明神など、江戸っ子のレジャーとして神社お参りはブームとなるのです。
1705年 吉宗 5代紀州藩主となる
吉宗は1684年紀州2代藩主で徳川光貞の四男として生まれました。

生母はお由利の方で農民の娘。お湯殿番をしている時に光貞のお手付きとなったのです。

生母の身分が低いため5歳まで家臣に預けられていました。

ある時21万石の大名の行列を見て「僕もせめてあれくらいの大名になれたらな・・・」とつぶやくと家臣から「何を言っておられます!若様は紀州55万石のお生まれですぞ!22万石の大名とは比較になりませぬ!」と強くたしなめられた程、吉宗の存在は薄いものでした。

また綱吉が紀州に立ち寄ったところ、長男綱教(鶴姫のダンナ)と(次男は死んでる)三男頼職(よりもと)は綱吉に謁見できた。

吉宗は自分の番はまだかまだかと次の部屋で待っていたところ、吉宗は忘れられ謁見は終了。

家臣が哀れに思い「紀州にはまだ男児がおりますぞ」と声をかけ、やっと綱吉に謁見できた。

この時綱吉は吉宗を可哀相に思い、三万石を吉宗に与えたのです。

が、思いがけなく吉宗が表舞台に出るチャンスがやってきたのです。

1705年5月に三代藩主となった長男の綱教が死去。四代藩主となった三男頼職も同じ年の9月に死去したのです。そして四男である吉宗が22歳で5代紀州藩主となったのでした。

ですがこの時紀州藩は超貧乏。兄2人の葬式代や火事で焼けた江戸屋敷の建て直し。

まだ綱教と鶴姫の結婚式代も払っていない有様でした。

吉宗は紀州のあまりの貧乏さにビックリ!さっそく財政建て直しに取り組みました。

風俗取締りと質素倹約を徹底的にし、自らも質素な生活に。木綿の着物を着て、家臣らにも上等な着物は着させないように。食事も一汁三菜と決めました。

京都の呉服商人らは「紀州は城主がケチなので絹が全然売れない!」とボヤくように。

また訴訟箱を設け、領民の声を聞き、家柄が悪くてもいい人材はどんどん出世させていきました。

また下情に通じ、夫婦喧嘩までも仲裁したりしました。

そして以後11年間、努力は実り紀州藩は黒字になっていき「紀州の殿様はたいへんな名君らしい」と、江戸でも評判になっていくのです。
1707年 富士山大噴火
富士山は今まで800年・864年と噴火していました。最後の噴火がこの年。

まず10月4日に「安政の大地震」というマグニチュード8.4の地震が起きたのです。

これが噴火の前触れでした。

そして11月23日富士山が大噴火したのです。この日江戸ではお昼過ぎに雷が鳴りまくり青黒い雲が出始めました。

そして火山灰が江戸に降り注いだのです。

ちなみにこの時、関東郡代の伊奈忠順(いなただのり)は、被災者のために幕府保有米を独断で分け与えた。これが勝手にやりやがって!と追求され、死罪となってしまったのです。

さらに被災地へ救援金が40万両集められましたが、実際に使われたのは16万両。

残りの24万両は着服されまくったのでした。
1709年 将軍綱吉の奇怪な死
この年江戸は麻疹が大流行。将軍綱吉も麻疹にかかり、とうとう死去しました。

その1ヶ月後に正室信子も死去したことから、江戸中死因についてさまざまな憶測が出てきたのです。

後釜として綱豊がいるにも関わらず、柳沢吉保が綱吉ご落胤説のある長男吉里を後継ぎにしようとしたところ邪魔されたからとか、柳沢吉保の側室 染子が寝物語で100万石あげるというお墨付きを貰ったため、怒った信子が綱吉を殺し自分も後を追って死んだとか言われています。

それもこれも吉保があまりにも綱吉に可愛がられまくったから出た噂なのでした。
1709年 6代将軍家宣
さてさて綱吉が死んだので、養子として入っていた家宣(綱豊)が6代将軍となりました。

この時48歳。歴代将軍の中で最高齢の将軍初就任となりました。

家宣は下積み時代が長かったので下々の心がわかる人でした。

今までの将軍家の賄賂などの悪習をやめ、政治改革を推し進めようとしました。

若年寄の加藤明英は家宣にゴマスリするために間部詮房にプレゼントをしたところ、家宣は下心を持った奴を排除しようとしていたので、警戒し遠ざけたのです。

加藤昭英は軽率なことをしたと後悔しまくり、とうとう発狂してしまったそうです。

家宣は信頼している間部詮房と新井白石を抜擢し政治をスタートさせたのです。

まず最初にやったことは生類憐みの令の廃止。

綱吉は死ぬ時にも「私が死んでも後100年はこの法を守れ」と遺言したんだけど、こんなアホな法やってらんないし・・・とすぐさま廃止。

江戸庶民は大喜び。これにて8000名ほど捕らえられた人たちが助かったのです。

そして武家諸法度も新しくしたのです。

今まで政権をになってきた柳沢吉保はこの時政治の表舞台から去りました。
火の子 新井白石
新井白石は振袖火事の年に生まれました。

そのため幼少の頃は「火の子」と言われていました。

父は上総久留里23000石藩主土屋家に仕えているお目付け役でしたが、藩主の家族らはかしこい白石をすごく可愛がり、特に藩主の母は自分の孫かというくらい溺愛して育てたのです。

