江戸時代その6 目次 年表 1679〜1699年 | |
1680年5月 | 家綱危篤! 次の将軍は!? |
堀田正俊 忠清を出し抜く! | |
五代将軍 徳川綱吉 | |
マザコン&儒学大好き!将軍綱吉 | |
1681年 | 将軍に勝負を挑んだ豪商夫人 |
1682年 | 江戸大火 八百屋お七 |
井原西鶴 好色一代男 | |
1683年 | 大奥バトル!順性院VS桂昌院 |
1684年8月 | 大老堀田正俊 江戸城で殺される! |
登城は将軍と大名の身分格差を見せつける儀式だ! | |
加賀5代藩主 前田綱紀(つなのり)涙の演技 | |
将軍綱吉の妻達 | |
1687年 | 最悪の悪法 生類哀れみの令 |
出世してきましたぜー 柳沢吉保 | |
将軍綱吉VS水戸光圀 | |
江戸のバブル王 紀伊国屋文左衛門 | |
1688年 | この頃食事が1日3食になる |
1689年 | 松尾芭蕉「奥の細道」の旅に出る |
綱吉の女好きに辟易・・・ユウウツな牧野成貞 | |
1691年 | 柳沢吉保 奥さんを将軍に差し出した!? |
吉保 ニックネームは「夜食の少将」 | |
1696年 | 花の吉原百人斬り事件 |
1697年 | モグリの色街 岡場所 その他の売春婦 |
江戸の男娼 陰間(かげま) | |
江戸時代 その6 1679〜1699年 |
1680年5月 家綱危篤! 次の将軍は!? |
元々家光に似て病弱だった家綱。とうとう世継ぎを残さないまま40歳で病気となってしまったのです。 子供がいないため継嗣問題が浮上しました。 候補は家光四男の綱吉と家光三男綱重の長男である綱豊。三男の綱重はすでに死んでます。 綱吉と綱豊。年齢的にも血縁的にも綱吉が有力候補でした。 ちなみに綱吉の母はお玉という名前で京都の八百屋の娘でした。 小さい時に仁和寺で亮賢という僧侶に占いをしてもらったところ「あなたはかなりの玉の輿にのるよ」と言われた。16歳の時に大奥に誘われ、家光に気に入られ綱吉出産。 綱吉が生まれたときも亮賢に占って貰い「この子は類稀ない高貴な相です」と言われお玉は大喜びしたのでした。 以後亮賢の占いを信じるようになるのです。そして家光が死んだので桂昌院となりました。 この2人の候補がいるというのに、大老の酒井忠清は京都から有栖川宮幸仁親王を将軍に!と言い出したのです。 理由は綱吉の母は八百屋の娘なので出目が卑しいからとか、三男綱重の母順性院と桂昌院との仲がめちゃくちゃ悪く大奥を巻き込んでの大バトルとなっていたので、それにうんざりしていたからとか・・・。また有栖川を将軍にすりゃー俺の思い通りになるとか・・・。理由は謎。 で、実力者NO1である忠清には誰も逆らえずにいたところ、ただ一人老中の堀田正俊が「徳川の血を引く者がいるのに、何も京都から迎えなくてもいいんでは?」と言ったのです。 正俊は春日局の夫である稲葉正成が別の女性に産ませた子供。2歳の時に春日局の養子となり8歳で家綱の小姓となっていた人です。 忠清と正俊との間で険悪なムードとなっていくのです。 |
堀田正俊 忠清を出し抜く! |
家綱死去の二日前、いつものように継嗣問題でもめ、答えの出ないまま老中らは退席していきました。 そこにただ一人残ったのが堀田正俊であります。 正俊はひそかに病気で寝ている家綱のもとへ。そして家綱に綱吉を養子にすることを迫ったのです。 家綱は「さようせい」といい、遺言状を作成させました。 本来なら老中全員の承認と判がいる老中奉書を緊急時にのみ許される正俊一人の印による「一名奉書」の形式にし綱吉に城へ来るよう呼び寄せたのです。 この時綱吉は神田でくつろいでました。