明治37年 1904年 

    日本・・・黒字  アジア・・・青字  アメリカ・ヨーロッパ・・・赤字



明治37年 1904年 年表

1月 朝日新聞「天声人語」の掲載スタート

日本とロシアとの関係〜日露戦争までの道のり〜

2月10日 日本はロシアに宣戦布告し「日露戦争」が始まります

その前に、日本×ロシアの関係をガガっとまとめちゃいます!!

そもそも日本はロシアのことをめっちゃ恐がってました

江戸中期頃からロシアは北海道にやってきていて、幕府に「通商しろー!」と言ってました

でも幕府は拒絶

するとロシア人のレザノフは樺太や択捉島の日本人が住んでるとこを攻撃しまくり

幕府は松前藩に「ロシアからの攻撃に対して海防を強化するように!!」と言ってたんですね〜

でもロシアはガンガン攻めてきて、とうとう対馬を占領されちゃいました

明治になるとロシアは勝手に樺太にやってきて、樺太に住んでいた日本人は弾圧されまくり

ですがその頃の日本はロシアに勝てる武力を持ってなかったので、樺太・千島交換条約を結び樺太を放棄したのであります

その後の明治24年に、日本へやってきたロシア皇太子のニコライが警備の巡査に襲撃されるという「大津事件」がおきました

ニコライのケガはたいしたことありませんでしたが、日本の政府はびびりまくり!!

国民も「ロシア皇太子にケガさせて、ロシアを怒らせちゃったら日本は大変なことになる!ロシアの植民地になっちゃうかもしれない!!なんとしてもロシアを怒らせないようにしなくちゃ!」

と、ロシアのご機嫌をとりまくったのです

それほど日本はロシアを恐がってたのでした

でもって明治27年に日清戦争が始まります

これは朝鮮半島を巡る日本VS清国のバトルなんですが、日本は日清戦争でロシアの脅威を取り除こうとしてました

日本はずっと「朝鮮半島を勢力下におけば、ロシアに対する防衛線ができる」と考えてたのであります

でも清国は「朝鮮は俺らの属国だからな!」と言ってきたので、日本は朝鮮をゲットするために、清国とバトルになりました

日清戦争は日本が勝利し、清国は朝鮮を手放すとともに日本に賠償金を渡し、台湾と遼東半島を譲渡しました

そこで出てきたのがロシア

この頃のロシアは「南下政策」をとっており、植民地をゲットするため満州や朝鮮を狙ってました

「日本が遼東半島をゲットするのは、東洋の平和のためによくない!!」と言い、ドイツとフランスと組んで遼東半島を清国に返すよう日本に言ってきたのです

日本はえぇっ!?って感じだったんですが、断ればロシアは日本に戦いを挑んでくるため、泣く泣く遼島半島を清国に返還したのであります

するとロシアは、日本から返還された遼島半島にある旅順と大連を清国から借りちゃって、満州に勢力を拡大させ、さらにさらに朝鮮半島にも手を出してきました

日本からしてみれば「なんなんだよ!せっかく日清戦争で戦って勝ったのに、結局何もしなかったロシアが全部持ってっちゃったよ!」状態

ということで、日本のとるべき道は、ロシアに戦いを挑むか?それとも屈するべきか?ということに

この頃のお偉いさんだった伊藤博文は「いや。ロシアには勝てないよ。ロシアの満州支配を認めよう。そのかわり朝鮮半島の指導権は日本ってことでロシアに認めてもらおう」といった妥協案を考えてました

が!明治35年に日本とイギリスの間で日英同盟協約が締結されたことによって流れが一変!

今までイギリスは「光栄ある孤立」といって、どの国とも同盟を結びませんでした

が、イギリスも中国でかなり儲けてたので、これ以上ロシアをのさばらせるのは嫌だった

ということで、ロシアをけん制するために日本と同盟を結ぶことを決めたのです

日本もこの同盟は万々歳

ロシアと戦争になった場合、イギリスがついててくれれば他の国もビビって参戦してこないだろうし、金銭援助も期待できる

ということで、この頃のお偉いさんである桂太郎は日英同盟をバックに、ロシアに「朝鮮半島から撤退しろーー!」と要求

が、決裂は交渉し、とうとう日露戦争が始まるのであります

1月12日 御前会議

七博士の「開戦しろ」が新聞に掲載されてからというもの、日本の世論は戦争熱ムード

政府はなんとかロシアに対して「中立地帯をお互い作りましょう」といった案を出してたんだけど、ロシアはことごとくシカト

でもってこの日、御前会議が開かれ、大山巌参謀総長は「もはや開戦するべきでる」と言いました

が、明治天皇が強く和平を望んだため再度ロシアと交渉することに

ですがロシア政府は交渉にはまったく応じず、そればかりか軍艦や部隊を満州の各地に移動させているという情報が入ってきたのです

日本を蔑視&軽視するロシアの人々

日露戦争が始まりますが、その前にいろんな人の言葉を紹介しちゃいます


ロシア皇帝のニコライ


「あの小猿どもがあえて戦争をしかけるなど、一瞬たりとも想像ができない。帽子の一振りで片付けてしまえる」
また、グロンプチェスキ少将が、ニコライに日本軍の戦争準備についてアレコレと語ろうとしたところ
「お前は長年の極東勤務で神経がおかしくなっているのではないか?6ヶ月の休暇をとりたまえ」と言いました


4年間日本にいた陸軍武官のゲ・バノフスキー中佐


「日本軍はいまだに内部組織が混乱しまくっている。日本軍が精神的基盤を自分のものにして、その上にヨーロッパ式軍隊のようにしても、ヨーロッパの一番弱い国と勝負するにはおそらく100年はかかるであろう」

去年5月に来日したクロパトキン大将

「思っていたより強いとは感じたが、まだまだ。日本兵3人に対して、ロシア兵は1人で間に合う。もし戦争が起きることになったら、それは戦争というよりはロシアの軍事的散歩にすぎない。最後は日本上陸をもって終わるであろう」

巡洋艦アスコリッドの艦長・グラムマチコフ大佐


「日本海軍は外国から艦艇を買ったりと、とりあえず物質的装備は整えてるが、軍艦の操縦はきわめて幼稚である。海軍軍人としての精神は到底われわれには及ばない。」

米アジア艦隊司令官エバンス少将


「戦うに及ばざるべし」

新聞「ノヴオエ・ヴレミヤ」紙


「われわれに向かってくるなど、日本にとっては自殺であろう。彼らの希望の全ての破壊となるであろう」


ヴェ・カ・ヴィトゲフ少将


「日本が我々を攻撃することはありえない」


とまぁ、ロシア人は日本を人種的優越感から、思いっきり蔑視&軽視していたのであります

「小国日本が大国ロシアに戦争を仕掛けてくるなどありえない」と、頭っから決め付けていて、日本に対して何をやってもお構いなしだったんですね〜

2月6日 日露交渉決裂

ロシア公使のローゼン男爵との話し合いは決裂し、ローゼン公使は2月11日に帰国することとなりました

日本政府は東京とペテルブルクにおいて国交断絶を通知したのです

そして日本軍はすぐさま作戦を開始したのでした

2月6日  連合艦隊 旅順を目指す

佐世保に集結していた連合艦隊は、交渉決裂を受けすぐさま旅順目指して出動しました

東郷平八郎は「天佑を確信し、連合艦隊の大成功を遂げよ」と全員に命じました

2月7日 日本陸軍2000人 韓国の仁川へ

この日、第十二師団第二十三旅団2000人を乗せた輸送船が、第四戦隊(小型巡洋艦四隻)に守られながら韓国の仁川へ向かいました

韓国の仁川港にはロシアの軍艦「ワリヤーグ」と「コレーエツ」の二隻があり、そのほかイギリス・アメリカ・フランスの軍艦が停泊していました

また、日本海軍の駆逐艦である「千代田」も停泊してました

「千代田」は、日本がロシアと国交断絶した直後から作戦が始まることを知ってたので、ロシア軍艦に気付かれないようにしてました

2月8日 日露戦争勃発 「予定の如く進撃せよ。一同の成功を祈る」

日本の第四戦隊が仁川の沖に現れると、「千代田」はこっそりと港を出て合流

続いて旅順に行く予定だったロシアの「コレーエツ」が出港すると、日本艦隊が日露戦争最初の一発目を砲撃したのです

驚いた「コレーエツ」も砲撃しつつ港に引き返しました

そして日本軍2000人を乗せた輸送船は港に入り上陸

日本軍は上陸を終えると、仁川の日本領事がロシア領事を通じ、「ワイヤーグ」の艦長に「明日の正午までに出港しろ。出港しない場合は砲撃する」と通告しました



日露戦争までの経緯がわかるよ↑
2月9日 仁川沖の海戦

通告を受けたワリヤーグ艦長のルードネフ大佐は「我々は日本艦隊と戦闘を試みる覚悟で出港し、最後の血の一滴まで戦う」と言いました

そして軍楽隊に国家を奏でさせ「コレーエツ」を従えて日本の艦隊へ向かっていったのです

ちなみにみワリヤーグとコレーレツは、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアの艦艇の側を通過するとき、それぞれの国の国家を演奏しました

