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明治38年 1905年  

日本・・・黒字  アジア・・・青字  アメリカ・ヨーロッパ・・・赤字



明治38年  1905年 年表
1月1日 第三軍 とうとう旅順陥落!!

とうとう第三軍が望台を奪いました

ステッセルはもはや降伏を覚悟しており、日の丸が午前3時30分に望台の頂上に掲げられると、すぐにロシア軍司令部屋上に白い旗が掲げられました

ロシア軍が降伏したのです

第三軍はとうとう、旅順を陥落したのです

この約150日間の間に、日本の戦死者は15390人 負傷者は43914人にもなりました

激しい戦いがここで幕を閉じたのです

1月2日 旅順開城

乃木大将とステッセルが水師営で会見することになりました

開城規約および同付録に調印し、戦闘行為が中止となったのです

さて、この時の会見で乃木のステッセルに対しての武士道精神が世界中の注目を集めました

乃木はステッセルとロシア軍の勇敢さを賞賛し、ステッセルを名誉ある武人として待遇

そして会見中最後まで帯剣を許したのです

ステッセルに対して名誉ある武人とした扱ったことは世界中の注目を集めたのでした

ルーズベルトの態度がビミョーに変わってました

とゆーのも、アメリカの世論がいつの間にかロシアびいきになってたからです

アメリカ国民は「日本の賠償金と領土の要求が多すぎる!ホントに平和を望んでるなら賠償金や領土割譲の要求なんてしないで妥協するべきなんじゃないの??」とゆー声が多かったからです


またアメリカは賠償問題で日本側を支持しなかった

なぜか??とゆーと、日清戦争で日本が清国から賠償金をゲットした時、海軍を拡張しまくって極東でNO1の海軍国となったから

もともとはロシアの極東進出を防ぐために拡張せざるを得なかったんだけどね(^^;)

とゆーことで、ルーズベルト大統領は「ロシアから賠償金をとったら、ますます海軍が拡張して西太平洋の制海権を握られちゃうかもしれない。そしたらアメリカが中国に進出する時に邪魔になるかも」と感じたのです

またこんな考えも
「もし日本が賠償金をとれなければ、日本の財政はめちゃめちゃになるだろうな。そしたら日本がロシアから得た南満州の権益を安く買えるかもしれない。そうすればアメリカは簡単に中国進出ができる」というもの

ほかにも、日本海海戦のパーフェクトな勝利に対し、ルーズベルトは日本海軍に対して、ちょっと脅威を持ち始めたといわれてます
クロパトキン 乃木を恐れる

旅順の要塞は絶対に陥落することのできない要塞だと思われていました

それをわずか6ヶ月で陥落させた乃木というのはいったいどのような勇将なのか??と、世界中が驚いたのです

それはクロパトキンも同じで、ものすごく乃木を恐れたのでした

1月22日 (第一次ロシア革命)血の日曜日事件

日露戦争の最中ですが、ロシアで事件が起きました

当時の首都であるサンクトベテルブルクで、労働者達が請願デモを起こし、政府が弾圧したのです

事の発端は1月16日にロシア最大のプロチフ工場の労働者解雇事件

労働者12800人がストライキを起こし、18日にはネヴァ造船所の6000人などがストに加わりました

そしてこの日、サンクトベテルブルクに6万人以上が集結したのです

労働者達の願いは

・労働者の保護
・日露戦争の中止
・基本的な人権の確立

といったものでした

先頭にいたデモ行進者が、コサック兵に通して欲しいとお願いし、争う気は少しも無いということを示したんですが、軍隊側はこれを拒否し空砲で威嚇し、やがて実弾で撃ち始めたのです

これに民衆は激しく怒り、弾圧する兵士と市民の間で多くの死者が出たのでした

そしてこの血の日曜日事件を境に、革命の波が全国に広がりロシア政府の威信は失墜していくのです

付け加えとくと、2月17日にはニコライ二世のおじさんが暗殺され、6月には戦艦ポチョムキンで水兵の反乱が起きます

明石工作

さてさて、表面では東郷や乃木、大山といった軍人が頑張ってますが、裏で活動していたのは明石元二郎大佐

ロシアの心臓部に攻撃を加えたといわれるほど、スパイとしてロシアを撹乱させました

明石の任務はロシアの情報収集と、ロシア国内に台等しつつある自由主義や社会主義などの革命勢力やロシアの支配下にあるポーランドやフィンランドの主義者をこっそりと支援し、反政府活動をさせロシア革命を支援し、ロシア国内をめちゃくちゃにさせることでした

山県有朋はなんと明石に現在の価値で400億円以上を工作資金として支給し、ロシア革命支援工作をさせました

明石の工作は着々と進み、だんだんロシア国内は不穏になっていきます

明石の活動は日露戦争中ずっと行われ、ロシア国内を不安にさせていきました

のちにロシア革命がおきますが、レーニンは「日本の明石大佐には本当に感謝している」と言ったり、ドイツのウィルヘルム二世は「明石一人で満州の日本軍20万人に匹敵する戦果をあげた」とも言っています


