室町時代その12 1569年〜1570年まで

1569年2月 信長 義昭にお家を作ってあげる
5月 今川家滅亡
北条氏康 「武田、マジむかつく」
その後の氏真は?
義元少しは報われた!?今川家臣 岡部真幸
家康 信玄と手を切る
ルイス・フロイス 信長と会う
山中鹿之助 尼子家再興のため立つ
1570年1月 信長 将軍義昭に条書五ケ条を送る
名家のプライド 朝倉義景「誰が挨拶に行くか!」
筆まめ義昭の大作戦!信長包囲網
武田信玄と織田信長の関係
4月 信長ショック!浅井長政 謀反!
お市からのメッセージ
信長の朽木越え(くつきごえ)と秀吉の金ヶ崎退き口
6月 野洲川の戦い 柴田勝家VS六角義賢(よしたか)
信長 復讐に燃える
6月15日 緩い朝倉家「やることないからもう帰る」
6月19日 信長出陣
6月21日 長政「早く援軍来てくれー」
6月27日 家康到着
姉川の戦い
姉川の戦いの結末
頑固者の代名詞 稲葉一徹
信長包囲網 三好三人衆動く
9月 信長 本願寺の一向宗とのしんどいバトルスタート
信長ビクビク「信玄はイヤだなぁ」


室町時代その6 1569年〜1570年
1569年2月 信長 義昭にお家を作ってあげる
信長は、自ら指揮をとって義昭のために御所(家のこと)を作ってあげました。

義昭はさらに感動して、信長命となりました。

4月になると、信長はいったん岐阜に戻ることに。

義昭は涙を流して別れを惜しみ、信長の姿が見えなくなるまで見送りました。
1569年5月 今川家滅亡
今川館から掛川城に逃げ込んだ氏真は、今川家臣の勇将・朝比奈一族に守られ約半年ほど篭城していました。

が、兵糧もなくなってきたし、第一肝心の氏真がまったくやる気なし。

家臣に蹴鞠をやる場所を造ってくれない?という始末。

とうとう朝比奈一族は家康に降参してきたのです。

家康は「そもそもワシは義元殿に援助を頂いていた。氏真殿を憎む気は毛頭なかったのである。だけどこのままじゃ信玄に思いのままにされてしまう!!ワシに任せてくれ!絶対悪いようにはしないから!」と言いました。

これに今川家家臣は感動し、家康は「情けのある大将じゃ!」と評判になりました。

こうして家康は、氏真正室の実家である北条家に行くように手配したのです。

北条氏康は、今川館から逃げる時に「妻を裸足で歩かせるようなバカを面倒みなきゃならんのか!」と嫌味たっぷりでしたが、知らん顔するわけにも行かず、氏真を引き取ることにしたのです。

こうして氏真は小田原へ向かい、今川家は事実上滅亡となってしまいました。

北条氏康 「武田、マジむかつく」
氏真はとりあえず「北条家に駿府を譲る」と言いました。

が、実際駿府をゲットしたのは信玄。

つまりは「正式に駿府を譲渡されたのは北条家。力で駿府を奪い取れ」ということなのです。

北条氏康は信玄を討つ為、関東の諸大名に呼びかけました。

そして長年戦っていた関東管領・上杉謙信にも使者を出したのです。

川中島の戦いで何度も信玄と戦ったことのある謙信は、信玄にとって唯一「嫌な相手」だったのです。

ですが謙信も信玄と戦うには労力を使いまくるよなぁ・・・。と言った感じ。

とりあえずは牽制のために、北条氏康と手を結ぶことにしました。

それを知った家康は「ワシも!」と、謙信と手を結ぶことにしたのです。
その後の氏真は?
小田原に行った氏真でしたが、妻が死んでしまい北条家からもうざがられるように。

