室町時代その8 1556年〜1560年 | |
1556年 | 斉藤道三 暗雲起ちこめる |
2月 | 道三VS龍興 長良川の戦い マムシが喰われた! |
8月24日 | 信長 クーデターを起こさせる 稲生ヶ原の戦い |
1557年1月 | 家康・築山殿と結婚 |
4月 | 大内家滅亡 |
11月 | 毛利元就 三本の矢 |
あえてブスと結婚しました♪毛利家次男 吉川元春 | |
8月 | 川中島第三回 上野原の戦い |
信長の長男・信忠誕生 信長の愛した女性 吉乃 | |
11月 | 信長 弟を殺す |
1558年 | 将軍義輝 京都へ戻ってくる |
梟雄代表!松永久秀 | |
9月 | 秀吉登場! 信長に仕える |
1559年 | 信長 エリート集団を結成 |
1560年 | 今川義元 上洛を決意 |
5月19日 | 対する信長は!? |
信長の愛した「敦盛」 | |
AM8:00 信長 余裕モードを演技する | |
AM11:00 信長「おぬしらの命 ワシにくれ」 | |
PM2:00 桶狭間の戦い | |
PM4:00 義元の首討ち取ったり!! | |
一番の論功行賞は!? | |
蜂須賀小六が酒を出した? | |
どさくさに紛れて独立!徳川家康 | |
義元の息子 氏真 | |
5月 | 松永久秀動く!!十河一存(そごうながやす)事故死!? |
6月15日 | 長宗我部国親死去 元親家督を継ぐ |
室町時代 その8 1556年〜1564年 |
1556年 斉藤道三 暗雲起ちこめる |
土岐家に可愛がられてた家臣や、国内に残っている土岐家が道三に反感を持っている中、事件は起きました。 道三には、長男「義龍」がいたんだけど、義龍は道三の実子ではないという噂がありました。 というのも、「深芳野」は、主君土岐頼芸から譲り受けた側室で、道三の元に嫁いでから7ヶ月で義龍を生んだからです。 道三は5男1女をもうけたが、義龍のことは自分の子ではないかも・・・と可愛がらなかったのです。 反対に、国内の土岐家や土岐家に可愛がられていた家臣なんかは、義龍のことを土岐家の血を汲んでいると、義龍を大切にしていました。 義龍は、巨漢でいつも大人しく本ばっか読んでる子でした。 道三からしてみれば、自分の子じゃないかもしれないし、家にこもってばっかいる図体のでかいオタクだし・・・ってことで、義龍に家督を譲る気になれず、一番可愛がっていた三男の喜平次(きへいじ)に譲ろうと考えてはじめたのです。 それが土岐家に可愛がられていた家臣らにばれてしまい、義龍も父道三が、自分を捨てようとしているのを知ってしまうのです。 義龍は、道三か今まで裏切りと謀略を繰り返して今の地位を築いたのを知っているので「このままじゃボクも・・・」と不安に思いはじめました。 とうとう1556年に次男の孫四郎と三男の喜平次を稲葉山の自宅に呼び、そこでこの2人を殺してしまったのです。 怒った道三。 が、この時家臣らはほとんどが義龍の味方をしたのです。 |
1556年2月 道三VS龍興 長良川の戦い マムシが喰われた! |
道三側は2700人。 対する義龍は17500人となりました。 さすがの道三もこの人数には勝てませんでした。 とうとう長良川で戦って破れ,引きあげる途中で、首を切られ鼻をそぎ落とされたのです。 道三62歳無残な最期をとげました。 「蝮の道三」と恐れられ「梟雄」として名高い道三も、最後は自分の息子に下克上されてしまうという哀しい最期となったのです。 道三は信長にも援軍を要請していたけど、信長も周りの小うるさい蠅を叩き落すのに時間がかかり、信長の援軍が到着した頃にはすでに道三は命を落としいました。 道三は、この時の義龍の采配をみて「虎を猫と見謝るとはワシの目も老いたわ!」と言ったそうです。 が、この時道三は「美濃一国譲り状」という、「美濃をあげますよ!」という手紙を織田信長に送りました。 そのため義龍は度々織田家の攻撃にあうハメになるのです。 |
1556年8月24日 信長 クーデターを起こさせる 稲生ヶ原の戦い |