そこに使者がやってきたもんだから急いで登城。 綱吉の付家老の牧野成貞は自分の家にいたところ使者がやってきたというので、慌てて綱吉の後を追いかけた。 成貞は今までにない急な登城にドッキドキ。これはただならぬ凶事じゃ・・・と綱吉の側を離れようとしなかった。 すると正俊が「吉事じゃぞ」と耳打ちしたので、やっと綱吉の側を離れたのです。 それほど皆がドキドキしちゃうほど寝耳に水のことだったのです。 そして綱吉は待ち構える正俊に先導され家綱のもとへ。養子縁組となったのです。 城内でのただならぬ様子を聞いた酒井忠清は夜中に慌ててやってきましたが時すでに遅し。 養子縁組は終了していたのでした。 |
1680年 五代将軍 徳川綱吉 |
8月に堀田正俊によって将軍となれた綱吉。34歳でした。 酒井忠清はというと、有栖川擁立に破れ面目丸つぶれとなり屋敷に引きこもりがちに。 とうとう12月に大老を辞めさせられたのです。 そして自分をひっぱってくれた堀田正俊を大老に任命しました。 マジメな堀田正俊のもと綱吉政権はスタートしたのです。綱吉の時代は「元禄文化」として町は活気づきました。戦のない太平な世の中となっていくのです。 堀田正俊は自信家でしたが、綱吉のやりすぎにはきっちりとアドバイスのできる人でした。 また大奥の贅沢さを嫌い衣服に制限を加えるなどしたため桂昌院らに嫌われまくった。 さらに綱吉の小さい頃からの側近牧野成貞は「側用人(そばようにん)」となりました。 側用人とは将軍の近くにいる役目の人。牧野成貞は温厚な性格の人でした。 が、綱吉の政治が素晴らしかったのはわずかな期間だけだったのです・・・。 |
マザコン&儒学大好き!将軍綱吉 |
綱吉は儒学がだーい好き!家臣を呼んで講義しまくった。 儒学とは孔子の思想を元にした学問で「主君は主君らしく。家臣は家臣らしく。それぞれの身分をわきまえ正しく生きれば世の中はまぁるくおさまるんだよ。」という教え。 幕府の身分制度にピッタリ。だけど家臣らはこの講義が超うざったく、うんざりしてた。 また綱吉はかなりのマザコンでした。桂昌院の言うことは絶対で、異常なほど尊敬していたのです。 |
1681年 将軍に勝負を挑んだ豪商夫人 |
この頃「石六」という豪商がいました。 そのの女房がお金持ち生まれで小さい時からチヤホヤされ放題。 結婚して石六に嫁いでからも贅沢三昧の日々。京都の難波屋の女房が衣装自慢と聞くと「あたしゃ江戸で一番だよ。京女に負けてなんかたまるかい」とわざわざ京都に行き勝利してくるほどでした。 ある日将軍綱吉が参詣帰り上野に立ち寄りました。 すると金の屏風を立て絨毯を引いた上に超豪華な着物を着た女が座っており、その周りにもこれまた豪華な着物を着たお付が金の扇子で風を送っていたのです。 綱吉は「あれは一体何者だ?」と訪ねると、日本橋石六の女房だと言うことがわかりました。 そして石六女房は「あたしゃ将軍様の行列に衣装比べを仕掛けてやったのさ」と得意気に周りに話していたのです。 確かにその豪華さは将軍の正室・側室らでもできないくらいのものでした。 綱吉はそれを聞き「将軍に勝負を挑むとは!町人にあるまじき振る舞いじゃ!」と激怒!なんと石六一家は財産没収となり、江戸追放となってしまったのでした。 |
1682年 江戸大火 八百屋お七 |
