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明治4年 1871年 

この年のニュースはなんといっても「廃藩置県」ですね!

その後すぐに岩倉具視使節団が欧米へ出発します

第二の維新と言われている「廃藩置県」が巻き起こす激動は日本をどのように変えていくのでしょう!




明治4年 1871年 年表
東京の人口は?

プロシヤ代弁領事のヘールの依頼により、東京の人口調査が行われました

人口は671748人
戸数は146756戸

ちなみに、このうち「えた」が1043人 「ひにん」が2891人とありました
寺子屋の師匠は521人です

このあたりの重要人物★ 板垣退助

板垣退助は土佐の高級官僚の出身であります

もともとは保守派だったんだけど、ギリギリのとこで坂本龍馬と出会い、さらに西郷と出会ったことによって薩長が武力によって幕府を倒そうとしていることを知り、それに同意しました

で、鳥羽伏見の戦いの時は薩長軍と合流し、戊辰戦争では大活躍

東山道鎮撫軍の事実上の総指揮官となり、会津若松城を攻略し、新政府からめっちゃ賞賛されていました

根っからの武人で、軍事に関しては卓越した決断力を持っており、生まれながらの軍人!!といったタイプ

そんな板垣退助を大久保利通は「危ない」と見てました
「こいつに軍隊をまかせたら、後々逆らってきた時に大変なことになる・・・」と

そのため大久保は、自分に従ってきている山県有朋を重宝するのであります

でもって、板垣は武人としては最高だけど、どうも政治や外交といったインテリ系は向いてなかった
これからの歴史の流れでそのことがよーーくわかります

のちに板垣は参議になるんだけど、軍人としてのコースを歩んでいればもっと実力が発揮できたはず
山県有朋による日本軍部の専横はなかったと思われますね〜

さらに板垣のついてないトコは、土佐にいい人材ストックが無かったということ
坂本龍馬・武市半平太・中岡慎太郎・吉村寅太郎といった面々が、夜明けを見ずに死んでしまったことで、土佐にはいい人材がほっとんどいなかったんですね〜

だけど、藩閥のバランスを保つため一定の人数を政府に送らなくちゃいけなかった
板垣にとっては、あんまり得意ではない(自分ではわかんなかったかもしれないけど)政治コースに進むしかなかったのであります


1月 人力車スタート

横浜・川崎・藤沢に人力車営業が始まりました

山県有朋 動きだす 西郷隆盛を説得

軍部NO1となった山県は、政府軍を作るべく着手しはじめました

大村益次郎の弟子だったので、その意志をつぐべく
「士族・平民の差は関係ない。一定の年齢になれば国民に兵役を義務づける」という考えでした
で、国を守るために近代軍事教育をしなければと考えてました

その前に、丸裸の東京をどうにかしなくちゃいけない
そのためには、どーにかして新政府を作り上げた薩長土肥の兵力を東京に引っ張り出す必要がありました

ここで絶対に必要なのが人気のある西郷隆盛なのでした

が、実は山県は西郷が苦手
というのも、ボスだった大村益次郎が西郷隆盛から軍事の権利を奪い取った形となってたし、大村は死ぬまで「西郷には気をつけろ」と言ってたからです