こう着状態の沙河の様子

沙河で対陣していた両軍は去年10月から膠着状態が続いていました

めちゃめちゃ寒いので、両軍とも壕を掘って土の中に潜っていました

両軍とも補給を待っている状態で、特に日本軍は旅順攻略に力を入れまくっていたためこっちには全く補給が送ってこれない状況に陥ってました

特にロシア兵の横暴が目立ち、近くの村に襲い掛かっては食糧や女性を奪っていたそうです

この状態の中、ロシアのクロパトキンは、新たに着任してきたグリッペンベルグ大将にライバル意識メラメラ

これがある意味、日本にとってはラッキーな事となります

グリッペンベルクはというと、ここで日本軍へ大攻撃を行うことを計画したのです

この頃のロシア軍の状況

さてさて、ロシア国内では日本に負けっぱなしなので、めっちゃブルーでした

でも日本は沙河で膠着状態が続いてからはというもの、行動を起こすことは無理

なんせお金がないのです

そのため砲弾等も作れない状態

ロシアはまだまだ国力に余裕があって、新たに兵力や物資をシベリア鉄道を使って送り込むことができました

が、新たにやってきたロシアへいたちは、本国で「戦争やめろ」ムードが高まってたので、今までいる兵士たちにアレコレと現在のロシアの状況を教えました

そのためロシア軍の中に不満がだんだん出てきている状態で、士気が下がっていったのでした

ミンチェンコの8日間

クロパトキン大将は、ミンチェンコ中将に日本軍の様子を偵察してこい!と命令

ミンチェンコは日本軍に向かって進軍を開始しました

途中で日本軍とバトルがありましたが、目的の偵察は大成功

なんと日本軍の物資を焼き払い、ただでさえ物資が少ない日本軍を大ピンチに陥れたのです

さらにミンチェンコの偵察により、ロシア軍は日本軍の弱点を発見

最左翼にいる秋山好古(秋山真之のお兄さんだよ)率いる秋山支隊のいる場所が布陣が薄く、一番攻撃しやすいというコトに気がついたのです

1月22日 ロシア軍 攻撃開始

マイナス30度という寒さの中、グリッペンベルグ大将が10万もの兵を率いて攻撃を開始しました

黒溝台を守っていた秋山好古は、騎兵をたびたび出してロシア軍の奇襲の動きを察知しました

そして立見中将率いる第八師団が応援にかけつけました

が、すでにロシア軍が大量にやってきたため、第八師団は秋山支隊を応援するどころか、自分達も危険になってきてしまったのです

1月28日 ロシア軍 なぜか退却する

この戦いは本格的な会戦に発展しませんでした

何度か小競り合いはあったものの、ロシア軍が意味不明の退却をしたからです

たぶん、クロパトキン大将は「もうすぐここに乃木率いる第三軍が合流してくる」と思ったんじゃないか??と言われてます

あの旅順の要塞を陥落させた乃木のことをクロパトキンは恐れてましたからね

このロシア軍の退却は、ものすごく兵たちの士気を下げることになってしまったのでした

2月 第三軍 合流する

第三軍がとうとう合流しました

いよいよ、ロシアの拠点である奉天(今は遼陽という都市名)への攻撃準備が始まります

奉天の会戦は、日本軍が24万 ロシア軍が30万という史上最大の陸戦となります

2月22日 日本が「竹島」を島根県の所轄に定める



3月1日 日本軍 奉天包囲スタート

日本軍が奉天包囲作戦をスタートさせました

ロシア軍をおびき出させるために、乃木率いる第三軍と秋山支隊がロシア軍右翼を攻撃

で、この会戦の直前に第五軍である鴨緑江軍を編成し、左翼を攻撃

両方から攻撃されたら、ロシア軍は援軍を送るだろうから、手薄になった正面に日本の大兵力を持っていこう!と考えました

が、実際はロシア軍の反撃にあい激しい攻撃をしたにもかかわらず進展なしでした

そのため第三軍は作戦変更し、奉天の後方に回り込み、ロシア軍の退路を断つことに

クロパトキンの勘違い

クロパトキン大将はというと、旅順を陥落させた乃木大将率いる第三軍をめっちゃ過大評価してました

左翼を攻撃した第五軍(鴨緑江軍)のことを第三軍と勘違いして、ここに多くの兵力を集結させました

ところが、第三軍は奉天の後方に回り包囲しようとしてたのです

それを知ったクロパトキンは、急遽作戦変更し、集結させたロシア軍を乃木のいる第三軍へ送り込みました

増援しまくったロシア兵は10万もいましたが、苦しい中第三軍は3万8000人の兵で頑張って戦いました

日本軍絶体絶命

日本軍は必死で戦っていましたが、やはり大砲も兵力も大きく上回っているロシア軍に苦戦を強いられました

次第に日本軍の被害が拡大し、ロシア軍の防衛線に対して日本兵の死体の山が大きくなってきたのです

日本兵の中には、逃げ出す人も現れてきました

このままじゃ負けてしまう!!と焦った児玉参謀長は、第四軍と第二軍に奉天へ前進させることにしました
3月9日 午後7時50分 ロシア軍退却

この日、第三軍はロシア軍からの攻撃を半狂乱状態で戦い、持ちこたえました

なんとか崩れることなく、ロシア軍の大攻撃を阻止したのです

そしてお昼頃から、奉天では記録に無いほど凄まじい砂嵐となりました

児玉参謀長は、第四軍に対して第三軍の背後に回って援護するよう命令

クロパトキン将軍は、第三軍が強化されたことを知り、突如全軍に鉄嶺方面へ退却を命じたのです!

これに日本軍は驚きました

まだまだ余力があるまさかロシア軍が退却するとは思っていなかったのです

3月10日 日本軍 奉天を占領する

日本軍は奉天へなだれ込みました

そして退却するロシア軍に砲弾を浴びせました

ロシア兵の撤退がまだ完了していなかったので、数千人のロシア兵が逃げ遅れ、殺されたり捕虜となったりしました

この奉天での戦いによる日本の死傷者は7万人で、ロシアの死傷者は9万人となりました

戦後になりますが、日本陸軍が奉天を占領した3月10日は陸軍記念日になります

日本軍はもう限界

予想しなかったロシア軍の退却により、日本軍は奉天を占領しました

ロシア軍は鉄嶺まで下がったんだけど、もはや日本軍はこれ以上戦うことはできない状態となりました

日本軍とロシア軍はここでにらみ合い体勢に入りましたが、ロシア軍はシベリア鉄道を使ってガンガンと戦力増強することに

が、日本軍はこれ以上戦力増強することはできませんでした

ロシア軍「降伏はしない!」

奉天会戦に敗北しましたが、ロシアは降伏しませんでした

奉天会戦の後、寺内正穀陸軍大臣が「日本は戦争終結の意思がありますよ〜」とアメリカに伝えました

で、アメリカのルーズベルト大統領も露西亜に「そろそろ講和したほうがいいんじゃない?」と言ったんだけどニコライ二世は「ロシアにはまだバルチック艦隊がある!!」と、講和に応じませんでした

ところでバルチック艦隊はどうなってるの??

去年5月に日本へ向けて出港したバルチック艦隊はというと、ほんとは順調に行けば3ヶ月くらいで日本海に現れる予定だったのというのに、予想より遅れまくってました

去年起きたドッガーバンク事件の影響で、イギリスがバルチック艦隊が寄るはずだった港とかに「石炭とか補給するな!」と妨害をしてたからであります

やっと旅順近くを来た頃には、すでに旅順は陥落しており、旅順艦隊と合流するという構想が崩れてしまいました

ロジェストウェンスキー司令官は「日本海へ遠征中止したほうがいいんでは??」という意見を出したんだけど、ニコライ二世に大反対されてしまいました

そしてとうとう奉天会戦でロシア軍は敗北

さらに1月に起きた「血の日曜日」事件によって、ロシア国内は殺気だってました

バルチック艦隊も影響を受けていて、マダカスカル島に停泊中のときに造反事件が起きたり、巡洋艦でもいきなり兵隊の反乱が起きたり・・・

この頃、バルチック艦隊内はめっちゃいらだっていたのです

ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー 「自分をやめさせてほしい」

ロジェストヴェンスキーは軍医の父のもとで生まれ、海軍幼年学校へ入学し、優秀な成績で卒業した後中尉となりました

そして海軍参謀総長となり、ニコライ二世の信頼を得てました

バルチック艦隊の司令長官となりましたが、戦況が進むにつれ実はロシアは日本に勝てないと思っていました

そのため「遠征中止したほうがいい」と言うんですが却下され、自分をやめさせて欲しいとまで言いました

この頃、奥さんに書いた手紙には

「わが艦隊はいったいどこに行こうとしているのか。もはやロシアに残された唯一の占領となってしまった。ああ不運なロシアよ」

日本海海戦へ〜日本海軍悩む「どこから来るのか??」

バルチック艦隊が日本海へ近づいてくることにより、日本の連合艦隊はものすごく緊張感漂っていました

連合艦隊は、朝鮮半島の釜山近くの鎮海湾に集結していて、「バルチック艦隊はどこからくるのか?」と悩み中

そして連合艦隊司令部の出した考えは

「ひとまずウラジオストクに入って、長旅の疲れをいやすのでは?そして戦闘に備えるために船の整備をするだろう。ウラジオストクに向かうには対馬海峡を通るコース、宗谷海峡を通るコース、津軽海峡を通るコースがあるが、対馬海峡が一番近道なので、きっとここを通るだろう」