仕方なく氏真は家康に頼りました。

家康は氏真を憧れの京都に連れて行ってやり、屋敷をあげました。

氏真はそこで死ぬまで平和に暮らすこととなります。

ちなみに氏真は、京都にやってきた父の仇・織田信長の前で得意の蹴鞠を披露。

その姿を見て、信長は嘲笑したらしい。

戦国大名・今川家の最後は切なすぎます。トホホ。

時代が違えはサッカー選手になれたかもしれない氏真でした。
義元少しは報われた!?今川家臣 岡部真幸
あまりにも今川義元が救われないので、ここでたった一人だけ今川家のために最後まで頑張った岡部真幸について。

岡部真幸は、今川家譜代家臣で、義元の京都上洛に従軍してました。

尾張鳴海城を守っていたんだけど、義元が死んだというニュースが伝わると他の武将は我先にと逃げていきました。

そんな中、真幸だけが鳴海城に残り徹底抗戦。

勝ちに乗じて攻め込んできた信長軍を再三撃退するのです。

そして信長に義元の首を渡せ!と執拗に求めました。

信長は、その主君思いを汲み取り、鳴海城引渡しを条件に首を返したのです。

この時、真幸は義元の棺をかついで堂々と鳴海城を出て行ったそうです。

その後も、真幸は信長の他の城を攻めて、火をつけ駿河に戻っていきました。

これで少しは義元も報われたでしょうか・・・。

真幸は駿河に戻ったんですが、氏真のあまりのバカさにあきれ、こりゃダメだ・・・と、見切りをつけ武田家にあっさりと寝返り、武田家臣となったのです。

ここで、ずーっと今川についていれば日本人好みの「忠臣」としてメジャーになれたのかもね。

ちなみに、武田家臣となってからも戦功を上げ、勝頼から信頼されるように。

が、1580年 高天神城にいるところを家康に攻められ、勝頼に援軍を要請するも、勝頼は北条とのバトルに忙しく、救援を出せずにいました。

城の兵糧も底をつき、とうとう真幸らは城から外にでて決死の突撃戦。

そこで壮絶な討死となりました。
家康 信玄と手を切る
こうして今川領地であった遠江をゲットした家康。

家康は新領地の見回りをするため、500騎ほどで出かけました。

そこへたまたま3000騎を連れた武田家武将・山県昌景に出会ったのです。

昌景はとりあえず家康に一礼して通り過ぎました。

が、「ん?家康の率いてる兵の数が少ないな・・・・」と知ると、お供の兵がケンカしたと言って、家康に襲い掛かってきたのです。

ビックリしたのは家康。

突然のことで慌てて逃げましたが、すぐさま体制を建て直し、本多忠勝・榊原康政・大久保忠世・服部半蔵らを連れ、昌景に挑んだのです。

形勢不利と知った昌景は、早々に兵をまとめて引き上げました。

家康は怒って早速信玄に抗議!!

ですが信玄は「わかった。わかった。そんなに熱くなるな。とりあえず昌景を蟄居させるから。な?」と、なだめました。

家康は度重なる信玄の無礼に、とうとう手を切ることとなったのです。
1569年 ルイス・フロイス 信長と会う
フロイスは16歳の時にイエズス会に入会し、その後インドのゴアへ行きました。

