性と愛の日本史


         


陰間茶屋

ここでは江戸時代に実在した「陰間茶屋」について紹介します

男色とは?で軽く説明しましたが、陰間(かげま)とは男性相手の美少年のことであります
陰間茶屋の由来は源義家が寵愛していた鎌倉権五郎景政(かげまさ)という美少年からきてます
かげまさの「かげま」というところを取ったんですね

陰間茶屋の始まりは歌舞伎の役者になるべく修行していた少年達
修行中の少年達は「陰の間」と呼ばれていました
少年達の年齢は13歳〜20歳くらいまで
陰間は役者志望だけあって美少年ばかり

さてさて、芝居小屋の方はというと、お得意さんから宴会の酒の相手をするよう頼まれることがあります
花形役者を毎回連れて行くわけにはいかないので、修行中の陰の間たちを同席させ、お酒を注がせます
で、お客さんが気に入った少年がいると手をつけたりしちゃうのです
この時代は男色は悪いことでも何でもなかったので、現代のように可愛いホステスさんがいたら思わず触りたくなっちゃうってな感覚で、お客さんは可愛い男の子に手をつけたくなってきてしまいます

で、芝居小屋の側も儲かるため、少年達に体を売るよういいます
また女形を演じるには、女性の気持ちを知らなければ・・ということで男性と関係を持つという感覚もありました

これが次第に商売として成り立つようになってきたのです

陰間を集めた「陰間茶屋」ができたのでした

陰間茶屋で働く少年達は、もはや役者修行のためではなく売春専門になっていきます
NO1になると、吉原の太夫をしのぐといわれるほど

陰間茶屋が多くできた場所は、僧侶が多くいた本郷の湯島天神門前町や、日本橋の芳町あたり
湯島は東叡山喜見院の土地だったので、僧侶達がお得意さん
芳町はというと、近くに大型の芝居小屋があったためであります

もちろん江戸だけではなく、京都や大阪にも陰間茶屋はできました

さてさて、では陰間茶屋に通うお客さんたちはどんな人だったのでしょう??

ズバリ!!金持ちです

実は、陰間の値段はものすごく高いものでした
吉原遊女にはランクがありますが、陰間は20歳までの美少年というものなので、一般庶民が出せる金額ではありません
そのためお客さんは僧侶やエリート武士・金持ちの商人となります

また、江戸の陰間は上方出身がとても多かったようです
上方というのは京都のことです
そのため、言葉遣いがとーーーってもおっとり
言葉遣いの荒い江戸っ子とは大違いだったため、セレブたちに好まれたのでした

さらに女性客もつくように
実は陰間は20歳を過ぎたら女性客も相手にするというルールがありました
女性客はお金持ち未亡人やイイトコに勤めている女中など

江戸時代、夫に死なれた女性は簡単に再婚することができませんでした
若くして夫を亡くした場合、女ざかりの未亡人は淋しくなってきちゃいます
ということで、陰間茶屋に通うようになるのであります

大名屋敷など、イイトコに勤めている女性は、なかなかお屋敷の外に出ることが出来ません
たまーーにある芝居見物や、宿下がりの時だけ
さらに門限もありました
お金はあるけど、時間がない
そんなイイトコに務めている女中は、陰間茶屋通いもめちゃくちゃ慌しいものでした

お次はちょっと痛い話

肛門のお話であります

少年達が使用するのは女性用の張形(現代でいうバイブのようなものです)
そして、少年達はごま油ですべりをよくして、小さい張形を入れます
でもって、それを毎日毎日何回も何回も繰り返します
小型サイズが入るようになったら、次は中型 そして大型へとサイズアップしていくのです
毎日苦痛に耐えながら、肛門の準備をし、準備完了!となって、初めて陰間デビューするのです
今の小学生高学年の男の子が、大人の性欲のためにそんなことやらされるかと思うと・・・なんかツライ

さてさてそんな陰間茶屋が大流行したのは五代将軍綱吉の元禄バブル時代

が、その後幕府はどんどんビンボーになっていきます
そこで改革のために飛び出してきたのが暴れん坊将軍こと八代将軍・吉宗

吉宗は質素!節約!!というのを江戸にはびこらせ、だんだん皆さんあんまり遊ばなくなってきたのであります
そしてお値段が高い陰間茶屋は、どんどん売上げが落ちていくのです

が!!!次に飛び出してきたのが悪徳政治家・田沼意次時代
ここにくると陰間茶屋はまた盛り返してきます

ところが、腐りきった田沼政治に終止符を打つべく、マジメ一筋の松平定信が出てきました
「寛政の改革」と言われるやつで、田沼時代のだらけきり&遊びまくりの文化を一気に終わらせようとするのであります

芝居小屋なんかも次々と取締をされ、もちろん陰間茶屋も改革のターゲットに
次々売春宿が消えていき、残ったのは僧相手の湯島と日本橋の芳町のみになってしまい、他の場所にあった陰間茶屋はぜーんぶ潰されてしまいました

クビになった陰間たちは、街角で売春活動をしたりするんですが、田沼時代が陰間茶屋の最後の輝きとなったのであります

さてさて、幕末になると陰間茶屋はもはやほとんど無くなってしまいました
唯一残っていたのが湯島の僧侶専門の陰間茶屋のみ
僧侶たちが一生懸命「ここだけは残してぇぇ」とお願いしたのであります

ですが、とうとう僧侶達のお寺が燃やされてしまうのです!
薩長の兵隊が江戸にやってきたとき、上野で彰義隊と激しい戦いが繰り広げられました
その際、湯島の陰間茶屋に通っていた僧侶達のお寺が焼き払われてしまうのです

そのため、最後の陰間茶屋もお客さんがいなくなり、とうとう閉鎖となったのでした

そして明治時代になると男色文化は衰え、陰間茶屋が復活することは二度となかったのです








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