イギリスの将兵たちは、彼らを気の毒に思い、「戦いに挑む魂を尊敬した」と残しています

さて、港の外には日本艦隊が待ち構えており、12時20分に日本の「浅間」が火を噴きました

ワリヤーグが応戦しましたが、5発の命中弾を受けとうとう沈没

そしてコレーレツは「千代田」に追跡され、自ら火薬庫を爆発させ自沈しました

ワリヤーグとコレーレツの乗員はイギリスの巡洋艦タルボットやフランスの巡洋艦バスカルなどに救助され、日本政府は「交戦中に再び戦争に参加しないことを誓えば本国へ帰還してもいい」と認めました

ちなみにワリヤーグ艦長や乗組員は、ロシアに帰ると「降伏を拒否してよく戦った!!」と、大歓迎されます

2月9日 旅順港のロシア艦隊を奇襲!!

旅順はロシアの「極東のシンボル」であり、政治的・軍事的にもものすごく重要な要塞でした

そのため旅順港をとりまく要塞には、強力な要塞砲が装備されてあり、無理に入ろうとすると砲撃されてしまいます

そのため、日本軍は小さい水雷艇十隻を暗いうちに侵入させ、魚雷を発射し、ロシアの戦艦二隻と巡洋艦二隻にぶち込んで引き上げました

ロシア艦隊はマリア祭の最中

旅順にいたロシア艦隊にとって、2月9日は「マリア祭」でした

マリアという名前の女性が祝福を受けるというお祭りで、艦隊司令長官のスタルク中将の奥さんがマリアだったので、盛大なパーティを開催してました

そこへ日本軍が魚雷を撃ち込んだんですが、大きな音がしたにも関わらずパーティはそのまま続けられたのです


なんでそこまでノンキなのか??というと、日本と国交断絶したという情報は聞いてましたが、まさか日本が戦争をしかけてくるとは思ってなかったからです

今まで言いなりだった日本が、大国ロシアに挑んでくるとは夢にも思ってなかったんですね〜

旅順の奇襲大成功

さてさて、魚雷がぶち込まれたことを知ったロシア側はめっちゃビックリ!!

奇襲されるとは思ってなかったので、翌朝すぐに旅順港を出て沖合いにいる日本艦隊へ砲撃を行いました

が、旅順要塞砲の射程範囲以上進んでくることはなく、日本の艦隊も要塞砲の射程内に入ることができないため、デモンストレーションのような砲撃戦が繰り広げられました

2月10日 ロシアに宣戦布告

仁川と旅順で奇襲作戦を行った翌日、日本は正式にロシアに宣戦布告をしました

宣戦布告前に奇襲作戦をしたことはあまり非難されませんでした



とてもよく出来てます!コレ見てから↓下を読み始めると気持ちが盛り上がってきますヨ(笑)
全世界が大注目!日露戦争

日本が奇襲攻撃を行い、宣戦布告したことで日露戦争が始まりました

この戦争は全世界の大注目となります

なぜか??というと、めっちゃ小さい国の日本が、大国ロシアに対して戦争をしかけたからであります

みーんな「日本が勝てるわけない。あの黄色どもは、どーやる気なのか?」と、興味津々だったのです

ちなみに世界の日露戦争のイメージはというと

未開の専制政治の独裁国ロシアVS文明化してきた立憲君主制の民主主義国家日本

といったイメージと

白色人種のキリスト教国ロシアVS黄色人種の仏教国日本

といった宗教戦と人種差別戦といったイメージがありました

その他の国のキモチ


フランス・・・「フランスはロシアと協商関係にあるし、金融面でも密接な関係にあるんだよ。それにイギリスが日本を応援してるんだって?悪いけど、フランスとイギリスは今、アフリカの植民地争奪戦が激しいんだよね。だからロシアと仲良くしておかないといけないのさ」


ドイツ・・・「我輩はヴィルヘルムニ世である。はっきり言おう。黄色人種が白人人種に逆らってはいけないのだ!!そのようなことあってはいけないのだ!!それにロシアのニコライ二世とワシはイトコなのだ。だからワシはロシアを応援する。それにな、ロシアが極東に行ってくれると、こちら側を攻めてこないので非常に助かるのだよ」


アメリカの黒人は大喜び!

実はアメリカの黒人が、日本をめっちゃ支持してました

日本がアジアにおける白人優位をくつがえし、有色人種を解放してくれるのでは!!と、期待したのです

「日露戦争が有色人種を奮い立たせ、白人がやりたい放題のアフリカ大陸も日本が解放してくれるかもしれない」

「38年間で近代化して、白色人種を打ち破った日本人は、有色人種のために立ち上がってくれるであろう」

アメリカの黒人たちは、日露戦争を人種差別戦争としてみており、日本人を黒人の代理人とみていました

そして後に「アフリカ解放の父」と呼ばれるウィリアム・E・B・デュボイスは「有色人種が先天的に劣っているという誤解を日本が打破してくれた。日本が有色人種を白色人種の奴隷から救ってくれる。日本を指導者として有色人種は日本に従い、我々の夢の実現をしなければいけない」と言いました



各国の新聞報道

さてさて、日露戦争が始まったことは全世界の注目でしたが、ここで各国の新聞を紹介します

フランス・ドイツはめっちゃロシア寄りで、イギリス・アメリカは日本寄りですよ〜


フランスのル・タン紙・・・「宣戦布告前の奇襲は国際法規則に違反する蛮行である」

フランスのジュルナル・デ・デバ紙・・・「日本の行動は国際法に違反しており、近代の交戦の慣習を全く無視している」

フランスのパト紙・・・「日本は国際的な反逆罪を犯した」


アメリカのニューヨークタイムズ・・・「この初戦の勝利の精神的効果ははるかに大きいものがある。この勝利は日本を元気づけ、ロシアを意気消沈させている。ロシアは戦争が起きることを外交関係の断絶によって充分にわかっていた。ロシア政府が日本を非難する根拠はない。それにロシア側にのめりこんだフランスの国際法学者が宣戦布告をしないでいきなり戦争を始めた日本を非難しているが、日本に裏切りの汚名を着せるためのこじつけである」

アメリカのニューヨーク・サン紙・・・「宣戦布告なしの開戦は多くの前例がある。この事態の開戦は国際法上からも正当である」

アメリカのニューヨーク・ワールド紙・・・「東洋のヤンキーの海軍の最初の攻撃は大胆で巧み、そして迅速であり、多数のアメリカ国民は賞賛以外に言葉は無い。日本はアメリカが最初に文明の入口への扉を開いてからというもの、日本国民は西洋の尊敬を集めずにはおかないほど、驚嘆すべき進歩と自己改善の能力を示してきた」


イギリスのタイムズ紙・・・「日本が敵軍要塞の砲台直下で攻撃を仕掛けた大胆さに世界は衝撃を受けずにはいられないだろう!宣戦布告なく攻撃をしたことについては、近代史では比較的稀であるがロシアはいかなる戦争でも宣戦布告をしたことがない」

「同盟国日本への英国国民の好意には何の疑いも無い」


イギリスのディリー・テクレグラフ紙・・・「英国の言論は全ての感情と確信をこめて日本の側にある」

「日本は突然攻撃を仕掛け、効果的にのろまな敵の楽園を一撃で撃ち壊した。日本は運命をかけた戦いであり、ヒョウのような速さで事態の急所をついた。また戦争の責任は外交関係の断絶を招いたロシアにある」


で、これから各国の新聞論争合戦が始まることとなります

宣戦布告って必要なの??

当時、宣戦布告は特に必要ではありませんでした

外交関係の断絶をもって宣戦布告するというのでもOKでした

正式に宣戦布告を必要とするという国際法ができたのは、日露戦争から3年後の1907年の国際会議で決まってからであります

今回日本は、2月6日に「最良と思う独立の行動をとることの権利を保留する」といった、武力行為を含む行動の権利を宣言してたので、一応は当時の国際法上としては必要な処置は行ってたのでした

日本とロシア 兵力の差は?

