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室町時代その11 1567年8月〜1568年

1567年8月 斎藤家滅亡
天才武将 浅井長政デビュー
9月 信長の妹 お市と浅井長政結婚
10月 東大寺大仏焼き討ち!三好三人衆VS松永久秀
偉大な宗滴死す!派手好き朝倉義景
関東は信玄を中心にバトルスタート
逃げまくりの足利義昭 朝倉家へヘルプ 
足利義昭 「ボクを信長のとこに連れてってぇー」
1568年2月 14代将軍 足利義栄
7月 明智光秀 将軍家の足利義昭を連れてきた
謎の半生 明智光秀
光秀と一緒に来ちゃいました♪ 細川藤考(幽斎)
9月 信長 将軍を連れて京都へ どうする!?松永久秀
長宗我部元親「次は四国をゲットしたいなー」
10月 15代将軍 足利義昭
14代将軍 義栄は?
12月 信玄 今川潰しにかかる
家康 「あのオヤジ(信玄)調子よすぎ!」





室町時代 その11 1567年8月〜1568年
1567年8月 斎藤家滅亡
斎藤家はボロボロになっていました。

1564年龍興16歳の時には、竹中半兵衛に稲葉山城をのっとられ竹中半兵衛は斉藤家を去っていきました。

1566年には秀吉が、墨俣城を作り上げ驚かされた。

1567年に、秀吉は半兵衛を通して美濃三人衆と呼ばれていた重臣稲葉良通・氏家ト全・安藤守就が織田信長に寝返らせることに成功。

3人とも、龍興のやり方に不満を持っていたのでありました。

準備は整った。

信長は、1300の兵で龍興のいる稲葉山城へ。

信長・秀吉・半兵衛。戦国期の天才3人に攻められた龍興はあっという間に降伏。

龍興は、城兵の命を保障させ京へと落ち延びていきました・・・。

信長は、美濃を「岐阜」と改め、道三から始まった斉藤家は三代で滅亡したのです。

龍興は、朝倉義景を頼りに越前へ。

1573年に朝倉とともに信長へ攻撃するが討死。26歳でした。

ちなみに、龍興は決して愚鈍な将ではなかったそうです。

ルイス・フロイスは、龍興のことを「非常に有能で思慮深い」と言い高く評価していました。

ただ、攻められた相手が悪かったのです。

天才武将 浅井長政デビュー
浅井家とは、近江(滋賀県)を支配してる国でした。

はじめは京極家の家臣でしたが、京極家が後継ぎ争いをしている間に長政のじーちゃんである亮政(すけまさ)が反逆して独立。

もちろん京極家はそれを許すはずがなく、仲良しの六角家とともに攻撃。

浅井家は近畿の大名「朝倉家」に助けを求めてなんとか戦いました。

だけど、じーちゃんの後を継いだ長政の父・久政は、能力のある男ではなかった。

狩猟好きで遊んでばかり。それを諌めた家臣に逆ギレする始末。

もちろん戦は連敗・・・。家臣らは怒りを増すばかり。

そしてせっかくじーちゃんが独立したってのに、京極&六角の攻撃に耐えられなくなり、今度は六角家に支配されてしまいました。

久政は、六角家に従いますってのを示すために、妊娠中の妻を人質に送りました。

この時おなかにいたのが長政。

生まれた時は、六角家の当主「六角義賢」から一文字もらって「賢政」という名前でした。

8歳になって小谷に戻ってきた長政は、六角を倒して浅井家再興を夢見つつ成長していくことに。

家臣達は頼もしい若者に育った長政を、亮政の再来と期待を膨らませていったのです。

長政が元服した時に、六角義賢の家臣の娘と縁談が持ち上がりました。

六角氏の家臣の娘と結婚することは、浅井家は六角家の家臣になるということだ・・と考えた長政は、結婚したばかりの花嫁を実家に送り返してしまいました。

怒った六角氏は、浅井家に総攻撃。

が、長政は巧みな戦略で六角氏を撃退したのです。

これが近江に武名をとどろかせることとなったのです。

この時長政は15歳。

浅井家の家臣は、六角の家臣になったことを悔しく思っていて、久政の弱腰にもイヤになっちゃってたので、この快進撃には大フィーバー。

長政は、家臣らのバックアップのもと父に「家督を譲れ!」と申し出て、なんと15歳にして父から家督を奪い取ったのです。

1567年9月 信長の妹 お市と浅井長政結婚
浅井長政の活躍を密かに注目していたのが織田信長。

信長は美濃の隣の近江である浅井と仲良くしとけばやりやすい・・・ということで妹のお市を長政に嫁がせることにしました。

お市は信長の妹で、「当世一の美女」と言われていました。

信長は「お市は特別なヤツに嫁がせよう」という、いわば信長の切り札でした。

その切り札の相手に浅井長政を選んだのです。

お市が大好きだった秀吉は大ショック。

信長は長政を見るなりとても気に入り、家臣らに「浅井家をたてるように」とまで言うほど。

また、長政とお市は戦国にはめずらしく非常に仲が良くて織田家と浅井家はとても仲良しに。

そして両家は婚姻によって同盟を結びますが、長政は信長に一つだけ約束をしていました。

「浅井家は、六角と京極から攻められた時、朝倉家に助けてもらいました。朝倉家には恩があります。朝倉家とは対立したくないので、もし信長殿が朝倉を攻撃するようなことがあったら、必ずこの長政に言ってください」と・・・・。