綱吉就任2年後、江戸大火といわれる大火事が起きる。その原因がまだ少女のお七でした。 八百屋の娘お七は近所で火事が起きた時、家族で吉祥院という寺に非難しました。 その時に吉三郎という男性にヒトメボレしちゃったのです。 その日からお七は寝てもさめても吉三郎のことばかり。 「また火事になったら吉三郎様に会えるかも知れない・・・」と放火をしてしまったのです。 お七が放火した火は死者3500人の大火事となり、お七は捕まり鈴ヶ森で火刑にされることに。 当時お七は16歳になったばかり。15歳ならば島流しですんだのでした。 奉行は16歳のお七を哀れに思い「お前はまだ15歳であったな?」と聞き、罪を軽くしてあげようとするんだけどお七が「16歳でございます」ときっぱり否定したのです。 この事件は恋のための一途な少女ということで江戸庶民に同情され、井原西鶴の小説になったりしました。 |
1682年 井原西鶴 好色一代男 |
井原西鶴は1642年に大阪のお金持ちな家に生まれました。15歳のころ俳句にハマり21歳の頃は俳句界でも有名人に。 41歳の時に浮世草子(風俗小説)で「好色一代男」を発表して大ブレイク! 内容を簡単にまとめると・・・ 主人公「世之介(よのすけ)」は7歳の時に初恋。8歳の時にラブレターを代筆してもらうほどのマセガキ。 19歳の頃にはプレイボーイとして有名人。さぁそろそろ吉原へデビューするか!という時にあまりの遊び好きに親に勘当されてしまいました。困った世之介はお金もないので仕方なくお寺へ住みこむことに。が、ここで男色の味を覚えちゃいます。 それからは何かがふっきれやりたい放題。34歳の時に父親が死に莫大な遺産をゲット! 早速吉原へ行きお気に入りのお姉ちゃんを愛人にしちゃう。さらに身請けもしちゃってやりたい放題の人生を送るのです。 好色一代男で大ブレイクした西鶴は、その後「好色シリーズ」を発売。こちらも大人気となったのでした。 |
1683年 大奥バトル!順性院VS桂昌院 |
綱吉には正室 信子がいましたが子供に恵まれず、側室お伝の方が鶴姫を産み、念願の男児徳松を出産。 が、5歳で死んでしまったのです。 徳松が死んでさっそく継嗣問題が浮上してきました。 この頃大奥では2大派閥ができていました。順性院と桂昌院です。 3代将軍家光には側室が数多くいましたが、その中で男児を産んだのはこの2人と死んでしまった家綱の母お楽の方の3人だけ。 順性院はもともと町人の娘。桂昌院も八百屋の娘。2人とも春日局にスカウトされて大奥入り。 2人とも身分も低く立場上同じランクだったため競争心がメラメラと燃え上がったのでした。 そして順性院は次男綱重を出産し、桂昌院が三男綱吉を出産したのです。2歳違いということもありさらにライバル心はヒートアップ。老中らは頭を痛めていました。 ですが次男の綱重が35歳で死んでしまったのです。 さてさて徳松が死に、次の将軍候補は?ということとなり綱吉の甥で次男綱重の嫡子である綱豊が有力候補となりました。 ここで黙っちゃいないのが桂昌院です。「あんな女の孫が次期将軍なんて冗談じゃないわ!」と鶴姫のお婿さんであり紀伊家2代目光貞の長男である綱教をプッシュしてきたのです。 これからどうなる!?って時に、なんと肝心の順性院が死んでしまったのでした。 順性院VS桂昌院の大奥を巻き込んだバトルが終焉を迎えました。 |
1684年8月 大老堀田正俊 江戸城で殺される! |
8月26日江戸城は総登城日だったため活気ムンムンでした。 大老の堀田正俊は他の重臣らと将軍綱吉がやってくるのを待っていました。 そこに若年寄の稲葉正休(まさやす)が相談したいことがあると正俊の所へやってきたのです。 2人は廊下に出ると稲葉正休が突然脇差を抜いて正俊に斬りかかったのです。 正俊が大声を出すと部屋にいた家臣らが駆けつけ「正休殿 ご乱心!!」と叫び正休に斬りつけた。 正休は抵抗もせずに斬り殺されてしまったのです。そして正俊も息を引き取りました。 稲葉正休は正俊の父のイトコで、正俊のおかげで若年寄に出世できた人でした。 