そこで日本に向かおうとしていたフランシスコ・ザビエルと日本人のヤジローと出会ったのです。

1563年31歳の時に長崎へ上陸し、念願だった日本での布教活動をスタート。

で、京都に向かうんだけど将軍義輝ら幕府権力の弱っちさに失望したのであります。

そしてこの年、織田信長と対面しました。

信長はこの対面を「どのように迎えればいいのかわからなかった」と言ったそうです。

フロイスはお土産を持ってきたんですが、この時は遠くから眺めているだけだったそうです。

信長は仏教が嫌いだったので、キリスト教を広めることに好意的でした。

その後フロイスは九州で活躍。

ですが秀吉がバテレン追放令を出したために、長崎の平戸に送られました。

その後長崎で死去。

フロイスが残したものに「日本史」という本があります。

1549年のザビエルの来日に始まり、1593年までを書いている本です。

一生をかけて執筆したというのに、宣教師ヴァリニャーノが「無駄な部分が多い」ってことでイエスズ会本部には送らず、マカオの倉庫に置きっぱなしでした。

のちにこの倉庫が火事になってしまい、原作は焼けてしまいましたが、写しが残っており貴重な資料となったのです。

1569年 山中鹿之助 尼子家再興のため立つ!
山中鹿之助は尼子義久の傍を追い出された後、山伏の姿になり軍法を学んでいました。

勇者として名をはせていたので、各地の戦国大名からスカウトが来まくりましたが、心は常に「尼子家再興」でした。

そんな中、尼子政久の弟の国久から始まる一族の「孫四郎」が京都の僧になってるという噂を聞いたのです。

義久は毛利元就のとこにいるので、義久のとこには行けない為、鹿之助は孫四郎に会いに行きました。

孫四郎にとっては、自分は尼子家ゆかりの者とは思ってたけど、一度滅亡した尼子家再興のために自分が表舞台に立つとは思ってなかったのでビックリ!!

が、鹿之助の説得により名前を「尼子勝久」と改め尼子家再興のため立ち上がるのです。

このニュースはたちまち広がり、尼子家の遺臣たちが各地から集りだしました。

中には他の戦国大名のトコで、かなりいい地位までいった人もいたけど、恩のある経久のため、尼子家再興に賭けその地位を蹴ってやってきたのです。

1569年の春にはその数300人。

出雲奪還を合言葉に京都から出雲へ!

出雲はというと、旧主さまが戻ってくる!と大騒ぎ。

尼子家が滅びたため辛い立場にいた人たちは大喜び。

鹿之助らが出雲に入った頃には兵の数は3000人に膨らみました。

この頃毛利元就は大友宗麟とバトルしてたんだけど、このニュースを聞いた元就は、せっかく勝ってた勝負を捨て、尼子家の対策の方にやってきちゃったので鹿之助びっくり。

まさか元就がやってくるとは思わず、これは鹿之助の誤算だったのです。

この時は、尼子軍は毛利に負けちゃいました。

鹿之助らは一度逃げて、またも再興に奮闘するのです。
1570年1月 信長 将軍義昭に条書五ケ条を送る
御所が完成した義昭は、自分の手で幕府を再興させようと政治活動をスタート

上杉・毛利・大友などに書状を送ったり、ケンカやめろ!と仲裁の手紙を書いたりとなんやら色々やりはじめました。

信長は、この義昭の行動に不快感を抱き、「義昭が命令書を出す時は、どんなことでも信長の添状をつけるべきだ!とおれの許可なしに勝手なことやるなよ。あぁん?」といったような内容のことを定めました。

将軍・義昭は、うすうすは「オレ、もしかして信長にナメられてる?」と感じていたんだけど、ここにきてやっと信長の真意に気がつき、信長に対して不信感を抱くようになったのです。

そして信長に対する不満を、諸大名にせっせとお手紙を書きはじめたのです。

名家のプライド 朝倉義景「誰が挨拶に行くか!」
信長が義昭を擁して上洛したことに、一番ムカついていたのは朝倉義景でした。

信長は上洛した際に、将軍義昭に代わり「京都に挨拶に来い」という命令書を諸大名に送っていました。

それに義景はムカムカしっぱなし。

義景がさっさと義昭を連れて上洛しなかったのも悪いんだけど、信長に義昭を奪われ、信長に屈しなければならないなんてふざけるなや!といった感じだったのです。

さらに自分の朝倉家は斯波家の直参。

対する織田家は斯波家の守護代だった織田家の本筋ではない、ただの家老だった家。

「もとはといえば、朝倉家の方が格が上なんじゃ!成り上がりものめが!」

誰が義昭=信長のとこになんか挨拶にいくか!と名家のプライドも邪魔をして、この命令書を何度も無視してました。

そして3度目の手紙を無視した時、とうとう信長が「朝倉を攻めるぞ!」と決めたのです。

信長は華々しく京都を出陣しました。

誰もがこの時の信長の勝利を疑うことは出来ないほど、派手な出陣でした。
筆まめ義昭の大作戦!信長包囲網
将軍義昭は、信長が自分を操ろうとしているの感じ取り、近隣の諸大名に「将軍義昭に忠義を尽くすように」という手紙を出しまくりました。