1567年10月 東大寺大仏焼き討ち!三好三人衆VS松永久秀

三好長慶亡き後の三好家では、後継ぎである三好義継の後見人を誰にするかで、争いが起こっていました。

三好家当主の義継はまだちびっこ。

義継の後見人になるということは、主導権を握ることで、京都を我が物にできるのと同じようなものだったのです。

松永久秀は義継にたくみに近寄り、操ろうとしていたのです。

これがだんだん気に入らなくなってきたのが、仲間であった三好三人衆である三好長逸(みよしながゆき)三好政康(まさやす)岩成友通(いわなりともみち)でした。

松永久秀と三好三人衆の間に不穏な雰囲気が漂い始め、とうとうバトルがスタートしだしたのです。

最初は三好三人衆が松永久秀を破りました。

すると久秀は13代将軍義輝亡きあと、14代将軍予定であった足利義栄(よしひで)に近づいたのです。

また、義継は三好三人衆に引き取られましたが、そこで冷遇されたため、「久秀の方がいい!」と、久秀もとへやってきたのです。

久秀は義継をつれて多聞城へ移動しました。

それを知った三人衆は、久秀を追っかけに東大寺大仏殿に本営を置いたのです。

松永VS三人衆のにらみ合いが続きました。

そしてとうとう松永勢が夜襲をしかけたのです。

これは大成功となり、三人衆は敗走していき、その炎は大仏殿を炎上させてしまったのでした。

久秀は仏罰を恐れる家臣らに、「木と銅でできた大仏殿を焼いたからって何だと言うんだ?」とへのかっぱ。

神仏も信じない合理的精神の持ち主でした。

偉大な宗滴死す!派手好き朝倉義景
朝倉家とは、もともと室町時代に権力をもっていた「斯波家」の家柄。

領地は越前。

京都に近いため朝廷や将軍とも密接な関係で、特に将軍家からはめちゃくちゃいい待遇をされている家でした。

そんな朝倉家ですが1488年にお隣の加賀(石川)で一向宗による一向一揆が起きちゃったからさぁ大変。

信者達は大名を殺して勝っちゃったので、独立の波は越前にも及んできたのです。

この時一向宗の信者と対抗したのが朝倉宗滴。

1万人の兵で、30万人(!?)の一向宗をやっつけたという伝説の持ち主。

その後も朝倉宗滴は大活躍。

浅井家が六角&京極から攻められてるから助けてー!と要請してくると浅井家を助け仲良しに。

また、上杉家とともに加賀の国の一向宗を攻めたりなどしてました。

そして、越前を第二の京といわれるほどの城下町にし、朝倉家は戦国初期を超名門として過ごしていました。

宗滴は79歳で死にましたが、死ぬ直前まで合戦に参加していました。

この頃、家督を継いでいたのが朝倉義景。

義景が家督を継いだ6年後に、宗滴が死んでしまいました。

超有名人の宗滴が死んでしまった朝倉は、動揺しまくり。

他国にバレたら攻撃される!と祭りやパレードなんかをやって朝倉はなんともないぜ!というのをアピールしていました。

が、ここに一人我慢できなかった男が登場。

それが当主である義景です。

義景は、生まれた時から偉大な宗滴の作り上げたステキな町に住んでいて派手好きの浪費家。

それを抑えていたのが宗滴でしたが、宗滴なき今、義景は羽を伸ばしまくり。

がんがん遊びにお金を使い始めたのでありました。

関東は信玄を中心にバトルスタート
今川家は名前だけは大国でしたが、中身は空洞となっていました。

そして今川攻めに反対する息子・義信は自刃してしまい、義信の妻を実家である今川家に戻したのです。

つまり、ここで武田・今川の同盟は破棄となったのです。

お坊ちゃま氏真は、信玄のことを好きではありませんでした。

叔父でありながら駿府を侵略しようとしてるし、同い年のイトコ義信が自分のトコに攻めようとする信玄に反対したら幽閉されちゃうし・・・。

氏真は北条氏とつるんで「塩止め」を決行しました。

これによって信玄の甲斐の国の人々は苦しみましたが、ライバル上杉謙信が「信玄を潰すのは武力でである。民は関係ない」として、敵に塩を送ったのです。

ですが信玄には「塩止め」程度ではひるみませんでした。

信玄は氏真に「そういえば三河の家康は臣下でありながら織田と結んだんだって?しかも遠江を狙ってるそうじゃな?でも今の氏真じゃ太刀打ちできないじゃろ?だったら奪われる前にワシに譲った方がいいんじゃないの?もし譲ってくれたらワシが氏真に変わって遠江を拠点として三河の家康をやっつけてあげるけど?」と言ったのです。

これに氏真は超激怒!