それがなぜ正俊を斬りつけたのか理由はわかっていません。 幕府は特に追求もせずにこの事件を「原因不明」として片付けてしまったのです。 後々言われる理由としては、将軍綱吉が自分を引き立ててくれた堀田正俊に頭があがらずにいたのが嫌で暗殺を依頼したとか。 また正俊が氾濫した淀川の改修工事を稲葉正休に頼んだところ、見積もり4万両と言って来たんだけどそれじゃ高い!と正俊が川村瑞賢に頼んだら半額の2万両ですんだ。正俊は「あいつマージンとろうとしたんじゃねーの?」と疑うようになり、正休は面目丸つぶれだ!と怒ったからとも言われています。 |
登城は将軍と大名の身分格差を見せつける儀式だ! |
↑で登城が出ましたが、大名にとって登城は大変なものでした。 まず身分によって登城門が分かれていました。江戸城大手門を通れるのは譜代大名で10万石以上。 内桜田門と平河門は譜代大名5万石以上。一ツ橋門は譜代大名2万石以上。そして常盤橋門は外様大名3万石以上。 呉服橋は外様大名2万石以上といったものでした。 門をくぐる時から諸大名は差別され、それは将軍謁見の時も同じ。 江戸城大広間は3つの部屋があり、床の高さも上段・中段・下段と差があります。 上段は将軍が小姓らと座っていて、中段には重臣。大名が座るのは下段で、そこもランクによって座る場所が決まってました。 座ってもずっと平伏していなければなりませんでした。 でも下段に座れる大名はランクがいい方。 下段にも座れない大名は下段の部屋のさらに下に襖で隔てられた松の間に平伏して座ってなければならないのです。 そして下段に座ってる大名との謁見が終わった後松の間の襖が開いて将軍は平伏している小大名をチラっと見ただけで襖が閉められてしまうのです。 登城とは将軍と大名との身分の差を示すセレモニーのようなものでした。 |
加賀5代藩主 前田綱紀(つなのり)涙の演技 |
加賀百万石で知られる前田家は外様大名の中で最大の勢力を持っていた。 そのためいつも幕府からチェックされ続けていました。 5代藩主の綱紀は歴代加賀藩主の中でずば抜けた傑物でした。 社会事業を率先して行い、文化にも力を入れ国の人々から名君と言われていました。 ですが幕府の前ではバカなフリをし続けたのです。 江戸城内ではわざと鼻水をたらし続けました。どうやらわざと鼻水を出す薬を使ったらしい。そんなのあるのか?って感じですけどネ。 また役人が「腰の物(刀のこと)をお預け下さい」というと、わざと刀のサヤだけを渡し、抜身の刀を腰に差したまま畳廊下を歩いたため、城内の畳がボロボロになってしまいました。 これを聞いた綱吉は「前田殿、とうとうご乱心か。わっはっはー」と大笑いしたそうです。 が、これはバカなフリをして恥辱に耐えながら加賀藩を守るための涙ぐましい綱紀の演技なのでした。 |
将軍綱吉の妻達 |
綱吉の正妻には京都の左大臣鷹司教平の娘である信子でした。 ですが綱吉は館林時代からの側室 お伝の方を寵愛していました。貧乏御家人の娘でしたがすごい美人だったそうです。 お伝の方は綱吉の母 桂昌院付きの小姓から側室となったため、桂昌院とは仲良しでした。 それに対抗するために正室信子は京都から呼び寄せたのが常盤井(ときわい)京都っぽい上品な娘で才色兼備。 たちまち綱吉は常盤井を気に入り大奥総取締役に抜擢。 これに負けじと桂昌院とお伝の方は京都から大典介の局を呼び寄せた。こちらも才色兼備で有名で、信子と張り合ったのです。 そして彼女らは競うように綱吉に学問を勧めまくったのでした。 が、彼女たちは子宝に恵まれずお伝の方が鶴姫と徳松を産んだだけ。 世継ぎの徳松は大事に育てられましたが5歳で死んでしまったのです・・・。 |