![]() この時23歳になっていました。 が、まったくうつけは治る気配もなく、家臣らは呆れ果てていました。 信長には弟の信行がいたんだけど、これがまたすっごい真面目でお利口さんだったため重臣からウケがすごいよかった。 重臣の柴田勝家や林道勝らは、信長のようなうつけモノより、弟の信行の方が品行方正で織田家を継ぐのにふさわしい!と、クーデターを決行することにしたのです。 そして柴田勝家らは1700の兵で、名塚の砦にいる佐久間大学をやっつけに行きました。 それを聞いた信長。 すごいスピードで清州から700の兵を連れてやってきました。 そして信じられないくらいの大声で「おのれ!にっくき人でなしどもめ!」と怒鳴ったのです。 柴田勝家や林通勝はもともと反乱軍という引け目もある上に、主君である信長に怒鳴られ戦意を失い始めてしまいました。 そして信長の素早い対応によりこの反乱はすぐに鎮圧となったのです。 柴田勝家は、この時の信長の采配に感心し「うつけと思っていたがなかなかやりおる」と、以後信長に従うことになったのです。 信長は勝家・通勝を許し、信行のこともお咎めなしとしました。 |
1557年1月 家康・築山殿と結婚 |
築山殿は、今川義元の家臣である関口親永(ちかなが)の娘。 母親は今川義元の妹でした。 家康が義元に人質として預けられている時に結婚。 これは、三河の松平家を今川家に取り組むための政略結婚でした。 家康14歳〜16歳・築山殿は同い年もしくは8.9歳と年上だったそうです。 1559年には長男・信康誕生。 1560年には亀姫が誕生。 気位が高く、姉さん女房的なイメージの強い築山殿ですが、のち今川義元の姪ということで、いろいろと大変になっちゃいます。 |
1557年 4月 大内家滅亡 |
陶隆房を破った毛利元就。 その後も大内家を攻撃しまくった。大内家を支援してたのは、大友宗麟。 そっちも大内の領地を頂きまくっていいから、大内家に味方しないでくれという約束をとりつけたのです。 宗麟が手出ししないとなれば、元就はもう怖いもんなし。 かつては格上だった大内家を攻めまくり、とうとう大内家は滅亡してしまったのです。 |
1557年11月 毛利元就 三本の矢 |
生涯で200回合戦してきた元就。 元就ほど謀りごとを多く用いた武将はいないといわれていますが、そんな元就、長男隆元・次男元春・三男隆景を呼び、遺訓状を残しました。 ここで「三本の矢」の教訓が出てきます。 3人を呼んだ元就は、矢を一本ずつ折らせました。 次に、三本の矢を束ねて折らせたんだけど、これがなかなか折れない。 元就は、「一本の矢は簡単に折れるけど、三本束ねればなかなか折れない。3人が協力しあえば、弱くとも強くなれるぞ。兄弟間で結束を固め、毛利家を守っていけ」と言いました。 実際、元春・隆景は、自分が養子に行った先よりも、毛利家を重視して頑張りすぎちゃったくらいになりました。 ちなみにこの話は、実際にあったものではないです。後、作られたお話であります。 またこの遺訓の中には、「戦国とはいえ自分は肉親や重臣を殺しまくってきた。3人の中の誰かが心が離れれば、毛利・吉川・小早川の三家も危なくなるぞ」と説きました。 |
あえてブスと結婚しました♪毛利家次男 吉川元春 |
毛利家の切り込み隊長的存在だった元春。 元春は結婚するってお年頃になった時に「熊谷信直の娘を貰いたい」と言いました。 元就はじめみんなビックリ!熊谷信直の娘といえば「ブス」として超有名人だったのです。 いったい何を考えとんじゃ?と元就が元春に尋ねると 「昔から美女に溺れて国を傾けちゃう人が沢山いるでしょ?俺はそんなふうにはなりたくないし、誰も貰い手のないブスを嫁にもらえば熊谷信直は喜びますぜ?そして恩義を感じ、戦の時によく働いてくれるでしょう」と答えたのです。 そして元春は信直の娘を貰い、信直は感激してその後戦において活躍するのでした。 |
1557年8月 川中島第三回 上野原の戦い |