白石は朝晩勉強しまくり、眠くなれば水をかぶってまでも勉強!というほど。

12歳頃になると藩主の手紙を代筆するまでに至りました。

だけど土屋家にお家騒動が勃発。

父がそれに巻き込まれ「奉公構え」というほかの家に勤めることを禁止されるという罰を受けて放り出されてしまったのです。

そして土屋家が改易となったため、奉公構えを守る必要がなくなり堀田正俊に仕えるようになりました。が、堀田正俊が稲葉正休に殺されてしまい、またも白石は放り出されたのです。

そんな中、白石の書いた「山形紀行」が幕府儒官である木下順庵の目に止まりました。

順庵は白石の才能を買い、師弟関係を結んだのです。

そして順庵の推薦によって甲府藩主徳川綱豊に仕えることとなったのです。

そして綱豊が家宣と改名し六代将軍に。白石の運命が大きく変わった瞬間でした。

白石はそのまま家宣についていき政治の最高顧問となったのです。

そして今まで学んだ全てを君臣一体となって発揮。家宣も白石をすごく信頼して「正徳の治」と称されました。

白石は間部詮房とコンビを組み猛烈な勢いで新政策を推し進めていくのです。
家宣の妻達 熾烈な争い
家宣の正室照子は京都関白の娘でした。

長女豊姫を出産したがすぐに死んでしまい、1699年には男児を産みましたがその日に死んでしまいました。

側室のおこうの方も男児を産みましたが死亡。

そして側室お須目も三男大五郎を出産。

家宣が将軍になってからお喜世の方が鍋松という男児を産んだのです。

お須目の方は柳沢吉保にプッシュされ大奥入りしました。

吉保は次期将軍は家宣だろうと見極めた上でお須目の方を勧めたのです。お須目は京都出身だったので、正室照子と仲良しになりました。

対する四男鍋松の母 お喜世は僧侶の娘で、20歳の時に奉公にあがったところ、その美貌に家宣ヒトメボレ。先輩お須目の方をしのぐほどの寵愛ぶりとなったのです。

おもしろくないのはお須目の方。この2人の仲は最悪となっていったのでした。

お須目のバックには正室照子と柳沢吉保。お喜世はこれに対抗するべく間部詮房に後ろ盾になるようお願い。

詮房はこのお願いをしかと聞き入れ鍋松を超可愛がりました。

いつしか鍋松は本当は詮房の子ではないかと噂されるほど。

ちなみに間部の旧姓は「間鍋」そして子供の名は「鍋松」こっからして怪しい。

鍋松も詮房の言うことしか聞かず、鍋松が悪いことをすると「詮房に言いつけますぞ」というだけで大人しくなり、詮房が仕事から帰ってくると飛びついて抱きつくほど詮房が大好きでした。

そうしてお須目VSお喜世の戦いが始まったのですが、なんと三男大五郎が3歳で死んでしまったのです。

これはお喜世の方が毒殺したと噂されました。

全部で7人子供がうまれましたが育ったのは鍋松一人となったのです。

1710年 貝原益軒による「女とはこういうものだ!」本
貝原益軒(かいばらえきけん)は幼い頃から聡明で、儒学者となりました。

その益軒が書いた「和俗童子訓(わぞくどうじくん)」という教育書に「女とは男より数段劣るものである」というような内容のものでした。

今そんなこと言ったら大変なコトになっちゃいますネェ。

だけどこの頃は男尊女卑バリバリの時代でしたから。なんてったって女性は昼間ほとんど町を歩けなかったらしいし。

さらにこの本、男にとっていい妻・悪い妻を書いてあり、めちゃくちゃ男にとって都合がいいことばかり。

男にとっていい妻はというと、
・子供を産む女
・姑に優しい女
・義理の子供を可愛がる女
・掃除をきちんとする女
・稼業を手助けする女
・礼儀正しい女
・主人に逆らわない女
・自分のお小遣いも節約する女
そして極めつけは「何でも主人の言うことを聞く女」だそうです・・・。

さらに悪い妻はというと
・子供を産めない女
・亭主を尻にひく女
・針仕事ができない女
・流行者が大好きな女
・ご飯の後片付けをすぐしない女
・他の亭主をほめる女
・ぺちゃくちゃとよく喋る女