ということで、対馬海峡に多くの仮装巡洋艦を配置し、バルチック艦隊が現れたらすぐに連合艦隊総司令部に無線通信で連絡することになっていました
5月19日 バルチック艦隊 ルソン海峡を通過

バルチック艦隊が台湾とルソン島の間にあるルソン海峡を通過したという情報が入りました

が、その後の消息が全くわかりません

何事もなく順調にすすめば24日か25日には対馬海峡に現れるはずでした

が、現れてもいいはずのバルチック艦隊がなかなか対馬海峡に現れないため、連合艦隊司令部はめちゃくちゃ焦りました
5月25日 バルチック艦隊どこいったんだ!?

いつまでもバルチック艦隊が現れないことに焦った連合艦隊司令部

どうする??どうする??と、各艦隊の長官と参謀長が戦艦三笠に集まり会議をすることに

そこで第二艦隊司令官の島村速雄(はやお)少将と第二艦隊参謀長の藤井軟一(こういち)大佐が「ぜーーーーったいに対馬海峡を通る!!津軽海峡への移動はまだ待ったほうがいい」と意見

東郷平八郎らは、この2人の意見を聞き入れることにしました

26日 東シナ海でバルチック艦隊を発見

それでも東郷平八郎はめっちゃ迷ってました

そこへバルチック艦隊の石炭運送船など8隻が上海郊外の港に入校したという情報がきたのです

これにより、バルチック艦隊は太平洋ではなく東シナ海を北上していることがわかりました

こうして津軽海峡で待ち伏せすることが決まったのです

5月27日 午前2時45分 信濃丸 バルチック艦隊発見

見かけは商船なんだけど、大砲などを武装している仮装巡洋艦の「信濃丸」が、対馬海峡の入口にあたる五島列島の東側海面でバルチック艦隊の灯火を発見しました

信濃丸は霧がたちこめる中、近くまでいって確認し、「敵艦隊らしき煤煙を発見」と、第一報を発したのです
連合艦隊司令部 「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

信濃丸以外の仮装巡洋艦も、次々とバルチック艦隊の監視に加わり、刻々と位置を打電し続けました

そして連合艦隊司令部は大本営軍令部へ出撃を打電したのです

「敵艦隊見ゆとの警報に接し 連合艦隊はただちに出動 これを撃沈滅せんとす 本日天気晴朗なれども波高し」

この秋山真之作戦参謀の「本日天気晴朗なれども波高し」は名言ですね〜

意味は「今日は視界がいいケド波が高いので、射撃の命中率に自信があるこちらの方が有利である」

バルチック艦隊 乾杯で士気をあげる

バルチック艦隊はというと、日本の艦隊に発見されたことに気がつきました

ロジェストウェンスキー長官は、将兵らに着替えるよう命令し、全員で祈りを捧げました

そしてシャンパンとラム酒で勝利を乾杯し、士気を高めたのです

日本連合艦隊はバンザイを唱える

同じく連合艦隊も隊の塩焼きや色んな珍味を出し、菊正宗で乾杯しました

そして「天皇陛下万歳!!日本海軍万歳!」と唱えたのです

正午 連合艦隊 バルチック艦隊と遭遇

バルチック艦隊が対馬東水道の中央にやってきた時、第一艦隊所属の大三戦隊が出てきました

バルチック艦隊はこれを包囲しようとしましたが、失敗

そしてこのとき、今までの一本単縦陣が二本単縦陣になってしまったため、バルチック艦隊は一本の単縦陣に戻そうとしました
午後1時30分 

バルチック艦隊が一本の単縦陣に戻している時、はるか前方に東郷の主力艦隊を発見しました

その9分後に東郷の主力艦隊もバルチック艦隊を発見

東郷平八郎は先頭にいる「三笠」に乗っていて、艦隊を西に変針させてZ旗を掲げました

皇国の興廃この一戦にあり 各員一層奮励努力せよ

東郷が掲げたZ旗には意味がありました

あらかじめ、Z旗を掲げた時の意味を海軍全体に教えていたのです

それが「皇国の興廃この一戦にあり 各員一層奮励努力せよ」

東郷ターン

東郷はバルチック艦隊を眺めながら、小刻みに変針させていきました

バルチック艦隊とすれ違いながら砲撃しあうといった感じの動きで、ちょっとづつ近づいてきました

そして距離が8000メートルになった時、東郷がさっと右手をあげたのです

側にいた加藤参謀長が三笠艦長の伊地知艦長に「面舵いっぱい!!」と指示をしました

この敵前の大回頭により、連合艦隊の12隻は直進してくるバルチック艦隊に横を見せてしまったのです

バルチック艦隊は「しめた!!!」とばかり、次々横腹を見せている日本の軍艦へ砲撃を始めました

この瞬間、バルチック艦隊内では「東郷は気が狂った!こっちの勝ちだ!」と勝利を確信しました

砲弾が次々と三笠の周辺に落下し、大きな水柱を上げました

それでも東郷は動かず、距離が6000メートルに近づいたところで、射撃を命じたのです

丁字戦法

縦一列に並んでやってくるバルチック艦隊に対して、連合艦隊は「丁」の形になるよう味方の艦隊と連動させました

が、第三・第四戦隊がたーんするとみせかけ、南へ向かい、三笠の左側にいた第五戦隊と第六戦隊もこれに続きました

バルチック艦隊の後ろに回って攻撃するためであります

これが「乙字戦法」

図とかがないと、わかりずらいんだけど、とにかく東郷は敵前になっていきなり横向きになったんです

で、この頃の軍艦は主砲の4門は艦首と艦尾にあって、左右どちらでも砲撃できるんだけど、他の副砲は左右に固定してあったので、敵の艦隊に対して真横にいけば主砲も副砲も撃てて命中率も高いのであります

でも、丁字を書くのは実際難しく、しかも敵前での回頭というのはめちゃくちゃ危険で考えられないこと

ソレを今回やってのけたのです

14時 バルチック艦隊大混乱

先頭にいた三笠に続いて、次々と後ろにいた艦も回頭を始めました

14時10分には連合艦隊の先頭部は回頭を完了させました

そしてバルチック艦隊めがけて射撃開始したのです

連合艦隊が狙い撃ちしたのは先頭艦の「スワロフ」と「オスラビア」

そしてスワロフの司令塔に砲弾が命中しました

ここでロジェストウェンスキー長官が重傷を負ってしまったのです

司令長官がいないバルチック艦隊の行動は混乱状態に!