でも、この計画には士族たちの英雄である西郷隆盛の協力が絶対に必要でした

山県は刺し違える覚悟で西郷隆盛に会いに行くことに
実際、「西郷が賛成してくれなければ、西郷を殺してワシも死ぬ!」と言ってました

そして2人は話し合いの場へ

山県が東京に兵が必要だ!うんぬんかんぬんと変革案を話すと、西郷は「木戸先生のご意見はどうなのか?」とたずねました

山県が「木戸先生は了解しています」と答えると、「おいの方は結構でごわす」と、あっさり了解したのです

こうしてずーっと引きこもっていた西郷隆盛は東京へ行くことになったのでした

1月9日 参議 広沢真臣 暗殺される

参議の広沢真臣が暗殺されるという事件が起きました

広沢は長州藩出身で、戊辰戦争では総督府参謀を務めていました

明治2年に参議となり、木戸孝允・大久保利通らと同じくらい権力のある政治家でした

この日、麹町の自宅で妾の福井かねと寝ていたところを襲われたのです

が、ここで不思議なことが

広沢は1メートル80センチほどある(当時はめっちゃでかい!!)巨漢で、槍の名手だったんですが、あっさり殺され、一緒にいた妾のかねはすり傷のみ

さらに犯人の足型をだいたい23センチで、男性にしては小さすぎたのです

そのためかねが犯人ではないか?と疑いがかかり、拷問されてしまいました

結果、かねは広沢家に使えていた起田正一とも関係があることがわかり、暗殺を認めました

が、のちに「やっぱり殺してません」と言い、裁判で無罪に

事件は迷宮入りになったのです

噂では、当時険悪だった木戸孝允が犯人ではないか??と言われてます

1月24日 東京〜京都・大阪間に郵便所ができる

3月 西郷隆盛 大軍を率いて上京する

さてさて西郷隆盛を上京させるべく、政府はめーっちゃ手の込んだことをやりました

この頃の西郷は参議でもなんでもない、ただの薩摩のお偉いさんレベルだったんですが、新政府にとってはどうしても西郷の協力が必要でした

そのため、西郷を呼ぶために、大納言の岩倉具視や木戸孝允、山県有朋、大久保利通といったメンバーが遣いをよこしました

西郷はこれにご満悦
「やっぱり俺がいないと新政府はダメだな。しょうがない。俺が乗り込んで新政府の大改革をやってやろう」

ということで、西郷はものすごーーーい兵を率いて上京したのです

が、これがすごかった
西郷が引き連れてきたのは、自分が鍛えなおしたものすごく整った兵達だったのです

これを見た木戸孝允が「西郷は薩摩幕府を作ろうとしてるんじゃ・・・」と、めっちゃ憂鬱になったそうです

3月 郵便事始

この年、前島密によって「郵便」がスタートしました

東京から大阪まで手紙を出すと、だいたい3日間くらいかかり、郵便代金もとっても高いものでした

初めてみるポストにみんなびっくり

中にはポストをトイレと間違えてその中に立小便する人や、切手を貼ることを知らずにお金を手紙にくくりつける人もいました

一番困ったのは、切手が何度も使われるということ

ということで、前島密が「消印」を考えたのです

ちなみに郵便制度をいち早く取り入れたのはイギリスです

前島密は郵便のしくみの生みの親といわれてる人ですよ〜
4月4日 戸籍法を定める

4月24日には、調査のために各民家の家の前に番号を入れました

4月18日 平民の乗馬がOKに

ウサギが大流行

ウサギを飼う事が大流行しました

兎会なるものができ、兎の毛色を競って高値で取引されました

ウサギでぼろもうけする人まで出て、さらには破産する人まで出てきました

ウサギの流行にともない、人工的に染色して「異種」として売ったりするなどのトラブルも出て、ついに規制されることに

兎市は禁止となり、さらに兎を飼っている人には税金を課したり

ということで、だんだんと兎ブームは去っていきましたが、逆に邪魔になって兎を撃ち殺したり投げ捨てたりという事件が多発したのでした

なぜウサギ??新政府に不満タラタラ

薩長が主となっている新政府に、みんな不満がタラタラでした

政府は士族たちに色んな仕事をするように言ってたんだけど、士族たちは商売ベタなので全然ダメ

ちょうどこの頃、天皇が牛乳を飲んだってことで牧畜業に参入する人が増えました

でも牛を飼うのはちょっと大変なので、「じゃあウサギにしなさい」ということに

政府も推奨したもんだから、士族たちはウサギを購入し屋敷を飼育場に変えたりしたんですが、政府は繁殖したウサギをどうするかについて、全然考えてなかった

食べるのか?それとも皮を売るのか?と、全然需要がないってのに、飼う事をオススメしたんですね〜

需要がないのに飼育しても仕方ないので、えさ代だけがかかり、士族たちはますます貧乏に

ウサギは捨てられるようになり、江戸城近くには捨てられたウサギたちがピョンピョン飛び跳ねてました

