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明治35年 1902年 

日本・・・黒字  アジア・・・青字  アメリカ・ヨーロッパ・・・赤字



明治35年 1902年 年表
1月23日 八甲田山で青森歩兵が遭難

日露戦争に備え、耐寒訓練をしていた第八師団第五連隊第二大隊の将校下士の合計215人が八甲田山で遭難するという事件が起きました

青森から三本木平野へ向かい、ものすごい寒く雪深い八甲田山で一泊の予定でしたが、大吹雪にあってしまったのです

捜索隊が出ましたが、途中で3人が倒れているのを発見

話によると、食料はつき、燃料も使い果たしたところで、皆バラバラになったとのこと

全部で209名が死亡するという死の雪中行軍となったのでした


1月30日 日英同盟!「月とスッポンの結婚」

北清事変以来、日本はロシアに対して警戒しまくっていました

また、それはイギリスも同じでした

どんどん進出してくるロシアに対し、イギリスは1853年のクリミア戦争でとりあえず地中海におけるロシア進出を防ぎ、インドにおける進出はアフガン戦争で防ぎましたが、めっちゃ脅威であることは確か

ということで、アジアにおいては「栄光ある孤立」を捨て、日本とタッグを組むことに

こうして日本とイギリスは、ロンドンで日英同盟を調印したのです

内容はイギリスの清での利益、そして日本の清と韓国での利益が他の国から侵略された場合、両国がその利益を守る為野処置を取るということを決めた完全な軍事同盟でした

が、ヨーロッパの大国イギリスが、アジアの小国日本と同盟を結んだということが、日本にめっちゃ大きな自身と安心を与えたのであります

翌日の新聞は、同盟成立のヨロコビでいっぱい

ですが、イギリスの国王エドワード七世は「日本と条約を結んでいるのは事実だけど、それは英国が日本と密接な関係にあるということではない」と言ってました

日本だけがめっちゃ喜んでいたんですねぇ(^^;)

ちなみにこの同盟は「月とスッポンの結婚」と揶揄されました

なぜイギリスと同盟を組むことが出来たのか!?

当時のイギリスは、日本にとって雲の上の存在

なんといっても、当時世界で一番強い国でしたからね

そんなイギリスと日本がどーやって同盟を組んだのかとゆーと・・・

このときの日本が考えてた道は

@ロシアと戦争する

A満韓交換論でいく

というもの

ここでイギリスは考えた

「日本はロシアと戦争するか?それともロシアと妥協するか・・・?その場合、どちらがイギリスにとって有利かなぁ?日本をどっちに仕向ければいいかなぁ??」

イギリスにとって最悪なのはロシアと日本がうまい具合に仲良くなっちゃうこと

「もし日本とロシアが同盟組んじゃって、ロシアがフランスを通じて日本を助けるようになっちゃったら、最悪の事態になる。中国の利権はロシア・日本、そして大嫌いなフランスのものになっちゃう」

そんな中、いきなりドイツが「ドイツと日本、そしてイギリスの3つで同盟結びませんかぁ?」と言ってきた

しかもかなり熱心だったので、日本とイギリスは交渉に応じるように

で、話が煮詰まったトコでいきなり「やっぱドイツはやめときます。日本とイギリスだけでどーぞ」と言い出した

え??どーゆーこと??な状態なんですが、この頃のドイツはロシアの軍事力を極東に向けさせて、ロシアの圧迫から身軽になりたかった

ドイツのホンネはコレ

「日英同盟が成立すれば、日本は安心して満州や韓国に進出するだろーな。ドイツにしてみれば、ロシアが勝とうが日本が勝とうがどっちでもかまわない。
ロシアが弱体化すれば万々歳なんだからさ。
そのためには日本にもーちょっと頑張ってもらわないといけないんだけど、イギリスはプライド高い国だから黄色いサルの国と同盟なんて結びたがらないだろうな。
でもドイツが一緒に黄色いサルと手を結ぼうよって誘えば、イギリスのプライドがあまり傷つかないだろう」

というわけで、色んな国の策略がありつつも、日本とイギリスが同盟を組むこととなったのです
伊藤博文のホンネ

伊藤博文(あ、井上馨・松方正義もこの考え)はどっちかとゆーと、日英同盟を締結するより日露同盟を結びたかった

むしろロシアと同盟を組んで、欧米のアジア進出を防ぎたかったのであります

日本の実力から考えると、満州はロシアにあげるから、朝鮮は日本の勢力圏にするということで、ロシアとの対立を避けようという考えだったのです

また、イギリスのような大きな国が日本と同盟を組んでくれるなんてありえないとも考えてました

ですが伊藤博文らはロシアに対する不信感がいまいち捨て切れなかった

ロシアは満州と朝鮮半島に対してめっちゃ野心があったからね

この「ロシアに対する不信感」をバリバリ持ってたのは山県有朋・小村寿太郎・加藤高明・桂太郎で、「ロシアは何度も不誠実な行動を起こしてる!!だったら日本と利害が一致する英国と同盟を結びたい」という考え