午後3時10分 オスラビア沈没

午後6時 アレクサンドル三世が列の外に脱落し沈没

午後7時30分 ボルジノが火災で沈没

午後7時30分 スワロフ沈没

そして、特務艦ルーシとカムチャッカも沈没し、イルツイシが大破となったのです



夜戦でも日本が有利

夜の7時30分すぎ、東郷は主隊の戦闘を終わらせるよう命令し、翌日のために鬱稜島沖へ向かいました

そして駆逐艦21隻・水雷艇32隻を出し、夜戦が行われたのです

ここでバルチック艦隊の巡洋艦ナヒーモフ、戦艦シソイウェリーキとナワインを沈没させました

もはやバルチック艦隊は壊滅状態となったのです
5月28日 連合艦隊完全なる勝利

一夜明け、ロシア艦隊はもはやネボガトフ少将率いる第三艦隊のみとなっていました

生き残り戦艦の「アリヨール」を出そうとしましたが、照準させる機械が狂っていて戦える状態ではありませんでした

連合艦隊は夜明けとともにバルチック艦隊を探しました

そして午前9時半に戦艦ニコライ一世とアリヨールを中心とした5隻の艦隊を発見

1時間ほど砲戦が続きましたが、後ろから連合艦隊がやってきたので、もはや逃げることはできないと観念しました

とうとうバルチック艦隊は、降伏したのです

連合艦隊の完全勝利となったのでした

世界中が驚愕!!!バルチック艦隊壊滅

日本海海戦で日本が勝利したというニュースは世界中を駆け巡りました

この時の各国の新聞の様子を紹介します


イギリスのロンドンタイムス・・・今やロシアは海軍国としての地位を失った!

イギリスのスタンダード紙・・・もはやロシアは極東で優位を回復することは絶望的である。講和に応じるべきだ

アメリカのニューヨークタイムズ・・・小人が巨人に勝った

アメリカのニューヨーク・サン・・・この海戦は20世紀における文明世界体制を大きく変えた

フランスのル・タン・・・敗北に敗北を重ねた上に、またも敗北なのか。これが最後になるだろうか

フランスのレピュブリック・フランセーズ・・・日本の勝利は太平洋に大海軍国が出現したことを意味する。これからの列強の同盟関係に変動が生まれるであろう

フランスのユーマニテ・・・日本の勝利はロシア人民の自由に対してとても重要である

ドイツのフォッシッエツァイイング・・・ロシアは今日まで陸上の戦いで成功せず、海戦に成功にかけていたが、バルチック艦隊も消滅し、今後極東で海軍力を回復することは当分不可能であろう

ロシアのノーヴォエ・ヴレーミヤ・・・外国では少しでも早く講和条件を結ぶよう忠告しているが、ロシアの威力は常に陸軍にある。自殺することはいつでもできるように屈辱的な講和ならいつでもできる。戦争を継続するべきだ

ロシアのサン・ペテルブルク・・・我々を襲った不幸は厳しいが決定的な結論を出すのは間違っている

インドのベンガル新聞・・・わが国も英国の従属や永遠の保護は不要である。我々も日本人と同じように訓練を受ければいいのかもしれない。米を主食とした人口3億もある我々にできないはずがない

ロシアの敗因は??

バルチック艦隊が敗北することは誰も予想してませんでした

まして壊滅といったこてんぱんにやられた状態になるとは、信じられないことでした

敗因は何なんだろう??と、まとめてみると

・イギリスの強い干渉があり、寄港するところがあまりなく、休養もできなかった

・寄港することができなかったため、整備も不十分で戦艦の底に貝殻が多数ついてしまい、速度が低下してしまった

・休むことができなかったため、艦内は病人がたくさんいた

・ちょうどロシア国内で労働者の革命があったため、乗組員もその気持ちが浸透していた

・予算節約のため、乗組員の訓練を少しの間しかしなかった

・兵隊の交代が多すぎた

ルーズベルト大統領 電報を送る

日本海海戦の日本勝利を聞いたルーズベルトは、金子堅太郎あてに祝賀電報を送りました

電報の最後には「万歳」とありました

ちなみに金子堅太郎は伊藤博文の信頼を得て法務大臣なんかをやった法律家

ルーズベルト大統領とはハーバード大学の同級生なのであります

でもって6月7日に金子と会った時

「自分は心から祝福している。世界未曾有の勝利だ!第一報を聞いたときは信じられなかった。が、第二・第三の確報を知ると神経が高ぶり、全身が日本人と化し、公務を処理することも忘れてただ来訪者に対し海戦の状況を談話して一日を送ってしまった」と語りました

また、ワシントン公使館付き海軍武官の竹下勇中佐はルーズベルトに日本海海戦勝利の報告に行きました

ルーズベルトは竹下中佐の手を固く握り「貴国の海軍の成功は喜びにたえない。この海戦はトラファルガー海戦に比すべく、驚異的であり画期的である。万歳」と言いました
各国の気持ち〜ポーランド〜

ポーランドは1772年にロシア・オーストリア・プロイセンによって分割され、本土の4分の1を失ってしまい、1893年にはもはや旧領地の三分の一を残すのみでした

1894年に国民は挙兵したんだけど、失敗してほぼロシア・オーストラリアに支配される国となってました

そんなポーランドは今回の日論戦争勃発をものすごく喜びました

日露戦争がロシアのポーランド支配に変化をもたらしてくれるのでは??と期待し、ヨーロッパの中で一番日露戦争勃発を喜んだといわれています

ポーランド国内の革命派指導者などは日本に接近し、スパイ活動を行っていた明石は彼らを援助しました

そして日露戦争から13年後に独立を認められることとなります

日本の勝利をいかにポーランド人が喜んだかについて、オーストリア公使の牧野という人が手記を残してますのでちょこっと紹介

「ポーランドにいる伯爵が、遊びにこないかというの遊びに行った。すると軍人のような人が迎えに来てくれて、ものすごく歓迎してくれた。宿の主人が「村長があなたにお目にかかりたい」というので会うことにした。彼らは同胞を代表して天皇陛下にお礼を言いにきた。ロシアが日露戦争に負けた結果、ポーランド人に対する束縛がゆるくなり、結婚の自由やポーランド語教育や土地所有権も認められた。これは日本の皇帝陛下のおかげです」