1687年 最悪の悪法 生類哀れみの令 |
桂昌院は以前仁和寺の僧である亮賢(りょうけん)に玉の輿になると予言されてから亮賢を頼りまくっていました。 綱吉が館林藩主になると桂昌院は亮賢を呼び寄せたのです。 そして徳松が死んだ時に桂昌院は亮賢に相談。すると亮賢は「子供が出来ないのは前世に殺生をしたからである。子供が欲しかったら殺生をやめて生類を哀れむべきである」と説いたのです。 それを聞いた綱吉はみだりに生類を殺してはならぬ!という生類哀れみの令を出したのです。 実は堀田正俊が一度絶対こんな馬鹿な法を出すな!と大反対し廃案としたんだけど、堀田正俊が死んだ今、誰も反対しませんでした。 かくして将軍綱吉が死ぬまでの21年間、江戸庶民を苦しめまくった悪法がスタートするのです。 この21年間に綱吉は生類保護に関する条約を60回ほど出しました・ 最初は馬・牛・犬に始まり、最後には鳥や魚介類まで。魚屋さんは町から消えました。 中でも戌年だった綱吉は「犬」をかなり保護しました。そのため「犬公方(いぬくぼう)」というニックネームが。 犬は増え続け野犬が群れをなし人を襲うようになりました。 どーにもなんなくなったので1695年には今のサンプラザ中野あたりに16万坪の犬小屋を建て専属の犬役人まで置きました。その費用は1年で10両!一両10万とすると約100億円です。それを負担するのが江戸庶民だったため綱吉の評判は最悪となっていくのです。 ちなみに今まで犬は食用として食べられていました。犬を食べなくなったのはここからです。 この生類哀れみの令はエスカレートしまくりました。 綱吉の小姓だった伊藤甚介は頬にとまった蚊を殺しただけで流罪となり、それを注意しなかった者は閉門といって一定期間門を閉ざし外部との交渉禁止という罰になったり。 中奥小姓の家臣であった只越甚太夫は病気の子供に効くといわれていたツバメの肝を捕ろうと吹き矢でツバメを殺したら親子ともども斬首となったのです。そしてその場に居合わせ注意しなかった人は八丈島に島流し。 町には犬目付けを歩かせ犬に害をなした人々を捕まえまくりました。 ある旗本はケンカしている犬を追い払おうと脇差を振ったら犬が死んでしまい改易となったり、道端で犬に噛まれそうになった人がその犬を殺したため斬首となったり。さらに犬を虐待している人を密告すると50両もの褒美が貰えるようになり密告者続出!ここまでくるともう大変。犬のケンカを見ていて片方の犬が死んでしまったら黙ってみていたのがけしからんん!と閉門させられ、溝に落ちた犬を助けるのが面倒だってんで無視してたら獄門。 これらは密告によるものでした。庶民は怖くて町を歩けなくなってしまいました。 笑えるのは鳥が江戸城に巣を作り出した。だけどどかすわけにもいかずそのまんま。 するとその鳥が将軍綱吉の顔に糞をひっかけたのです。殺すわけにもいかないので綱吉は「けしからん!ひっとらえよ」と1万羽以上を捕まえ八丈島へ流罪としたのです。 で、こんなに江戸庶民に嫌な思いをさせたんだから後継ぎは?というと、子供はいっこうに生まれなかったのです。 |
出世してきましたぜー 柳沢吉保 |
柳沢吉安は館林時代から綱吉に仕えていました。 綱吉は4男だったため次期将軍のお鉢が回ってくるとは思っていなかったところに突然の将軍就任。この時吉保23歳。これが吉保の運命を大きく変えることとなったのです。 館林時代の上司 牧野成貞が出世し、吉保も小納戸役に抜擢。そして大老の堀田正俊が殺されるという事件があり吉保はとんとん拍子に出世していくことになるのです。 学問好きの綱吉のために、吉保は貧乏暮らしをしていた荻生徂徠(おぎゅうそらい)を家来とし一緒に勉学に励みました。 綱吉は講義好きでしたが、ご機嫌取りのために一生懸命耳を傾けていたのは吉保だけ。吉保のご機嫌とりは見事綱吉の心を捉え、綱吉に仕えだしてから10年で老中になるというスピード出世となるのです。 |
