×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

鎌倉時代その1 目次 年表
1192年 頼朝征夷大将軍に!鎌倉幕府スタート
鎌倉幕府の仕組み
1193年 日本三大仇討ちの一つ 曽我兄弟
新田氏没落!頼朝の不倫が原因!
1198年12月27日  頼朝死す!
1199年 2代将軍 頼家 頼朝死後の政治は??
将軍よりも強い母 政子
1200年1月19日  梶原景時一族殺される
次のターゲット 比企能員
1203年8月  北条VS比企
1203年9月  比企の乱 
1203年9月  頼家大ショック
1203年  3代将軍 源実朝 時政と政子のバトル
実朝 13歳で結婚する
1205年2月  畠山一族滅亡
1205年 親子ゲンカ!北条時政失脚
蹴鞠大好き!三代将軍実朝
1213年 和田氏の乱
1219年1月27日  実朝暗殺 いちょうの木の公暁
実朝暗殺の黒幕は!?
朝廷の権力者 後鳥羽上皇 
1221年5月 後鳥羽上皇動く 打倒幕府!
尼将軍 北条政子の名演説
1221年5月  幕府VS朝廷 承久の乱
1224年 親鸞の浄土真宗
1125年 北条政子 死去
1227年 道元の曹洞宗
1232年 御成敗式目制定
1226年 四代将軍頼家 将軍の権威 まるでなし 
5代将軍 頼嗣
1256年 6代将軍宗尊親王
北条氏執権政治
朝廷は兄弟ゲンカ!後深草VS亀山 
1274年 文永の役(ぶんえいのえき) フビライ・ハン
1281年 弘安の役(こうあんのえき) またも蒙古軍やってきた
8代執権 北条時宗大忙し



鎌倉時代 1192年〜1333年
1192年 頼朝征夷大将軍に!鎌倉幕府スタート
義経を殺し、奥州藤原氏を滅亡させた頼朝は1190年、京に行く。

後白河法皇に「征夷大将軍」にさせてくれとお願いするが却下。

が、1192年後白河法皇が死ぬと、朝廷から「征夷大将軍」に任命された。

日本で始めての武家政権・140年続く鎌倉幕府がスタートとなったのです!!

鎌倉時代説は1192年がフツー言われてるんだけど、「守護・地頭」をおいた1185年説もあります。

鎌倉幕府の仕組み
頼朝は、自分の下に集まってきた「武士」を御家人(ごけにん)として主従関係を結んだ。

御家人の先祖代々の土地の所有権を認める(御恩)かわりに、幕府への忠誠を義務づけ、戦いがある時い参加しなさい!(奉公)という御恩と奉公の関係を結ぶ。

政治はというと

侍所(武士を統率)

政所(行政つまり政治をやるとこ)

問注所(裁判をやるとこ)

まだこの頃は朝廷や公家の土地や荘園があったので、頼朝は一応これは認めてたけど自分の御家人を守護・地頭に任命してチェックさせた。
1193年 日本三大仇討ちの一つ 曽我兄弟
日本三大仇討の一つに数えられる「曽我物語」

兄弟の名前は曽我祐成(すけなり)・時到(ときむね)です。

事の発端は、曽我兄弟の四代前になる工藤祐隆(すけたか)が、後妻の連れ子の娘を気に入っちゃったことです。

後妻よりもその連れ子だった娘を気に入ってしまい、子供を産ませてしまったのです。

そしてその娘に産ませた祐継(すけつぐ)をめちゃくちゃ可愛がり、自分の本領を与えてしまったのです。

おもしろくないのは前妻の息子達。

祐隆の嫡男である祐家は病気で死んでしまい、祐家の長男である祐親(すけちか)は、「本当だったら、こっちが本筋じゃねーか!」とムカムカしていました。

すると祐継が幼い息子を残したまま病気で死んでしまったのです。

これはチャンス!と祐親。祐継の土地を乗っ取ったのです。

で、祐継の息子・祐経(すけつね)が大きくなり訴えましたが、全く聞き入れてもらえず、とうとう祐親を殺害しようと計画。

ところが祐親を殺せず、その嫡男である祐泰が殺されてしまったのです。

この「祐泰」が、曽我兄弟の父親でした。

父が殺された時、兄の祐成は5歳。弟の時到は3歳でした。

その後の工藤祐経は頼朝の兵として戦い、出世していくのです。

曽我兄弟はこの「工藤祐経」を父の仇・・・・と、幼い頃から仇討ちをするべく生きていました。

1193年 頼朝は富士山で狩をすることに。

この日はみなで酒を飲み、酔って寝入っていました。

そこへ曽我兄弟が「父の仇!覚悟!」と襲撃し、ついに悲願達成となったのです。

が、兄の祐成は、慌てて駆けつけた祐経の家臣らにその場で斬り殺されてしまいました。

弟は翌日、頼朝の前に連れてこられました。

その時、時到は堂々と遺恨を延べ、死ぬ覚悟でやってきたことをまったく臆することもなく言ったのです。

結局死罪となってしまいましたが、頼朝は「曽我兄弟は武士の鑑じゃ」と褒めたのです。

新田氏没落!頼朝の不倫が原因!
頼朝は弟の義経に負けず劣らず大の女好きでした。

鎌倉幕府が始まり、源氏に一番近い嫡流として新田氏の新田義重(よししげ)