ポーランドでは、本当に日本勝利を喜んだそうです

各国の気持ち〜オーストリア〜

この頃のオーストリアは、ポーランドの一部とボヘミア王国やハンガリー王国を支配下においていました

ロシアに対しては恐怖感を抱いていて、表面上は好意的態度を示していました

国内ではボヘミア系の貴族やなどはロシアを応援していて、ボヘミア王国首都のプラーグでは日本を支持しているイギリス・アメリカの領事館前に集まって非難しまくってました

が、ポーランド系やハンガリー系の国民は日本を支持してました

特にハンガリー系は熱狂的に日本を支持してました

各国の気持ち〜スゥェーデン〜

スゥェーデンは、ロシアのことが大嫌いでした

1809年にフィンランドをロシアに奪われ、1854年のクリミア戦争ではイギリス・フランス側についてロシアの侵入に備えるなど、ロシアに対して恐怖と恨みを抱いてました

そのため、スゥェーデンでは多くの国民が日本を支持していました

去年、日本がロシアと国交を断絶しペテルブルクにいた日本公使館員が日本に帰る途中、ストックホルム駅を通ることに

すると駅のホームには、公使館員ら一行を歓迎する人々が多く集まっていて、なんとスゥェーデン国王オスカル二世までやってきて「自分はこの度のことについては何も言わぬ。言わぬが私の心はわかっているであろう」と語りました

最初っから日本を応援してたんですね

各国の気持ち〜フィンランド〜

フィンランドは1809年にロシアの支配下におかれました

1904年にはフィンランド憲法が廃止され、ロシア化がものすごい勢いで進められました

国民はものすごく怒り、ロシア化を進めた総督が暗殺されたり、大規模なストライキが起きたりと、国民は反ロシア感情が高まってました

フィンランドはロシアの敗北を願い、戦争中はロシアの敗北ニュースが伝わるたびに独立の希望が高まっていきました

日露戦争でロシアが敗北したことにより、フィンランド国民は立ち上がり、次第に独立の夢を見るように

そして1917年に独立することとなるのです

ちなみにこの時のフィンランド独立の英雄となったマンネルハイムは、なんと帝政ロシア軍の騎兵師団長として乃木大将率いる第三軍と戦ったことがありました

この時マンネルハイムは第三軍に負けたんですが「日本のような小さな国でも国民が団結すれば大きな国に勝てるんだ」という教訓を得たのでした

あのヒトラーも大感激!

当時オーストリア領だったブラウナで生まれたヒトラーは、日本の勝利をものすごく喜びました

ヒトラーの伝記からちょこっと抜粋

「日本海海戦があった時、私は小学生だった。
クラスのほとんど全てはオーストリア人で、日本海海戦のロシア敗北のニュースに皆、落胆していた。が、私は歓声をあげた。
それ以来、私は日本海軍に対して特別な感情を持っていた」

各国の気持ち〜フィリピン〜

フィリピンはアメリカの植民地でした

アメリカはフィリピンを植民地にする時、10万人以上の人々を殺し、ルーズベルト大統領までもが「土地が赤色・黒色・黄色の先住民所有者の手から離れ、世界の主流民族である白人のものになることは大事なこと」とまで言ってました

ルート陸軍長官も「フィリピン人は茂みの中にかくれいているゴリラだ」とまで言いました

「フィリピン人に良い奴はいない。唯一良いフィリピン人は死んだ奴だ。捕虜はとるな。弾丸は米より安いんだから」とまで言いきる人がいたほどでした

そんなフィリピンは、日露戦争前から日本に期待をしてました

というのも、日本が鎖国を破ってからめちゃくちゃ短期間で近代国家に成長したからです

フリピンでは、新興国である日本がアジアの仲間として援助してくれるのでは?という気持ちがいっぱいあって、今までヨーロッパに亡命していた人たちは日本に行くようになっていたのです

各国の気持ち〜ベトナム〜

ベトナムは1887年にフランスの植民地になりました

ベトナムは日本の明治維新や近代化を尊敬していて、日本に学ぼうとしており、日本に大きな期待と敬意を持ってました

ベトナムの民族主義者であるファン・ボイ・チャウは、福沢諭吉を尊敬していて、「福沢諭吉や吉田松陰の崇高な維新の事業をわが同胞は心にとめないのであろうか??」といった言葉も残しています

また、彼が残した本にはこのように書かれてます

「わが祖国は異国人によって永久に分割され、人々は蹂躙され続けるだろう。だが、アジアには大国がある。それが日本だ。日本は米国の虎やヨーロッパの鯨の横暴に対して、黄人種として初めて歯止めをかけた。なぜそれをなしえたか?その答えは東京にある。東京はアジアの留学生で溢れている。ベトナムの青年たちも日本へ行き、日本に学べ。」


そしてこの日露戦争の日本勝利はベトナム人に独立への夢をかきたてました

「黄色人種の長男」である日本が「白人人種に抑圧されている弟」に援助の手を差し伸べてくれることを願っていたのです

各国の気持ち〜インド〜

インドはイギリスの植民地となっていました

日露戦争が始まってから1ヵ月後、インドのボンベイにある日本の領事館からこのような書類が届きました

「日露戦争が勃発すると、インドでは兵士・医者・看護婦が日本軍に従軍してともに戦いたいと申し出る人がたくさん現れました。また、日本政府に仕官を望む人、武器や食糧などの供給を願い出る人が多く、断るのに困っています」

インドでは、ロシアに宣戦布告した日本をすごく尊敬し、アジア民族が受けてきた汚名や恥辱を除いてくれると信じたのです

インドでは日本の勝利が伝えられるたびに興奮して、村から村へと伝わり、皆が日本の勝利に興奮したといわれています

またカルカッタでは旅順か陥落されたというニュースを聞くと、イルミネーションが飾られました

そして日本の勝利はインド人の独立心を奮い立たせました

何事も日本に学ばなければならないとし、日本の勝利の理由を分析したりと研究をしたのでした

各国の気持ち〜トルコ〜

トルコはオスマン帝国時代からずーーーっとロシアの南下政策に悩まされ続けてました

なんせ国境を接しているので、ずっと領土を侵略され続けてたのです

庶民は断然日本を応援していて、日本が勝利した時は大騒ぎ

「トーゴー」や「ノギ」といった名前をつける人がたくさにました

またイスタンブールには「トーゴー通り」まで出来て、お店の名前にも「トーゴー」が多く使われました

が、トルコ政府は違いました

とゆーのも、ずっとロシアに侵され続けてきたので、ロシアのことを恐がっていており、あまりロシアを刺激するような態度はしちゃいけないと思ってました

日露戦争の報道を新聞に掲載するのをきんししたり、ロシアの敗北に同情を示したり

それにロシアの関心が日本に向いている間は、トルコは侵略を受けずにすむので、ロシアの気分を害さないように必死だったのでした

各国の気持ち〜エジプト〜

フランスやイギリスに支配されていたアラブ人たちは、日本の勝利をものすごく喜びました

黄色人種が認められることによって、黒人も褐色人種も認められるようになる!と、とても喜んだのです

エジプトの作家、カーミルは日本のように強大な権力のもとに民主主義的精神を高揚させれば、イギリスの支配から脱して独立できると、エジプト人を励ましました

また中国の孫文が日本海海戦の後に吸えず運河を渡った時のエジプト人の様子を書いてます

「たくさんのアラビア人が私が黄色人種であるのをみて、(あなたは日本人ですか?)と訪ねてきた。(私は中国人です。何かあったんですか?)と聞き返すと彼らはとても嬉しいニュースがあったのだ。なんでも日本がロシアのヨーロッパから派遣したという艦隊を全滅させたそうだ。今までわれわれ有色人種は西洋民族の圧迫を受け、苦痛をなめつづけてきた。だが、有色人種である日本が戦いで勝ったのだ。われわれも立ちあがらなければいけない。これを歓喜せずにいられないではないか」

