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江戸時代その9 目次 年表 1750年〜1779年


1751年6月 大御所吉宗死去
1753年 平田靭負(ひらたゆきえ) 責任をとり切腹する
1760年5月 10代将軍 家治
1764年 米沢9代藩主 上杉重定 前代未聞の自己破産宣言!
1768年 江戸三代美人 笠森お仙
1772年1月 田沼意次 老中となる 家治政治から遠ざかる・・・
田沼意次ワイロ政治
継嗣問題でトラブル発生 田安家 一ツ橋家に乗っ取られる
1774年 杉田玄白・前野良沢ら 解体新書完成
1776年 脱サラした日本のダヴィンチ 平賀源内 エレキテル完成させる



江戸時代 その9 1750年〜1779年
1751年6月 大御所吉宗死去
「幕府中輿の祖」といわれた吉宗もとうとう68歳で死去しました。可愛がっていた家治はこの時15歳でした。

吉宗の享保の改革は全てが成功したわけではないけれど、のちの寛政の改革・天保の改革の模範とされました。
1753年 平田靭負(ひらたゆきえ) 責任をとり切腹する
幕府は「天下普請」「お手伝い普請」と呼ばれるシステムを作っていました。

関ヶ原合戦後、外様大名に城などの工事費を出させ作らせるというものです。これにより外様大名はお金がかかり、幕府に対する軍事費などをため込む余裕がなくなってきたのです。

この頃になると「城」にかわって「川普請」が主流でした。そして幕府によって川を直すよう命令されたのが島津藩だったのです。

幕府から命令を受けた島津重年は家老の平田靭負を総奉行に任命し、947人を連れて長良川の工事にかかりました。

足りない人数は地元の百姓を雇いスタートしたのですが、雨ばかりが続き工事が遅れたため、靭負は大雨の中百姓に工事をさせたところ、百姓側から反発を受けまくりました。

さらに幕府から派遣された工事関係者との間でもぎくしゃくした感じとなりました。

さらにさらに!工事中に赤痢が蔓延し病死者が30人以上出てしまったのです。

なんとか工事を終えた頃にはめちゃくちゃ予算オーバーしていたのです。見積もりでは15万両だったのが、終わってみると40万両もかかっていたのです。

この予算額オーバーは薩摩藩に多大な被害を及ぼしました。そして薩摩藩を財政難にさせたという理由で平田靭負は責任をとって切腹してしまったのです。
1760年5月 10代将軍 家治
父である9代将軍家重は疲れちゃって家治に将軍職を譲りました。吉宗から帝王学を学んだ24歳の青年将軍の誕生でした。

早速家治は老中松平武元を呼び「私は父の多病で仕方なく将軍になったが、まだ若年で国政がわからない。気がついたことがあれば何でも言ってくれ。また過ちがあったときもすぐに戒めてほしい」と頼みました。

翌年家重が死去。遺言で「ワシが死んだ後も田沼意次を手厚くもてなすように」と言ったのです。

田沼意次は家重の小姓で家重に気に入られ1万石の領主になっていました。名門の出ではないのに異例の出世をしており、家治も注目したのです。

家治は意次と話すうちに意次の政治感覚や,これまでにない異質の能力を高く評価していくのです。
1764年 米沢9代藩主 上杉重定 前代未聞の自己破産宣言!
上杉家は戦国時代の上杉謙信を祖とする名門でしたが、関ヶ原の時に西軍に加担したため120万石から30万石に減らされました。

その後は4代網勝の時に後継ぎがいないまま死んだため、危うくお家断絶になるところを吉良上野介(忠臣蔵の人)の子を養子に迎え、なんとか断絶は免れたものの30万石から15万石に減らされてしまいました。

だけど上杉家は先祖代々から仕えてくれている家臣をリストラしませんでした。家臣らの賃金カットをしながらも何とか頑張っていましたが、赤字になりまくりでした。

上杉家の江戸屋敷の台所方が米を買おうと思っても「今までのツケを返したら売ってあげます」と言われる始末。

家計は火の車で、もうどうにもできなくなってしまい、とうとう藩主重定が家臣らに「藩の領地を幕府に返上する」と宣言したのです。つまりは大名を廃業するということです。

家臣らはびっくり仰天。大名の自己破産宣言なんて前代未聞だし、名門上杉家が廃業!さらには6000人もの大量の失業者が出てしまう!慌てた家臣らは「財政を立て直すために聡明と有名な養子の治憲(はるのり)殿に藩をオマカセしましょう!」ということになったのです。

治憲とは日向三万石の藩主秋月家から迎えられた養子で、幼い頃から賢いと将来を楽しみにされていた子供でした。

そしてこの治憲がかの有名な上杉鷹山(ようざん)です。
1768年 江戸三代美人 笠森お仙
江戸の谷中(台東区)の笠森稲荷前にある水茶屋「鍵屋」の五兵衛の娘お仙は、12歳頃から茶汲み女(ウェイトレス)として働き始めました。

