明治5年 1872年 年表 |
明治時代 その5 |
1月2日 外国公使(英・米・独・仏・伊・西・蘭)参内 |
7カ国の公使たちが新年の賀詞を述べるために参内しました 以後、この行事は通例になります |
1月6日 榎本武揚が黒田清隆の助命運動により出獄しました |
1月10日 東海道各駅の伝馬所・貫目改所が廃止 |
1月25日 明治天皇 初めて牛肉を食べる |
![]() が、外国人が日本へやってくるようになり、外国人向けの西洋料理がどんどん入ってきたのです 横浜の開陽亭・築地精養軒など外国料理の専門店もでき始めました さらに肉食禁止とされていたお坊さんたちも肉食OKとなったのです この日、明治天皇が大久保利通に進められて初めて牛肉を食べました こうして牛肉は「文明開化」のアイテムとなっていくのです が、断固として牛肉拒否!な人も数多くいました |
1月29日 日本で初めて全国の戸籍調査を実施。総人口は33110825人 |
日本で初めて、全国一斉に戸籍を調べることになりました でもってどっから出たのかは不明ですが・・・ 「未年生まれの結婚していない女性は、全て外国へ送られる」という噂が これに民衆は大騒ぎ!! 役人さんたちが必死になって「デマですよ!!」と、説得に走り回ったそうです |
2月2日 北京に初めて公使館を設ける |
初代公使は柳原前光であります |
2月 女子公務員第一号 |
元会津藩士である和田という男性の妻で、千賀という女性が第一号であります 千賀は文部省に申し出て「教場手伝い」になりました というのも、本当は東京に開校した初の女学校に入学したいとお願いしたんだけど、15歳以上はダメってことで、しぶしぶ働くことになったのであります が、その方がラッキーだったのか、女子公務員第一号になっちゃったのであります 当時は「婦人出仕のはじめというべし」と、周囲から賞賛されたそうです |
2月15日 土地永代売買が解禁 |
原田絹・「夜嵐お絹」死刑 |
事件は去年起きました 内容は、美少年の役者に惚れた高利貸しの妾である原田絹が、邪魔になったダンナを毒殺するというものであります 28歳の絹(ちなみに旗本の娘だったんだけど、両親が早く死んでしまったため、妾稼業をしてた)は、高利貸しである林金平の妾でしたが、近くの芝居小屋の役者である「嵐璃鶴」にヒトメボレ で、金平と別れるため、「まちん」というストリキニーネを含んだ植物を粉にして、煮豆と混ぜて殺そうとしました が、金平が煮豆を食べると「まずい!」と言って吐き出したため失敗 お次は鼠とりを米の中に入れ、白湯にして飲ませ毒殺したのであります が、金平の死に様があきらかにおかしい!となり、逮捕されてしまいました ですが絹は妊娠していたため死刑は延期され、出産後死刑となったのでした 原田絹のことを詳しく知りたい人はコチラ |
2月21日 東京日日新聞(現在の毎日新聞)が創刊する |
2月26日 銀座で大火事 |
この火事で約4000戸が焼けてしまいました が、この火事をきっかけに「銀座煉瓦街」の都市計画がスタートします |
2月28日 兵部省を廃止!新たに陸軍省と海軍省を設置 |
3月 女性が登山できるように |
今までは「女人禁制」と言われていた山も、登れるように(全部じゃないよ) ちなみに女人禁制だった神社仏閣も女性が入ることを許可するように |
3月5日 最初の陸軍中将に山県有朋が任命されました |
3月11日 日本人による初のキリスト教会横浜に設立 |
4月 江藤新平 司法卿になる! |
![]() 江藤は佐賀出身であります 佐賀藩は薩長に遅れた形だったため、維新の時はあまり活躍できないでいました 江藤も維新の時は佐賀藩の牢獄につながれてたので、まーったく活躍ナシ 佐賀出身の大隈は大蔵大輔→参議になってるし、副島も岩倉の後をついで外務卿になっちゃってた 江藤は何やってたのか?というと、藩主の命令で藩の政治をやらされてたんですねぇ 出遅れた形となった江藤は、同郷の二人に先を越され、でもって薩長に主要ポストをとられた政府が悔しくってたまんなかったのであります そんな江藤にやっとこさ道が開けました! 今まで欠員だった司法卿に栄転となったのです 司法卿とゆーのは、今でいうと裁判所の一番偉い人って感じかな〜 で、江藤は片っ端から法律を作りました そして政府高官の汚職摘発に乗り出したのであります!! ちなみに、大久保たちがいない間にやった最大の仕事は士族の特権を剥奪したこと! さらに全国戸籍調査や東京〜大阪間の電信を開通させたり、太陽暦を採用したりと、あらゆる社会変革をやりまくってきたのです でもって、井上馨や渋沢はこの頃の江藤のことをこう言ってました 「大隈の才はなく、副島の学もなく、大木の智がないが、この3人の企て及ばざる機略の持ち主」 |