とにかく世界中が沸き立ちました

日露戦争の勝敗は、全世界が見守っていました

特に支配され続けていた有色人種にとって、日本の勝利は本当に嬉しかったのです

日露戦争のニュースはアフリカにも伝わり、南アフリカのネルソン・マンデラ首相までもが「日本に行きたい。天皇陛下にお会いしたい」と毎日言っていたといわれています

個人的な意見ですが、日露戦争の時の日本軍ってなんだかいいですよね

これから起きる太平洋戦争とは全然違って、なんか「武士道」部分がすごくあるというか・・・

国民もまだ軍に対して声をあげれる時代だし、アレコレと政府に不満を言える時代だし

この勝利がいい方向に進んでいかなかったのがものすごく残念です

アジアのリーダーとなって、理不尽な支配から解放させるような国になっていけばよかったんだけど、これからは列強のマネをして日本も植民地をゲットしようと動いちゃうんだもんなぁ

それが時代の流れなので仕方ないんだけどさ


6月1日 日本 講和へ動く

日本海海戦の勝利は日本にとって講和のチャンスでした

小村寿太郎外務大臣はルーズベルト大統領に講和の仲介をお願いしたのです

ルーズベルトはもちろんOKし、駐米ロシア公使のカッシーニを通じて和平勧告をしました

が、返事はイマイチあいまいで、ロシアはまだ講和しようとしてない感じだったのです

ルーズベルトも日本政府もあてが外れてビックリしたのでした
援軍登場!ウィルヘルム二世

ロシアはまだ講和する気がないのか〜と思われたとこに、強力な助っ人が現れました

それがドイツのウィルヘルム二世であります

ロシアのニコライ二世のイトコでもあるウィルヘルムが、11歳年下のニコライ二世に
「もう講和したほうがいいよ。アメリカは日本が唯一尊敬している国だよ?私はルーズベルトと仲良しだから、内密に連絡を取って君を援助してあげるから!」

こうしてニコライ二世はとうとう講和することを決めたのです

6月9日 ルーズベルト 和平勧告する

両国の気持ちが固まったので、ルーズベルトは日本とロシアに対して和平を勧告しました

で、日本でも新聞に報道されたんだけど、日本国民はこれをルーズベルトが勝手に講和を提案したと思ったのであります

日本軍は戦場では勝っていたけど、すでに財政は火の車で、これ以上戦争が長引けば砲弾も造れない状況だった

そーいったことを政府は国民にひた隠ししてました

で、日本政府は早く講和を結ばないとどーにもなんなかった

そんなこと国民は全く知らないので、これから結ばれる講和条約の内容をめっちゃ不満に感じることとなるのです

6月12日 日本からの過大な要望

講和会議を行うことが決まると、日本の新聞や雑誌には講和条約に関する内容でいっぱいに

この日発売した時事新報では、法学博士である高崎作衛による掲載がありました

「ロシアは敗北を認めないらしいが、こちらも講和の必要はない。一気に追い上げ殲滅させるべきだ。もし講和するのであれば、これまでの戦果から考えると

・ハルビンから南地域の割譲
・カムチャッカと樺太の割譲
・賠償金は20〜30億円
・遼東半島の引渡し
・朝鮮と満州における日本の権益の確立
・ロシアの極東への艦艇配置を禁止

以上を要求するべきである。
ウラジオストクは自由貿易港にするという意見があるが、絶対にダメである。ウラジオストクをロシアの領有権そのままにしておけば、かならずや元の木阿弥となる。
ロシアは特に領土欲の強い国である。ウラジオストクは日本の軍港にするべきである」

ほんとはこれ以上無理なんだよね・・・by日本

日本国内では、日本海海戦の完璧な勝利に酔いしれていましたが、日本の指導者たちは兵力も財力も国力の限界だったので、これ以上戦争を続けられないことをわかってました

8月9日 講和会議スタート

ルーズベルトの斡旋により、ポーツマスにおいて講和会議が開かれました

日本からは小村寿太郎・高平小五郎駐米公使

ロシアからは元蔵相ウィッテ・前駐日公使ローゼン

そしてアメリカ国民はどーなっていくのか?と興味津々でした

簡単に決まったことは

・韓国(当時の朝鮮王朝の国名)は日本が自由に処分する
・ロシア軍は満州から撤退する
・ロシアが清国から租借していた遼東半島と長春〜旅順間の鉄道を譲ること

これは簡単に決まり、日本はロシアの三国干渉によって清国に返還した遼東半島を獲得することができたのです

でもって、ロシアが「絶対にこれはしない!!」として譲らなかったのが

・サハリンを日本に割譲すること
・賠償金を払うこと

日本は日露戦争の目的だった韓国単独支配権と遼東半島を戻してもらうってことを達成したから、この2つは「要求が多すぎない??欲が深くない?」と言われちゃったらそれまでなんだけど、まぁ勝った国が賠償金と占領地の割譲を要求するというコトは、この時代の帝国主義的な戦争では常識でしたからね

雲行き怪しい講和会議

日本は上に書いた2つの条件を、「ロシアは応じないかもな〜」と思ってたので、講和の「絶対条件」には入れてませんでした
いちおーは「比較的必要条件」として出したんですね

ロシアはというと、「ロシアのメンツにかけても、この2つは絶対に応じない!!」と決めてて、交渉はなっかなか進みませんでした

ケド、日本も「勝った国」として、そう簡単にイエスとはいえない

なんせ日本国民の願いは「賠償金」に集中してましたからね

ということで、なかなか交渉が進まないため、ルーズベルト大統領は賠償金の専門家に聞いてみては??と、妥協案を進めたりしたんだけど、ロシアの全権であるウィッテは「NO!!一円も払いません」と却下したのです