当時の美女とはほっそりとした柳腰にうりざね顔。鼻筋は通りおちょぼ口お仙はまさに典型的な美女で、たちまち評判となりました。

美人画が得意な鈴木春信がお仙の評判を聞き鍵屋にやってきました。

すると春信「この女こそ理想の美女だ!」とお仙に惚れこみまくり、鍵屋へ通いまくってお仙の姿を何十枚も描いたのです。

そして春信はお仙の錦絵を売り出しました。するとこれが大人気!「笠森お仙」と呼ばれて飛ぶように売れたのです。

絵の他に双六・てぬぐいなども売り出されました。吉原の遊女とかではなく「素人娘」が爆発的な人気となったのです。

お仙の錦絵を見た男性は一目本物のお仙を見ようと鍵屋へ行き、お仙の美しさに見とれまくり。この頃になると野次馬だらけで商売にならなくなってきちゃいました。

ところが、お仙が突然消えてしまったのです。「お仙が失踪した!」と江戸中大騒ぎ!「どこかの男と駆け落ちした」だの「お父さんがお仙を殺した」だの・・・。さらに「駆け落ちお仙」という錦絵まで出てしまい、噂が噂を呼びまくる怪事件となりました。

が、実はお仙は将軍の御庭番をとつめる倉地政之助という30歳の男性と結婚していたのです。

あまりにもお仙が人気だったため、ひっそりと結婚したのでした。お仙は2人の子供を生み76歳まで幸せに生きたそうです。

ちなみに「明和三大美人」というのがあって、お仙は可愛らしい野の花のような美人さん。そんなお仙と人気を二分したのはお藤という浅草観音堂裏にある柳屋の看板娘。こちらは目鼻立ちのくっきりとしたゴージャス系美人だったらしい。
1772年1月 田沼意次 老中となる 家治政治から遠ざかる・・・
田沼意次は父が紀伊藩の足軽でした。吉宗が8代将軍となった時に紀伊から江戸に呼ばれました。

そして意次は9台将軍家重の小姓となり、家治によって才能を認められ出世してきたのです。が、昔からいる家臣らは意次がどんどん出世するのがおもしろくなかった。そんな中老中松平武元が死去。険悪ムードが隠せなくなってきました。

この頃になると、吉宗からあんなに期待されていた家治は家臣らの険悪ムードに嫌気がさしてきちゃって、次第に政務から遠ざかるように。将棋ばっか打つようになってきました。

家治の後継ぎとして最後まで生きていた長男の家基が、鷹狩の帰りに急に気分が悪くなり死んでしまいました。

急に気分が悪くなりもだえ苦しみながら死ぬという変死で、毒殺説も出ました。また、子供全部でが2男2女いたんだけど、全員死んでしまいショックでやる気がなくなってきてしまったのです。

これにより継嗣問題も浮上してきてしまうのです。
田沼意次ワイロ政治
やる気のなくなった将軍家治に代わって権力を握ってきたのが田沼意次でした。

意次は歴史上悪名高いワイロ官僚として名を残すこととなっていくのです。とはいっても最近は評価がだいぶ変わってきましたけどネ。

そして権力をつけるにしたがって、誰も彼もが意次とその息子意知(おきとも)にお願いしなければ出世できなくなってきたのです。

意次の家の30畳ある大広間はワイロを持ってやってきたお客さんで溢れかえり盛況しまくりました。

意次が自分の池を眺めながら「この池に鯉でも泳いでいたらさぞかし見事であろうな」とつぶやくと、その日のうちに池には無数の鯉が泳いでいたり。

次第にワイロはエスカレートし、送るほうも他家には負けまい!とあの手この手で贈り物をしました。

ある大名からは大きな人形箱が送られてきて、開けてみると生きた人間である京美人が入っていたりと、すごいことになっていました。

意次は老中となった時に「金銀は人の命にも代えがたいほどの大事な宝である。その宝をワシに贈ってまでも上へ行きたいなら、その者は忠臣であろう。したがって志の高い人ほど贈り物(賄賂)の多い少ないによってわかるのだ」と言いました。

そして老中の間に集めた賄賂は、現在のお金になおすと2000億円もあったらしい。

ですがこの頃「賄賂」は当たり前で、意次の「悪徳政治家」のイメージは、失脚後に松平定信がさんざん意次をこき下ろしたためだと言われています。

実際意次は優れた政治家で、進歩的で積極的な政策を行っていました。

この頃はこれ以上年貢の増収は見込めない!って状態でしたので、今までの農業を基盤とした主義に代わって株仲間を公認して商業による幕府財政の増収をはかったり、他にも貿易拡大策や格式に関係なく有能な人材を登用したり。

が、意次のスピード出世や、伝統・格式を無視した政策に諸大名らは反感を示すのです。
継嗣問題でトラブル発生 田安家 一ツ橋家に乗っ取られる
家治の子供が全員死んでしまったため、継嗣問題が出てきました。

ここで田沼意次と超仲良しになった一ツ橋家の徳川治斉(はるさだ)が動き出したのです。

治斉はどーしても一ツ橋家から将軍を出したくなりました。ライバル潰しに取り掛かりました。

ライバルとなるのは御三卿の一つ田安家。ここには治察(はるあき)という当主がいたんだけど、こいつは病弱で子供もいない。こいつはたいしたことないんだけど、弟に賢丸(まさまる・これが後の松平定信)ってのがいて、これが賢そうで唯一ライバルになりそうな気配。