4月 僧侶の肉食や妻帯・伸髪・平服がOKになりました |
4月5日 女性は断髪しちゃダメ!! |
さてさて「断髪令」が出ましたが、女性の中でも男子に習って髪の毛を切る人がいtぅぱい出てきました が、新聞にはこのように 「近頃女性で断髪する者がいる。みっともなくてみるに及ばない」 ちなみに、浄瑠璃で働く女性や茶店の女性などに流行 が、この時代はまだ女性が男性と同じ事をしちゃうとブーイングだったんですねぇ 「実に片腹痛い業なり」とまで言われてました |
4月11日 東京に初めて女学校が開校 |
岩倉使節団 めちゃくちゃ険悪に |
岩倉使節団はというと、予定が狂いまくりのためワシントンに長い間滞在してました そんな中、使節団の上層部はめちゃくちゃ険悪ムードになってました というのも、大使や副使なんかは薩長土肥の出身者で、専門調査員なんかは旧幕臣の人たち 仲良くできるわけないですよね〜 特に旧幕臣が薩長土肥出身者を馬鹿にする場面が多かったようです 例えば、大久保の忠実な部下だった安場保和(やすばやすかず)は、なぜか数の数え方がわかってなかった そのため、ホテルの2階と3階の区別が全然つかなくって部屋の番号も間違えてばっかり さらに極めつけは、喉がかわいたから砂糖水を飲もうと思ってメイドさんに「シュガー」と「ウォーター」と言ったらしい するとメイドさんが持ってきたのが「巻きタバコ」と「バター」 安場は「侮辱された!」と激怒し、途中で帰国してしまいました ほかにも薩摩出身の村田新八は、書記官が言うエチケットマナーを無視しまくり スープをわざと音を立てて飲んだり、ビフテキが出ると右手にフォークを持って串刺しにして、歯でちぎって食べたりと、全然マナーを学ぼうとしませんでした そのため、旧幕臣らは「やっぱヤツラは田舎者だな」と、馬鹿にしたそうです |
5月 政府が流行歌を停止する |
「チィチィがタィタィ」というちょっと意味不明の歌が流行 これは「知事がコロコロ変わる」という意味だとか、チィチィというのはシラミのことだとか、いろんな説あり |
5月7日 横浜〜品川に鉄道開通 |
この日、日本に鉄道が開通しました!! 午前に1回・午後に1回と、二往復しました ランクによって値段の違いもあり、代金を値切る人も続出 ちなみに、横浜〜品川間が40分でした ですが、乗り物酔いする人が多く、仁丹がとても売れたようです 列車はイギリス製で、電車になれない人は乗り込む前に履物を脱いで入るので、下駄や草履が駅のホームに残されてたりしたそーです |
5月10日 勝海舟 海軍大輔に任じらる |
6月4日 司法省が犯罪人の写真を保管することを決定 |
6月5日 群馬県富岡製糸工場開設 |
6月7日 マリア・ルーズ号事件 |
この日、ペルー国籍の汽船「マリア・ルース号」が横浜へ入港しました そして碇泊中に1人の中国人が海へ飛び込み、同じく碇泊中だったイギリス軍艦に助けを求めてきたのです 中国人の話を聞くと、どうやらペルー船はポルトガル領マカオから中国人苦力(クーリー)230人を乗せた奴隷船だったのです! とゆーのも、当時のペルーは砂糖や綿花栽培が盛んだったんですが、黒人奴隷が禁止となったため代わりに新しい労働力としてクーリーを密かに運び込んでいたのです そして船の中で虐待されたクーリーの1人が脱走したのでした 脱走したクーリーは英国領事館から神奈川県に引き渡されましたが、マリア・ルース号の船長がクーリーを返すよう言ってきました この時の日本が列強国と結んでいた通商条約では、日本は相手の国に治外法権を認めていたため裁判権を持っていませんでした ということで、一旦クーリーをマリア・ルース号に戻すことに が、英国の代理公使だったワトソンがクーリーの惨状を調べ上げ、副島外務卿に「もう一度あの船を調べ上げ、船長を再審問しろ!この件に関してイギリスとアメリカは日本がやることに干渉しない」と言ったのです 日本はマリア・ルース号の件で裁判をやることにし、結局中国人クーリーを解放することにしたのです これがきっかけとなり、この2年後には日本とペルーの間で友好通商条約が結ばれることになり、さらにペルーでクーリーを使うことが打ち切りになったのでした |