将軍綱吉VS水戸光圀 |
綱吉が「目の上のたんこぶ」と思っている人物がいました。水戸家の光圀です。 綱吉は生まれたばかりの徳松に将軍職を譲ろうとしてたんだけど、水戸光圀がこれに大反対。綱吉の兄である綱重の子綱豊こそ本当の後継ぎである!と綱豊をプッシュしたため、綱吉は光圀&綱豊が大嫌いになったのです。 さらに生類哀れみの令をやりすぎじゃ!と非難した唯一の人。綱吉が将軍としての自信を高めていた頃だっただけに綱吉はうるせーじじーだ!と目の上のたんこぶとなってきたのです。 そんな光圀は63歳の時に体調不良のため隠居。 これは自分を嫌っていた綱吉に対する無言の抵抗であったとも言われています。 |
江戸のバブル王 紀伊国屋文左衛門 |
この頃江戸は火事だらけ。そんな中、建設ラッシュに乗って出てきたのが紀伊国屋文左衛門こと「紀文」でした。 紀文ははじめ紀州のミカンを江戸に運び財を蓄えましたが、みかんではたかが知れてるので材木に目をつけたのです。幕府御用達になるため紀文は柳沢吉保や勘定奉行の荻原重秀と手を結びました。 そして上野寛永時の根本中堂造営工事で現在の300億円以上の儲けを出したのです。 こうなると商売繁盛しまくり!紀文は遊びまくりました。 吉原の大門を1日閉じさせすべて貸しきるという大盤振る舞いをしたり。 ちなみに紀文のライバルは「奈良屋茂左衛門」こちらも材木商でした。 ある日奈良屋が吉原で雪を見る宴を催してるのを知った紀文は、目の前で小判を空からばらまいたのです。すると遊女らは小判ほしさに大パニック。奈良屋の宴は台無しとなったのでした。 また紀文は節分で豆の代わりに小判をまき、江戸の初鰹を全て買占めたりと、ケタハズレの豪遊ぶりは伝説になりました。 が、建設ブームが終わり、柳沢吉保らが幕閣を去っていった頃、紀文の深川の材木置き場は火事になったのです。 これが致命傷となり、紀文のバブルは終わりを告げました。そして最終的には没落の道へ。晩年は深川の屋敷だけが残り、そこで寂しく暮らしたのです。 ちなみにライバル奈良屋は「つつましく暮らせ。幕府相手に商売するな」と息子らに遺言して死去。 息子らはそれを守り、この時稼いだ奈良屋の財産は幕末まで残ったといいます。 |
1688年 この頃食事が1日3食になる |
この頃になると戦いはもうなくなり、平和な世の中になってきました。 そして庶民らも1日3食のご飯を食べれるようになってきたのです。 江戸の朝は明け六つ(朝6時ごろ)から始まり、長屋に住む人々はその日1日のご飯を炊くのです。 炊き上がるとおひつにご飯を移して昼・夜と食べれるように保存しました。朝食はご飯・漬物・味噌汁が基本。 そこに納豆などがつくと最高の朝食でした。 |
1689年 松尾芭蕉「奥の細道」の旅に出る |
1644年に伊賀上野で生まれた松尾芭蕉。生まれが伊賀のため「スパイ!?」という説もあります。 1684年に門人の千里とともに江戸から京都・名古屋を約9ヶ月まわった「野ざらし紀行」の旅に出て、そのあと門人の曽良と一緒に江戸の深川を出発し奥の細道の旅に出ました。 深川を出て奥州へ行き、帰りは北陸をまわって約6カ月の旅をしました。 松尾芭蕉のポリシーは「旅は人生」だそうです。 代表的な俳句は ・閑さや岩にしみいる蝉の声 山形県の山寺で詠んだそうです。ちなみに蝉の種類はニーニーゼミ ・古池や蛙飛び込む水のおと 芭蕉庵で弟子達とカエルをテーマにした俳句を詠んだ ・旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 最後に詠んだ句。ちなみにお葬式には300人の弟子が集まった |