ちなみにお次が新田義重の弟で足利義康(よしやす)の足利氏。

この2人は源義家の息子 源義国の息子です。なので頼朝とは親戚。

さらにその下には源義家(八幡太郎)の弟の源義光(新羅三郎)からでた武田氏。

で、問題になるのは新田義重の娘。

この娘は頼朝の兄・源義平の奥さんだったんだけど、平治の乱で義平が死んだために未亡人となっていました。

頼朝はモテモテだったので軽い気持ちで兄の奥さんに声をかけたのです。

ですがこの奥さんが「あたしのダンナ義平は悪源太と呼ばれた武芸の達人よ?たった7騎で平重盛500騎をやっつけたほどの強者よ?いまさらあんたなんか相手にできないわよ」と頼朝をバカにしまくったのです。

頼朝はこの返事を聞いて激怒しました!飛ぶ鳥を落とす勢いの自分に対してなんて失礼な女だ!と新田義重を出世コースから外したのです。

この時北条氏はというと有力な邪魔者が消えてくれて喜びました。

頼朝の身勝手な行動を止めることはしなかったのです。

そして新田氏は幕府の主流から思いっきり外されてしまい、ビンボー生活に突入!100年後新田義貞によってやっと恨み(?)を晴らすことができるのです。
1198年12月27日 頼朝死す!
幕府を開いてから7年後、頼朝が53歳で馬から落馬して死んでしまう。

突然の死にみんなビックリ。

これには暗殺説があり、鎌倉時代の公式史書「吾妻鏡」は1196年から1199年が抜けていて、頼朝死去の死去についても「橋の完成祝いの帰りに稲村ガ崎で落馬して死んじゃった」と簡単に書いてあるだけではっきりとした死の原因を書いていないから。

他の説として・・・

後鳥羽上皇暗殺説
落馬した時は死んでおらず、怪我の療養中に毒を盛られたという説があります。
後鳥羽上皇が幕府の急激な成長に焦りを感じて土御門通親(つちみかどみちちか)を通し土御門の家臣だった大江広元に毒を盛らせたとのこと。

政子に殺された説
頼朝が政子に「一番美男子は誰だと思う?」と聞き、政子は「畠山重忠だわぁ」と答えました。
頼朝は「もしかして政子、畠山と浮気してるんじゃ・・・」と心配になり、畠山に似た格好で政子の寝所へ。
驚いた政子が刀で斬りつけたら、実は頼朝だった・・・という説。

他にも色んな説がありますが、いずれにしても「将軍」として名誉ある死に方ではなかったため、頼朝の死の部分は不透明になってしまいました。

そして頼朝死後は北条氏が「執権」として権力を握ります。

1199年 2代将軍 頼家 頼朝死後の政治は??
頼朝と政子には頼家と実朝という息子がいました。

頼朝死後は、長男の頼家が二代目将軍に任命されました。

頼家は18歳になったばかりだったので、幕府の運営には13人の会議制で運営することに。

名目は若い将軍を補佐するってことだったんだけど、実際は頼家に独裁政治をさせないため。

この13人の後家人は

北条時政(政子の父)
北条義時(時政の次男)
三浦義澄(頼朝挙兵からの忠臣)
比企能員(ひきよしかず・頼家の妻・若狭局の父)
梶原景時(頼朝を石橋山で見逃して以来の忠臣)
和田義盛(侍所長官)
安達盛長(頼朝の忠臣)

などなどのメンバー。

そして忘れちゃいけない「北条政子」

将軍よりも強い母 政子
頼家は将軍になってすぐにある事件を起こす。

安達盛長の子景盛が仕事で出かけてる最中に、景盛の妻を横取りしちゃう。

もちろん景盛怒って抗議するんだけど、頼家が逆ギレして景盛を罰しようとしたのです。

将軍の権力は絶対だという鎌倉幕府の仕組みからいえば、将軍に抗議した景盛は罰せられてもしかたない・・・って動きの中飛び出してきたのが政子。

頼家に対して「景盛を殺すなら、先に私を殺してからにしなさい!」と言ったのです。

さすがに頼家、政子に言われちゃどーしよもないので、景盛を罰するのをあきらめた。

将軍の暴走をストップできそうになかった家臣らは「将軍よりも強いのは母・政子だ」という認識を持つようになるのです。

頼朝の後を継いだ頼家がもう少し賢い将軍だったら、この先政子の出番はなかったことでしょう。
1200年1月19日 梶原景時一族殺される
幕府の権力は13人の御家人達が均衡を保っていました。