忠義を尽くせというのは「オレ様を操ろうとしている信長に変わって、オレ様に忠義を尽くせ」ということです。

はっきりいって今まで将軍を擁していた人は「家臣」としてあるべきでした。

ですが信長は「所領はいらない・地位もいらない・官位もいらない」と、義昭の「家臣」になることをはじめから拒否していたのです。

そして平気で義昭の言動を縛り、唯一の武器(?)である将軍の御内緒(命令書のこと)を勝手に書くな!と言って来た。

義昭は「このままじゃ、オレ様は信長にいいようにされてしまう!」と、内緒で命令書を出しまくったのです。

義昭が命令書を出したのが、武田信玄・上杉謙信・浅井長政・朝倉義景・毛利元就・本願寺顕如などであります。

これにより、信長は苦しくなることに。

義昭の命令書によって信長包囲網ができてしまいました。
武田信玄と織田信長の関係
信長には恐れている人が2人いました。

武田信玄と上杉謙信です。

信長は信玄を敵に回したくなかったので、信玄の気に入りそうな南蛮の頭巾や衣類などを沢山プレゼントしたりしてご機嫌をとっていました。

また信玄の四男である勝頼に自分の養女と結婚させてくれ!と送り込みました。

この養女は翌年死んでしまったんですが、死んだとわかると、お次は信玄の娘松姫と自分の長男信忠を結婚させてくれ!と言って来たのです。

武田家家臣の高坂昌信らは「信長、怪しいなぁ」と、この結婚に反対しましたが、信玄は「まぁまぁ、婚姻関係結んどいて損はないだろ」と、家臣らを説得したそうです。

信長はあの手この手で信玄のご機嫌取りをしていました。

年に7回も使者を出して挨拶したり、プレゼントにも手を抜きませんでした。

そのため2人の関係は、ある程度友好的なものだったのです。

また信玄は今川家とのバトルの際、北条・徳川・上杉と回りは敵だらけ。

この時徳川と同盟を結んでいる信長に「家康、ちょっとなだめといてよ」とお願いしたりしました。

信長は信玄のご機嫌取りのため家康に「信玄のこと、許してやってよ」と言い、家康は「信長殿には逆らえない」と、一時緊張が解けたのです。

が、信玄も「上洛」をしたかった。

それを信長に先にやられてしまったのです。

信玄は「あの若造が!いつか殺らねばと思っていたが・・・」と、考え始めることとなったのです。

1570年4月 信長ショック!浅井長政 謀反!
信長は何度も朝倉家に対して挨拶に来い!と命令書をだしていたんだけど、いっこうに朝倉家は来る気配がない。

とうとう怒って朝倉家討伐に行くことにしたのです。

これに驚いたのが信長の妹であるお市のダンナ浅井長政。

以前信長と同盟を組む時に、「朝倉家とは敵対しないでくれ。もしするなら必ず教えてください」というお願いをしていたのに、信長はこれを無視して朝倉家を攻撃しに行ったのでした。

信長はというと、浅井家に何も言わずに独断で攻撃を決めたのは「浅井家は何も関係ないぜ」というのを一応朝倉家に示したつもりだったらしい。

また家臣らの間でも「信長殿が我らに無断で朝倉を攻めるのは、味方に誘ったら我ら浅井家が織田と朝倉の板ばさみになって困るであろうと配慮しているんでは?ここは静観した方がいいのでは?」という意見も出ました。