「なんてムシのいい話じゃぁ!」と突っぱねたのです。

すると信玄。

今度は山県昌景を使者として家康のトコに送り込みました。

「武田と徳川はケンカするのやめない?とりあえず大井川を境として、うちと家康のとこで分けようぜ?遠江は家康の好きにしていいよ」と言って来たのです。

家康は信玄に侵攻されたくないので、二つ返事でOK。

今川氏真の領地を勝手に分配した2人でした。

この武田・徳川の盟約を「川切り」といいます。

逃げまくりの足利義昭 朝倉家へヘルプ 
12代将軍の足利義晴の末っ子で、義輝の弟である義昭は困っていました。

父・義晴が病死し、次の将軍には兄の義輝がなったものの、松永久秀と三好三人衆によって殺されてしまい、義昭は松永らに追われるはめになっていました。

ちなみに、義昭を寺から救い出したのは細川幽斎です。

そんな義昭は、征夷大将軍にとってもなりたかった。

筆まめの義昭は、いろんな人に手紙を書きまくったのです。

誰でもいいから上洛して松永&三好三人衆をやっつけてくれれば、自分が将軍となり室町幕府を再興できる!という野望のためでした。

特に手紙を送っていたのは上杉謙信。

が、謙信は自分とこの蠅をたたくのに精一杯。

タイミングがかみ合わなかった。

今川を破った新興勢力の織田信長にもお手紙を出しました。

信長はこの手紙を受けたけど、斉藤家とのバトルに忙しくなかなか上洛できずにいました。

そんな義昭の動きを察知した松永勢は、義昭に兵を向けたのです。

慌てた義昭は、妹のお婿さんである武田義統(よしずみ)のとこに行くんだけど、義統も息子とバトル中で上洛どころじゃなかった。

そこに朝倉家の使いがやってきて、義昭は朝倉家へと行くのでありました。

足利義昭 「ボクを信長のとこに連れてってぇー」
朝倉家は、義昭を丁重におもてなししてくれました。

だけど義昭はノンキにしてる場合じゃなかった。

なんとしても「次期将軍」になりたかったのです。

義昭は朝倉義景に「早くボクを楯に上洛してよ!」と催促したんだけど、朝倉義景はすこーし緩めな男だったので、すぐさま行動開始しようとは思っていなかったのです。

肝心の朝倉義景がなかなか上洛をしてくれないので義昭はイライラ。

その上、ライバルであった足利義栄が松永久秀の援護をうけて「従五位下・左馬頭」という高い身分の称号を貰っちゃったもんだから、義昭焦りまくり。

この身分は征夷大将軍に任じられる人の地位なのです。

もう義昭はいてもたってもいられない状況に。

そんな中、尾張の織田信長の噂を耳にしたのです。

「あの今川義元を破り、斉藤家を滅ぼし、岐阜を拠点に天下布武を掲げている。あいつは出来た男だ。」

これを聞いた義昭は「どうにかして織田信長のとこに行くことはできないか?」と考え出したのです。

そんな中、朝倉家の客将として明智光秀が現れたました。

義昭は、朝倉義景の呑気な態度にイラついていたので、朝倉景勝を見限ることを決意。

明智光秀に「信長のとこに連れて行ってくれ!」とお願いしたのです。

1568年2月 14代将軍 足利義栄
義昭の怪しい動きを察知した松永久秀。

「あいつがヘンテコな真似をする前に・・・」と、なんと義栄を摂津の富田にある普門寺で将軍宣下させてしまったのです。

松永久秀にあやつられまくる傀儡将軍となった義栄でした。

1568年7月 明智光秀 将軍家の足利義昭を連れてきた