そんな中、もともと「告げ口ばっかしやがって!」と、みんなに嫌われていた梶原景時がよからぬことを企んでいる!というニュースが入ってきたのです。

景時が結城朝光(ゆうきともみつ)を讒言したのが事の発端でした。

景時は武士でありながら教養があり、京風文化にも通じていたので頼朝から気に入られていました。

そんな景時を「あいつは要領がいい。ずるがしこいヤツだ」と皆嫌っていたのです。

三浦義澄・和田義盛・畠山重忠らが中心となり梶原潰しにかかりました。

これはヤバイことになってきた・・と感じた景時は一族みんなで京都に逃げようとしたのです。

が、京へ向かう途中(静岡県清水市)で、幕府の手先に襲われ戦闘となり殺されてしまいました。

こうして梶原一族は滅亡してしまいました。



次のターゲット 比企能員
次に槍玉にあがったのは比企能員(ひきよしかず)

能員は頼朝の乳母である比企尼の養子です。

そのため早くから頼朝に仕え、側近となり信頼を得ていました。

そして2代目将軍頼家に娘・若狭局(わかさのつぼね)を送り込んでいて、権力を得ていました。

北条一族はこれがおもしろくなかった。

さらに若狭局は、長男「一幡」を出産。

頼家は比企氏ばかりを頼るように。

自然に比企氏と北条氏の対立が進んでいくのです。

1203年8月 北条VS比企
この年の8月、頼家が病気になりました。

かなりの重態で危篤状態となってしまったのです。

この時、北条時政と政子は頼家を将軍やめさせて政子のもとで育てていた次男の実朝を時期将軍にさせようと計画。

頼家は比企氏サイドについたばかりか、ちょっと性格が乱暴であまりいい将軍じゃなかったから。

そして頼家病気療養中に勝手に権力を分割。

全国の守護・地頭の権利を頼家の息子一幡と実朝に分けちゃったのです。

これを聞いて頼家は、家督を譲るのは弟ではなく、自分の子一幡じゃ!と激怒。

比企氏と手を組み、北条やっつける計画をたて始めたのです。

1203年9月 比企の乱 
北条時政はそれを察知し、巧みに比企能員を自宅に招き無防備だった比企能員を殺害してしまったのです!

そしてすぐに、和田・三浦・畠山の協力を得て比企氏の家に攻撃しにいったのです。

頼員を殺された比企一族は、一幡の屋敷に立て籠もりました。

北条らは比企氏の家に火をつけました。

6歳の一幡と若狭局は炎の中に消えていったのです。

1203年9月 頼家大ショック
妻と子供が殺されたことを知った頼家。

すぐさま和田義盛らに時政を殺せぇー!と命じました。

ですが和田はすでに時政と通じていました。

頼家は泣く泣く将軍の座を奪われ出家させられてしまったのです。

頼家は、伊豆の修善寺に幽閉されました。

そして翌年、お風呂に入っている時に時政の暗殺者により殺されたのです。

23歳でした。
1203年 3代将軍 源実朝 時政と政子のバトル
頼家が暗殺され、弟の実朝が11歳の若さで3代将軍に。

幕府の実権は、執権である北条時政が握っていました。

もとは政所の長官を執権と呼んでて、のちに侍所の長官も兼ねるようになる。

が、時政は執権だけでは足りなくなってきたのです。

この頃、時政は後妻の牧の方の言いなりになりつつありました。

政子はこの牧の方が大嫌いなのでした。
実朝 13歳で結婚する
政子は実朝と自分の姪を結婚させよと思っていました。

ところが、実朝は京都の貴族の娘と結婚してしまったのです。

その京都の娘とは牧の方と時政の娘の嫁ぎ先の家の娘でした。

この頃、牧の方の発言力は政子をも凌ぐようになっていたのです。
1205年2月 畠山一族滅亡
ある時、有力御家人である畠山氏が時政の大好きな牧の方の娘のお婿さんである平賀朝雅とケンカしちゃう。

1205年6月、時政は息子の義時と時房を呼び、謀反を企ててる畠山をやっつけろと命令。

だけど、政子や義時・時房は後妻である牧の方が嫌いで、討伐に参加したくないと命令を断ったのです。

が、当時の実力者時政には逆らえず、仕方がなく畠山討伐に向かいました。

いざ討伐しに行くと、畠山氏はもちろん謀反など企てていなかったが、他の武士らの手前、畠山氏を討ち取るしかなく畠山一族滅亡したのです。
1205年 親子ゲンカ!北条時政失脚
時政と牧の方に利用されたことにムカついてる先妻チーム3人と、時政・牧の方夫婦チームの間に亀裂が入りまくっていました。

すると時政、今度は実朝に将軍を辞めさせて、牧の方の娘のお婿さんである平賀朝雅を将軍にしようと企む。

が、このたくらみに参加してくれる御家人は全然いませんでした。

そしてこ計画は政子と政子の弟の義時にばれてしまい、失敗に終わったのです。

このチャンスを逃すか!と先妻チームは時政らを攻撃!

