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鎌倉時代その2 目次 年表 1285年〜1325年
1285年 霜月騒動 家臣がえばりくさる
1197年 徳政令
北条氏でも内輪もめ
朝廷は?
幕府は?
太平記の世界
1305年 足利尊氏誕生
足利家ってどんな家?
不満タラタラの新田氏
1318年 96代 後醍醐天皇
後醍醐天皇の妻達 阿野廉子
1325年 後醍醐天皇 討幕を決意! 
朝廷ご乱交パーティ!?
日野資朝・日野俊基 味方を作りに奔走する
初代 バサラ 高師直(こうのもろなお)
1325年 正中の変
後醍醐天皇 せっせかと頑張る





鎌倉時代 その2  
1285年 霜月騒動 家臣がえばりくさる
父の時宗が34歳の若さで過労死してしまったので、後を継いだのが14歳の北条貞時。

まだよくわかってないので、安達泰盛&平頼綱が補佐することになりました。
が、この2人仲がめちゃくちゃ悪く、とうとうケンカをおっぱじめる。

平は安達がめざわりっだったので、小さい貞時に「安達が謀反を企んでるよ」とそそのかし、安達を攻撃。

これにて安達一族滅亡。

この霜月騒動では、安達一族を500人も殺しました。

権力を握った平頼綱は好き放題。

平頼綱は、全国に御内人を派遣して、御家人の行動をチェック!

「御内人(みうちにん)」といって北条「得宗」家に仕える人の事。

頼綱のやりたい放題政治がスタートしちゃった。このやり方に、御家人はムカムカしはじめ、幕府か心が離れていくことに。

成長してきた北条貞時も、家来のくせにえばりくさりやがって!と、むかつき始め、とうとう1293年 平頼綱を暗殺してしまった。

これが平禅門の乱。

そして22歳になった貞時は、やっとこさ実権を握れました。
1197年 徳政令
なんとか権力を取り戻した貞時ですが、幕府への風当たりは強いまま。

精力的に頑張り、なんとか北条の権威回復&御家人の勢力復活を目指しました。

そのころ御家人らは、2度の元の襲来によりお金を使いまくっていた。

幕府はというと、この戦いのご褒美をあげれない有様。
先祖代々の土地を売って戦費を作った御家人なんかは、御恩がでなけりゃどん底貧乏!ってことで、直談判しにいく御家人が殺到。

幕府に直談判に行った御家人で有名なのは竹崎季長(たきざきすえなが)
この戦いの時の活躍ぶりを絵に描かせた人。

直談判されても、あげる土地のない幕府は、しかたないので少ない土地を分割して抽選で決めさせたりしました。

それでももらえたらいい方だったのです。

さらに、いつまた襲来されるかわかんないので、砦造りをさせられたりして御家人はじり貧状態に。

生活できなくなった御家人は、とうとう土地を売ったり質入したり・・・

とうとう貞時は、1197年にみんなの不満を解消するため徳政令を出したのです。

これは、御家人の土地の売買や質入を禁止して、今までに売った土地をただで取り戻せるようにするという令。

これには経済大パニック!

徳政令がまた出たら困るってんで、もう御家人にはお金貸さない!って人が増えまくり、ますます混乱してきちゃった。

ビンボー御家人は、土地を戻してもらってもやっぱり生活に困っちゃってしよーがないから、有力御家人の家臣になったりしました。

そのため有力な御家人がどんどん大きな勢力になっていった。

幕府なんか頼りにならない!という御家人が増え、幕府の力は衰えて始めることに。
北条氏でも内輪もめ
貞時は疲れちゃって、30歳の時に従兄弟の北条師時に執権を譲りました。

貞時は出家したけど、一応影の存在としてこちょこちょ動き回るけど41歳で死去。

北条師時(もろとき)が10代執権に。

が、御内人を統率している北条宗方が、師時が執権になったのがおもしろくなくって、この2人は対立することに。

とうとう1305年に、宗方側が挙兵!師時の連署の北条時村を殺しちゃった。

が、師時がすぐに対抗し、宗方も殺されるという事件がおきた。

相次ぐ内輪もめに、徳政令で御家人からブーイングだった北条氏の勢力はさらに衰えていくことに

1311年に師時が死去。

11代執権には北条宗宣(むねのぶ)がなるんだけど、長崎高資に実権を握られ、つまんないので8ヶ月で執権やめて出家しちゃった。

1312年 12代執権には殺されちゃった時村の孫の熙時が就任。

祖父の仇!として、宗方討つぞ!と頑張った人。が、3年後37歳で死去

13代には北条基時(もととき)