さてさて、日本とロシアの軍事力ですが、正直ロシアのほうが断然にすごかった

陸軍の兵力は日本が109万人 ロシアは207万人

10年前の日清戦争の時は7個の師団があったんだけど、ロシアとの戦いに備えて12師団を作りました

ちなみに、日露戦争中に16師団まで増えます

あ、師団というのは軍隊の部隊の単位のことで、旅団より大きく、軍団より小さい隊のこと

基本的に一個の師団はだいたい一万人前後で、歩兵部隊が中心です

海軍はどれくらいの兵力があったかというと、日露戦争の時は六六艦隊と表現されてました

戦艦が6隻で、戦艦よりも一回り小さい巡洋艦が18隻

ロシアは戦艦が18隻で巡洋艦が35隻もありました

ついでに言うと、日本の軍艦はほとんどがイギリス製の軍艦

当時の軍艦力はイギリスとアメリカがダントツでした

あ、ちなみにこの頃は飛行機はまだ無いです

ライト兄弟が飛行機で飛んだのがついこないだの出来事なのでね〜

ということで、日本は最初から「こりゃ勝てないな」と思ってたので、とりあえずガンガンと戦ってロシアの出鼻をくじいて、巧みに講和へ持ち込もうという戦い方をしようとしてました

兵力の差がありすぎるため、完璧な勝利は考えてなかったのであります

日露戦争のお金は誰が出してくれたの?

戦争にはお金がかかります

日英同盟を結んだイギリスは日本の戦時国債を買うことで日本に協力してくれました

が、なんといっても一番貢献してくれたのはアメリカのユダヤ系金融資本

日露戦争では17億1600万円かかったんですが、そのうちの8億円はアメリカとイギリスでまかなってくれたのであります

当時のロシア帝政はユダヤ人を弾圧しまくってたので、ユダヤ系金融資本が日本に協力してくれたんですねぇ

またアメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトはめっちゃ日本に好意的でした

正直日本は、この戦いが白人主義に対する黄色人種の戦いかと思われるかも・・・と、すごい警戒してただけに、ルーズベルトの好意的な中立立場がめっちゃありがたかった

日露戦争は、イギリス・アメリカの協力ナシでは勝てない戦いだったといっても過言じゃないんですね〜

が!!

アメリカはただ単に好意的に日本を応援してたわけじゃありません

それは後ほどのポーツマスでの講和会議あたりから徐々にわかってくるのであります

2月18日 東京の電車が車内禁煙になりました

日本軍の目標は旅順攻略

日本軍はロシア海軍の太平洋艦隊の根拠地である旅順を攻略することにしました

ロシア艦隊をやっつけるのは日本海軍

そして陸軍は、旅順港の背後にある広大な丘陵にあるロシア軍の要塞をどうにかすること

陸軍の第一軍の軍司令官は黒木為禎(くろきためもと・鹿児島出身で西南戦争では政府側につき、日清戦争では中将で第六師団の団長)

朝鮮半島と満州の境にある鴨緑江をわたり、一帯にいるロシア軍を追い詰めつつ進撃

第二軍の軍指令官は奥保鞏(おくやすかた・小倉出身で幕府側として長州制圧に参加し、明治維新後は陸軍に入り佐賀の乱や神風連の乱に参加)

こちらは大連近くに上陸して南山や金州にいるロシア軍と戦った後、鉄道沿いにロシア軍を追い詰める

第一軍・二軍ともロシア軍を追い詰めつつ進軍していきました

いずれロシア軍は遼陽という都市に集結し、追ってくる日本軍と全面対決するつもりでした

日本側もそれはわかってたんですが、心配事がいっぱい

というのも、遼陽に集結するロシア軍は退却していたロシア兵だけじゃなく、シベリア鉄道で送られてくる無傷の兵隊がいるから

日本軍としては、旅順の要塞に立てこもってるロシア軍が出てきて、ロシア軍を追っている日本軍の背後をつかれるのがめちゃくちゃ心配だった

ということで、日本陸軍は旅順港のロシア艦隊の攻撃を海軍にお願いし、旅順の要塞に立てこもってるロシアの陸軍兵は日本陸軍でやっつけなければということになったのです

2月24日 第一次旅順港 閉塞作戦スタート!

ロシアの艦隊は真正面での決戦を避けるために旅順港に待機していました

日本にとっては、もしロシアのバルチック艦隊が極東からやってきて旅順艦隊と合流するのだけは避けたかった

めっちゃ強くなっちゃうので、どーしても合流はさせたくなかったのです

ということで、旅順港の出入り口に古い船を沈め、封鎖するという作戦をすることに

以後、5月まで3回ほどこの作戦を行いますが、すべて失敗に終わりました

3月27日 廣瀬武夫戦死 「軍神」第一号になる

廣瀬武夫は現在の大分県に生まれました

海軍兵学校へ入学し、日清戦争に参戦

その後、ロシアへ留学し、ロシア駐在武官となり、今回の旅順港閉塞作戦に参加することに

ロシア語の専門家としても有名でした

そして第2回目の作戦中のこと

乗船していたのは「福井丸」で、ロシア艦隊に対抗するべく杉野孫七上等兵曹が船倉に下りていった時、ロシア艦隊が放った魚雷が命中したのです

廣瀬は乗員達を小型ボートに移動させている最中でした

廣瀬中佐は杉野を助けるため、3回も探しに行きました

が、ついにあきらめ色瀬はボートに移動し、福井丸を離れた瞬間、敵の砲弾が頭を直撃したのです

廣瀬は一片の肉片を残し、死んでしまったのです

ちなみに胴体はロシア軍のもとに流れ着き、埋葬してくれたそーです

自らの危険を顧みず、部下を探し、身を案じ続けたその姿に国民は感動し、「軍神」化が図られました

そして廣瀬の葬儀には海軍首脳が軒並み参加し、国葬並みの扱いになったため軍神化パフォーマンスに歯車をかけたのです



これがこの時作られた廣瀬中佐の歌です
4月13日 マカロフ中将が死去

連合艦隊が機雷をしかけ、ロシア旅順艦隊のベトロアブロフスクを撃沈しました

そして旅順艦隊司令長官のマカロフ中将を戦死させました

マカロフは水兵から叩き上げで司令官になったという人で、水兵たちからは「ひげオヤジ」と呼ばれめっちゃ親しまれていました

この日、ベトロアブロフスクが機雷に接触してしまい撃沈となったのです

マカロフの死は艦隊の士気をめちゃくちゃ低くし、以後ロシア艦隊は旅順から果敢に撃って出ることはなくなり、港内で静かになってしまうのでした

4月30日 第一軍 鴨緑江会戦

黒木為禎率いる第一軍は朝鮮半島に上陸し満州へ向かうことに

コレを阻止するため、鴨緑江で待っていたロシア軍と戦いになり、日本が勝利しました

勝因はロシアが日本をなめてたからです

ロシア軍は「自分達は日本兵よりも優秀だし〜」と、自信満々でした

ザスリッチ将軍は兵力をケチって分散配置してたんだけど、そこへ日本陸軍が火砲でガンガン攻撃

日本軍がロシアのように装備し、訓練し、作戦を練れるとは思っていなかったのです

どこまでバカにしてたんだ??状態ですね(^^;)

ということで、ロシア軍は退却していったのでした


4月 アメリカのカラー・プラン 「もしかしたら日本は敵かもしれない」

アメリカの参謀本部長チャフィ将軍の提案により、アメリカ国防当局が「カラー・プラン」という対外戦争計画を作成しました

これまでのアメリカの主要仮想敵国はイギリス・ドイツ・メキシコでしたが、これに日本が加わったのです

仮想敵国となっている国の理由はと言うと

イギリス・・・独立戦争以来ずっと仲が悪い。南北戦争ではイギリスが南軍びいきだったのもむかつく!それにアメリカ移民の多くを占めているアイルランド人はイギリス人に追われて移民してきた人が多いし!!
それにアメリカと陸続きのカナダがイギリスの植民地ってのも気になる!!