が、浅井家にとっては見過ごすわけには行かない。

恩もあり、長年仲良くやってきた朝倉家をとるか、妻の兄であり、可愛がってくれている織田家をとるか。

長政はめちゃくちゃ悩み、家臣らにも相談しまくり。

ここに、父の久政が飛び出してきました。

「信長が配慮だなんだと言っても、現に今、朝倉家は攻められているんだぞ?六角家との戦いでの朝倉家の恩を忘れちゃいかん!援助するのが浅井家の勤めである!」といったもんだから、古くからの家臣らがこれに賛同。

とうとう長政は義をとって、朝倉家につくことを決意したのです。

「我らは朝倉家とともに織田家と戦う!すぐさま一乗谷へ行き、朝倉義景殿に伝えよ!」と信長攻撃の準備を始めたのです。

お市からのメッセージ
長政は4月27日長政は挙兵しました。

この頃、信長は金ケ崎を攻撃していて、朝倉の本拠地である一乗谷城に迫ろうとしていた時でした。

順調に進軍している信長の下に思いがけない知らせが入った。

「浅井長政謀反!!」

は?なぜ長政が??信長はその情報をなかなか信用できずにいました。

半信半疑の信長のもとへ、妹のお市からの知らせがやってきました。

信長の妹お市は、小豆の入った袋の両端を紐で結んで「陣中見舞」として信長へ送ったのです。

信長は、「織田家は前も後ろも塞がれている」というのを悟って、本当に浅井家が寝返ったことを知ったのでした。

ここで浅井が動き出せば、退路を絶たれるばかりではなく朝倉・浅井の挟み撃ちとなってしまう。

ここは退却するしかない!信長は悔しさに体が震えました。
信長の朽木越え(くつきごえ)と秀吉の金ヶ崎退き口
ここで「手前が殿軍(しんがり)を務めまする」と名乗りだしたのが秀吉。

戦は、攻撃よりも退却する時のほうが難しい。

殿軍は向かってくる敵を相手しながら大将を安全に逃がさねばならない。

まさに「死を覚悟」しなければならないのが殿軍なのです。

信長は、秀吉の意気込みに感銘し、秀吉を殿軍(しんがり)として必死で全軍撤退をさせることとなったのです。。

秀吉は50の鉄砲を乱射しながら、朝倉の追撃に奮闘し全軍撤退に成功。

これがのち「藤吉郎の金ケ崎退き口」と呼ばれ、秀吉の武名を高めました。

そして信長は一騎駆けのように「朽木越え」をして京都に戻ったのです。

京都の町から派手な出陣をした信長は、馬腹を蹴りに蹴って従者10人ばかりのみじめな姿で戻ったのでありました。

信長はこんな危機にあったうえ、信頼して可愛がっていた義弟によって天下統一を阻まれた・・・。

信長は長政に対して憎悪を燃え上がらせることに。

ちなみにこの時、朝倉は信長を追撃していれば、討ち取ることができたかもしれないんだけど、なぜか弱腰で悩んじゃった。

で、やっぱ追撃しよう!って決まった頃には、すでに信長は体勢を立て直しちゃってました・・・。
1570年6月 野洲川の戦い 柴田勝家VS六角義賢(よしたか)
この頃信長は浅井長政によって手痛いダメージを受けていましたが、それにのって「反・信長」を表したのが六角義賢でした。

信長は長光寺城を拠点にして六角をやっつけろ!と柴田勝家に命令。

勝家は400名ほどで長光寺城に向かいゲットしました。

が、ここはもともと六角家の所領。

たちまち城は六角軍に包囲され勝家軍は籠城となったのです。

勝家はよくもちこたえ、六角がムカムカしているところに耳ヨリなニュースが。

「城内には井戸がなく水は背後の谷から取り寄せてます。」という情報だったのです。

これを知った六角義賢はニヤリと笑い、早速その水路を絶ちました。

そして義賢は、家臣の平井甚助に和睦の名目で城内の様子を見にいかせることに。

ところが甚助は、たっぷりと水の入った銅盤でおでむかえされ、さらにその水は惜しげなく庭に捨てられた。

あれ?って感じの甚助。

「水に困った様子は見られない」と六角氏に報告。

実際は城内はこれが最後の水だったのでした。

水がないとわかるとただちに責められるだろうと予測した勝家は、城内に残っていた水甕を全部割ったのです。

その後すぐに決死の覚悟で勝家軍は六角氏に挑み、一気に突き崩し圧勝したのであります。

ここから「鬼柴田」「甕割り柴田」と呼ばれるように。

そしてこの勝利は信長に大きな利益をもたらしました。
1570年6月 信長 復讐に燃える
京都に逃げ帰った信長は、すぐに体制を立て直し5月9日には岐阜へ帰りました。