ウサギだけではなく、政府がオススメした事業で失敗した士族がめちゃくちゃ多くいました

大損害を受けた士族にとっては、「推奨だけして、損失の責任もとってくれない」と、不満が高まりまくり

こうして、明治政府への失望感と不満がどんどん溜まっていくのでした

5月9日 車道と人道が分かれる

政府は、交通事故防止のため道路を改修することに

といっても、この時代はまだ車の時代じゃなくって「馬車」や「駕籠」であります

中央は馬車道となり、左右は歩道という取り決めをしました

ちなみに政府が管理するのは中央だけで、左右の歩道はその土地の地主さんが管理してました


6月 哺乳瓶が売り出される

ゴムの吸い口がついたガラス瓶が「乳母いらず」という名前で売り出されました

7月9日 お偉いさん達の話し合い

この日、木戸孝允の屋敷で政府の最高首脳会議が行われました

参加者は長州の木戸孝允・井上馨。薩摩は西郷隆盛・大久保利通・西郷従道・大山巌であります。

西郷を引っ張り出してきた山県有朋はあえて表面には出ませんでした

こうして西郷が兵を引き連れて薩摩から出てきてくれたおかげで、廃藩置県という大事業への舞台が整ったのです

7月14日 廃藩置県の発表

この日の午前十時

天皇は小御所代に出席し、呼ばれていた鹿児島藩知事・島津忠義。佐賀藩知事・鍋島直大。山口藩知事・毛利元徳。高知藩知事・山内豊範の代理である板垣退助の4人を前にして、三条実美が勅語を読み上げました

ここで「廃藩置県」が発表されたのです

午後二時になると、天皇は大広間に向かい、そこにいた在京中の全ての藩知事が呼び出されました。そこで同じように三条が廃藩置県を発表

260以上ある各藩知事はどよめきました

政府は、この突然の改革に当然反乱が起こると予想してしました

騒然とした大広間でしたが、ここで突然西郷が大声を張り上げました

「この上、もし異議があるあんらば、拙者が兵を率いて撃ちこぼします」
こういうと、大広間は静まりかえり、誰も異議を唱えませんでした

廃藩置県って??

これまで存在していた「藩」を廃止して、新たに県を置くというものです

今までの藩主(知藩事)は、全て東京に集められました
家録と華族の身分は保証されましたが、東京への定住は絶対条件となります

さらに今まで諸藩に治められていた年貢は、全て政府の管轄化となりました

また、各県には政府が派遣した県令が新たに任命され、中央集権化となったのです

分けられた藩は3府302県
ちなみに、あまりにも多すぎるってことで、11月には3府72県になります


よかった〜♪ホッとするお殿様たち

さてさて、いきなりこんなこと言われた諸藩のお殿様たち

が、予想された抵抗はほとんどありませんでした

とゆーのも、どこも財政事情がめっちゃ苦しくなっていたからです

払える見込みもない借金を、政府がしてくれるってんであれば渡りに船だったのでした

こうして旧大名の藩知事は全てクビとなり、かわって各府県に中央から新しい人物が任命されたのです

で、今までの藩知事(旧大名)は、華族という身分を与えられ、家禄も今までどおりの金額が与えられたのでした
明治三傑の分かれ道

明治の三傑といえば、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允であります

が、西郷と木戸は廃藩置県あたりから急速に失速・・・

木戸にいたっては、維新前はめっちゃ活動していたのに、維新後は病気がちになり、なんというかセンチメンタル気分??になっちゃって、昔を懐かしんでる状況
幕末の時のあの威勢はどこへ行ったんだ??な感じです

西郷にしても、新政府になってからというもの「こんなはずじゃなかった!」と、さっさかと薩摩に引きこもる始末
西郷は「明治新政府」を士族たちが盛り上げる感じにしたかったのに、フタを開けてみれば朝廷のお偉いさんとか、藩のエリート達のみにで編成されてて、これは自分が思っていたのと違う・・・と、いう状況になってました

そんな中、大久保利通だけは違っていました
なんというか、冷静??というか、現実重視

そのため、西郷さんを指示している薩摩の人たちから「裏切り者」として、めっちゃ嫌われてしまうんですね

7月 旅行が自由になる

今まで各府県にいく場合、鑑札が必要だったんだけど、それが廃止になり自由に旅行ができるようになりました

8月9日 断髪廃刀令

この日、チョンマゲをやめ、髪の毛を切りましょう!という法令が
西洋人に笑われないようにしよう!とゆー政府の焦りであります

強制ではなかったんだけど、なるべく奨励することに

「ざんぎり頭をたたいてみれば 文明開化の音がする」と歌われるように、散髪は文明開化の象徴になりました

それに伴い帽子も大流行!