今川義元の仲介によってせっかく結んだ和が、謙信の家臣大熊政秀が武田側に寝返ったことによって破れてしまいました。 信玄は、政秀を使って越後を攻めようとしたが失敗。 怒った謙信は信濃に進軍し、上野原で合戦となりましたが、両方ともこれといった戦果をあげることはできませんでした。 |
1557年 信長長男・信忠誕生 信長の愛した女性 吉乃 |
信長に初の長男が生まれました。 それが信忠です。 母親は生駒八右衛門の娘「吉乃(きつの)」 正室に道三の娘「帰蝶(きちょう)」がいましたが、帰蝶は歴史から姿を消しています。 道三が死に、斉藤家とバトルを始めたので離縁されたとも言われています。 吉乃の家である生駒家は油商を営んでおり、裕福な家でした。 きっぷのいい男だったらしく、蜂須賀小六らも出入りしていたといわれています。 信長はそこの娘・吉乃にヒトメボレしたらしい。 その頃吉乃はダンナがいたんだけど、死んでしまったらしく出戻っていました。 美人だったため、信長の側室となったのです。 吉乃は嫡男となる信忠・次男信雄・徳姫(家康嫡男信康に嫁ぐ)を出産しました。 「生駒御前」と呼ばれ、信長の寵愛を受けまくっていましたが、1566年に39歳で死んでしまいます。 信長は吉乃を思い出すたびに涙を流したといわれるほど、寵愛が深かったそうです。 |
1557年 11月 信長 弟を殺す |
![]() が、それじゃおもしろくないのは弟の信行。 「なんだよ!さんざんオレの方がいいって言ってたくせに!オレは諦めないぜ!あんなバカ兄貴にいいようにされてたまるかよ!」と、常に主君の座を狙っていたのです。 そしてとうとう、斉藤家と手を組み再度クーデターを起こそうとしました。 が、以前味方であった柴田勝家がそれを知り、信長にチクったのです。 信長はとうとう弟・信行を殺してしまいました。 |
1558年 将軍義輝 京都へ戻ってくる |
この頃京都は、細川晴元を追い出し、三好長慶が仕切っていました。 そこへ、京都を逃げ、5年間朽木・堅田で過ごしていた将軍義晴が、六角義賢の仲介によって「仲直りしましょう」ともちかけてきたのです。 長慶は京都の民に人気がなかったので、この仲直りをしぶしぶ受けることに。 義晴は京都に戻り、今度こそ!と将軍家の権力を高めるためお仕事をやり始めたのです。 翌年(1559年)2月には織田信長、4月には上杉謙信などなど、名だたる大名らと会見し、政治的にも手腕を発揮してきました。 器量もあったので、天下を治められるかもしれないとみんなが認めるように。 次第に力をつけてきた義輝は、三好京都締め出し作戦を開始しました。 だんだんと三好の地位は下がり始めてきたのです。 逆に、河内の畠山高政や近江の六角義賢ら反三好勢力は活発になっていったのです。 さらに義輝は六角・朝倉・本願寺などに「三好家やっつけてくれや」とお願いしはじめたもんだから、三好家は攻撃されまくり。 もちろん三好長慶は激怒! ですが、このまま京都を支配するのはちょっとマズイかもなぁー。なんたって将軍様に逆らう逆賊だもんなぁ・・・ってことで、とりあえず京都を去ることにし、なんとか京都での支配権を取り戻すべく画策し始めることとなったのです。 が、ここに現れたのが三好家家臣・松永久秀だったのです。 が、長慶は次第にめんどっちくなってきたのか、政務から離れだしてお茶や歌にはまり始める。 ちょうど長慶の中枢の家臣十河一存や三好義賢なんかも死んじゃって、三好の実権は、松永久秀&三好三人秀へ移っていきました。 将軍をあやつり人形とし、実権を握ろうとしていたのにおりこうさん将軍であっては邪魔以外の何者でもない。 そんな不穏な中義輝は将軍としてお仕事し続けたのでありました・・・。 |
梟雄代表!松永久秀 |
松永久秀は20歳の時、阿波細川家の家老であった三好長慶に仕えることとなりましたが、それ以前の経歴は一切不明。 かしこかったので、長慶に可愛がられ腹心として信頼されていくようになっていました。 経済面も精通していて、また文化人でもあり、茶人の誰もが羨む「九十九茄子(つくもなす)の茶入」や、「平蜘蛛の釜」といった名物茶器を手に入れ、茶会を開けるほどの教養を持っていました。 長慶に大和の国を貰い、そこの国主となっていましたが、久秀の野望はそこで終わらなかったのです。 |