信長の心は「憎き長政」であります。

6月4日 まず柴田勝家・佐久間信盛らを近江に配置。

浅井長政は六角家に頼み、柴田勝家を狙いました。

が、六角家と朝倉家は仲が悪く、単独行動が多かったため、勝家に襲われ退却となりました。

秀吉は信長に命じられ、堺の今井宗久の所へ鉄砲を買いに行ってます。

そして家康の元へ使者を送り、援軍を要請しに行きました。

こうして信長は「6月中には浅井を攻める!」と決めたのです。

1570年6月15日 緩い朝倉家「やることないからもう帰る」
浅井長政は6月中に信長が出陣してくるという情報を聞き、近江の国境に砦を築きました。

この砦は援軍である朝倉勢が守ることに。

ところが!

ここに来て信じられないことが起こったのです。

越前から派遣された朝倉景鏡(かげあきら)の2万の軍が越前に引き上げてしまったのです。

理由は「わしら色んな村を放火して回ったのに、相手は何もしてこない。いたずらに時間だけを送ってたら疲れる」というものでした。

長政ビックリ!

もうすぐ信長が攻めてくるというのに、何故???状態でした。

織田勢はそれを見逃しませんでした。

近江の国境にある砦をすかさず奪ったのです。
1570年6月19日 信長出陣
さらに信長は秀吉に命じて浅井家の家臣を寝返らせるよう命令。

狙い通り2人の重臣が寝返りました。

準備は整った。

信長は憎っくき長政を倒すべく、岐阜を出発したのです。
1570年6月21日 長政「早く援軍来てくれー」
長政の本城である小谷城は小谷山を利用して造られた難攻不落の城でした。

信長は「籠城されたら難しい。何とか外におびきよせなければ」と作戦を練るのです。

まず森可成ら8000人を小谷城の前にある雲雀山(ひばり)に布陣させ、城のまわりを放火させました。

さらに柴田勝家も到着し、浅井勢を刺激し始めたのです。

とはいっても長政は「城を出たらヤバイ」というのは十分わかっていました。

それに援軍として朝倉勢がやってくるまで、なんとか持ちこたえなければならないのです。

対する信長は何とかして城外におびき出したい。

長政はとにかく朝倉勢がやってくるのをじーっと待ってたのです。

が、肝心の朝倉家は15日に越前に帰ってしまったばかり。

今度は「ずっとそっちにいたので疲れた」と言って来たのです。

仕方なく朝倉景健(かげたけ)を大将とした10000人が、浅井家を援護に向かいました。

その間、信長は城から兵をおびきよせるため、小谷城の支城である横山城を包囲しました。

横山城が落ちてしまうと、浅井は他の城と連絡がとれなってしまう。

信長の長政を野戦に誘い出すための作戦だったのです。
1570年6月27日 家康到着 
家康の援軍が信長のもとに到着しました。

信長・家康連合軍は25000人となりました。

同じ頃、待ちに待った朝倉勢10000人が到着。

両軍、27日に軍議が開かれました。

浅井家の軍議では「本隊(義景かそれに代わる実力者)が来てくれるまで待ったほうがいい」という意見が出たんですが、「そんなことしてたら埒があかない!」という意見が多く、明日城外に密かに陣を置くことに決定したのです。
1570年6月 姉川の戦い
長政は、18000人を浅井勢・朝倉勢に分け、姉川に密かに陣を置きました。