ちなみに何百年も続いてきた「チョンマゲ」は、明治40年ごろにはほとんど消滅しちゃいます

明治9年頃には、ざんぎり頭が60%チョンマゲが40%といったところ

ちなみに明治天皇は明治6年に散髪したよ

地方ではざんぎり頭が不人気で、ちょんまげを切られた!と言って、訴える人なんかもいました


「廃刀令」は、「刀を持つのをやめましょう」というものであります



8月23日 華族・士族・平民相互の結婚を認める

華族と平民が届け出を出すだけで結婚できるようになりました

といっても、かなり大変でしたけどね(周囲が)

8月28日 穢多・非人の称を廃止

身分を平民と同じにするという法令が出ました

が、まだまだ身分差別はありました

大江卓が中心となって、民部省にえた・非人の呼称をやめるよう建議した結果であります

8月の時点での政治スタッフ

この時点での政治スタッフを紹介

太政大臣・・・三条実美(公家)

左大臣・・・なし

右大臣・・・岩倉具視(公家)

参議・・・木戸孝允(長州) 西郷隆盛(薩摩) 板垣退助(土佐) 大隈重信(肥前)

議長・・・なし

副議長・・・江藤新平(肥前)

神祇卿(じんぎきょう)・・・なし 神祇太輔・・・福羽美静(津和野藩)

外務卿・・・岩倉具視(公家) 外務太輔・・・寺島宗則(薩摩)

大蔵卿・・・大久保利通(薩摩) 大倉太輔・・・井上馨(長州)

兵部卿・・・なし  兵部太輔・・・山県有朋(長州)

文部卿・・・大木嵩任(おおきたかとう・肥前) 文部太輔・・・なし

工部卿・・・なし  工部太輔・・・後藤象二郎(土佐)

司法卿・・・なし 司法太輔・・・佐々木高行(土佐)

宮内卿・・・徳大寺実則(公家) 宮内太輔・・・万理小路博房(公家)

開拓長官・・・東久世通禧(ひがしくぜみちとみ) 次官・・・黒田清隆(薩摩)

てなメンバーで構成されました


★裏話★
・木戸孝允は、軍事力をバックに持っている西郷の独走を恐れたため、土佐と肥前の2人を参議に入れておいて「薩長土肥」の四藩で権力を分散させておこうとした

・大久保はというと、薩長のみが権力を独占している状態を臨んでたんだけど、大蔵省で足場固めに忙しくあまり抵抗しなかった

・西郷の大嫌いな井上馨や大隈重信が入ってきたというのに、西郷は何もしなかった。
なぜか?ちおうと、この頃の西郷は参議でありながら薩摩藩の人事手配にヒーコラしていた
国の参議でありながら、郷土意識が強すぎますね。それがイイトコなのかもしれないけど


藩閥政治スタート!!

さてさて、ここから「藩閥政治(はんばつせいじ)」が始まります

ちなみに藩閥ってなにさ?という人のためにちょこっと解説

藩閥とゆーのは、薩摩・長州・土佐・肥前出身者だけが日本の政府&軍のお偉いさんになれる政治に対するイヤミな言葉なんですね

この4つの出身者だけが要職につけるので、藩閥政治とか、藩閥内閣と言うのであります

といっても、土佐・肥前はちょっと遅れをとってて、薩摩・長州がめっちゃハバをきかせてましたけどネ

ちょっと先だけど明治18年に内閣制度ができあがります

総理大臣・元老といった大臣以上クラスはほとんどが4つの出身者に固められちゃいます

とゆーことで、こっから長い間「藩閥政治」となり、それに反発する人たち(旧幕臣とかね)との間で数多くの事件がおきることになるのでした


9月 日本で始めて汽車が走る(試運転)