14代は1316年 13歳の北条高時となります。

まだ小さかったため、実権は長崎高資が握ってました。

高時の後は、次の執権を巡り安達氏と長崎高資がバトル!これに勝ったのは長崎チーム。これを嘉暦の政変といいます。

嘉暦の政変で勝った長崎高資は調子にのって、やりたい放題やっちゃう。

このあたりから、幕府は崩壊の階段を上り始めてました。


朝廷は?
幕府で執権がコロコロと変わり、血みどろの争いが続いている中、朝廷でも天皇レース争いが続いてました。

前に書いたけど、兄の後深草VS弟の亀山の天皇レースから始まって持明院統(後深草)と大覚寺統(亀山)の2つの派閥ができてました。

1274年に亀山の皇子が91代後宇多天皇になり、後深草上皇が怒って、幕府に働きかけて、しかたなく後深草の息子を皇太子に。

で、1287年、後深草の息子が92代 伏見天皇に

そしたら今度は、亀山チームが幕府に働きかけ無理やり天皇を譲位させられ

1298年に93代 後伏見天皇が譲位(亀山チーム)

今度は後宇多天皇の皇子が飛び出してきて1301年に94代 後二条天皇が即位。

覚寺統(亀山)のエースとして期待されたけど、24歳の若さで死去。

後二条の後は、1308年に持明院統(後深草)12歳の花園天皇。

皇太子には、大覚寺統(亀山)の尊治親王をたてました。

で、この尊治親王が1318年に 96代 後醍醐天皇に。

皇太子には持明院統の量仁親王をたてました。
幕府は?
15代執権は、北条(金沢)貞顕(さだあき)

高時が病気になったため、長崎高資のプッシュで執権になるんだけど、嘉暦の政変で周りが対立しまくって、巻き込まれたらヤバイとたった10日で辞職して出家。

もともと学問を好む文化人だったので、あまり向いてなかったのかも。

お次は1326年 最後の執権 16代 北条守時。

この人も長崎高資のプッシュで執権に。

が、実権は14代の高時と長崎高資ががっちりつかんでました。

そして時代は変わっていきます・・・
太平記の世界
「太平記(たいへいき)」とは、1318年後醍醐天皇即位から幕府滅亡・建武の新政・南北朝分裂・二代将軍義詮・管領細川頼之就任までの約50年間を描いた日本の軍記物語です。

作者・成立時期ともに不詳であり、全40巻からなっています。あくまで「物語」であります。

登場人物は2000人を超え、血なまぐさい匂いがプンプンの物語です。

血なまぐさいくせに「太平記」という平和なタイトルなんですねぇ。

「太平記」は今まで、戦前の日本において無視されていた本でした。というより、都合の悪い本でした。

それはなぜか?というと、「南北朝問題」であります。

というのも、この時に朝廷が「南」と「北」真っ二つに分かれちゃいます。

そしてどっちが本当の天皇家なのか?という問題が沸き起こってくるからです。

江戸時代の水戸黄門こと徳川光圀は「南朝が正統だぁ!」と発表しました。

が!実は今の天皇家は「北朝」の流れを汲んでいるのです。

そのため、戦前の日本では「太平記」はあまり触れてはいけない部分だったのです。

何人もの日本人が「神サマ・天皇」のため、お国のために死んでいってるのに、その「神サマ・天皇」が、実は正統じゃないっつーのは、ひじょーーーーにマズイことだったんですネー。

といわけで、今まで闇に紛れていた(?)太平記ですが、これがまたおもしろい本なのです!!