メキシコ・・・隣の国だし、米墨戦争以来仲が悪い

ドイツ・・・カイゼルの対外侵略主義から険悪ムード

ここに、日本が加わりました

日本の理由は・・・アメリカの中国政策の幹線ルートは、アメリカ本土→ハワイ→グァム→フィリピン→中国
ここを遮断する邪魔な国があるとすれば、日本だ!というもの

5月15日 戦艦「八島」「初瀬」沈没

先月、ロシアの艦隊ベトロアブロフスクを撃沈した日本ですが、今度は逆に攻撃されました

「八島」と「初瀬」が機雷によって撃沈させられたのです

5月26日 第二軍 南山の戦い

奥保鞏率いる第二軍が遼東半島の塩大墺に上陸しました

そしてこの日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地に戦いを挑んだのです

南山は旅順の要塞のように本格的ではありませんでしたが、なかなか守りの固い要塞だったので、死傷者4000人も出す戦いになりましたが、なんとか勝利することができたのでした

ちなみに損害を聞いた東京の大本営は「えっ!?4000人??400人の間違いじゃないのか!?」と驚いたそうです

そして第二軍は、こののち大連に向かい、大連を占領し、遼陽を目指して北上していくのです

5月31日 旅順攻撃のため第三軍を編成 乃木稀介が司令官になる

なんとしても旅順を攻略しなければならない日本は、旅順要塞にいるロシア兵を相手に戦う第三軍を編成しました

第三軍司令官に任命されたのは乃木希典(のぎ まれすけ)であります

第三軍司令官 乃木 希典

乃木希典は長州藩で生まれました

あの吉田松陰とは親戚にあたります。そして、東郷平八郎とともに日露戦争のヒーローとなっていく人です

長州藩士の息子として生まれ、若い頃は遊んでばかり

が、ドイツ帝国へ留学したことにより、思いっきり性格がかわりました

どうやらプロイセン軍人をめっちゃ尊敬し、自分もああならなくちゃ!と、帰国してからは古武士のような生活をするように

そして陸軍に入隊し、萩の乱や西南戦争に参加しました

西南戦争の時に、軍旗を西郷隆盛チームに奪われるという事件がおき、乃木はこれを自分のせいだとめちゃくちゃ責め、戦死したかったのか何度も何度も戦場へ

友達の児玉源太郎が「あいつ、死ぬ気だよ!」と、常に乃木を監視

ところがある日、乃木がとうとう切腹しようとしました!慌てた児玉は説得しまくり

乃木は「だって軍旗は天皇陛下から賜ったものだぞ!おわびしなければ!!」すると児玉は「わかった。だけどまだ早い。切腹する時は必ず俺に知らせろ」と約束させました

ちなみにこの時の乃木の上司は山県有朋

山県有朋はこの時の乃木の態度をめっちゃ好意的に受け止め、実直でマジメな乃木を出世させるようになったのでした



乃木希典の肉声が聞けます!貴重!!
6月6日 第三軍 大連に到着

乃木希典率いる第三軍が大連に上陸しました

が!!ここで海軍が「陸軍と一緒に旅順を攻略したくない!!」と言い出したので、仕方なく旅順に向け超スローペースで進むことになりました
6月14日 第二軍 得利寺(とくりじ)の戦い

第二軍は南山の戦いに勝利し、北上していきました

ロシア軍はというと、旅順にこもっているロシア軍を援護するべく、得利寺に陣地を造ることに

そのためスタケリベルク中将率いるシベリア第一団がやってきました

そこへ大本営から第二軍に「敵の陣地が完了する前に攻撃しろ!」という命令が

ということで、この日第二軍はロシア軍陣地へ攻撃を開始したのです

火砲の数が日本軍のほうが多かったので、見事日本が勝利

ロシア軍は得利寺に火を放って撤退したのでした

6月15日 ロシアのウラジオストク巡洋艦隊 通商破壊戦を行う 

通商破壊戦とゆーのは、物資や人を乗せた船を攻撃し、海での輸送を妨害すること

ロシアは日本に通商破壊戦を行ってきました

この日、ウラジオストク巡洋艦隊は日本の常陸丸(ひたちまる)を見つけ、降伏を要求しました

常陸丸が拒否したため砲撃を行ったのです

常陸丸の船内では、船長が秘密文書を焼却し、最後は切腹しました

常陸丸は沈没し、戦死者は1000人以上となったのです
6月20日 満州軍総司令部が設置される

遼陽での会戦に備え、第四軍(↓で説明)までが編成されたため、全てを統括して指揮するための満州軍司令部が設置されることになり、満州へやってきました

総司令官は大山巌

総参謀長は児玉源太郎

日本にいた参謀本部がそのまま満州軍司令部になったってだけの話なんですけどね

ちなみに東京にいる天皇の側に参謀総長がいないといけない!ってんで、山県有朋元帥が大山巌の代わりに形式上だけの参謀総長になりました

総司令官 大山巌

大山巌は薩摩藩士の次男として生まれました

薩英戦争の時に西洋の強さに驚き、幕臣である江川太郎左衛門のもとで砲術を学ぶことに

戊辰戦争では新式の銃隊を率いて鳥羽伏見の戦いや会津の戦いなどに参加しました

維新後はジュネーブに留学し、さらに砲術を学ぶことに

陸軍に入ると順調に出世していき、日清戦争では陸軍大将になりました

ちなみに西郷隆盛のイトコであります

総参謀長 児玉源太郎

児玉源太郎は山口県で生まれました

長州藩の支藩である徳山藩の中級武士の長男で、家督を継いだおねーさんのお婿さんのもとで育ったんですが、そのお兄さんが佐幕派によって殺されてしまい、幼い頃はものすごく貧乏な生活を送っていました

24歳の時に谷千城率いる部隊に入り西南戦争に参加

この時、谷がめっちゃ源太郎のことを「軍人の素質がある!」と、気に入ったそうです

その後台湾総督となり、後藤新平ととも台湾の植民地統治を行いました

日露戦争の前は内務大臣をしており、今回満州軍総司令部の総参謀長となったのです

乃木希典とは昔から仲良しです

6月30日 第四軍が編成される

第三軍が編成された後、遼陽での決戦に備えて第四軍も編成されました

軍司令官は野津道貫(のづ みちつら・鹿児島出身。戊辰戦争では大活躍し、西南戦争では参謀長を務め陸軍上層部へ上り詰めました。日清戦争では第一軍司令官)です

7月 タバコが専売になる

日露戦争の戦費を調達するというのを名目に、タバコの収納・製造・販売までの全てが専売となりました

あ、専売っていうのは他には売らせず、その「物」の全てを引き受けること
タバコの専売は、国が販売の全てを独占するってことです

ちなみに、この頃のタバコの銘柄は渋い
「大和」「朝日」「敷島」「チェリー」などなど

7月15日 「お偉いさんはノンキだよな」by伊地知幸介

乃木大将率いる第三軍の参謀は伊地知幸介(いじちこうすけ)少将

伊地知は鹿児島生まれの軍人

砲兵の専門家であり、ドイツ留学していた時に最新の砲兵戦術を学びました

日露戦争前は参謀本部の作戦部長をしていたという超エリート

そんな伊地知は、実際に旅順要塞を見て「ここの堅固さと兵力量は思っていたよりもすごいな・・・」と感じました

そこへ満州軍のトップ・児玉源太郎が「何をぐずぐずしてんだよ!!早く旅順をとれよ!」と言いまくり

伊地知は「はいはい」と、のらーりくらーり交わしてました

簡単に落とせるもんじゃないってことがわかったので、お偉いさんには言わせるだけ言わせとけ状態で、乃木大将に「お偉方が怒ってますよ!早く攻撃しなくちゃ!」なんて慌てて言うほどおばかじゃなかった

いい感じの参謀だったんですね〜

ということで、伊地知は旅順を攻略するには周到な計画が必要と考えました

まず要塞を打ち破るだけの強力な大砲がなければいけないと考えたのです

そしてメンツにこだわらず海軍に「陸で戦うための重砲隊を貸して!陸軍に協力して!」と要請したのでした

で、海軍陸戦重砲隊に旅順へガンガン射撃してもらい、その間に第三軍の砲兵部隊を整え、大砲をすえつけたりしたのです

7月18日 新聞記者倶楽部が結成される

新聞記者に対する軍当局の圧迫に抵抗し、これをなんとかするために東京朝日・大阪毎日・時事新報・読売・国民・東京日日などの15社の記者らが集まり、「記者倶楽部」を結成しました

7月24日 第二軍 大石橋(たいせききょう)の戦い

第二軍は得利寺の戦いを終えると、大本営から「大石橋に陣取っているロシア陸軍を攻撃しろ!」と命令されました

すぐさま大石橋に向かい、攻撃を仕掛けたのです

ロシア軍はものすごい勢いで砲撃し、なんとか第二軍の進軍を阻もうとしましたが、とうとう退却することに

第二軍は翌日25日に大石橋を占領したのです

8月10日 黄海海戦

第三軍が着々と旅順攻略の準備を進めている間、海軍陸戦重砲隊は砲撃をしまくってました

で、海軍陸戦重砲隊は旅順市街や港内のロシア軍艦へも砲撃スタート!!