明治新政府はヨーロッパの文明に追いつこうと必死でした

そしてとうとう、日本に初めて鉄道が開通したのです

開通したのは東京の新橋から横浜まで

29キロを53分で走りました

これには日本中驚きました

本格的に開通したのは翌年になります

鉄道は全て外国の力

さてさて、鉄道の建設は全て外国の援助によって行われました

技術者として、イギリスからエドモンド・モレルという人を呼ぶことに

燃料も枕木も石炭も全てイギリスから輸入

日本性のものはなんと「ボイラーの水」だけ

ちなみにイギリスでは41年前に最初の鉄道が開通しています

9月7日 田畑の栽培自由化がOKとなる 

9月9日 「ドン」が始まる

この日から、旧本丸から昼12時になると大砲がなるように

時間を知らせるためです

これは「ドン」と呼ばれ、昭和4年まで続きました

10月1日 東京湯島の大成殿で最初の博覧会開かれました

10月13日  生野県でえたの解放や地租改正反対のため5000人が一揆

生野県とゆーのは、今の兵庫県あたりです

11月29日 裸体禁止

外で裸で仕事をしたりするのが禁止に

外国人が多くなってきたので、風俗を乱してはいけないってことで

11月 公衆便所ができる

横浜在住の外人から強い要求があり、83箇所の公衆便所ができました

といっても、樽を地面に埋め、板で囲っただけのものでした

簡単にライバル関係・友好関係をピックアップ

この頃の大物達の人間関係をさっとまとめると・・・

三条実美×岩倉具視

岩倉具視が三条実美をライバル視してました。公卿の家柄からいっても、三条の方が比べ物にならないほど上!でもって、人格も高潔
三条はどっちかというと長州チームに近く、岩倉は薩摩チームに近かった


大隈重信×伊藤博文

大隈は、伊藤博文を弟分としか思ってなかった。そんな伊藤が欧米から帰ってきてから急に力をつけ始めた。
そんな伊藤に脅威を感じた大隈が巻き返しのために考えていた事は、日本を欧米列強と対等な国へとのしあげ、その功績で国の主導権を握り、出遅れている佐賀の勢力を押し上げようというものでした


山県有朋×西郷隆盛

山県のボスだった大村益次郎が、何かと西郷隆盛を気にしていたので、部下だった山県も西郷に対してライバル心を持ってました


大隈重信×西郷隆盛

大隈は西郷のことをただのバカと思っていた

井上馨×西郷隆盛

西郷は、新政府でうまいこと金儲けをしている井上を嫌ってた。井上のことを「三井の番頭」とバカにしてた


副島種臣×大隈重信

大久保利通×大隈重信


大隈が大久保のことをライバル視してたんだけど、使節団に行くころから、「大久保に反抗してたらいいことないかも」と思い、後に大隈は大久保に膝を屈した

岩倉具視使節団

この頃になると、欧米諸国へ留学する人が増えていました
「新しい知識」は、新政府にはどーーーしても必要でした

とりあえず廃藩置県が終わり、中央集権国家は出来上がった
あとは、この中央集権国家に実力をつけていかなくちゃいけない

諸外国に認められる国を作るため、岩倉具視を全権大使とした使節団が構成されたのであります


岩倉使節団のメンバー

ここでは、使節団の有名どころメンバーを紹介
裏にはいろーーーんな思惑があるのですヨ( ̄ー ̄)

全権大使・・・岩倉具視
大久保利通に「どうですか?」と誘われた。岩倉からしてみれば、三条を差し置いて晴れの舞台に上がれるって事で大喜び!!

副使・・・木戸孝允

副使・・・大久保利通
この頃、元藩主だった島津久光が「騙しやがったな!このやろーー」と、めっちゃ激怒してた。正直、それから逃れたかったため、外国へ逃げた

副使・・・伊藤博文

副使・・・山口尚芳
もともと、この使節団の案を提出したのが大隈重信。大隈も行く予定だったんだけど、大隈の「これをきっかけに、上にのしあがってやろう」という考えを察知した大久保が裏で大隈を外した
そんな大久保も、ちょっと悪いな・・・と思ったらしく、大隈の仲間である山口を選んだ


留守番チームは??