ということで、結果、イギリスと手を組むことを決めたのでした

ちなみに伊藤博文は日英同盟の交渉がちゃくちゃくと進んでてもイマイチ信じられなかった
「ほんとにあのイギリスが日本と同盟組んでくれるの??まじ??」状態で、こっそりパリに行って確かめにいくほどでした

時代の最先端・戦艦製造

この頃、戦艦や軍艦を作るということは時代の最先端でした

日本は純国産の最先端の戦艦を作ろうとしてました

それまで日本の主な軍艦はほどんどがイギリス製だったのです

ちなみに日露戦争最中に、初めて日本人だけで設計して作った「薩摩」ができあがります

で、日本の大規模な工場というのはほとんどが軍艦建造を含めた兵器工場でした

一番大きかったのは13000人が働いていた広島の呉海軍工廠

あ、軍が経営する工場のことを、この頃は工廠(こうしょう)と呼んでました

呉海軍工廠は、のちの「戦艦大和」を作るトコですよ〜

2月 エッ!人間の首を薬に!?

大阪で人間の首を真っ黒こげに焼いて、薬にしているという噂がでました

が、結局証拠がなくウヤムヤに

3月27日 東京で少年の臀肉切取り殺害事件

4月8日 満州還付協約

義和団の乱が起きてからもロシアはガンガン満州に兵を送り込み、満州を占領し続けました

コレに対して日本が率先して清国に働きかけ、ロシア軍の満州撤退を約束させるよう仕向けており、とうとうこの日、ロシアと清国の間で満州還付条約が調印されたのです

この条約で、ロシア軍の撤退を3階にわけ、第一回目は今年の10月8日となりました

で、第2回目は来年の4月8日

1回目は約束どおり実行されましたが、2回目は実行されなかったのです


4月20日 日本初の女子野球大会開催

5月8日 台湾人を日本国籍に編入
5月18日 イギリスに注文した戦艦「三笠」が横須賀に到着する

6月 卓球が日本で始めて紹介される

6月 絵葉書第一号

明治10年に、日本が万国郵便連合条約に加入して25年たちました

これを記念して、帝国ホテルに臨時郵便局を特設し、カラーの記念絵葉書を発行しました

これが官製絵葉書第一号となります
8月7日 鳥島が大爆発!

鳥島というのは、現在は伊豆諸島にある無人島です

あのジョン万次郎が漂流したのもこの島

この頃は「アホウドリ」を捕獲するために125人が移住していました

そこで大噴火が起き、125人全員が死亡してしまったのでした
9月2日 東京専門学校が早稲田大学と改称

東京専門学校が早稲田大学となりました

この頃、「大学」というのは東京帝大と京都帝大の2つしかありませんでした

早稲田大学は3つめの「大学」になりますが、帝大の権威に比べるとまだ全然下でした

ちなみに大学が帝大と同じレベルになるのは大正7年の大学令が出てから

それまでは「私立大学」は帝大とは思いっきり区別されてました

9月19 正岡子規死去

10月 女子学生の堕落が問題に

10月 自転車に下駄をはいて乗ることが禁止される

危ないから??なのか、ちょっと疑問(笑)

12月13日 哲学館事件

哲学館(今の東洋大学)で事件が起きました

この頃、国立大学を卒業した人は無条件・無試験で教員になることができてました

私立ではその権利がなかったんだけど、哲学館の井上円了が「私立学校を出た人も先生になれるようにしてあげてほしい」と、ずっと文部省にお願いしてました

が、文部省の答えはNO

そのため、ほかの学校(今の慶応や早稲田など)と組んで、やっと中学校の教員免許だけは取れるようになったのです

そしてこの年、私立学校で初めて無試験の教員が誕生する・・・・ハズだったんですが、哲学館の卒業試験をチェックした人からイチャモンが!