6月28日 自葬が禁止されました |
6月 森有礼 「英語を国の語に!!」 |
![]() 日本の言語を「英語にしよう!」と提唱しました コレは却下されてしまいましたが、森有礼はとっても急進的な考えの持ち主だったため、世間の人々との間にギャップができてしまい、「変わってる人」とされてしまいました でも、この頃国語が英語になってたら、ワタクシたち英語ペラペラですね〜 |
7月4日 すべての土地に地券を交付することが決まりました |
7月10日 「実印は預けちゃダメ」 |
江戸時代は、実印は名主に預けるのがフツーだったんですが、これからは自分できちんと管理しなさいという法令が出ました |
6月21日 山内容堂 死去 |
7月 ウサギが流行 |
またもウサギが流行 ウサギを飼い、どっちが強いかを勝負させるのが大流行! めちゃくちゃ高いお金が取引されてたので、政府がウサギで賭けをすることを禁止しました ちなみにウサギの餌の豆腐殻が、豆腐より高くなるほど さらにさらに、兎が原因で親子喧嘩から殺人事件に発展するなんて事も! 困った政府は兎は破産の原因になる!ってことで、兎一匹につき毎日1円というめっちゃ高い税金を課したのです ということで、やっとこさ騒ぎは鎮静 ウサギを飼う流行が終わると、なんとウサギ鍋が流行しました・・・・ |
7月14日 新聞に初めて求人広告が出る |
7月30日 井上馨が人身売買の廃止訴え、さらに人権の自由を説きました |
8月23日 職業の自由が許可される |
8月3日 学事奨励に関する被仰出書(おおせいだされしょ)が出る |
この日、明治新政府から学事奨励に関する被仰出書(おおせいだされしょ)というおふれが出ました 「これからは学問の時代である!出世するにも学問が必要である!これからは一般の人も学問をするように。家の中に学問をしない人がいないようにしなさい。父兄は子供を学校に行かせるように」 というものです が、学校を作れ!学問をしろ!といわれても、政府はお金を出しませんでした 今までは「寺子屋」だったのですが、子供全員が行くこととなってはある程度の「教師」も必要 それに学校には「月謝」が必要でした 月謝は50銭 ちなみに農民の一日の収入が5銭ほど もちろん農村では学費が出せるわけありません そのため小学校を廃止するようにと一揆まで起きるほど それでも一応は、日本に近代教育が始まることとなるのでした |
9月29日 日本初のガス燈 |
横浜の馬車道で、道路の両側にガス燈がつけられました 日本で初めてのことでした 「キリシタンの魔法だ!!」とか、「匂いをかぐと死ぬらしいぞ!」などといったデマが飛びまわったそうです |
10月2日 吉原の娼婦 解放される |
女性にとって苦界と言われていた吉原遊郭ですが、この日一斉に女性達が解放されました 解放のきっかけは6月に起きたマリア・ルーズ号であります 神奈川県令の大江卓は、中国人奴隷の解放を断固叫んでいたんですが、外国人が「でもさ、日本にだって奴隷と同じような扱いを受けている遊女がいるじゃないか!」と言い出したからです ということで、国内でも吉原で働く女性達を解放してあげよう・・・という動きに で、とうとう解放されることになったのです 遊女達はものすごく喜び、出られると思っていなかった吉原から大はしゃぎで出ました が!!!! 彼女達はもともと親が貧しかったため売られた娘達 親元に帰りたくても、帰れないのです さらにこれまで男性相手に性を売って商売していたため、まともな仕事をしたことがない そのためほとんどの女性が、夜鷹(売春婦のこと)になるしかなかったのでした |
11月5日 岩倉具視、ビクトリア英女王に謁見 |