このため港内のロシア軍艦にも被害が出始めたため、ロシア軍はこれ以上被害が出たら困る!ということで、安全なウラジオストクへ移動することにしました

ロシア軍の艦隊は12時30分に港を出たんですが、それを見つけた日本海軍が襲い掛かったのです

ロシアの「ツェザレウィッチ」に「三笠」から放った砲弾が命中したんですが、沈没はしませんでした

結局ロシア軍はウラジオストクへ行くのを諦め、反転して旅順に逃げ込んだのです

このとき、ロシア艦隊はめっちゃめちゃ大損害を受け、もはや戦闘能力がなくなってしまいました

が、日本海軍は「一隻も沈没しなかった・・・。あいつらまた旅順港から出てくるぞ・・・困った」といった状態になっていて、こうなったら1日でも早く旅順を陥落しなくては!!と焦り始めるのです

ロシア艦隊が戦闘能力ゼロに近いということがわかっていれば、旅順攻略はもうちょっと違う戦いになっていたでしょうね〜

8月14日 上村艦隊 ウラジオストク巡洋艦隊を発見!蔚山沖海戦

ウラジオストク艦隊は積極的に通商破壊戦を行ってました

そしてこの日、蔚山沖で上村彦之丞中将が率いる日本海軍の第二艦隊がウラジオストク艦隊を発見したのです

ウラジオストク艦隊はすぐさま逃げ、上村艦隊は必死で追撃しました

が、上村艦隊は逃げるウラジオストク艦隊めがけて砲撃し、とうとう「リューリック」が逃げ切れず脱落

ほかの2隻がリューリックを助けようと何度か反転し、そのたびに上村艦隊が砲撃しましたが、とうとう爆弾が無くなってしまったのです

ちなみにこの時、隣の人と話もできないくらいの騒音でした

爆弾がなくなってきたことを知った参謀が、上村中将に「爆弾ナシ」と黒板に書くと、上村中将はめちゃくちゃ悔しがって黒板を床に投げつけたそうです

とまぁ、こうして蔚山沖での開戦はウラジオストク巡洋艦隊に大打撃を与え、その後の通商破壊戦を出来ないようにしました

ちなみにこの後すぐ、上村艦隊は沈没したリューリックの乗員を助けに向かったのです

「露探」と非難されまくりだった上村彦之丞

ウラジオストク巡洋艦隊は日本の物資補給を邪魔する嫌な存在でした

そのウラジオストク巡洋艦隊を撃沈する役目を任じられたのが第二艦隊司令官の上村彦之丞

が、広すぎる警戒海域のため、なかなか見つけることはできずにいました

ウラジオストク巡洋艦隊は次々と日本の船を沈め、大胆にも東京湾まで出没したりしたので、国民の怒りは上村に集中しました

「なにやってんだ!」「だらしない!!」から始まり、怒りはどんどんエスカレート

上村の自宅には石や短刀が投げ込まれ「腹を切れ!」と叫ばれたり、「露探(ろたん・ロシアのスパイ)なのではないか?」とか「あいつは国賊だ」とあで言われてしまいました

そんな上村が今回やっとウラズオストク巡洋艦隊を捕らえたのです

砲弾が尽きたため追撃はできませんでしたが、上村はこの時

「ロシア兵を助けろ。そして捕虜を侮辱してはならぬ。武人として扱え!生きているものは小鳥でも救え」と言ったのです

上村は600人以上のロシア兵を救いました

ちなみにホントにカナリヤも救いました

このニュースは世界中を駆け巡り、なんとこの上村のエピソードはロシアの教科書にものるほど

いままで「露探!!」とまで言われていた上村は、いっきに「武士道を世界に示した武士の鑑」と大絶賛されるのです

焦る海軍!!「早く旅順を陥落しなくては!!」

さてさて、第三軍大将の乃木は「完璧に準備をして、旅順を攻略するのは8月末にしよう」と考えてました

が、なんと「早く旅順を落とせ!」という命令が満州軍司令部からやってきたのです

なぜか??というと、海軍がめっちゃ焦ってたから

というのも、自分達でやっつけようとしていた旅順のロシア艦隊がいまだ健在だから(ホントは黄海海戦の時に戦闘能力ゼロにしたんだけど、気付いてなかった)

もともと日本海軍は、ロシア艦隊を旅順港に閉じ込めようとしてましたよね

2月24日から旅順口閉塞作戦を行って、港に入るための水路に要らなくなった船を沈めて通れないようにするって作戦をしてたんだけど、3回行って全部失敗してました

海軍がその作戦をしてる間に、5月 ロシア皇帝が「バルチック艦隊を日本の近海へ派遣する!!」って言ったもんだから「やべー!バルチック艦隊と旅順の艦隊が合流しちゃったら負けちゃう!!」と、めちゃくちゃ焦ってたのです

海軍としては一日でも早く旅順を陥落させ、自分達が落とした船の残骸を回収して旅順に入り、艦の修理や最終訓練などをしたかったのです

とにかく、めっちゃ焦ってたんですねぇ

ということで、海軍は満州軍司令部に「陸軍に早く旅順攻略するように言って!」とお願いしたのでした

この命令を受けた乃木は仕方なく、予定より早めの旅順攻略を行うことにしたのです

8月19日 第三軍 第一回旅順総攻撃スタート

満州軍司令部の通達により、旅順総攻撃を行うことが決定しました

乃木希典率いる第三軍は、いよいよ旅順要塞に向けて攻撃することになったのです

さて、第三軍は旅順要塞の中でもっとも堅固な砲台軍が設置されている白銀山や望台といった要塞を攻撃することに

特に望台が一番強力なとこで、ここに砲撃を集中させました

朝6時に一斉に砲撃が開始され、ロシア軍の要塞砲もすぐさま反撃を開始

やがて旅順港内の軍艦からも砲弾が飛んできました

朝6時から始まった砲撃合戦は2日間続きました

こんなに長い時間砲撃戦を行う戦いは、世界の戦いの中でもめちゃ珍しい戦いであります

東京は楽観ムード 「旅順は余裕でしょ!」

さてさて、東京ではすぐに旅順を落とせるだろうと思ってました

「旅順陥落」といった号外を作っていた新聞社もあったほど

陸軍省でも新聞社がテントを張って、「旅順陥落」のニュースを待ち受けてました

なんでこんなに楽観視してるのか??というと・・・

実は10年前の日清戦争の時に、日本軍が1日で旅順を攻略したからであります

この時、乃木希助は大将ではなく少将で、第一旅団長として参加してました

東京にいる人々は、「日清戦争の時は簡単に落とせたし!」といった感じだったのであります

が、実際は10年前とは大違い!というか、同じなんてありえない

ロシア軍は大掛かりな要塞工事を行っていて、ものすごーーーーく堅固な要塞を造っていたのです

そんなことは全然知らない日本では、「早く陥落したニュース入ってこないかな〜」と、祝賀準備をしながら待ってたのでした

8月21日 第一回旅順攻略は大失敗

2日間にわたって砲撃をしまくった日本軍

乃木は「これだけ砲弾を浴びせたんだからロシア軍の要塞も壊れただろう」と思いました

で、砲撃の後は歩兵部隊が突撃し、砲台を順番に一箇所づつ占領する予定でした

この日、歩兵部隊の突撃を開始しました

が、なんとロシアの砲台は全然壊れていなかったのです

砲台を目指す日本の歩兵部隊は狙い撃ちされ、ものすごい人数が死んでしまいました

丸1日歩兵部隊の突撃は続きましたが、乃木はとうとう退却命令を出したのです

8月23日 再度突撃

乃木は退却命令を出した後、再度突撃命令を出しました

が、やはりロシア軍に狙い撃ちされ大損害を出し、とうとう総攻撃を中止としたのです

この戦いで第三軍の戦死者は5037人

負傷者は10823人にものぼったのです



当時の旅順の映像があります!
なぜロシア砲台は壊れなかったのか??