これを待ちに待った信長。

「ワシは浅井をやるから、家康殿は朝倉を頼む」そういって、陣を置いたのです。

両軍が川を挟んで対峙したのは28日の朝4時。

そして6時に戦が始まりました。

戦闘の火蓋を切ったのは徳川勢の服部半蔵でした。

人数の多い朝倉軍は、徳川軍に迫りました。

それを徳川軍の酒井忠次らが迎え撃ちました。

6000人の徳川軍は、1万人の朝倉軍に押され始めたのです。

戦局は朝倉軍に有利かと思われましたが、家康は本田忠勝・大久保忠世・松平忠次を一度に突入。

さらに榊原康政を朝倉軍の右側を攻めるよう命令。

朝倉軍はこの奇襲にびっくりし、一気に形勢逆転。

朝倉軍に敗走者が目立ち始めたのです。

織田VS浅井はというと・・・

浅井勢は後がないもんだからもう必死!

特に浅井軍の先鋒・磯野員政(いそのかずまさ)の進軍がすごくて戦死者続出。

織田軍の13段構えの第1段の坂井政尚を破り、第二段の池田恒興を破り、なんと秀吉・柴田勝家をも破って13段構えの11段までくるほどの勢い。

が、徳川軍が頑張った。

朝倉軍の敗走者が続出すると、浅井軍の士気がだんだん下がりだしたのです

さらに朝倉軍の豪傑真柄直隆が討死!

朝倉軍の末尾が崩れ、浅井軍の側面ががら空きになったのです。

そこを狙ったのが織田軍の氏家ト全(ぼくぜん)ら美濃勢でした。

氏家ら美濃勢は横山城の監視をしており、さきほど到着したばかり。

朝から動きっぱなしで疲れまくっている浅井軍は、隊が乱れまくったのです。

さらに稲葉良通らの軍が浅井軍の右を攻撃すると、とうとう総崩れとなり小谷城へ逃げ込むこととなりました。

午後二時ごろ、信長は勝鬨を上げました。

取った首は3000となり、姉川は血に染まり、屍だらけとなったのです
姉川の戦いの結末
小谷城に逃げた長政らを、信長は追撃するのをやめました。

城の守りが堅く、また自分の軍隊も8時間に及ぶ乱戦に疲れきってたから。

翌日、信長は陥落させた横山城を秀吉に任せることに。

戦いに勝ったものの、朝倉義景・浅井長政を討ち取ることはできませんでした。

信長は一度岐阜へ帰り、再び浅井・朝倉を討つチャンスを伺うことになったのです。

さらに信長は細川幽斎宛てに手紙を送りました。

「姉川は血の川となり、小谷は死骸だらけじゃ。まもなく小谷城も落しますぜ」

これは幽斎が将軍・義昭に見せるだろうということがわかっていて、自慢げに書いた手紙でした。
頑固者の代名詞 稲葉一徹
姉川の戦いで家康の加勢を命じられ、家康と協力して朝倉勢を突き崩した稲葉一鉄。