1558年9月 秀吉登場! 信長に仕える |
一国一城を夢見ながら何とか糸口を掴もうとしていた秀吉にチャンスがやってきました。 浜松の橋の上にいたところを、今川義元の家臣である松下之綱(これつな)に拾われて仕えることになったのです。 だけどここでは同僚のイジメにあいまくった。 秀吉は気が聞きすぎたために同僚から嫌われてしまうのです。 主人の之綱は、気の毒になり秀吉を里に帰させました。 この時、秀吉18歳でした。 次に秀吉は、尾張に戻り幼馴染の一若を訪ねました。 一若は信長の小人頭をしていたことから、口利きで小人頭にさせてもらいました。 ここから、秀吉天下のスタートラインに立つことになります。 まずはじめに秀吉がやったのは信長の草履持ち。 草履が冷えないように、いつも懐にいれ暖めていたことから、気が利くやつだ!と信長に目をかけられるように。 以後、小人頭→足軽→足軽組頭→足軽大将へとがんがん出世していきます。 |
1559年 信長 エリート集団を結成 |
信長は家臣の中から20名ほどを選び、「黒母衣衆」と「赤母衣衆」という2つのエリート集団を作りました。 両方とも信長の側近となります。 |
1560年 今川義元 上洛を決意 |
太原雪斎亡き後の今川家は、京風文化が蔓延しまくっていた。 政治も混乱しており、統制が取れない状況にありました。 この頃の大名は日本の中心である京都に行き、天皇や将軍の権威を借りて天下統一をしようとしていました。 義元も、雪斉亡き後のこの悪い状態から一挙に抜け出そうと京都上洛を決意したのです。 が、ここにきて不吉な夢を見ました。 上洛直前の晩に、義元が駿河の館で寝ているところ、兄の玄広恵探が夢枕に立ったのです。 玄広恵探とは、義元が花倉の乱で滅ぼした兄でした。 そして、玄広恵探の亡霊が「上洛は不吉である」と言ったのです。 義元は怒って亡霊に斬りつけました。 すると恵探は「私はお前に滅ぼされたのを恨んでいるのではない。今川家を案じてこうして来たのだ」と言いました。 また、出陣の朝には神社の前で年老いた白い狐が死んでいたりと不吉なことが続きました。 玄広恵探の亡霊は、義元が花倉を通過する時にも出てきて、義元に上洛をやめるよう訴えました。 が、義元は天下の今川が弱小織田家に負けるわけがないと、忠告を聞かずに上洛の道を進んでいくのでありました。 |
1560年5月19日 対する信長は!? |
![]() 太原雪斎が死んだとはいえ、今川家はこのあたりじゃ実力NO1。 対する織田家はまだまだ弱小。 今川2万5000の大軍は、織田家の砦をを次々突破し、織田家の味方は3000人。 家臣らは落胆の色を隠せませんでした。 信長はというと、敵は目前というのに軍議もせず、夜遅いからもう寝ろとまで言う始末。 家臣らはほとほと呆れ果てました。 が、夜中の2時。 突然信長が「具足を持て!法螺を吹け!」出陣命令を出した。 そして湯漬けを立ったままかきこみ、「敦盛」を3度舞った。 人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻ごとくなり ひとたび生をうけ 滅せぬもののあるべきか そして馬を走らせ突然の出陣。熱田神宮で勝利を祈願したのです。 |
信長の愛した「敦盛」 |
敦盛は源平の合戦で、兵士の美少年若武者敦盛が、熊谷直実に討たれたというものが幸若舞となったもの。 「人間五十年〜」は、その「敦盛」の一節で、武士に愛された芸能です。 敦盛を討った熊谷直実が人間の生命のはかなさと、武士の業をかみ締めたものです。 「下天」とは「欲望の世界」のことです。 この歌は「人間の生涯などあっという間に過ぎていくもの」という内容で、信長はこの歌が大好きだったのです。 敦盛のことは平安時代その4を見てね★ |
5月19日 AM8:00 信長 余裕モードを演技する |