こうして時政と牧の方を伊豆へ追放したのです。

1205年に時政は失脚し執権は義時へ。
蹴鞠大好き!三代将軍実朝
幼くして将軍になった実朝。

実権を持たない飾り物であることをわかっていました。

変に逆らうと、兄の頼家みたいになっちゃうし・・・ということで、反抗することもありませんでした。

ですがやはり不満は溜まっており、そのはけ口を歌の道に求めていました。

京都が大好きになってきた実朝。

そして時の上皇である後鳥羽上皇とも歌の道を通して出会い、実朝は後鳥羽上皇を尊敬するようになっていくのです。

ですが「天下の将軍が武の道から外れて、天皇家に尻尾を振っている」ということとなり、東国武士達から批判の声が出てきたのです。

しだいに「実朝は蹴鞠や歌ばっかやって遊んでばかり。武芸は全くできないダメ将軍」というイメージになってきてしまったのです。
1213年 和田氏の乱
執権政治を始めた義時にとって、今や和田氏・三浦氏が最大のライバル

ちなみに、和田氏は三浦氏と同族。

和田義盛は、鎌倉幕府創立時からの有力御家人で、侍所の長官。

北条氏の専制政治に自分達は邪魔だと常日頃感じている和田義盛は、北条討伐の計画を密かに進めていた。

が、これが密告によりばれてしまい、和田一族はばれたらなしようがない!と北条氏を攻撃。

なかなか奮闘するが、幕府軍の人数には勝てることができず、とうとう和田氏の4男が討たれたのです。

すると父・義盛悲しみのあまり戦意を失ってしまい、討たれてしまった。

これは、北条氏による有力御家人を排除するための陰謀という説もあり。

ちなみに、江ノ電の駅に「和田塚」というのがありますが、ここを明治時代に掘ったところ、すごい数の人骨が出てきたらしく、ここが「和田合戦」の場所と言われています。

1219年1月27日 実朝暗殺 いちょうの木の公暁
実朝は将軍だけど実権はまったくなく、その反発からか京風の文化を好み和歌や蹴鞠などをして遊んでばっかいる毎日。

藤原定家に和歌を学び、「金槐和歌集」という歌集を作っちゃうほど。

そんなある日、鶴岡八幡宮へ出かけました。

が、鶴岡八幡宮のいちょうの木の下に潜んでいる男がいた。

その名は「公暁(くぎょう)」2代将軍頼家の次男で、実朝の甥になります。

幼い頃から、父を殺したのは実朝・・・と、実朝政権を嫌う人々から叩き込まれており、とうとうこの日、「父のカタキ!!」と実朝を暗殺してしまったのです。



これにより、源頼朝の血を継いだ将軍は3代で途絶えてしまいました。

実朝暗殺の黒幕は!?
この暗殺の黒幕は色んな説がありますが、有力なのは三浦氏。

三浦義村は北条義時につぐ幕府N02の権力の持ち主。

義村は源実朝と北条義時を2人まとめて葬り、幕府をのっとってやろう!と思っていた。

そして暗殺者公暁の乳母は三浦義村の妻・・・。

義村は公暁を4代将軍とし、幕府を操ろうとしていた。

が、この暗殺が北条泰時にバレてしまったのです。

北条義時は実朝の後ろにいて歩く役割だったんだけど、途中で具合が悪いといって、京都からやってきた源仲章(なかあき)にその役割を譲ったのです。

そして公暁は実朝と仲章を殺害!仲章お気の毒だよ(^^;)