日本はガンガン砲撃しましたが、ロシアの砲台は健在でした

なぜ壊すことができなかったのか??というと、第三軍が持っている大砲では要塞を破壊することができなかったからです

ロシアの要塞は11インチ(28センチ)砲弾には耐えられないけど、6インチ砲弾(15センチ砲弾)に耐えることが出来るように設計されていたからです

今回第三軍が使ったのは6インチ砲弾だったため、ロシア軍要塞を破壊することができなかったのです

ロシア軍旅順要塞司令官 アナトーリィ・ステッセル(ステッセリ)

ロシアのサンクトベテルブルクで生まれ、士官学校を卒業後、義和団事件にも参加し、旅順要塞司令官となりました

ロシア満州司令官のアレクセイ・クロバトキン大将と仲が悪く、クロバトキン大将が要塞戦術のプロなので旅順要塞司令官の地位をめぐりバトルし、結局2人が司令官となりました

でもって今回、部下のロマン・コンドラチェンコ少将(こちらも要塞戦術のプロ)にほぼお任せ状態

ほぼ作戦を一任してたため、後にコンドラチェンコ少将が戦死するとボロボロになっていってしまいます

関係ないけど、奥さんはめーっちゃ怖いらしい

付け加えて余談なんだけど、ステッセルは日露戦争後、多くの死者を出したということで死刑宣告が出されますが、乃木希典が助命運動をしたので助かります

ロシア満州軍総司令官 アレクセイ・クロパトキン

クロパトキンは軍人の家庭に生まれ、自らも軍人学校に入学

参謀本部アカデミーにも入校し、トップの成績で卒業しました

卒業してからはいろんな国に派遣され、着々とエリートコースを進み、とうとう陸軍大臣に任命

日露戦争前はロシア皇帝の命令により日本にやってきて、日本の軍事力を見て「意外と強いな」と驚き、今回の戦争にはちょびっと反対してました

が、ロシア満州軍総司令官に任命され、日本軍と直接対決することになります


乃木の自宅は非難ゴウゴウ

この頃の日本は、失敗した将軍や提督に対して容赦なく非難する時代でした

後から起きる太平洋戦争とは大違いで、国民はまだ声をあげることができる時代なんですね〜

ということで、旅順を陥落するだろうと思っていた国民は大激怒!!

乃木に対してものすごい非難が集中しました

乃木の自宅は東京・赤阪にあるんですが、ここには奥さんの静子が1人で留守を守ってました

国民の非難は静子夫人に一斉に集中したのです

よし!トンネルを掘ろう

第三軍の作戦主任である井上幾太郎が「ロシア軍の要塞まで壕を掘って進んでいきましょう」と提案しました

もはや前回のような砲撃をするには、砲弾が底をついていたので、爆弾の到着まで何もしないよりは・・・ということとなりました

こうして8月末から、壕を掘り始めたのです

8月24日〜9月4日 遼陽会戦(りょうよう)

遼陽はハルビンにつぐ南満州の戦略的拠点でした

ここは東清鉄道が走る交通の重要な役割もあったため、ロシア軍が集中する前に、日本軍としてはココを占領しておきたかった

日本軍は遼陽目指して進軍させたのです

集結したのは第一・第二・第四軍と秋山好古(よしふる)少将率いる秋山支隊

秋山支隊は満州軍総司令官直属の騎兵部隊であります

まず第一軍が動き、第二師団が夜襲を行いロシア軍を撤退させました

次に第二軍が進撃し、ロシア軍を応対させました

最後は白兵戦となり突撃を繰り返し、とうとうクロバトキンが退路の遮断を恐れて撤退したのです


軍神 橘周太(たちばなしゅうた)

この遼東会戦で、700人くらいを指揮している大隊長の橘周太が戦死しました

橘の部下を思う心意気と命を張った戦いぶりが素晴らしかったということで、軍神に押し上げられました

ちょうど日本では海軍の廣瀬武夫が「海の軍神」として国民の尊敬にもてはやされていた頃なので、陸軍もちょっと無理して陸軍の軍神を作ったといわれています

9月 与謝野晶子 「君死にたまふことなかれ」

与謝野晶子が「明星」の9月号に、旅順に出征している弟を思って「君死にたまふことなかれ」の詩を発表しました

これに非難が殺到!

「この戦時にけしからん!」と、論争が起こり、問題となりました

9月2日 花電車が走る!沿道の人々は大喜び

電車の車体を造花や電球で飾るという花電車が運転されました

遼陽の一部を占領したことを祝った「装飾電車」は、ド派手なスタイルで街を走り、市民の喝采を浴びました


9月19日 第二回旅順攻撃

壕を掘り進んで2週間ほどたった頃、ロシアの要塞の全面にある簡易な要塞を壊すべく攻撃を行いました

これは成功し、簡易な要塞をおさえることができました

が、日本では第二回目の総攻撃!と大々的に紹介されてしまったため、「なんだよ!また旅順陥落できなかったのかよ!!」と、ますます乃木大将に対してブーイングとなってしまいました

そしてこの攻撃の時、ニ百三高地の攻略だけ失敗したのでした

二百三高地 

二百三高地とは、標高が203メートルあったので日本軍がそう名づけた場所です

旅順の港町を取り巻いている丘陵の一つなんですが、一番西にあり、もっとも小高い小山でした

ロシア軍は二百三高地には砲台を作っていませんでした

ほんとはココにも砲台を造る予定だったんだけど、もっと大事な場所の工事を先に優先させてたら間に合わなくなっちゃいました

「日本が二百三高地を攻めてきたら主陣から集中して砲弾すればいいや」という考えでした

日本軍はというと、「二百三高地はとても防備が手薄だ!防備が完璧な要塞よりこっちを狙ったほうがいいのではないか?
「いや、あえて敵が防備を行っていないのが怪しい。それに二百三高地を占領しても主要な要塞を陥落できるわけでもない」といった感じであれやこれやと意見が出てました

乃木大将・伊地知参謀はもちろん、満州軍の大山元帥や児玉参謀長も「二百三高地なんて攻撃してもしょーがない」という考えでした

が、海軍のほうがやったら二百三高地の占領を強く要望してきたのです

そのため今回の第二回総攻撃では二百三高地を攻撃目標の一つに選んだのでした

二百三高地はボロボロ

今回の二百三高地攻撃をしたのは東京の部隊「後備歩兵第一旅団」

後備というのは現役3年と予備役4年4ヶ月の兵役が終わった男性で、だいたい28〜32歳までの人たち

現役がやっと終わった男性達が狩り出されたのです

二百三高地はたいしたトコでもないから、精鋭部隊じゃなくてもいいだろいう考えからでした

が!!!ロシア軍がめっちゃ強い抵抗をしてきたので、日本軍のほうがビックリ!

正直、簡単に奪えるだろうなと思ってたので、思わぬ必死な反撃に驚いたのでした

この部隊は19日から攻撃中止命令がでる22日までの4日間で200人が戦死し、1605人が負傷しました

今回の戦闘に参加したのは2871人だったので、二百三高地の部隊だけで63%の死者が出たのです

後備はほとんどが妻子持ちだったので、東京ではものすごく嘆き悲しむ人が多くなったのでした


9月24日 日本軍 11インチ砲弾を設置

第二回目の総攻撃の後、11インチ砲弾(28センチ)が到着し、1ヶ月かかるといわれていた設置を2週間で完成させました

その後もどんどん11インチ砲弾が到着し、10月25日までに合計18門がロシア軍の要塞に向け設置されました

10月9日 沙河会戦(さかかいせん)

遼陽の会戦で後退したロシア軍ですが、さすがに下がりすぎたので奉天手前の沙河に踏みとどまりました


そこへ日本軍がちょっとづつ進軍してきました

この頃、アレクセイ・クロパトキンがロシアの満州軍を指揮していたんだけど、ロシアの会議でグリッペンベルクとクロパトキンの二頭体制になることが決定

これにむかついたクロパトキンは「ここらで日本軍をやっつけて俺の威信をみせつけなくては!」と思うように

こうして沙河にいたロシア軍が日本軍に攻撃を開始したのです

が、日本軍はロシア軍が攻撃してくるだろうなと察知していたので、効率的に防御することができました

そのためロシア軍は大損害が出てしまったのです

ですが日本軍も補給が足りず、砲撃がなくなってきてしまいました

そんな頃、めっちゃ寒い冬がやってきたためお互い休止することになったのです

こうして「沙河の対陣」が来年まで続くのでした

10月15日 バルチック艦隊 出港!

ここにきて海軍を超焦らせることが!!