綱吉の女好きに辟易・・・ユウウツな牧野成貞 |
牧野成貞の妻阿久里(おくり)は超美人で気が利くという良妻でした。 そして成貞との間に松子・安・亀という三人の女の子を産みました。 が、綱吉はそんな阿久里に目をつけたのです。そして成貞に奥さんを大奥に入れるようにと命令。 成貞は綱吉の命令に逆らえず阿久里を差し出しました。その代わり成貞は綱吉に取り立てられたのです。 ですが綱吉の女好きはこれで終わりませんでした。今度は阿久里に似た次女の安に目をつけたのです。 安は黒田直相(なおすけ)という婿養子を迎えており、将軍の寵臣である牧野家に入れたことをとても喜び、美しい妻「安」をとても大事にしていたのでした。 そこへ将軍が安を大奥に入れろ!と言って来たのです。 ここで将軍に逆らえば御家取り潰しとなってしまう・・・仕方なく安を大奥へ入れたのですが、直相は「妻を奪われた男」と笑いものになり、切腹して綱吉に無言の抗議をしたのです。 牧野成貞は妻と娘を取られ、何もかも嫌になりはじめ酒に溺れるようになってきて、表舞台を去るのでした。 |
1691年 柳沢吉保 奥さんを将軍に差し出した!? |
綱吉の吉保への寵愛はとどまるところを知りませんでした。 牧野成貞は奥さんと娘を取られ鬱になり去っていきましたが吉保は逆で自ら進んで綱吉に妻を差し出したと言われています。 吉保には正室 定子のほかに側室が6人いましたが、綱吉に差し出したのは側室の染子。 1691年に荻生徂徠とともに勉強するというので綱吉は柳沢邸に来るようになりました。その時綱吉のために家を新築し、美しい女性を集めたのです。で、気に入られたのが染子。 染子は吉保との間に3人の子を産んでたんだけど、長男の吉里は綱吉の子供だったと言われています。ホントのとこはわかりませんが、綱吉が58回も柳沢邸を訪れたのは事実です。 また吉保の出世を妬み綱吉の男色の相手だ!という噂も流れました。吉保は整った顔立ちをして弁舌もさわやかだったらしい。そして500石から甲斐15万石まで出世。 甲斐は本来徳川一門か親藩にした与えられない土地。綱吉の寵愛ぶりが伺えます。そして最後は「大老」にまでのぼりつめたのです。 |
吉保 ニックネームは「夜食の少将」 |
ここまでのぼりつめた吉保の周りはご機嫌伺いをする旗本・大名で溢れかえりました。 東京駒込にある六義園がかつての吉保の屋敷跡ですが、ここの門前には人々が絶えることなくやってきました。「これじゃあ吉保殿もおちおち政務はできないじゃろ」とお節介にも訪問者の交通整理をする大名まで現れたのです。 吉保の家の門前は人の群れで日が当たらず、いつもぬかるみだらけだったそうです。 ある時 熊本藩主の細川綱利が柳沢邸を訪れたいと言った所、「せっかく来ていただいても、今晩は江戸城で宿直です」と言ったところ細川綱利は江戸城に超豪華な夜食を届けたのです。 さまざまな賄賂を貰っていた吉保も夜食は初めて。次に城内で綱利に会った時にねんごろにお礼を言ったのです。 この話が他の大名らに漏れちゃったから大変!みんな競って吉保の宿直の日に超豪華な夜食を届けるようになったのです。 貰うほうの吉保は「こんなに沢山頂いても、私の腹は一つです」といったところ、大名達は相談して夜食を届ける順番を決めるように。しかもお互いに抜け駆けナシってことで、夜食の内容までも相談。そして夜食の予約は半年後まで埋まってしまったのです。 予約にもれてしまった大名は夜食の代わりに「これでどうぞお夜食を」と小判を包むものまで現れ「夜食の少将」というあだ名がつくようになったのです。 さてさてこんなに賄賂貰いまくりの吉保ですが、吉保は自分に賄賂を贈ったものには必ず賄賂以上の利益を与えるように心がけたため恨まれることはあまりなかった。 そして吉保に賄賂を贈った人々によって吉保政権は支えられたのです。 |