信長から織田方で一番活躍した!と褒められました。

が、一鉄は「我殿は盲大将におわすか?この度は家康殿の力によるもの。活躍したのは三河勢であり、一鉄にありとは片腹痛いわ」と強気発言。

この言葉から誰はばからずに自分の意思を通す人を「一鉄者」と呼ぶようになりました。

もともと一鉄は斉藤家の家臣で美濃三人衆の一人。

幼い義龍が後継者となってからは苦労の連続。

それでも斉藤家のために織田家の侵略を幾度となく防いでいました。

が、1566年に秀吉によって織田家へ寝返ったのです。

常日頃自分の意見を臆することなく言うため、信長は「あいつは生意気なヤツだ。謀反をおこそうとしてるんじゃないか?」と疑いの念を抱くようになっていきます。

そしてとうとう一鉄を暗殺しようと茶室に招きました。

茶室で同席した刺客たちが床の壁にかけてあった掛け軸を話題にしたところ、一鉄はその掛け軸に描いてある言葉を全て読み上げ意味を教えたのです。

信長は一鉄の学識に感心し、暗殺計画を中止したのです。

学が身を助けたこととなったのです。

信長包囲網 三好三人衆動く
浅井・朝倉連合軍を破った信長でしたが、のんびりとはしていられませんでした。

将軍義昭が送った手紙によって、信長を討て!と、「信長包囲網」が出来上がっていたのです。

まず、松永久秀の戦いで敗れた三好三人衆が動き出しました。

三好三人衆はかつての栄光を夢見て、三好家の残存勢力を集めだしたのです。

集まったのは讃岐の十河氏(そごう)や、雑賀衆でした。

彼らは「信長?将軍の権威をたてに今だけ権力を握ってる男だろ?そんなヤツ簡単に追い出せるぜ!俺らが信長を討って幕府を乗っ取ってやる!」と思っていたのです。

以後、信長包囲網は3年ほど続きますが、たびたび信長に挑戦してくることとなります。
1570年9月 信長 本願寺の一向宗とのしんどいバトルスタート
次に信長がバトルしたのは、本願寺顕如(けんにょ)

本願寺家というのは、浄土真宗(一向宗)の総本山で、支配力のある存在でした。

一向宗徒は加賀の国を独立させ「百姓の持ちたる国」を作ったり、各国で一揆をして大暴れしてました。

全国にわたって一向宗があり、どこの大名もほとほと困っていた存在。

なんせ「南無阿弥陀仏」と言いながら、死を恐れない。

一向宗徒は、大きなうねりで各大名の領地を荒らしまくるモンスター。

その総本山が本願寺なのです。

本願寺顕如は生まれたときから各大名のご機嫌取りにあいまくり。

みんな自分のとこの領地の一向宗徒に暴れてもらったら困るので、本願寺は賄賂を貰って超大金持ち。

顕如には縁談がありまくりで、本願寺はパラダイスだったのです。

そんな頃、信長が義昭を連れて京都を制圧しました。

信長は本願寺に対して、軍用金を出すように命令したのです。

最初、本願寺顕如はこれに従ったんだけど、だんだんと信長の要請はエスカレートしてきました。

他の大名と仲良くするな!とか、信者がうるさいからおとなしくさせろとかね。

とどめは「本願寺寺地に城を築きたいので、そこを明け渡せ」とゆー要請。

信長は中国と四国を制覇するのに便利だった本願寺の土地が欲しかったのでした。

これにはさすがの顕如も断固拒否。

最初はある程度対等だった信長との関係が次第に家来っぽくなってきて不満だったところに、将軍義昭から「信長やっつけろ!」の命令書が。

顕如は、信長に反旗を翻すことを決意したのです。

一斉に全国にいる一向宗に「仏敵 信長をやっつけろ!」と号令。

ついでに、「一向宗の敵は全部やっつけろ!」とまで言い、とどめに「協力しない者は破門する!!」と言ったもんだから大変!

当時「破門」というのは、念仏を唱えていれば極楽にいけると思ってた信者にとって「地獄に落ちる!」というもの。

これにより各地の一向宗信者が一斉に立ち上がったのでありました。

そして一向宗と信長の11年に及ぶしんどい戦いが始まるわけです。
信長ビクビク「信玄はイヤだなぁ」
本願寺が立ち上がったことに刺激をうけたのは武田信玄。

というのも信玄の妻の妹は本願寺顕如の妻。

いわゆる親戚関係にあったのです。

いまのところ信長は信玄をたてまくってたし「強いヤツと戦いたくない」と思っていたため、目に見える対立はなかった。

ですが信長が天下に号令をかける際、必ず邪魔になる相手。

信玄の方も信長を将来の敵とは思っている。

討つべきチャンスがあったら、それを逃すほどバカじゃない。

そこに最大のプロデューサーである将軍・義昭の命令書・・・。

信玄は立ち上がるチャンスを得たのです。

そして信長は「今、信玄だけは来て欲しくない」と願っているのでした。