というのも、先生になるはずだった生徒に対して
「動機が善であれば、目上の人を殺すことは許されるか?」という課題を出し、生徒が「許される」と言ったのです

コレに対し「目上の人を殺していいということは、天皇を殺してもいいということだ。この思想は危ない。そのような者が教員になってはいけない」と、哲学館の学生の教員免許を取り消したのです

これは大問題となり、「こんな課題を出すほうもおかしいんじゃないか!」とか、「私学の自由を侵すものではないか!?」と、大騒ぎに

結局、この生徒は教員免許をとることができず、そればかりか哲学館はのちに「東洋大学」として申請するんだけど、この事件が尾を引いていて、他の大学より遅く認可されることになってしまうのでした


12月17日 教科書疑獄事件

明治20年に教科書用図書検定規則とゆーのが出きてから、教科書はずーっと民間で作られ、文部省がOKを出したら府県の審査委員会がどれを使うか決めるというやり方がとられてました

そのため教科書会社の売り込みがめっちゃ激しくなっていて、とうとう収賄問題が発覚したのです

なぜ発覚したかとゆーと、教科書会社の社長が列車内に自分の手帳を置き忘れてしまい、その手帳に贈賄に関わるアレコレが書かれていたから

すぐさま一斉摘発となり、県知事・文部省の担当者・県会議員・代議士・学校の校長などなど、40道府県で200人以上が検挙され、莫大な金額が動いていたことが判明

これにより、教科書疑獄事件に関係のある会社が発行する教科書は禁止となり、2年後に国定教科書が使われるようになります

12月 ペストが発生!ねずみをお買い上げ!

10月に横浜でペスト患者が発生しました

これを聞いた東京市では、すぐさま住民達に裸足で外出することを禁止させました

また、ペスト菌の媒介となるねずみの買い上げを一匹5銭で始めました

が、とうとう12月にはペストが東京に飛び火し、ねずみ獲り専門の業者も出るほど

ちなみに、ねずみ買い上げは1905年まで続くんですが買い上げられたねずみの数は385万匹もいたそうです

12月 丸善プロデュース「大英百科事典」が評判に

丸善が英国タイム誌とタイアップして、全25巻の「大英百科事典」を発売しました

予約月賦販売を募集し、最初に5円払えば全25巻を届け、以後毎月10円づつ支払うという方式で販売

この方法が大成功!

当初の予定だった500部はすぐさま売り切れました

この頃の就学率は!?

1900年に子供たちは義務教育となり、小学校(この頃は尋常小学校)を4年生に統一したんだけど、実際に通学できてた子は全体の68.4%でした

なんで通学させなかったのか??というと、もちろん家のお手伝いをさせるためであります

ほかの理由としては

・学校に行くヒマがあったら子守をしろ・農作業を手伝え

・女に学問はいらない

・学費はタダだけど、教科書代が払えない

・お弁当を持っていくことが出来ない

などなど

まだまだ庶民は貧しい時代だったのです

この頃の日本の産業

この頃の日本には工場が7749箇所ありました

男性の職工は488277人で、女工は305842人です

一番盛んだったのを順番に書いていくと

製糸業・紡績業・発火物・繊物業・船舶車両・タバコ業といった順番でした

悲惨な女工

女工の労働環境については、大正14年に発売される「女工哀史」によって初めて社会問題になりますが、当時は全然問題になっておらず、悲惨な状態でした

男性管理者による肉体的・精神的虐待はもちろんのこと、ものすごい低賃金と長時間労働で働かされていたのです

この頃の女工の様子を紹介すると

・労働時間は最低13時間で、長い時は17時間

・機械を休ませないために、昼夜交代制

・賃金は男性の二分の一

・外出はダメ

・外泊ももちろんダメ

・会社と女工の直接契約ではなく、女工募集人が親と契約を交わす


苛酷な労働条件だったため、肺結核になったりと病気になる人が蔓延していました

ひさし髪が大流行

「ひさし髪」というのは、女性の髪形で、家のひさしのように前髪をゆーーーったりと前に突き出すように結った髪型であります

下田歌子や川上貞奴など、外国帰りの進歩的な女性が最初に始めた髪形で、「新しい女」に憧れる女学生などはこぞって真似しました

この年の出来事

・若い女性の会話の語尾に「○○だワ」「○○なのヨ」「いやだワ」といった「てよ・だわ・のよ」が使われるように

・腕時計が人気になる

・泳ぐ金魚のオモチャが大人気に。外国へも輸出されるくらいに

・「毛皮」「襟巻き」「リネン帽」「パナマ帽」「ピンポン」が流行

・インバネスが大流行!インバネスとゆーのは、ケープをつけた袖のないコートで、スコットランド北部の港町員インバーネスが由来