公暁は計画通り実朝&義時を殺したと三浦義村に使者を送るんだけど、反対に義村からの使者に殺されてしまうのです。

他には、義時がもっと自由に執権政治をやりたいがために公暁をそそのかしたのでは??・・とう説もあり。

幕府はその後「将軍暗殺は公暁一人の単独犯」と発表しました。

朝廷の権力者 後鳥羽上皇 
この頃京都では高倉天皇の4番目の息子で、安徳天皇の後の82代 後鳥羽天皇が朝廷を仕切っていました。

後鳥羽天皇は文武ともに優れている秀才でした。

1198年に土皇門天皇に譲位し、院政をスタートさせてました。

和歌を好んでおり、1205年には藤原定家に新古今和歌集を作らせたりしていた。

ちなみに、鴨長明の方丈記もこの頃。

武芸に優れた後鳥羽上皇は、幕府の力に屈しない強い意思の持ち主で、幕府がえばりくさってるのが気に入らなかった。

そこに3代将軍実朝が殺された!というニュースが届いたのです。
1221年5月 後鳥羽上皇動く 打倒幕府!
「将軍が暗殺!」これで幕府内は動揺するに違いない!運が向いてきたぞとニンマリ。

幕府はというと次の将軍はどうする?ってことになりました。

実朝に子供がいなかったからです。

政子らは朝廷のご機嫌伺いのために「後鳥羽上皇の一族を将軍にしませんか?」とお願いに行くも、後鳥羽上皇に拒否されてしまいました。

代わりに九条家の息子頼経2歳を鎌倉に送ったのです。

さらに弱体化した幕府に対し、後鳥羽上皇は愛人亀菊の所領を担当している幕府の地頭職の解任を要求したりと、幕府を挑発。

西日本には御家人じゃない武士も多いし、僧兵や熊野の人々も朝廷側についてくれるはず!

そう考えた後鳥羽上皇は、ついに1221年5月 幕府討伐を決意したのです!

政子の弟の執権北条義時をやっつける!という宣旨をだしたのです。

後鳥羽上皇謀反のニュースを受けた北条義時は焦った。

有力な御家人らを次々ぶったおしてたため、北条家は人気がなかったのです。

それにあの頼朝さえ真正面から朝廷に反抗したことはない。

この時代天皇は神であります。

幕府はついにこれまでか・・・と皆思ったのでした。
尼将軍 北条政子の名演説
ここで出てきたのが北条政子。

政子は御家人達を勢院集めた。

「私は今までつらい目にあってきました。娘をなくし頼朝もなくし、さらには息子2人・孫2人次々となくしました。そのたびに死のうと思いましたが三代将軍の菩提を弔うため生きてきました・・・」と演説が始まったのです。

肉親の情よりも幕府を優先してきた政子の言葉は、御家人達の心に染み入りました。

そして「みなのもの、これが私の最後の言葉です!幕府ができる前、武士はひどい扱いを受けてきた!頼朝がここまで頑張って武士のためにやったのを無にできようか!ここで朝廷に屈してしまえばまた元通りになってしまう。今こそ、頼朝の御恩に報い、上皇軍と戦うべきである!上皇軍につきたい者は今すぐ名乗り出よ!!!」

そしてさらに「幕府が上皇に背くのは愛人亀菊のわがままによって地頭職を解任することはできないからである!頼朝がみなのものの勲功によって与えた職を何の落ち度もなく愛人のわがままによって取り上げることができようか?昔は京都の守護は3年やらされた。三年も京都にいれば国に戻る時に裸足で帰らねばならぬほど関東の武士はつらい思いをしてきた!これを頼朝は半年にまで短縮した!これが関東の政治である!京都につくか、関東につくか、今しかと心を決めよ!」ととタンカをきったのであります。

この演説は関東の武士の心をがっちり掴んだ。

「そうだ!頼朝依然の関東武士は悲惨な生活だった!また元に戻るなんてイヤだ!」と声があがり「鳥や獣も飼い主への恩は忘れません!都を枕に討死し屍を禁中にさらします!」と言い武士達は団結し朝廷と戦うことを決めたのです。
1221年5月 幕府VS朝廷 承久の乱
そして、政子は「攻撃を待ってるだけじゃダメ!こちらから進軍し迎え撃て!」と提案。

北条義時&時房は箱根あたりで待ってようヨと消極的。

上皇軍を迎え撃つことに。

京都から西は上皇側に味方し、朝廷VS幕府の天下分け目の戦いが始まる。

幕府軍の大将は北条泰時。副将に時房
泰時は義時の長男で、時房は時政の3男(政子&義時の弟ね)
泰時は鎌倉幕府を代表する平和主義者
義時は、自分が人気ないのを知ってたので、息子の泰時を大将にしたわけデス