アメリカ世論はロシアへ

さてさて会議が進むに従い、アメリカの新聞は日本の要求が多すぎる!!と非難しはじめました

残念ながらそこには、黄色人種に対する人種差別がなくはないですけどね

なぜこのような意見が出てきたかというと、ウィッテが「和平交渉が行き詰っている。その理由は日本が賠償金を要求してきているからだ」と、アメリカの新聞記者に訴えだしたからです

このウィッテの工作は成功し、新聞ではこのことが繰り返し報道されるように

そしてアメリカ世論は急激にロシアに同情するようになってきてしまったのです

会議当初はほとんどが日本の味方だったんだけど、後半は完全に逆転

ウィッテの社交性と雄弁な語り(ウィッテの舌は10万の兵に値するとまで言われました)、そして日本全権団の秘密主義と非社交性が完全にアメリカの世論をくつがえしてしまったのです

そしてロシアは12億円の戦費賠償要求をカンペキに拒否してきました

ルーズベルトもアメリカ世論に巻き込まれていっちゃいます

こうして日本は戦争には勝ったけど、外交では思いっきり敗北してしまったのでした

8月20日 孫文 東京で中国革命同盟会結成
8月22日 「もう賠償金は放棄したほうがいいよ」

最初アメリカ世論は「弱小日本が文明と正義の御旗をかかげ、強大なロシアに立ち向かっていく」といった感じで、「弱いのに頑張るな!応援するぞ!」といった感じでした

それがウィッテの工作により、だんだん「日本の文明のために戦ってたくせに、結局お金が欲しいのかよ!」的な世論に代わってきたのです

これはアメリカ世論を日本幻滅に向かわせ、さらにはこれからアメリカは「排日運動」まで突き進んでいくのです

そしてとうとうルーズベルトが「もう賠償金は放棄したほうがいいよ」と、勧告してきたのでした

8月28日 御前会議

ルーズベルト大統領から賠償金を放棄するよう勧告を受けた金子堅太郎は、すぐに日本に連絡

日本では御前会議が開かれ、「仕方ない。賠償金の件は放棄しても講和を成立させよう」と決まりました

ルーズベルトから勧告があって1週間で賠償金とサハリンをあきらめましたが、いかにこれ以上戦争を続けるわけにはいかない!という日本の国力がよくわかります

ルーズベルト ニコライ二世を説得

日本に勧告したルーズベルトは、一方では必死にニコライ二世の説得をしてました

イギリスのルーヴィエ首相といった人脈を生かし、ニコライ二世を説得

さすがにこれだけの説得を受けたニコライニせいは、「サハリンの南半分なら割譲してもいいかな」といったセリフも吐くように

この情報はすぐさま日本政府へ伝えられ、小村全権に対して「サハリンの南半分を要求するように。賠償金は放棄。この条件で最終交渉に挑め」と連絡が入ったのでした

8月29日 日露戦争講和会議 講和成立

10回目の講和会議で、とうとう講和が成立しました

日本・ロシアの全権がテーブルにつき、小村全権が「サハリンの南半分を割譲できないか?」と訪ね、ウィッテ全権がロシア政府の確認をとりました

そしてロシア政府の同意書が小村全権に手渡されました

小村全権はそれを重々しく受け取り「日本は平和を回復線と誠実なる希望を抱くがゆえに、なんら金銭の支払いを要求せずして、サハリンの北緯50度以北をロシア之保有に残すことを承諾する」と発言

こうして講和が成立したのです

この日の夜、小村全権が「日本国天皇は文明と人道を尊重し、平和のために妥協の精神を持って賠償要求を撤回し、樺太の分割を承認され、会議成立を命じました」と発表

この声明を発表すると、ルーズベルトは祝電を寄せ、各地から電報が届きました

翌日の新聞の様子〜外国ver〜

ワシントン・スター紙・・・日本人は人道のため賠償金の権利を放棄した!この偉大な行為は日本人が勇敢なだけでなく寛大な国民であることを示した

ディリー・ニュース紙・・・日本は世論を受け入れて正しく行動し、それいよって得た地位は巨大な学の賠償金にも勝るものがある

モーニング・ポスト紙・・・日本政府が賠償金放棄にたいする日本国民の不満と対決しようとする勇気は、日本の陸海軍人が敵に対決した時の勇気にくらべ遜色がない

ニューヨーク・サン紙・・・日本は戦争で示した偉大さを講和条約でも示した。日本の寛大さは世界史上でも例をみない

イギリスのタイムス紙・・・日本の古くからの武士道精神が単なる金銭的なだけの戦争を遂行することを恥としたのである。サムライの伝統かれすれば、彼らが黄金のために戦うことになれば名誉が汚されるのである

翌日の新聞の様子〜日本ver〜

何も実情を知らされてない日本では、領土の割譲も賠償金もないことがわかると、大変な騒ぎに!!

朝日新聞・・・「帝国の威信を傷つける屈辱の和約である。小村全権は努力を怠り、この屈辱に甘んじようとしている。このような条件で講和条約を締結するのは天皇陛下の聖意ではないので、陛下に対し講和条約の破棄を命じたまわることを奉る!」

都新聞・・・この屈辱!!あえて閣員元老の責任を問う!!

万朝報・・・「嗚呼!嗚呼!大屈辱!大屈辱!」「帝国の栄光を抹殺し、戦勝国の顔に泥を塗ったのはわが全権なり。国民は断じて帰朝を迎えることなかれ」

報知新聞・・・「天人不許の罪悪。日本に外交なし」

日本が得たものは??

日露戦争で日本が得た最大の利益は朝鮮の日本の支配権が確立したことです

日本は朝鮮をゲットすることが最大の目的であり、日清戦争では清国からの干渉をしりぞけ、今回の日露戦争ではロシアからの干渉をしりぞけ、日本だけで支配することとなったのです

とはいっても、日本が朝鮮を支配する権利を実際住んでいる朝鮮人からしたら「は??」ってな感じですよね

でも周囲の強い国たちが日本の朝鮮支配を認めたので、朝鮮人が強い国に「日本がひどい!」と訴えても、知らんぷりしてくれることになったのです

支配される側からしたら、たまったもんじゃないですね・・・
ルーズベルトのビミョーな気持ち

日本を応援していたルーズベルトの態度がビミョーに変わっきてました

上に書いたように、アメリカの世論がいつの間にかロシアびいきになってたからです

アメリカ国民は「日本の賠償金と領土の要求が多すぎる!ホントに平和を望んでるなら賠償金や領土割譲の要求なんてしないで妥協するべきなんじゃないの??」とゆー声が多かったからです


またアメリカは賠償問題で日本側を支持しなかった

なぜか??とゆーと、日清戦争で日本が清国から賠償金をゲットした時、海軍を拡張しまくって極東でNO1の海軍国となったから

もともとはロシアの極東進出を防ぐために拡張せざるを得なかったんだけどね(^^;)

とゆーことで、ルーズベルト大統領は「ロシアから賠償金をとったら、ますます海軍が拡張して西太平洋の制海権を握られちゃうかもしれない。そしたらアメリカが中国に進出する時に邪魔になるかも」と感じたのです