明智光秀は、今をときめく信長のとこに足利義昭を連れてやってきました。

そして義昭は「ボクを将軍にしてよ!」と信長にお願いしたのです。

信長は、長い間かかっていた斉藤家との戦いも終わっていて、「これはチャンス」と、すぐに上洛をする準備にとりかかりました。

謎の半生 明智光秀
光秀の半生はいろんな説があります。

知名度は高いけど、生まれも育ちも謎だらけ。

美濃の土岐家の一族であるという説が有力。

諸国を流浪していて、色んなとこで兵学を学んだ。そして朝倉家に仕えていたらしい。

朝倉家に仕えるきっかけとなったのは鉄砲の腕前。

45メートル離れたところから100発撃ち、的に当たったのは68発。残りも全て的の角に当たったそうです。

朝倉義景は光秀を気に入り、早速家来にしたそうです。

この頃光秀は40歳くらいだったらしい。

で、朝倉のところにやってきた将軍義昭に見込まれ、信長のとこへ一緒に行くこととなったのです。

この時、光秀の才能を信長が見抜き、義昭との連絡係りとして利用価値ありとして家臣に迎えたのです。

最初は、義昭・信長の両方に仕えていました。

光秀と一緒に来ちゃいました♪ 細川藤考(幽斎)
「幽斎」の方がわかりやすいので、以後「幽斎」と書きます。

幽斎は12代代将軍足利義晴の落胤とも言われています。

足利家に仕えており、有能な幕臣として活躍していました。

が、13代将軍義輝が松永久秀に殺されると、細川幽斎に保護されながら、越前の朝倉家へ逃げ込んだのです。

明智光秀とともに、将軍と信長をつなぐパイプ役となります。

1568年9月 信長 将軍を連れて京都へ どうする!?松永久秀
信長が上洛するということは、久秀にとっては大ピンチ。

さすがの久秀も、時の強者・織田信長にはかなわなかったのです。

始めは戦っていた久秀も、こいつにはかなわんと悟ると、名器「九十九茄子の茶入」を信長にプレゼント。

茶器が大好きな信長は喜び、大和一国を久秀に渡しました。

三好・六角も抵抗したけど、信長の前にあっさり退却。

信長は、京都を制覇しました。

のち、信長は家康に久秀を紹介した時、「こいつは主君殺し・将軍殺し・大仏殿焼き払いという3つのとんでもないことをしでかした奴だ」と信長流の褒め方で紹介したらしい。

長宗我部元親「次は四国をゲットしたいなー」
家督を継いでからの元親は、「勝てる!」という確信を抱くまで軽々しく戦いをしないようになりました。

これが「殿はしっかりとした戦をやる」と家臣から信頼度アップ。

そんな元親のさらなる目標は四国征服。

情報集めも得意な元親は、信長に目をつけ、信長家臣である明智光秀に近づいたのです。

元親は明智光秀の家臣・斉藤利三の妹をお嫁さんにもらい、これで織田情報もばっちり★

だけど、光秀を通しての情報の中には、秀吉のことはほとんどなかったらしい。

信長がどんどん強大になっていくと、織田家で1・2を争う明智光秀とますます仲良くなっていき、信長が天下をとった日には有力な付属大名として四国をまかされ、運が良けりゃ孫の代で天下取れるかも♪なんて思ってました。

だけど、中央から遠い四国にいた元親の千里眼もここまで。

秀吉という横槍と、信長が元親の予想をはるかに越えた暴君だったのです・・・。

1568年10月 15代将軍 足利義昭 
義昭は、ついに念願の征夷大将軍をゲット!