そして宇田川で決戦

幕府側は全員討ち死に覚悟で鎌倉を出発。

「いざ鎌倉!」を合言葉に、次々と幕府側の武士があつまりその数20万人。

対する朝廷側は、結構のんびりしてたらしく「なんで幕府軍に、こんなに人があつまるんじゃ?」とびびってしまい、宇田川の合戦は幕府軍の圧勝。

その後も幕府軍はガンガン進軍し、朝廷軍は完全に叩きのめされた。

幕府軍が京へ入ってきた時には、後鳥羽上皇うつ術なし。

家に閉じこもり、討幕計画はオレじゃないよ!部下がやったんだよ!オレは関係ない!と苦し紛れに言ってきたのです。

義時は、それを無視。

この乱に関わった者は、厳しく処分。後鳥羽上皇は讃岐に島流しとなりました。

そして幕府は、朝廷を監視するために六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置。

幕府の力が西国へも伸びることになったのです。

さらに、朝廷方についていた公家や武士の領地を没収して幕府軍で活躍した武士に恩賞として与えた。

また、新補地頭(しんぽじとう)を置き、とりあげた土地に御家人を任命した。

幕府の力は、承久の乱によりパワーアップしたのです。


1224年 親鸞の浄土真宗
この頃、親鸞が浄土真宗を広めていた。

ちなみに、浄土真宗は戦国時代に度々起きる一向一揆の一向宗のモト。

平安末期、世の中が源平合戦に明け暮れてるころ法然が浄土宗を開いていて、それが発展したのが浄土真宗。

南無阿弥陀仏と唱えると救われますという教え。

これを唱えれば悪人でも極楽にいけますよってモノ

親鸞は、法然のいるのちの知恩院(ちおんいん)で浄土宗を開いてた法然のとこに入門。

が、僧のくせに結婚しちゃったので他の僧から嫌われていました。

ちなみに僧は食べちゃいけないといわれていたお肉も大好き!

1206年に法然の弟子が院の女官を出家させちゃったことに怒った朝廷が念仏を禁止。

法然や親鸞も流罪になっちゃった。

で、親鸞は東国へ行き信者が増やしていく。

唱えるだけで極楽へいけるって教えなので、泥棒なんかが「悪いコトしてても念仏となえりゃ極楽に行けるぜ」と、悪いやつが減らなくなりとうとう1234年幕府により行き過ぎた念仏を禁止された。

その後、親鸞は京に戻って弟子達の指導に励みました。

1125年 北条政子 死去
頼朝死後も、遊んでばっかいる息子に代わって政治の表舞台に立ち「尼将軍」と言われました。

日本史上、数少ない女性政治家の中で有名度NO1の政子ですが1225年 69歳で死去。

お墓は鎌倉に寿福寺(じゅふくじ)に実朝と一緒に眠ってます。
1227年 道元の曹洞宗
この頃栄西が臨済宗を開く1191年宋に渡ってた栄西が帰国して開いたもの。

他力本願の浄土宗とは違って、座禅をすることによって自ら悟りを開きなさいというモノ。

これが武士の気風にピッタリだ!ってことで、幕府は、栄西のために寿福寺を建てて保護した。

栄西亡き後教えを継いだのは道元。

臨済宗は世俗化しすぎて、禅の精神から離れてしまった!と禅の精神をもっと強化した曹洞宗を始めた。これも難しい経文に頼らずに座禅中心なので、武士らに人気。

が、延暦寺の僧が経文をナメてる!と妨害。

京を出て越前(福井県)へ行き、布教につとめました。
1232年 御成敗式目制定
承久の乱の後、武士の力が強くなるにつれて領地を巡る争いが起こるように。

幕府はというと北条義時の側室の子、泰時が3代執権となりおじの時房を連署(れんしょ・執権を助ける人)に任命して、御家人の中から11人選んだ評定衆(ひょうじょうしゅう)を作って政治を公平に行うようにがんばっていました。

泰時は守護・地頭の土地争いが絶えないというのを聞いて、1232年 51条からなる武家の法律「御成敗式目」を制定。

基本は、武士の土地や権利を保護すること。

御家人の土地は絶対保障するけど、そのかわり守護・地頭の役目はきっちり守れ!って感じの内容で、不正をできにくくした。

さらに、年貢が納められなくて逃げていった農民の妻や私財を勝手にとりあげるのを禁止。

また、いったん親が子にあげた土地を親が自由に取り戻せたり、女性にも土地の相続権を認めたりした。

ただし、荘園にはまだ立ち入りができなかった。

この法律は、御家人だけのものなので、家来が主人を訴えたり農民が地頭を訴えたりするのはダメでした。

泰時は、側室の子なので執権につくときかなりモメた。一応正室の子もいたからね。

正室の子にお金をいっぱいあげたりしてなんとか平和に。

吾妻鏡によると、泰時はみんなに好かれたイイヒトだったらしい。

1226年 四代将軍頼家 将軍の権威 まるでなし 
ところで、政子らが将軍を後鳥羽上皇の一族から・・・とお伺いをたて断られた時、後鳥羽は「代わりに頼朝の妹のひ孫である2歳の九条頼経をあげるよ」ってことで、頼経は京から鎌倉に連れてこられた。