またこんな考えも
「もし日本が賠償金をとれなければ、日本の財政はめちゃめちゃになるだろうな。そしたら日本がロシアから得た南満州の権益を安く買えるかもしれない。そうすればアメリカは簡単に中国進出ができる」というもの

ほかにも、日本海海戦のパーフェクトな勝利に対し、ルーズベルトは日本海軍に対して、ちょっと脅威を持ち始めたといわれてます

8月 日英同盟延期決定

さてさて、日本とイギリスの間で「日英同盟を更新しましょう。期間を10年延長しましょう」ということが決まりました

今回の内容はイギリスのインドにおける特権と日本の朝鮮に対する支配権を認め合い、清国に対するお互いの機会均等を定めました

また、ほかの国と戦いになった場合、助けてあいましょうという攻守同盟を締結したのです

新興国日本と世界第一位の強さを持つイギリスとの同盟は、他の国にとっては脅威でした

特にアメリカはこの同盟をなんとか解消させたかった

ルーズベルト大統領の部下であったマハン大佐はイギリスに手紙を書きまくってました

内容はというと
「満州からロシアを追い出すために、イギリスが日本に力を貸したのは謝ったことだった。この時我々はまさか日本とトラブルが生じるとは思っても見なかった。報道機関を使って、イギリスが日本との関係を考え直すよう指摘してほしい」とか、「黄色人種が溢れるなら、明日にでも戦争を選ぶ!そして心配なのはアメリカとイギリスとの関係だ。日英同盟によって貴国とアメリカが敵対関係になることもあるかもしれない。帰国は日本と同盟という悪い馬に乗っている。オーストラリアにいたっては、我々以上に日英同盟を好んではいない。英国の利益も考えると、私は日本との同盟に賛成はできない」


9月5日 ポーツマスにて日露講和条約調印

やっと交渉成立し、この日調印式が行われました

内容は

1 ロシアは日本が朝鮮における軍事上・経済上の優越感を承認しなくちゃいけない

2 長春〜旅順の東清鉄道を清国の同意を得て日本へ譲渡

3 北緯50度から南の樺太および付属の島を日本へ譲渡して、沿海州漁業権の日本へ許与する

4 両国は同時に満州から撤退し、満州を清国へ返す

以上が決定したのでした

ちなみに、このポーツマス会議が行われた18日後、ルーズベルトは友達にこのような手紙を書いてます

「私は今まで日本びいきだったんだけど、講和会議開催以来日本びいきじゃなくなった」

日比谷公園で群衆が怒る!!

ポーツマス条約調印が行われた日、東京では「講和反対!!」の全国大会が日比谷公園で開かれていました

日本国民は、この講和条約に納得できなかったのです

「なんで賠償金がないんだ!?」
「なぜ樺太が半分しか戻ってこないんだ!?」

と、大ブーイング!!

そのため、群衆は警察署や官邸、新聞社などを焼き討ちし、政府は戒厳令をしいたほどでした

さてさて、この時の日本国民の態度を知ったアメリカ国民は、めっちゃ日本を憎むようになります

というのも「せっかくアメリカが仲介してやったのに、なんて態度だ!」といった感じで、これからアメリカ国内において在留日本人に対する差別や排斥運動が活発になっていってしまいます

特に排日運動が盛んだったカリフォルニアでは日米開戦の噂まで流れるほどでした

この感情が、のちの太平洋戦争へつながっていくのであります

それはまたのちほど・・・

元禄大ブーム!!

日露戦争の戦勝気分を反映し、三越が売り出した「元禄模様」が大流行しました

大きな輪の中に花などを描いていて、多彩&大柄が特徴
ハデハデなのがよかったのでしょうか??

元禄会という会も出来たほど元禄ブームの年でした


9月 横浜のフェリス女学校で、毎日昼寝が行われる

10月 鉄道王ハリマン 「満鉄ちょーだい」

アメリカが動き出しました

なんとアメリカの鉄道王であるハリマンが南満州鉄道(満鉄)の買収を政府に持ちかけたのです

日露戦争の賠償金もなく、超ビンボーになっていた日本政府は、この申し出を受け入れたのでした

小村寿太郎激怒!「なにやってんすか!!」

さてさて、ポーツマス条約をしぶしぶ受けることとなった全権大使の小村寿太郎が日本へ帰国しました

そしてビックリ!!&激怒!!

アメリカの鉄道王ハリマンに満鉄を売ったという事実を聞かされたからです

小村はただちにハリマンとの契約破棄をするべく動き出しました

10万の戦死者を出し、18億もの戦争費用がかかったとゆーのに、それを1億円でハリマンに売るとはなんたることか!!それに満鉄を譲るにあたっては清国にも話を通さないといけない!この契約は破棄です!破棄!!

が、いきなり破棄と言われても、すでに契約しちゃってたのでアメリカも怒ってきました

「日本政府が承諾したんだぞ!!」と、ブーブー文句を言ってきました

ですが、実はハリマンとルーズベルト大統領はめっちゃくちゃ仲が悪かったので、なんとか穏便に契約を破棄することができました

ですがこれを皮切りに、アメリカはなにかと日本へあーだこーだと言って来るのであります

10月 前島密が羅馬字ひろめ会を設立

羅馬字・・・わかりますか?

ローマ字のことです

前島密らは、ローマ字を国字として広めよう!という運動を行いました

西園寺公望や大隈重信らも賛同しました

11月 サンフランシスコ労働総同盟大会

サンフランシスコで労働者による大会が開かれました

ここで出てきたのが「憎い日本人」

「日露戦争に勝ってから、なんか日本人がいっぱい渡米してきてる!」

「やつらは黄色のくせに白人の仕事を奪い取ろうとしている」

といったように、日本人に対する非難が集中したのでした

この頃の世界金持ちランキング

この時代の「世界のお金持ち」はというと・・・

第一位・・・ロンドンの金剛石商 ベイト

第二位・・・同じくロンドンの金剛石賞のロビンソン

第三位・・・石油業のゼイ・ロックフェラー

第四位・・・ロシアの大地主でデミドフ公

第五位・・・鋼鉄王ののカーネギー

第六位・・・ロシアのピータースブルグ

第七位・・・鉄道業のバンダービルト

第八位位・・・銀行業のロスチャイルド

第九位・・・パリ銀行エイ・ロスチャイルド

大十位・・・パリ銀行エヌ・ロスチャイルド

ロスチャイルド一族、すごいですな〜

この年の出来事

・仁丹が発売

・駅でアンパンが売られるように

・島崎藤村が「破戒」を発表破

・東北地方は大凶作

・流行言は「戦友」「ラッパ節」また、元禄モノが流行

・学生の間では、腕時計が大流行

・流行語「本日 天気晴朗なれど波高し」

・ショールが人気