有頂天の義昭は、恩人である信長のために信長を管領にしようとしました。

ですが信長はこれを拒否。

じゃあ「副将軍ね!」と言いましたが、信長はこれも拒否。

しかたないので義昭は、足利の紋章を信長にプレゼント。

信長は室町幕府の権威なんてなんの魅力も感じていなかったので、これも拒否したんだけど、あまりにも義輝がうるさいので、しかたなくこれは受けました。

また、信長は堺の町を支配下に置く事になりました。

堺は鉄砲の製造に力を入れまくっていたところです。

さらに義昭は、たいして年齢のかわんない信長のことを「御父・織田弾正忠殿」と呼んで、信長に感謝しまくりだった。

14代将軍 義栄は?
ところで義栄はというと?

義栄を擁していた松永久秀が敗れたため、在位7ヶ月で将軍を辞めさせられてしまいました。

で、四国へ渡る途中で、なんと病死してしまったのです。

摂津で将軍宣下を受け、一度も御所に足を踏み入れることの無いまま死んでしまうという、可哀相な将軍。・義栄でした。
 
1568年12月 信玄 今川潰しにかかる
信玄と家康は大井川より東は信玄・西は家康の攻め放題・取り放題という身勝手な約束をしました。

そしてとうとう信玄が今川潰しに取り掛かったのです。

3万の兵を率いた信玄軍が駿府へ迫りました。

対する今川軍も3万の兵で待ち受けました。

が、今川軍の兵は武田軍の先鋒の旗が見えたかと思うと、怖気づいてしまい逃げてしまったのです。

隊列は崩れまくり、パニックに。

今川軍の名だたる将はことごとくやられてしまったのです。

こうして氏真は今川館を焼かれ、なんとか掛川城へ逃げ込みました。

この時、氏真の妻(北条家の娘)は裸足で逃げるほど、今川家はパニック。

これを聞いた北条氏康は「わが娘にそんな思いをさせやがって!」と氏真のふがいなさに激怒したそうです。

信玄の出陣に対して、家康も遠江をゲットするため動き出しました。

ガンガン進軍していきましたが、途中農民らの一揆が始まってしまい一時動きがストップしてしまいました。

これは信玄がすごい勢いでやってくる家康が気に入らなかったらしく、わざと一揆を起こさせたそうです。

後で家康がこれを知り、信玄を攻めましたが信玄は「は?なんのこと?」とすっとぼけたそうです。

さらに、北条氏も漁夫の利を得ようと飛び出してきました。

今川の領地は武田・徳川・北条の3国に荒らされまくったのです。

家康 「あのオヤジ(信玄)調子よすぎ!」
家康は掛川城を攻撃に向かいました。

そこへ信玄の武将・秋山信友の軍がやってきて家康の兵に襲い掛かったのです。

これを知った家康は「大井川からこっちは来ないっていったじゃないか!約束を破る気か!」と怒りましたが、信玄は「悪い悪い。家臣が間違えたらしい。そんなに怒るなよ」と、へのかっぱでした。

さらに信玄は北条氏康にも使者を出し、「甥の氏真が徳川に攻められてるんだよね。他人に取られるくらいなら、叔父であるワシが取った方がいいし。これから富士川を境に東は北条・西は武田にしない?お互い仲良くやろうよ」という申し出をしました。

家康と同じように「川切り」を言って来たのです。

これに対し北条氏康は「まったく・・・。悪いがこのオレ様は悪法師(信玄のコト)の口車には乗せられんぞ。」と断ってきました。

家康は信玄のあくどい策略にほとほと疲れていました。

愚弄されまくって「あのクソオヤジめが!」と一筋縄ではいかない信玄にムカムカしっぱなしだったのです。