1696年 花の吉原百人斬り事件 |
この事件は後に歌舞伎で取り上げられ江戸っ子の大人気になった事件であります。 吉原に八橋という太夫がいました。 下野佐野(栃木県佐野市)の豪農である次郎左衛門は仕事で江戸へやって来た時に吉原に足を踏み入れました。 そこを兵庫屋の八橋が歩いており次郎左衛門は八橋にヒトメボレ。次郎左衛門は超ブ男。でもお金持ちだったので八橋を身請けしようと思い始めたのです。 ところが実は八橋には彼氏がいて、次郎左衛門と別れるよう言ったのです。 八橋は彼氏に逆らえずに身請けしようとやってきた次郎左衛門を、大勢いる中で「あんたみたいなブ男に身請けされるなんて真っ平ゴメンでありんす」と言ったのであります。次郎左衛門は大ショック!そして八橋ら兵庫屋の人々を次々と斬り殺してしまったのでした。 一途な八橋へのまっすぐな思いが江戸っ子の同情を誘い歌舞伎で大人気に。 だけど本当は次郎左衛門は八橋しか殺さなかったらしい。 |
1697年 モグリの色街 岡場所 その他の売春婦 |
幕府公認の吉原以外はすべて私娼窟で「岡場所」と呼ばれました。 菊乃という歌の女師匠がめちゃくちゃ美人で、あまりにも人気があったため迫害され深川に移ったところお客さんが沢山ついてきたために独立開業したのです。 そして後に「芸者」と呼ばれるようになるのです。 吉原と違って堅苦しくもなくしきたりもないし、モグリのため値段が安いので大人気に。次第に吉原よりも人気が出てきてしまい、吉原からチクリが入り摘発されるように。で、摘発された遊女は吉原で競りに出され、吉原で下級下郎として最悪の場所で2年間働かされるように。 代表的な場所は深川・赤坂など。 ついでなので一定の場所にいない売春婦について。 江戸時代その2で書きましたが、一番多かったのが「夜鷹」 材木置き場や木の陰に隠れていたので夜鷹と呼ばれるように。 夜なので顔が見えないってことで貧乏武士の奥さんも多数いましたが、中には超厚化粧の老女もいました。 でも評判になった美人も中にはいました。 他には「比丘尼(びくに)」尼そっくりの格好をしている娼婦。 元々は熊野神社の牛王宝印を売り歩いていた本物の比丘尼が売春を行ったのが始まり。 あと「船饅頭」停泊中の船に饅頭を売るのを目的としていたんですが、川岸で客を乗せて川に出て戻るまでにすませるというもの。料金は船賃も含まれているので夜鷹より高かった。「ぽちゃぽちゃのお千代」という評判の女性がいました。 あとは「提重(さげじゅう)」手提げの重箱にお菓子を入れて売り歩く女性のこと。 主に武家屋敷などに行きました。若くてきれいな女性が多かったそうです。 |
江戸の男娼 陰間(かげま) |
この時代も戦国時代に続き男色は盛んで、岡場所に「陰間茶屋」ができました。 お客さんは女色が禁止されている僧侶が多かった。 陰間は12.3歳から17.8歳ころまでの美少年。 身なりは全て女性と同じでした。人気のある陰間は吉原超一流の遊女と同じくらい稼ぐように。 20歳を過ぎると陰間業界ではもう「年増」となり、男性相手から女性相手に切り替えました。 美少年なためお金持ちマダムに大人気となるのでした。 陰間になる少年らは役者修行中の身が多く存在していました。 |