この頃、幕府は元寇の時に御家人らに満足のいく恩賞を与えることができなかったため、基盤がぐらつきまくっていました。

さらに北条氏の専政によって不満が出始めていたのです。

そんな中、出てきたのが朝廷の異端児・そして期待の星・後醍醐天皇だったのです。
1305年 足利尊氏誕生
この年、下野国(栃木県)足利貞氏の家の長男として尊氏(最初は高氏)が生まれました。

そして翌年、弟の直義が誕生しました。

2人は仲良く育ちましたが、性格が全く違いました。

尊氏は優しく、些細なコトですぐに傷つく繊細な少年でした。

学問が大好きで日本の本だけでなく、中国の本も読んだり、和歌を作ったり。

反対に直義は負けず嫌いで暴れん坊。

そのため両親は「尊氏と直義が反対だったら良かったのに・・・」と思っていました。

尊氏が13歳の時に祖父の家時が突然自殺しました。

祖父の遺書には「祖父の八幡太郎源義家は自分から7代目の子孫は天下を取れと遺言した。ワシにはそんな力はないから自殺する。ワシの死を無駄にしないために、ワシから3代目の子孫は必ず天下を取ってくれ」というものでした。

家時から三代目というのはちょうど尊氏。

父の貞氏は「お前は祖父の遺言どおり必ず天下を取るように。だがお前は優しすぎる。弟の直義と協力して天下を取れ。」と言い聞かせることに。

尊氏はしょんぼり。直義に相談しました。

「オレ、ほんとは僧になりたかったんだ。」

「兄ちゃん何バカなこと言ってるんだヨ!兄ちゃんは由緒ある源氏足利家の相続人だよ?そんなコト言っちゃダメだよ!」

「お前が足利家の棟梁だったら良かったのに・・・。きっと皆そう思ってるよ。」

「兄ちゃん!バカなこと言うな!弟が家を継ぐと必ず家が乱れるじゃないか!ボクは死ぬまで兄ちゃんを支えるから!」

こうして弱気で優しいお兄ちゃん尊氏と、兄ちゃん大好きなハキハキした弟 直義は育っていったのです。
足利家ってどんな家?
足利家とは八幡太郎義家の次男である義国が祖となります。

義家には子供が何人かいましたが、次々と死んでしまいました。

次男の義国は長男が死んだため、自分が源氏の相続人になれると思っていました。

ところが朝廷が口出ししてきて「義家の後継ぎは死んだ長男・義親の子供に継がせるのがいい」と言っちゃったため、義国は「はぁ?何だとぉ!何でオレじゃねーの?」不満タラタラとなったのです。

義国は怒って右大臣である藤原実能の家に火をつけちゃいました。

この時の天皇である近衛天皇はこれを聞いて「お前のような乱暴者は都から出て行け!」と義国を追放しちゃったのです。

義国も「オレだってこんなトコいたくねーよ!」と、自分の領地があった足利庄へ行ったのです。

そして義親の筋は源頼朝を産むこととなります。

義国は常に「オレが本当の源氏の嫡流だ」という気持ちを持っていました。

その後、義国は藤原敦基の娘と結婚して足利義重を出産。

まもなくすると妻が死んでしまい、後妻に藤原有房の娘が入りました。

そして足利義康を出産しました。

義国は先妻との子である義重よりも、後妻の子である義康をめちゃくちゃ可愛がりました。

長男の義重はムカついて、家を飛び出して生母の父の遺領である上州新田へ移り住んだのです。

場所が新田だったため「新田氏」を名乗るように。

次男の義康が足利家の跡を継いだのでした。


不満タラタラの新田氏
長男でありながら父の「足利家」を継げなかった義重。

当然新田氏も「おれが長男なんだから、本当の源氏の嫡流だ」と思うようになるのです。

その後、源氏を継いだ源頼朝が鎌倉で平氏に立ち向かうべく兵を起こし「武士のための政治」を作ろうとしました。

この時、足利家の当主であった義兼は「まず頼朝と組んで武士の力を強めてから、正当な家柄である足利家が源氏を乗っ取るか」ということで、頼朝の味方をしたのです。

頼朝は最初の反乱に失敗し、義兼も領地を取り上げられたりと苦労しまくりましたが、最後まで頼朝から離れませんでした。

そのため頼朝は幕府を作ってからも足利家に感謝し、重宝したのです。

そして足利義兼は北条政子の妹と結婚したりと、源氏と足利氏の血のつながりは鎌倉時代の初めから今までずーっと続きました。

そして足利家は栄え、領地も増え、当時の名門大豪族となっていったのです。

新田氏はというと、所領の関係で京都公家連中と縁が深かったため、頼朝の反乱には最初っから朝廷側についちゃいました。

そのため頼朝から冷遇されちゃうのです。

その冷遇は北条氏が執権となった後もずっと続きました。

また「鎌倉時代その1」で書いたように頼朝の色恋沙汰のとばっちりまで受けたりと運の悪さも手伝って、本来ならば嫡流なのに冷遇されまくるという悲惨な一族となっていったのです。