日本のお偉いさんがこぞって外国へ行ってしまうので、日本の国の留守番はというと・・・

西郷隆盛が大蔵省御用掛となり、留守中の大蔵省を預かることに

でも、実際の実務は井上馨が行うことになってました
それと、使節団の案を出したのに外された大隈重信

ここに大久保の狙いが!

西郷は大隈や井上のことが嫌いだし、大隈も西郷のことが嫌い

ということで、にらみ合った形で留守番させておけば、お互いがけん制しあって独走を抑えようとするんじゃないかというものだったのであります

さらに、大久保は島津久光のことでも悩んでた
この件も西郷に押し付けてにげちゃお!!という考えもあったかもデス

で、使節団組は一応・・・

@人事の変更はしないこと
A廃藩置県のあとの処理のほかはいっさい新しいことはしないこと

この2つを留守組との間で決めたのでした

11月12日 岩倉具視使節団出発!!

こーんなに危ない社会情勢の中、とうとうこの日、欧米視察団が横浜を出発しました!

目的は3つ

@江戸幕府が条約締結した国々をまわり、国書を進呈する

A欧米先進諸国を見て日本の近代化を進める

B明治5年5月26日が条約の改定紀元なので、条約改正の予備交渉を行う

ケド、本音は「どうやったら日本が文明的な国になるか、他の国を見てみよう」というもの

さて、使節団はどうなるのでしょうか??

でもって、大物たちがいない日本はどうなっていくのでしょう

11月12日 日本で初めての女子留学生5名がアメリカへ

岩倉使節団の中には、59人の留学生がいました

その中に5人の女性がいたのです

新政府は女性留学生を5人募集したところ、締切日まで1人も応募者がいませんでした
まぁ、この頃アメリカの情報なんて一般人にはまったくといっていいほど無かったのでねぇ

で、再度募集したところ、ようやく5人が集まったのです

メンバーは吉益亮子(16歳)上田ていこ(16歳)山川捨松(12歳)長井繁子(10歳)津田梅子(8歳)

出発の三日前に皇后から茶菓子と紅ちりめんを贈られ、手紙を貰いました
その内容は

「あなたたちは女子の身でありながら洋学を学ぼうという志は立派です。いずれは女学校建設の時もありますでしょうから、帰国の時は婦人の模範になるよう心がけ、日夜勉強に励んでください」というものでした


初の女子留学生 津田梅子

女子留学生の中で一番幼かったのが8歳の津田梅子であります

梅子の父親は幕臣だったんですが、幕府が崩壊したため職を失い築地のホテルで働いておりました
そんな父のもとに「娘を留学させないか?」という話がやってきたのです

実は父親や維新前に欧米に行ったことがあるという前歴の持ち主
普通の人よりは進歩した考えを持っていて、「日本女性をアメリカで教育させ、日本の女子教育を向上させなくてはいけない」という考えだったため、娘をアメリカに行かせることをOKしたのでした

梅子はワシントン郊外の家に8歳から11年間ホームスティしました

ホームスティ先の夫婦が敬虔なクリスチャンだったので、梅子も入信し、11年間の留学を終えて日本に戻ってきました

ここで困った事が・・

なんと、8歳でアメリカに行った梅子は日本語がマトモに喋れないのであります!!

ある日梅子は教会に行き、礼拝を終え人力車で自宅に帰る途中忘れ物に気がつきました
梅子は車夫に教会に戻るようお願いしたんだけど、全然言葉が通じない

梅子が困っていると、そこへアメリカ人が通りかかったのでその人に通訳してもらったそうです

さらにある時「源氏物語」の英訳をお願いされました。
で、梅子は激怒!!
理由は「こんなポルノ本を読ませないでよ!!」とゆーもの(笑)

そんな梅子は7年後にまた渡米し師範学校の教授法を学び、日本へ戻ってからは女子師範学校の先生に

さらに東京の麹町に女子英学塾を開きました
これが現在の津田塾大学であります

使節団一員 中江兆民

中江兆民(なかえちょうみん)は、後に自由民権運度の指導者となり、「東洋のルソー」と呼ばれるようになる思想家です

まだ無名の書生だった兆民ですが、どーしても使節団に入り欧米諸国を見てまわりたかった

ということで、信じられないことに大久保に直談判しに行ったのです

相手は政府の超大物だったので、もちろん断られるだろうな・・・と思ってたんですが、なんと会ってくれるということとなり、兆民もビックリ!!