さてさて、使節団の予定は伊藤博文の早とちりによってめちゃくちゃに狂っちゃってました やっとこさ一行はアメリカからイギリスへ向かったんですが、予定していたビクトリア女王との会見は期日がずれちゃったため、女王は避暑に出ちゃってました やーっとこの日、謁見が実現したのでした 一行はバッキンガム宮殿やウェストミンスター議事堂などを見学し、西洋の文明を目の辺りにみてビックリ 肝心の条約のことは?というと、イギリスは日本の対等条約の要望をもちろん却下 それどころか、イギリスがエジプトやトルコと交わしているもっとひどい内容の不平等条約を押し付けようとしてきたのでした |
使節団がイギリスで学んだこと |
使節団は結構イギリスに注目してました 同じ島国だし、そんなに領地は大きくないのにめちゃくちゃ大国 ということで、いろーんな場所を見学 イギリスの立憲政治と議会制度もよく観察したのです 日本からしてみれば「なんで日本はイギリスのように繁栄ができなかったのか?」という思いもあったのです あと、みーんな(といっても、上層部)はめっちゃ遊びまくってました 旅費を残してかえるようなケチな事はしないぜ!!と、毎晩遊びまくりでした 特に伊藤博文・田中光顕などなど |
11月9日 改暦!!一年は365日 一日は24時間に |
この日「12月3日を明治6年1月1日とする」という勅令が出ました 太陰暦を廃止して太陽暦を採用することに 12月2日で明治5年は終わり、12月3日は明治6年1月1日となるとゆーものであります で、この改正によって、神武天皇の即位をもって「紀元」と決められました で、昼夜12時を24時間に定めるというコトに が、新暦反対の声がものすごく多かった それに農村あたりにはこのようなニュースは伝わらず、大混乱になりました ちなみに採用された新暦がグレゴリオ暦ではなく、ユリウス暦だったので、明治31年に改めてグレゴリオ暦が採用されました |
11月 使節団 フランスへ |
使節団はパリの夜をみてほんっとに驚きました 夜のセーヌ川にそってガス灯がともり、淡く青い炎が川面を照らす光景に、あらためて「西洋文明」カルチャーショック いままでは「どうせ同じ人間だぜ?いつかは日本だって欧米諸国と同じようになれるよ」と思っていた面々も、目の前に広がる発達した西洋の文明に落胆したのでした 大久保利通までもが「私のような年寄りは、これから先のことはもうだめだ」なんて弱気発言 見るものも聞くものも全てが日本より優れている現実に、みんな呆然としたのでした この時のみんなの様子を、アメリカに行った事のある福沢諭吉がこういってます 「日本を出るまでは天下独歩・眼中人なし・恐いものなしとい威張っていた人たちが、花嫁のように小さくなっていた」 |
11月23日 大相撲、女性に見物を許可する |
今まで女性が観ることのできなかった相撲が、とうとう観れるように が、今でも土俵に女性があがることは禁止されていて、問題になってますよね〜 |
11月28日 徴兵令が出た 「えっ!?処女は樺太送り??」 |
富国強兵を実現するため、兵の制度を統一して強い軍隊を作ろう!という明治新政府の目的として、身分の差別がなく自己を守るための国民皆兵をうたった徴兵令が発布されました が、これまで戦いに直接関係のなかった農民達はビックリ! いろーんな噂が飛び交いました なぜか処女は樺太に送られるという噂が立ち、みんな慌てて結婚しまったり、7歳の娘にお歯黒をつけさせる親がいたり、股の間に牛肉をぶら下げる男が現れたり・・・ さらに大騒ぎになった原因の一つが「血税」という文字 徴兵令の一文に 「天地の間に一つとして税のないものはない。人たるもの心をつくして国に報いなければならぬ。西洋人はこれを血税という。つまり生血をもって国に報いるということである」 これがやばかった 本当に血をとられると勘違いした民衆によって、各地で暴挙や一揆が広がってしまうのであります |
11月30日 初のサッカー公式国際試合 |
この年の出来事 |
・他の流行したものは、女学生の袴・男性の兵児帯(へこおび)・ステッキ・氷屋・黒い羽織の町芸者・今川焼・天然氷を売る氷屋・お茶の栽培などなど ・鉄道職員に征服が出来た ・散髪所(美容院のことね)が東京で3000件 |