権威回復のため、北条氏や足利氏からお嫁さんを迎えたりしてたんだけど、いまいちパッとしなかった。

そして足利家の方が栄え、新田家は貧乏になっていきました。

とはいっても名門新田家のプライドは高く、逆に足利家をバカにしまくり。

「けっ!足利は情けないぜ!家来筋の北条にまでぺこぺこしてやがる。その点、我ら新田氏はいかなることがあろうとも、プライドだけは捨てんぞ!」と、もともと家来である北条家にぴったりくっついてうまいことやってる足利家を軽蔑していました。

こうして新田家はつねに足利家に対して対抗意識を持つようになっていたのです。

ちなみに足利義兼は評判がすごく良かったため、頼朝に「あいつ征夷大将軍を狙ってんじゃないか?」と疑いをかけられることに。

事実だったんだけど、義兼は「今ここで頼朝に攻められて足利一族が根絶やしにされたら大変だ・・・」と考え、狂ったフリをして切腹自殺をしたのです。

そのため足利家も「けっ!源氏め!足利家こそ源氏の嫡流じゃねーか!今にみてろや!」という気持ちがずーっと続くのでした。

この思いは尊氏の時代になると「源氏の嫡流だというのに、源氏の家臣であった北条氏に、この足利氏が家臣同様に扱われるなんて・・・」という屈辱感が出てくるのです。

そして足利家・新田家の8代目が足利尊氏と新田義貞でした。

この頃は足利家は名族として幕府の信頼も厚く、武家社会では名前売れまくりでした。

対する新田家は幕府に対していつまでもプライドを捨てなかったため、注目を集めるどころか「新田家は足利家の一族」という屈辱的なイメージしかなかったのです。

1318年 96代 後醍醐天皇 
後醍醐天皇は、天皇になったときすでに31歳。

天皇になった頃は後宇多上皇が院政をやってました。

後醍醐天皇は体もたくましくうりざね顔だけど目が鋭く、濃い眉毛に意志の強そうな口元。

ヒゲの跡が青々していて、天皇系にしては珍しくエネルギッシュで男性的な風貌をしていたそうです。手がめちゃくちゃ大きかったらしい。

1321年から実権を握り始め、身分に関係なく有能な人をドンドン出世させるタイプで人気急上昇。

後醍醐天皇が抜擢した家臣は日野資朝(すけとも)・日野俊基・吉田定房・北畠親房など身分の低い公家ばかり。

公家だけではなく、僧も沢山抜擢。特にお気に入りは文観(ぶんかん)でした。

積極的に政治に取り組み、自ら記録所(裁判所みたいなもん)に行って、訴えを聞いてあげたりした。

日照りとかで農民らが苦しんだら、検非違使に命令して食べ物を分け与えたりして、民の心もゲット。

でも、保守的な貴族やお偉いさんなんかからは目の仇にされてました。

そんな人気者の後醍醐天皇にも悩みが・・・

それは、自分の息子が皇太子じゃないってこと。

この頃は、天皇レースは白熱していて、最初は亀山&後深草の2つの派閥だったのに今じゃ、中間に花園・伏見・後二条なんかも割り込んできて泥沼化しつつあったのです。

後醍醐天皇の妻達 阿野廉子
後醍醐天皇には18人の奥さんと皇子が18人皇女が18人いました。

子供はもっといたんだけど「8」とう数字が末広がりと呼ばれる縁起がいい数字だったので、公式の記録に「18人」と残したらしい。

ちなみに奥さんは「8人」でいいのにそれだけじゃ足りなかったらしい・・・。

中宮(正妻)は西園寺実兼(さねかね)の娘禧子(きし)。

で、この正室が「あたしの家来はこんなに美女ぞろいなのヨ!」と、才色兼備の侍女とともに内裏に入ったのです。これが禧子の不幸の始まり。

この侍女の中に阿野廉子という美女がいて、後醍醐天皇はヒトメボレ!なんと廉子を愛妾にしちゃうのです。

廉子は他の宮内の女性がかすんじゃうくらいの美女。

また美女の上に才女でもあったそうです。そして天皇の寵愛を独り占めしちゃうくらいお気に入りとなっていくのでした。

1325年 後醍醐天皇 討幕を決意! 