ちなみに、義時は1224年に死去。

3代執権は泰時だよ。

そしてこの頼経は1226年に8歳で4代将軍に就任。

1230年12歳の時、2代将軍頼家の娘竹の御所と結婚させられました。

まさに北条氏に無理やりやらされた傀儡将軍でした。

傀儡ってのは、あやつり人形みたいな意味だよ。

が、だんだん大きくなるにつれ反北条派が頼経に接近してきました。
 
1242年に泰時が死去

経時が4代執権に就任しました。

で、反北条派勢力に丸め込まれてる将軍頼経と執権経時は仲が悪くなっていったのです。

頼経が27歳になった時、経時から「大きくなって自分の意見を言うようになったので扱いづらい!」と、将軍を辞めさせられ、息子頼嗣を6歳で将軍にさせられちゃいました。

5代将軍 頼嗣
無理やり辞めさせられた頼経。

跡を継いだのが5代将軍頼嗣

頼経と竹の御所には子供がいなかった。他の女性との子です。

が、1251年に頼嗣は謀反事件に絡んでるという理由で、追放されてっしまいました。
1256年 6代将軍宗尊親王
お次は後嵯峨天皇の息子 宗尊親王(むねたかしんのう)が、1256年 6代将軍になる。

九条頼経と九条頼嗣の二代を、摂家将軍と呼びます。

宗尊親王が将軍になったころには北条氏が政治基盤を固めまくってたので、将軍といえども権限はまったくなかった。
北条氏執権政治
4代執権経時は、5代将軍頼嗣に妹の檜皮姫(当時16歳)嫁がせ、頼朝以後はじめて北条氏は将軍家の親戚になった。

が、23歳で弟の時頼に執権をゆずり、1ヵ月後死んだ。

これは時頼が絡んでんじゃないかと言われている。

時頼は、4代将軍をやめさせられた頼経が、いつまでも鎌倉にとどまり反北条派と仲良くしてるのが気に入らず、謀反を理由に京へ強制送還。

その際、反北条派勢力も流罪したりと、お灸をすえた。

さらに、1247年には有力御家人の三浦氏に謀反の動きありとの口実で三浦一族を滅ぼしてしまい、ついでに上総の豪族千葉氏も滅ぼしちゃった。

これで北条氏をおびやかす御家人の掃除は終わった。

1256年に、宗尊親王を将軍にするが、北条氏が実権を握ったまま。

が、時頼が病気がちになり、息子の時宗はまだちびっこだったので、一族の北条名時に6代執権を譲ったけど、実権は後ろで時頼が握り続けた。

時頼により、北条専制政治が切り開かれました。ちなみに時頼は37歳のとき座禅中に死んだらしい。

名時は1564年に病気になり北条政村に執権を譲った。

政村が7代執権になるが、時頼の息子の時宗が18歳になるまでの条件付き。

将軍はというと、宗尊親王がだんだん幕府っつーもんがわかってきてうざくなってきたってことで、これまた謀反の疑いありとして1566年に京へ追放。

宗尊は、鎌倉にいた頃の寂しさを京に帰って和歌で詠んだらしい。

次の将軍は宗尊の3歳の息子 1566年 7代将軍 惟康親王(これやすしんのう)これまた名ばかりの将軍でした。

そして1268年に大きくなった時頼の息子時宗が8代執権になりました。

朝廷は兄弟ゲンカ!後深草VS亀山 
幕府が北条執権政治が続いてる中、朝廷では88代後嵯峨上皇。

4歳の息子後深草(89代)に天皇を譲り、弟恒仁親王を皇太子にして院政をはじめていた。

が、後嵯峨は弟の恒仁親王をめちゃくちゃ可愛がっていて御深草より、恒仁親王に実権を譲りたかった。

後嵯峨は後深草が病気がちになったので、弟の恒仁親王に譲位させ1259年に90代亀山天皇誕生。御深草は上皇になった。

さらに後深草に皇子がいるっつーのに、可愛い亀山のために後嵯峨法皇は、亀山天皇の息子を皇太子にしちゃった。

もちろんおもしろくないのは兄の後深草。

幕府に相談しちゃったのです。

幕府が調べた結果、後嵯峨は亀山を後継者にするつもりだってのがわかり実権は亀山が握ることに。

後嵯峨が死んだ後、兄・後深草を飛び越えて「治天の君」となり息子を天皇にして1274年 91代後宇多天皇にした。

が、怒り収まらない後深草は、幕府に色々と働きかけなんとか後宇多天皇の皇太子に自分の息子の熙仁親王を皇太子にさせた。

でもこれも問題の先延ばしにすぎなかった。

亀山は後深草がうるさいから、とりあえずヤツの息子を皇太子にしてやったけど、その後は、自分の系統にするつもりでいたし、後深草は、自分の息子を皇太子にして「うるさい父・後嵯峨もいないし、これからはオレの思い通りにやるぜ!」とやる気マンマンだし。