で、兆民は大久保に対して熱弁をふるいまくりました

が、大久保は目をつぶってだんまり

兆民は「閣下!いくら私が若輩者とはいえ、眠りながら私の話を聞くのは失礼ではないですか!」と、とうとう言っちゃいました

すると大久保がすぐに目を開け「いやすまぬ。私が目を開けていたら話しづらいかと思うたものだから」と、申し訳なさそうに即答

これには兆民も恐れ入って、以後大久保を尊敬するようになるのでした

でもって、兆民は大久保の助力のおかげで留学生に加えられたのでした

11月22日 全国を3府72県と改める

11月25日 学校が文部省管轄になる

12月3日 二卿事件の中心人物 外山光輔と愛宕通旭が切腹

ニ卿事件というのは攘夷派が行ったクーデター未遂事件であります

薩長が中心となって明治新政府を作ったことによって、攘夷が行われると思ってた攘夷派の人々は、いつまでたっても明治新政府が攘夷を行わないことに失望しまくってました

こうなったら、明治政府を倒し、新しい政府を作りなおして攘夷を行い、諸外国と闘おう!!という人々が集まりだしました

愛宕通旭らは京都から東京へ向かい、同志達を集め日光を占領し、東京に火を放って天皇を京都に連れ出す作戦を練りました

ちょうど同じ頃、外山光輔も同じような計画をたてていて、愛宕通旭のことを知り協力し合おうと連絡

が、この計画が広沢真臣暗殺事件を調べていた政府側に情報が漏れてしまったのです
山県有朋らが摘発に乗り出し、続々と逮捕されてしまいました

そしてこの日、首謀者の外山光輔と愛宕通旭が切腹させられてしまったのでした

12月6日 使節団 アメリカへ

使節団一行は尾の日アメリカ大陸へ到着

サンフランシスコのゴールデンゲートを見てビックリしました

さてさてアメリカ側はレセプションを盛大に行ってくれ、日本の国旗と星条旗が交互に掲げられ、知事などお偉いさんのほかに市民もきてくれました

が!!!

アメリカ側は条約改正に関しては一切改善しようとはしてくれませんでした
それどころか「だって日本は未開国の国でしょう?」と、ばかにされる有様

第一にアメリカ側はこの使節団をなめてかかっていたのであります

日本 外交大失敗!

ここでアメリカ特有のオーバーな大歓迎振りに勘違いした伊藤博文

「アメリカは条約改正してくれそうですよ」と思っちゃいました

そのため、大久保と伊藤は正式な外交交渉に必要な天皇の委任状を取りに行くために一度日本へ戻るのであります

ちなみにアメリカ側はまーったく改正の気はないので、大久保と伊藤は合計4ヶ月をついやした上に失敗してしまいました

でもって、この失敗により切腹するしないとひと悶着を起こし、副島種臣なんかは「はいはい。ご勝手に。あえてとめませんから」とけなされました

木戸孝允はというと、伊藤博文のことを「軽薄で参議の器ではない」とコメント

ちなみに使節団は当初12カ国の国と、全日程10ヵ月半という予定だったんだけど、この事件のためにアメリカ滞在だけで205日も費やしてしまい、予定がめっちゃ狂ってしまいました

12月18日 華士族も農工商業を始めるのがOKになる

12月26日 東京裁判所が設置される

その他の出来事

・官庁で「イス」を使い始めました

・懐中時計が大流行!持ってるだけでスティタスとなりました

・浅草で外国からやってきた「ミシン」が見世物に!みんな自動に縫い物をしてくれる機械をみてビックリ

・軍隊手帳が用いられた

・軍服・洋服の仕立て屋が大繁盛する