後醍醐天皇はこのまま朝廷内の分裂が進んだら、天皇家の権威が薄れていくことを恐れていました。

また自分で政治を行っていて、ありとあらゆるところに幕府の監視が光っているのがうざったかった。

こうなったら、かつて「壬申の乱」で武力によって敵をやっつけたように、まず朝廷内の敵を力でやっつけたいと考えるように。

そして、天皇家の権威を高めるために幕府を倒したい・・・と考えるようになったのです。

幸いここんとこの幕府の評判は、徳政令や身内の争いでがた落ち。

2度の蒙古襲来で幕府の経済状況はめちゃくちゃになっていて、幕府への不満は各地に広がっている。

またこの頃は「悪党」とよばれる人たちが増え始めていた。

幕府や荘園の領主に反抗している地方武士や農民のことで、「悪党」が、頻繁に出始め米や私財を奪った。

地頭の中にも、悪党になる人が出て幕府の支配力は弱まっていた。

さらに、世の中からあぶれて、変な格好をする悪党も出てきて、社会の秩序は乱れまくり。この不満は全て幕府へ向かっていった。

人心を失っている今こそ、幕府を倒すチャンス!!

後醍醐天皇の心は決まった。

朝廷ご乱交パーティ!?
後醍醐天皇は六波羅探題の目を逃れるために無礼講のパーティをしまくっていました。

太平記によると「その遊宴のありさまは、見聞きするものをみんな驚かせた」というくらいすごいパーティでした。

まず17歳くらいの美少女を20人くらいホステス役にしました。その美少女の制服はスケスケの着物。

そして美少女達にお酌をさせ、男はみんな烏帽子を脱いで山・海の幸を取り寄せまくり。酒も浴びるように飲みまくっていたそうです。

そしてそのパーティにおいて「打倒幕府」の会議を行っていたのです。
日野資朝・日野俊基 味方を作りに奔走する
まず側近の日野資朝が「ワシのような無能な人間が天皇の近くにいたら申し訳ない」といって山伏の姿に身を変え都から出て行き関東へ向かった。

お次は日野俊基も、大事な場面でわざと漢字の読み方を間違えて公家らに大笑いされ「こんな恥をかいてしまったら天皇のお側にいられない」と山にこもるフリをして大和や河内へ向かった。

身分の低い公家のくせに出世しやがって!と、妬んでいた公家連中は大喜びしてました。

俊基はこの密行で沢山の地方武士の味方を得ました。

ターゲットにしたのは、かつて承久の乱などで北条氏に冷遇されていた武士らでした。

楠木正成らもこの時に「必ず天皇の味方を致します」と誓ったのです。

資朝は関東に向かいました。ターゲットは足利氏です。

源氏の嫡流である足利や新田がこちらの味方になってくれたら、全国の武士に与える影響はかなりのものがある。という思いがあったのです。

そして足利尊氏のもとを訪ねました。

対応したのは尊氏・直義・そして足利の執事である高師直でした。

3人は資朝に「幕府を倒したいから天皇の味方をしてくれ」という話を受け、「どうする?」と相談。

直義と高師直は「意欲だけは旺盛な天皇と、戦う力もない公家が中心となっている倒幕なんか頼りなくて無理だろ?確かに足利が天下を取るチャンスかもしれないけど、今回は様子を見たほうがいい」ということに。

ちなみに高師直は尊王心のかけらもない男でした。

常々「都に天皇ってのがいて、院だの御所だのがあって、武士はいちいち馬から下りなきゃなんないなんてめんどくさくてやってらるか!どうしても天皇ってのが必要だったら木で人形でもこしらえておけばいいじゃねーか。生きている天皇なんて国をややこしくするばっかなんだから、どっかへ流しちゃったほうがいいぜ!」と堂々と言っていました。

そのため資朝が来た時も「武士のために北条を滅ぼすならいいけど、天皇のためなんてやってられっか!ばかばかしい。やつらは武力がないから、口が武器だ。だからウソばっかりついて、人を上げたり下げたりする。平気で人を陥れる。信用なんてできねーぜ!」と思っていたのです。