以後、後深草&亀山の後継ぎ争いは続き、取り巻きの貴族も分裂していくのです。

後深草系統が、持明院統(じみょういんとう)といい、のちの北朝
亀山系統が、大覚寺統(だいかくじとう)といい、のちの南朝

この2つは泥沼化のバトルを繰り広げるが、軍事力がなかったため何かと幕府を自分トコの味方にしようと働きかけるが、幕府はあくまでも中立な立場をとっていた。

1274年 文永の役(ぶんえいのえき) フビライ・ハン
この頃、チンギス・ハンがモンゴル帝国を造り周辺の国をやっつけヨーロッパからアジアにまたがる大帝国になっていた。

その孫、フビライ・ハンはモンゴル帝国の5代皇帝で1168年にお次は日本だ!と、高麗(朝鮮)の使者に大宰府へ手紙をもって行かせた。

その手紙には「日本はモンゴルの属国(家来みたいなもん)になれ」と書いてあり当時の権力者である8代執権北条時宗は「なんで家来になんなきゃならんのじゃー!」とカンカンに怒って九州の防備を固めさせた。

1271年に、国名を「元」と変えたフビライ・ハンは、またも属国になれと言って来た。時宗はまたも無視。

そしてとうとう1274年蒙古軍は日本へ攻撃開始

対馬や壱岐はあっさり占領され、略奪の限りを尽くされまくった。

そして翌日蒙古軍は、九州の政治の中心である大宰府へ攻撃しようと博多湾へ迫りました。

そこで待機する日本軍と戦いが始まるのであります。

この頃、日本の戦い方マニュアルとして,まず「やぁやぁわれこそは○○なりー」と名乗ってから一騎打ちってのがルールだった。

で、それが当たり前と思ってた日本軍は、「やぁやぁわれこそはー」と言って進み出たところ、たちまち蒙古の兵隊に取り囲まれ討ち取られてしまった。

「そんなあほな!?」とびっくりした日本軍。

長い間の戦いの習慣は、短時間では直せずにいました。

日本軍はなんてヤツラだ!と思っただろうけど、そんなの知るかの蒙古軍。

また、日本では戦った後は名のある武将の首を取って首実検をしてた。

首はその後の恩賞に必要だったからね。

だけど、蒙古軍は首などもちろんとらずに死体をそのまんまにして進軍してきた。

さらにみんなをビビらせたのはドラの音。馬なんかはあまりの大きな音にびっくりして馬を使ってる武士はめちゃくちゃ。

そしてさらに「てつはう」という鉄砲じゃないんだけど、火薬をつかった武器を使ってたので日本軍はこの新兵器にびっくり。

その日1日は日本軍の大苦戦に終わってしまった。

が、夜になると蒙古軍は夜襲を恐れたのと、不慣れな土地だってことでそのまま陸上で野営せずに一度船に戻ってしまう。

その時、海の上で暴雨風がおき、軍船の多くが沈没してしまうといういわゆる「神風」が吹きました。

これが文永の役です。
1281年 弘安の役(こうあんのえき) またも蒙古軍やってきた
「神風のおかげじゃー!」と日本軍大喜び。

が、またも1281年に大軍をひきつれてやってきた。

文永の役と同じように、博多湾にやってきたて上陸しようとしたんだけど今回は日本軍もちゃんと防壁を作っていた。

また日本軍は果敢に戦いに挑み、蒙古軍はここを突破できずいったいん壱岐へ退き、別の軍が来てから全面攻撃をかけようとしました。

で、別軍到着。さぁ、作戦会議!ってところにまたも「神風」が吹く。

14万人の大軍が残りわずか3万人になってしまい、日本は神風のおかげで蒙古軍の来襲を防ぐことができました。

8代執権 北条時宗大忙し
蒙古軍が去った後も、時宗は超ハードスケジュールの日々。

またいつ蒙古軍が攻めてくるかわかんないので、西日本の整備を整えなきゃなんないし、戦いに参加して頑張った武士らへの恩賞もあげなきゃなんないし。

この戦いには、御家人だけじゃなく寺社や貴族に使える人たちも動員したのでこっちにも恩賞をあげなきゃなんない。

問題山積みじゃー!と超多忙の時宗

とうとう1284年に 34歳でストレスで過労死してしまいました。

幕府は御家人らに恩賞をあげることができませんでした。

今までは国内で戦っていたので、負けたほうの土地を奪い恩賞として与えることができたんだけど、今回の敵は外国から。

そのため勝っても与える土地がなく、御家人らはただ働き。

そのため御家人らの不満が募り、幕府の基盤がぐらつきはじめるのです。