なんとロシアのバルチック艦隊がバルト海のリバウ港を出港したのです

もちろん日本に向けての出港で、旅順のロシア艦隊と合流して日本の艦隊を撃滅するためです

海軍は旅順を陥落させれば、自動的にロシア艦隊が逃げてくるだろうから、待ち構えて攻撃すればいいと考えてたんだけど、いまだ旅順が陥落しない

そうこうしているうちにバルチック艦隊が出撃してきてしまった

ちなみに、普通はこんなでかい艦隊が出撃するのは秘密で行われるはずなんだけど、ロシア側は「日本なんかに負けるわけないじゃん」と思ってたので、堂々と発表してビビらせようと思ってました

海軍はこの発表を聞いてめーーーっちゃ焦り、「早く旅順を攻略しろ!!」と陸軍にめっちゃ要求してきたのでした

でもって海軍は「絶対に二百三高地を占領しろ!」と要望してきました

海軍の考えは、二百三高地のてっぺんからだと旅順港がすみずみまで見渡せるハズ。頂上に砲兵観測班を置いて山越えで大砲を飛ばせば運がよければロシア軍の艦隊にあたって沈没するかもしれない。あるいは大砲を避けるために港から出てくるかもしれない。そこを攻撃したい!というもの

なんとしても二百三高地を占領して、旅順のロシア艦隊にとどめを刺したいと思ってたのでした

バルチック艦隊は順調にやってくれば1月中旬には日本付近にやってくる

それまでになんとか・・・・と、切望していたのでした

10月21日 ドッガーバンク事件

日本海へ向けて出港したバルチック艦隊はこの日、ドッガーバンク付近を進んでいました

この日はものすごい霧で、目の前もろくに見えない状況でした

そんな中、イギリスの漁船が濃い霧のため行方不明になっていました

そこへバルチック艦隊に「日本の水雷艇が待ち伏せしている!」という情報が入ってきたのです

バルチック艦隊内は騒ぎとなり、水雷艇と思われる船めがけて攻撃を仕掛けたのです

もちろん、攻撃をしたのは民間の漁船でした

ドッガーバンクでは、いつものように魚を獲ってたのに、いきなり遠くに軍艦が見えたかと思うと、発砲してきたので大騒ぎ

漁船は魚網を切って逃げようとしたんだけど、攻撃を受けてしまい沈没してしまい、船長と乗組員の2名が死んでしまったのです

「あれは漁船だ!」と気がついたときにはもはや沈没してしまった後で、しかもバルチック艦隊は沈んだ船の乗組員を救助せずそのまま去ってしまったのです

この事件を知ったイギリス国内では、めちゃくちゃ激怒し、新聞ではバルチック艦隊のことを「海賊」と書き立てました

そしてイギリス政府はバルチック艦隊の立ち寄り先だったスペイン政府に「バルチック艦隊へは石炭や水を供給させるな!中立違反と考えるぞ!」と脅迫したのでした

以後、イギリスはバルチック艦隊が立ち寄る港に圧力をかけまくるのです

10月26日 第三軍 総攻撃

18門の11インチ砲弾が設置された日、乃木大将はすぐさま総攻撃命令を下しました

そして26日から射撃が始まったのです

30日が歩兵部隊の総攻撃と決まると、砲兵部隊は29日から1分も休まず砲撃をしました

10月30日 第三軍歩兵部隊突撃

砲兵部隊の援護射撃のもと、歩兵部隊がいっせいに進撃をスタートしました

勢いは前回よりものすごいものでした

10月31日 旅順陥落せず

砲兵部隊が29日から砲撃をガンガンおこなっていましたが、とうとう砲弾がなくなってしまいました

そのため午前8時 乃木大将は攻撃中止命令を出しのたのです

またも旅順を陥落することができずに終わりました

が、今回の11インチ砲弾は前回と違い、ロシア軍要塞にかなりのダメージを与えました

ロシア軍の死傷者は4500人以上となったのです

ちなみに日本軍は3800人です

海軍必死!二百三高地を攻略してぇぇぇ

今回の第2回総攻撃でも旅順を陥落できなかった日本軍

海軍はこの直後に大本営会議で「二百三高地の速やかな攻略を要望する!」と要塞しました

でもって山県有朋参謀総長から満州軍司令部へ電報をだしました

大山巌からの返事は「言われなくてもわかってる!!何もわかんないくせにごちゃごちゃ言うな!」といった感じの内容でした

この返事にがっくりした海軍

山県有朋はとりあえず・・・の東京の参謀総長なので、これ以上何もいえなかった

となると、大山巌を動かせるのは、天皇のみとなってしまうのです


10月 「千人結び」が流行

街角に老婆や女性が立って、通行人にハンカチくらいの布・糸と針を添えて差し出し、一人一針づつ1000人に糸を結んでもらうということが流行しました

どうやらこれを軍人が身につけると、敵の弾に当たらないとされ、戦場へ行く夫や息子に持たせるのです

最初は寅年の女性だけというジンクスがあったんですが、次第に戦争が激しくなるととりあえず1000人!ということになってきたそうです


11月3日 日比谷公園で日露戦争国民講演会大会開催

5万人が参加する大会となりました!!

11月14日 御前会議

海軍はなんとしても二百三高地を早く落として欲しかった

山県有朋にお願いしてもダメだったので、なんと今回必死に働きかけて御前会議に持ち込んだのです

で、「バルチック艦隊がやってくるのに備えて、二百三高地を占領したほうがいいのかどうか意見を聞かせてくれ」といった電報を打ちました

大山巌や児玉源太郎は「ったく、何度もうるせえな!!」と言った感じで、前回と同じような返事を出しました

11月20日 第三軍 総攻撃計画書を作成

第三軍はというと、次の総攻撃は来年の1月くらいにしようと考えてました

が、外部からあれこれと言われてたので、総攻撃を早めるしかないと考え、総攻撃のための計画書を作成し、満州軍総司令部も許可しました

次の作戦は正面攻撃であり、二百三高地攻略は補助的な攻撃となってました

乃木大将めちゃプレッシャー!!明治天皇からのメッセージ

乃木大将に明治天皇からメッセージが届きました

内容は
「お前達はよく頑張ってくれている。が、今は手をゆるめるわけにはいかない。今回の攻撃の成功を望むのははなはだ切なく、自愛努力せよ」

この手紙を見て乃木大将はめっちゃ焦りました

なんといって明治天皇からのメッセージ!!!

次は失敗は許されない・・・・と、プレッシャーがかかってしまうのでした

そして満州軍総司令部からお目付け役として福島参謀副長がやってきて、第三軍は異様な緊張に包まれていくのでした

11月23日 第三軍 第三回総攻撃

この日、乃木大将は第三回目の総攻撃命令を出しました

今回は第一師団は右翼の松樹山攻略

第九師団は中央のニ龍山

第十一師団は右翼の東鶏冠山

第七師団は予備隊

このような作戦で、各要塞を攻略することになったのです

白襷隊(しろだすきたい)を編成

今回の総攻撃では「白襷隊」というのが新たに編成されました

白襷隊というのは、第一師団の団長・松村務本(かねもと)中将の提案で、各師団から志願や選抜で「奇襲部隊」を編成したのです

全員が白い襷をかけたので「白襷隊」と呼ばれました

11月26日 午前八時 砲撃開始!!

午前八時にいっせいに日本軍の砲撃が始まりました!!

砲撃は午前中ずっと続き、午後になると歩兵部隊の突撃スタート

午後5時になると、乃木大将は白襷隊に奇襲命令を下しました

白襷隊は水師営(すいしえい)から出発し、奇襲攻撃するべく進軍を始めたのです

白襷隊 決死の突撃

白襷隊は死ぬのを覚悟した決死隊なので、ガンガンと進んでいきました

暗闇の中だったので、途中まではロシア軍に気がつかれず進むことができたんですが、とうとうロシア軍の地雷に引っかかってしまいました

ロシア軍はすぐさま探照灯を照らし、白襷隊めがけて集中攻撃を行ったのです

白襷隊は決死部隊なので、構わずにガンガンと進んでいきました

次々と死人が出始めましたが、先頭にいた小出政吉少尉が目標の砲台へ飛び込み、日本刀を振り回したのです

が、後が続かないためロシア軍にやられてしまました

夜が明けると、砲台の下の斜面は白襷隊の死体で覆われてしまったのです

乃木大将は27日の午前2時30分に白襷隊の攻撃中止命令を出しました

日本軍の戦死者は4500になり、ロシア軍も1500人となったのです

11月27日 午前10時 「二百三高地を攻撃せんとす!」

乃木大将は、ここで重大な命令を下しました

なんと、第三軍の目標を主要な要塞から二百三高地へ変更すると命令したのです

ですがいきなり攻撃目標を変更するには、満州総司令官の許可が必要でした

お目付け役としてやってきていた福島少将は大反対

「なぜ今頃になって変更するのだ??それに二百三高地を占領したとしても第三軍が目的とする旅順攻略には結びつかないではないか!絶対に大山総司令官の許可が必要だ!」と大反対