初代 バサラ 高師直(こうのもろなお)
高師直は尊氏が守護職だった頃からの足利家の重臣でした。

代々の執事みたいなもんで、足利家の家政をやっていた家柄だったのです。

古いしきたりや家柄などを気にしない性格で、自分のやりたいことを平然とやってのける人でした。

特に天皇のことなんか大嫌い。バカにしまくっていました。

ですが尊氏はそんな高師直の才能を買っており、直義とともに右腕としていたのです。
1325年 正中の変
武力のない天皇家が幕府を倒すのは無理だろ?という武士は多かった。

また幕府のおかげで甘い汁を吸わしてもらってる貴族なんかもいて、この計画はすぐに幕府にバレてしまいました

六波羅も次々ともたらされる密告により「天皇謀反計画」は公然のものとなっていました。

ですが、それがいつ行われるかだけがわからなかったのです。

天皇側の決行は9月23日と決めていました。

この日は北野天満宮のお祭りの最高潮の日だったのです。

そのため六波羅はお祭りの警護にあたることになっており、人員がほとんど駆りだされることになっていました。

天皇一味はこの日を狙ったのです。

が、この計画は事前にバレてしまいました。

天皇側についている美濃の土岐頼兼の一族である頼員(よりかず)からバレてしまったのです。

頼員には惚れて惚れてやっと結婚できた女性がいました。

その妻に「おれ、9月23日に頼兼殿と一緒に天皇のために六波羅を攻撃するんだ」と言ってしまったのです。

驚いた妻は「ふーん・・・」と言ったっきりでした。

が、この女の父は六波羅の奉行である斉藤利行だったのです。

妻からしれみれば「天皇が反乱起こしたって幕府に勝てるわけないじゃないの!それならいっそ密告してダンナだけでも助けなきゃ!」というものでした。

そして闇の中、六波羅へ向かったのです。

娘の通報を聞いた斉藤利行はビックリ!すぐさま六波羅探題にて緊急会議が開かれ、土岐頼兼・日野資朝・日野俊基・多治見国長らを襲いました。

そして四条付近でバトルとなり、土岐・多治見らは戦死。日野俊基らは捕らえられたのです。

朝廷に追及の手が入りました。

日野資朝は拷問にかけられても「すべて私が計画したことで、天皇は全く関係ありません」と、一人罪をかぶり、資朝は佐渡へ島流しとなったのです。

日野俊基は「資朝殿が気の毒だ」と涙し、後醍醐天皇も涙したのです。

これが正中の変で、最初の倒幕計画は天皇側の大失敗となったのです。
後醍醐天皇 せっせかと頑張る
鎌倉幕府の強さをイヤというほど味わった後醍醐天皇。

やはり「武士」は強いということを認めざるをえなかった。

その強い武士に対抗するには、こちらも武士を味方にするしか方法はない。

そして武士同士を激突させて、お互いの力を消耗させてしまおうと考えました。

その武士をまとめる指導者を誰にするか?そうなると源氏の嫡流で全国各地の武士が「あの人ならついていこう!」と思うような人カリスマ性のある人でなければならない。

土にしがみついている地方武士たちが、武士の名門に対していかに尊敬の気持ちを持っているかを後醍醐天皇はわかっていました。

そしてその気持ちを「田舎物めが。武士の名門など天皇から比べれば犬にも等しい!」と、小ばかにしていた部分もありました。

そうなると源氏の嫡流である「足利尊氏」と「新田義貞」が適任。

後醍醐天皇は会ったこともないこの2人に期待し始めるのでした。

楠木正成などいかに忠義があろうと、ただの地方武士では役不足なのでした。

さらに後醍醐天皇はまたも人気取りに奮闘した。

さらにさらに、幕府に対抗する武力を確保するために、寺社に大接近。

この頃の寺社は今のお寺とかと違って、全国各地に領地を持っておりそこで働く武士なんかを抱えていた。

また、寺院でもすごい強い僧兵をわんさか抱えこんでいた。

後醍醐天皇は、自ら延暦寺とかの力のある寺社に足を運んだので、僧兵らは「天皇自ら来てくれるなんて」とカンゲキ★

あまりにも頻繁に行くので、後醍醐天皇は寺社で呪詛してるんじゃないか?という噂まで立つほど。

後醍醐天皇の討幕執念は、ずーっと続いてたのでありました。

1326年になると、北条高時が病気を理由に執権を譲った。

高時は、執権をやめてからも実権を握ってるんだけど、遊びにはまって社会の乱れを直そうとしなかった。

1327年には後醍醐天皇の第三子 護良(もりなが)親王が比叡山に入りました。