そこで治斉は田沼意次にワイロを送りまくって賢丸を奥州白河藩(福島県)の松平定邦の養子にさせたのです。

ライバルを蹴落とした一ツ橋治斉は、自分の息子家斉(いえなり)を将軍家の養子に行かせることに成功したのです。

さらに田安家では当主の治察が死んでしまい後継者がいなくなったので、家斉の弟に跡を継がせ、田安家は一ツ橋家に乗っ取られてしまったのです。

賢丸こと松平定信は猛烈に怒り、その矛先は徳川治斉ではなく、田沼意次へ向かっていくのです。そして意次の悪口を言いまくり、賄賂老中!と人々に文句ばかりいうように。

 

1774年 杉田玄白・前野良沢ら 解体新書完成
吉宗がキリスト教以外の洋書の輸入をOKとしたので蘭学が日本に入ってきました。蘭学とはオランダの学問のこと。

そして「ターヘル・アナトミア」というドイツ人医師クルムスが書いた医学書が、オランダ語に翻訳されて輸入されてきました。

この「ターヘル・アナトミア」に興味を持ったのが杉田玄白・前野良沢・中川淳庵ら。

1771年江戸の千住の刑場で処刑人の体を解剖することに。そしてまさに「ターヘル・アナトミア」のさしえ通りの人間の体の中身に3人は驚きました。

そして医学の進歩のためこの本を翻訳することを決意したのです。

さっそく翌日から良沢の家で翻訳スタート。

オランダ語が多少わかるのは良沢だけ。といっても700語くらい。玄白なんかはオランダ語は横に書くもんだってことも知らなかった。

わけわかんないままでの翻訳に四苦八苦したものの、3年後にはなんとか完成。これを「解体新書」として出版しました。

玄白はこの時の苦労話を「蘭学事始」にまとめ、これによって蘭学は急速に広がっていくのです。
1776年 脱サラした日本のダヴィンチ 平賀源内 エレキテル完成させる
源内は1728年に讃岐(香川県)で生まれました。子供の頃から好奇心旺盛で博物学と儒教を学んでいました。

藩主の松平頼恭もまた新し物好きだったため、20歳の源内を藩が所有する栗林薬得園という草学などに携わる仕事場に採用しました。

その後源内は薬学関係に興味を持ち、立身出世のチャンスを掴もうと家督を娘婿に譲って江戸へ出たのです。

江戸では「イベントプランナー」として頭角を現し、幕府にこき使われるように。

ですが源内はサラリーマンに向いていないのか、辞表を出してしまいました。怒った幕府は「仕官お構い」という次に就職することはできないよという処置になってしまいました。

フリーになった36歳の源内はサイドビジネスとして流行作家の道を目指しました。

その後金山発掘に手を出したりしますが、イマイチそっちの才能はなかったらしくどんどん赤字に。苦し紛れにポルノも描きました。

学者を目指していた源内にとって致命的だったのがオランダ語ができないことでしたが、とうとうこの年エレキテル(摩擦起電機)を完成させたのです。

そしてエレキテルを見世物としてお金をもうけました。江戸庶民は驚きました。

ですが火花が出る現象を理論的に説明することが難しく「源内は山師だ」という噂が広まり、源内の神経は病んでいき癇癪を起こすようになっていくのです。

そして源内は悪いことが続く家としてみんなが気味悪がった家へ引っ越しました。

神田にあるその家は最初金貸しの浪人が住んでいたんだけど何かやったらしく切腹し、次に住んだ人は子供は井戸に落ちて死んでしまうし、その人も悪事がバレ追放となったという曰くつきの家。

そのため「あの家はタタリがおきる」という噂が流れ気味悪がって誰も買い手がいなかったのです。

そんな家を源内を買ったもんだから友人らは大反対。ですが源内はさっさかと移ってしまったのです。

この時源内は天才と狂気の間を揺れ動いていました。

仲間の太田南畝(なんぼ)が遊びに行くと、源内は得意気に「わしはこの頃得意にしている絵があるんじゃ」と言い、南畝が見せてもらうと、一人の男が岩の上で放尿し、それが岩の下にいる男の頭に降りかかり、その男が泣きながら座り込んでいるという絵だった。

まったくの意味不明の絵で、南畝は「この時、気が狂ったというきざしがあった」と言っていました。

また自分の弟子が書いた浄瑠璃が大成功すると、それを喜んであげるどころか嫉妬し、楽屋へ押しかけ激しく罵ったり・・・。

そしてとうとう1779年に親しい門人と口ケンカをし、斬り殺してしまったのです。もののはずみの殺人事件でしたが、源内は捕らえられ獄中で死亡してしまいました。

杉田玄白は源内の死を悼み墓碑銘を書きました。

「あぁ 非常の人 非常の事を好む。行いこれ非常、何ぞ非常に死するや」