これを何とか説得したのが、第三軍の作戦主任である白井二郎中佐でした

こうして第三軍は急遽攻撃目標を二百三高地に変更したのです

11月28日 激戦が続く

第三軍は二百三高地へ総攻撃を開始しました

砲撃を撃ちまくったんですが、二百三高地はコンクリート要塞ではなく土なので、土に着弾してもやわらかすぎて炸裂しません

そのため、砲兵部隊の攻撃のほうが効果があり、第一師団の歩兵部隊が二百三高地の頂上目指して突撃しました

が、ロシア軍の防御も堅く、山頂を奪ったり奪い返したりの激戦となりました

夜になるとロシア軍が新たな大部隊を投入し、日本軍は追い返されました
11月29日 乃木大将 「第七師団二百三高地へ突撃せよ」

第一師団が追い返されるのをみた乃木大将は、予備隊である第七師団に二百三高地を奪い返すよう命令をしました

この頃、満州総司令官の総参謀長である児玉源太郎が旅順に行くことを決めました

なぜか??というと、乃木大将が戦死してしまった場合、自らが指示するためであります

11月30日 第七師団突撃開始

第七師団は準備を整え、ものすごい砲弾を発射しながら頂上を目指しました

ロシア軍はかなり抵抗したんですが、この日の夜山頂を占領したのです
12月1日 またも二百三高地奪われる

昨日の夜に山頂を占領した日本軍ですが、今度はロシア軍が突撃してきました

そしてまたも山頂を奪われたのです

ほんっと奪ったり奪い返したりの激戦が続きました

その頃、児玉層参謀長が旅順に到着しました

そしてめっちゃ怒り、怒鳴り散らし、再び二百三高地の奪取作戦が練られることとなるのです
秋山真之 「4・5万死すとも二百三高地を占領せよ!!」

乃木大将が二百三高地を攻撃目標としたのを一番喜んだのは連合艦隊作戦参謀の秋山真之(さねゆき)中佐でした

海軍は二百三高地をどーーーしても占領して欲しかったですからね

第三軍が二百三高地を攻撃スタートさせた時の文書には

「旅順の攻略に4・5万の勇士を損ずるも、さほど大なる犠牲にあらず」

とにかく、国家存亡の今、4・5万人の兵士が死んでも大きな犠牲とはいえない。目の前の惨状に怖気づかないで攻撃に攻撃を重ねろ!という内容のものです

ほんっとに海軍は焦っていて、最後には「もー我慢できん!!陸軍がやらないなら海軍が二百三高地をとる!」とまで言ってきました

そんなことされたら大変なので、陸軍は何万人が死のうが何しようが、二百三高地を占領しなければならなくなったのです

海軍作戦参謀 秋山真之(あきやまさねゆき)

秋山は現在の愛媛県に生まれました

松山藩の下級武士の息子で、親友は正岡子規

その正岡子規が上京したことに刺激され、自分もバリバリ勉強し、東京帝国大学を目指すべく上京

が、経済的に帝大に通えなかったため、海軍兵学校に進学しました

海軍兵学校ではトップの成績で卒業し、少尉候補生として海軍軍人に

日清戦争にも参加し、海軍大尉となりました

明治31年にはアメリカに留学し、さらに勉強

明治35年には海軍大学校の教官となるんだけど、日露戦争に参加することとなり、連合艦隊司令長官である東郷平八郎の下で作戦参謀となりました

12月5日 午前八時

第三軍は駆けつけてきた児玉総参謀長の指導のもと、着々と準備を整え始めました

そしてとうとう凄まじい砲撃をスタートさせたのです

第七師団は各種大砲を総動員させ、二百三高地目指して砲撃を集中させました

午前9時になると歩兵部隊が突撃を開始

ロシア軍の反撃もすさまじく、ものすごい戦闘が繰り広げられました

夕方、とうとう日本軍が西南の山頂と東北の山頂を占領

ついにロシアのコンドラチェンコが増援部隊を出すのをあきらめたのです

12月6日  日本軍 ロシア軍艦を撃沈!

日本軍はすぐさま二百三高地から旅順港内にいるロシア軍艦へ砲撃を始めました

そして「レトウイザン」「ポルタワ」といた軍艦を轟沈させたのです

※これには諸説があって、実際はロシアが自沈したとも

とにかく旅順港にいた軍艦はほとんどが壊滅したのでした

日本軍ちょこっと安心

二百三高地を占領し、観測拠点とした砲撃でロシア艦隊を壊滅させ、とりあえず海軍は一安心

あとはいつやってくるかわかんないバルチック艦隊を迎え撃つだけとなりました

ですが第三軍の旅順攻略はまだ終わってません

主要な要塞はまだまだ残ってるし、旅順を陥落させなくては第三軍は新たな戦場に参加できない

ケド、乃木はある意味ホッとしてました

なんといっても、やっとこさ海軍にアレコレ言われず、正攻法で臨むことができるからです

12月12日 ロマン・コンドラチェンコ戦死

ステッセルの部下であるコンドラチェンコが戦死しました

ロマン・コンドラチェンコは、貧しい家に生まれましたが、お兄さんが援助してくれたおかげで軍事学校に入り、優秀な成績を収め卒業

その後、参謀本部アカデミーに入校しトップで卒業

軍人としてのセンスは一流で、瞬く間に出世していきました

人当たりもよく、部下一人一人を大事にしていたため、部下達は「わが将軍」と呼んでものすごく信頼してました

旅順に着任すると、ステッセル中将はすぐさまコンドラチェンコを抜擢し、ほとんどの要塞防衛作戦をおまかせ

コンドラチェンコはすぐさま近代要塞へと作り上げていったのです

とにかく、旅順のロシア軍の中でめっちゃくちゃ人気があり、信頼されていたのでした

12月5日に二百三高地が陥落してからも、コンドラチェンコは部下達を励まし、闘争心をあおりました

部下達はコンドラチェンコのおかげで士気を保ってたのです

この日コンドラチェンコは東鶏冠山(ひがしけいかんざん)にいる将兵を励ますために視察にやってきました

そこへ日本軍が発射した砲弾を浴び、戦死してしまったのです

これによってロシア兵士たちの士気はものすごく下がってしまうのです

ちなみに・・・・ステッセルはめっちゃコンドラチェンコを気に入っていて、何度か誘ったそーですヨ( ̄ー ̄)

12月18日 第三軍 旅順陥落作戦を開始

二百三高地を占領して、やっとこさ正攻法で攻撃することができるようになった第三軍は、まず東鶏冠山の要塞を大爆発させました

そして歩兵部隊が突撃し、8時間の激闘の末占領することができたのです

ロシア軍は、上に書いたコンドラチェンコが戦死したことにより士気がめちゃくちゃ下がっていました

第三軍はそれを見逃さす、次々と東鶏冠山を占領した時と同じ作戦で攻略していくのです

第三軍快進撃

東鶏冠山の要塞を占領したのを皮切りに、29日にはニ龍山を、31日には松樹山を占領しました

そして残るは、望台のみとなったのです
ステッセル中将 「もうだめだ」

お気に入りのコンドラチェンコが死んでしまい、要塞が次々と日本軍に占領されていったロシアの最高指揮官ステッセルは、とうとうニコライ二世に「要塞を持ちこたえさせることができません」と電報

いよいよ、降伏する決意をしたのです

坂本龍馬の妻・おりょうが発見される

坂本龍馬の妻・お療が横須賀市に住んでいることがわかりました

発見(?)したのは、鈴木松次郎という青年

ある吹雪の日、仲がいい駄菓子屋の西村松兵衛という老人から「寒いから泊まっていけ」と勧められました

松次郎は好意に甘え、泊まることに

その松次郎の家に、一升瓶を抱えて飲んでいる豊満なおばあさんがおりました
それがおりょうだったのです

おりょうは、龍馬の死後、龍馬の姉・乙女と暮らしていましたが性格の不一致のため家を飛び出しました

西郷隆盛や海援隊のメンバーを頼り、上京しましたがいつまでもきちんとした生活をせず、そのうちお酒を飲まずにいられない生活に

そんな頃、神奈川の茶屋で松兵衛と出会い、一緒に暮らすように

おりょうが横須賀にいる!!ということで、付近は大騒ぎとなり、募金を募り始める人も現れました
ちなみに松兵衛はおりょうが龍馬の妻だったということを知らずに生活していたそうです

なんだか、龍馬が死んでしまったためにものすごく悲しい人生を送ってたんですね・・・


この年の出来事

・子供の間でメンコが大流行

・素人写真が普及する

・女性の間で203高地の髪型が流行

管理人ハガクレの超オススメ!!
二百三高地 [DVD]
二百三高地 [DVD]

ワタクシのマイDVDコレクションに加わっている「二百三高地」

まじ、オススメです!

めっちゃ豪華俳優が出演してますよ〜(今だとギャラいくらかかるんだ??なメンバー)

日露戦争に興味を持った方には是非みてほしい映画です!!