とまぁ、うるさいうるさい┐(´ー`)┌ 今なら「お前は何様だ?」と言いたくなるような内容です。

いい妻&悪い妻を100項目くらい書いちゃってるんだからすごいもんだ。
あたしなら逆に書いてやるけどなー。

他に貝原益軒は「養生訓」というのも書いており年齢によって射精の回数はこんくらいがいいと教えちゃってます。で、年取ってあまりにもやりすぎると死ぬとまで。

戦国時代の松永久秀のようなお人ですね。

ちなみに自分は39才の時に17歳の奥さんを貰いました。他に3人妾がいましたが、子供は生まれなかったそうです。

じゃあ益軒の奥さんはみんな「悪い妻」じゃんね。というか、益軒がダメで産めなかったんじゃないの?って感じ。それでも昔は女のせいだもんなー。失礼だよねー。

そして「養生訓」のおかげで益軒は85歳と大往生したのでした。
1713年 将軍家宣死去
この年家宣が風邪をこじらせ危篤状態となりました。

家宣は間部詮房と新井白石を呼び「次期将軍は尾張の吉通にするようにしてくれ」と遺言。そのまま息を引き取りました。

が、白石は「吉通を将軍に迎えると尾張の家臣と将軍家の家臣の間で権力争いが起きる。だったら鍋松殿を将軍とし我らが後見人となり補佐した方がいいのではないか?」と意見。

この意見に間鍋詮房も同意し「そうだ!我らが補佐すれば大丈夫であろう。もし鍋松殿にもしものことがあったらその時は御三家から迎えればいい」と言ったのです。

そうして家宣の遺言は無視され、鍋松が次期将軍になることとなりました。

ですが徳川家に代々仕えてきた譜代の家臣らは、元猿楽師である間部や儒学者である白石がエバリくさっているのがムカついて仕方がありませんでした。

1713年 七代将軍 家継
詮房と白石の後見のもと4歳の幼少将軍が誕生しました。

白石は家継に帝王学を教え、利発な家継はそれを全て学び取りました。

将軍謁見時も諸大名らは「幼君ながら立派である。これで徳川も安泰であろう」と言ったほどでした。

が、家臣団はなかなかうまく行ってませんでした。

徳川譜代の家臣らは、詮房と白石の偉そうな態度に腹を立て、職務をサボったり、出仕しなかったり。スムーズに行っていませんでした。
1714年 大奥スキャンダル 絵島生島事件
大奥はというと、家宣の正室天英院(照子)と月光院(お喜世・家継の母)の2大派閥が出来上がっていました。

いまや大奥の権力は凄まじいものとなっており、ある老中が「大奥勤めのものが商人らに気軽に用事を頼んだりすることを禁止する」という通達を出した時大奥から大ブーイングが起きてしまい、その老中を辞職させるという事件が起きていました。

秋元但馬守ら譜代家臣は「大奥が政治まで介入し、幼い将軍をバックに月光院がやりたい放題。このままではヤバイ・・・」と思うようになってきたのです。

そんな中事件はおきました。

月光院付きの大奥最高地位にある御年寄りである「絵島」は、月光院の命令で芝の増上寺へ行きました。

その帰りに人気役者である牛島新五郎が出演している山村座に行き、芝居を見物。そして芝居が終わると酒を飲みおもてなしをうけ、帰ってきたのが門限ギリギリの4時だったのでした。

大奥勤めの女性にとって代参は息抜きの時間でした。そしてある程度は大目にみられており、特に絵島らトップクラスは門限に遅れても顔パスで入ることが普段はOKだったのです。

秋元但馬守は66歳でこの時胃ガン。譜代家臣らに「ワシはどーせ死ぬから、責任は全て取るので力を貸してくれ」と言い月光院らに反旗を翻すことになったのです。

「大奥御年寄りの絵島が門限に遅れて、役者生島新五郎と密通しており大奥の風紀を乱している」と糾弾しました。

絵島は「月光院様がいるから大丈夫よ」と確かに勝手なことをしていましたが、ここまで事が大きくなるとは思っていませんでした。また、噂では生島と絵島をあわせる手引きをしたのは秋元の使いの者だったとも言われています。

そしてこの大奥スキャンダルは江戸を揺るがす大騒ぎに。

絵島は遠島となりましたが月光院が減刑をお願いし、高遠へ幽閉となりました。

八畳一間で太い格子に囲まれ厳重に監視された生活。手紙を書くことも許されず絵島はその後28年間61歳まで毎日を過ごしたまま死去したのです。

生島は遠島となり、山村座は潰されてしまいました。そして絵島の兄は死罪となったのです。

月光院派の女中らは着物や履物を没収され裸足で追放され、この絵島生島事件で罪となった人は1500人以上の大スキャンダルとなったのでした。

ちなみに生涯仲の悪かった天英院と月光院は、今は同じお墓に眠ってます。