普通ならまず勝ち目のないこの戦い。 相手は上洛できるくらいの兵力を持つ今川家。 ですが信長は、熱田神宮で勝利祈願し、いざ進軍となった時、めちゃくちゃ行儀の悪い馬の乗り方をし、鼻歌を歌いだしたのです。 コレを見た家臣は「日頃と変わらぬ殿じゃ。こういう時にまでうつけぶりを発揮するとは、相変わらずじゃ」と笑いました。 が、熱田の人々は、この信長の態度にビックリ。 「あれがこれから戦に行く大将の態度か!?あれじゃ織田軍は勝てるわけないな」と呆れたそうです。 |
5月19日 AM11:00 信長「おぬしらの命 ワシにくれ」 |
前線に向かう最中、信長のもとに味方の2つの砦が落ち、守っていた家臣が死んだというニュースが入ってきました。 すると信長は「ばか者どもめが!この信長より先に死におって!」と叫んだのです。 そして周りにいる兵に向かって「皆のものよく聞け!今日はそなた達の命、信長にくれよ!」と叫びました。 馬上から叫んだその姿に、兵たちは勝てるかもしれないと思ったほど勇ましかったそうです。 |
1560年5月19日 PM2:00 桶狭間の戦い |
織田軍は精鋭を率いて進軍していきました。 すると、信長のもとに梁田政網が「義元軍、田楽狭間で休憩中!」という情報を持ってきたのです。 田楽狭間は桶狭間の東北にあり、周りは丘に囲まれている低地で、5000人ほどがやっと収容できるほどの場所でした。 義元はここで兵を集めて祝宴を開いていたのです。 といのも、松平元康(家康)が砦を破ったという情報が入ったりと、続々と砦を破ったという連絡が入ってきており、勝利間違いなしモードに入っていたのです。 さらに近隣の農民達が義元たちに酒を献上したりして、義元たちは酒宴をやっていたのでした。 信長らは、今こそ勝機!と、桶狭間目指して進軍。 もう少しで到着という時に、突然稲妻が走り大雨が降り始めたのです。 今川軍はこの大雨により避難しだしました。 そのため大将・義元の近くに兵が300人ほどになったのです。 さらにこの雨の音により、信長軍の音は一切かき消されました。 天も我らの味方をしている!。 信長は、桶狭間で休んでいる今川軍を見つけると、全軍に突撃命令を出しました。 今川軍は、突然の襲撃に大混乱。 信長軍の攻撃を、味方の裏切りか謀反かと勘違いしたほど。 武装していない今川軍は次々と討たれていきました。 そしてとうとう義元を発見したのです!! |
5月19日 PM4:00 義元の首討ち取ったり!! |
服部小平太(はっとりこへいた)が、義元に一番槍として切りつけましたが、逆に義元にひざを切りつけられた。 倒れた義元を、毛利新介(もうりしんすけ)が斬りかかりましたが、必死の義元に小指を食いちぎられてしまった。 が、とうとう毛利新介が義元の首を討ち取ったのです! 「義元の首、討ち取ったり!!」この声に今川軍呆然。 大将を失った今川軍はみな逃げていきました。 弱小国・織田信長が強大国・今川義元を討ち取ったというニュースはまたたく間に広まりました。 天才風雲児・信長の表舞台デビューとなったのです。 |
一番の論功行賞は!? |
今までの戦いでは、敵の首をいくつ討ち取ったかが褒美の評価基準でした。 今川義元の首を取ったのは毛利新介・チャンスを作ったのは服部小平太。 どちらが一番の功労者か!?とみんな興味津々。 発表の日。 信長は、「一番手柄を立てたのは梁田政網」と発表したのです。 義元が桶狭間で休憩中という情報を持ってきた男であります。 戦において、情報が初めて一番をもらえた時でありました。 ちなみに梁田政網はというと、その後お城まで貰うんだけど失敗続きで失脚しました。 ついでですが、信長は桶狭間の戦い以降、一度も奇襲戦を使っていません。 |
蜂須賀小六が酒を出した? |
「武功夜話」によると、この時義元に酒を献上したのは蜂須賀小六と言われています。 小六は義元に大量の酒や肴を献上した後に、梁田政網に「義元は桶狭間でいい気分で酔っ払ってるぞ」と信長に伝えるように言ったそうです。 本当かどうかはわかりませんが、武功夜話によると信長は奇襲ではなく、前々からこの作戦を練っていたと言われています。 ちなみに信長は、この時蜂須賀小六に褒美を一切あげなかった。 そのため蜂須賀一派は信長のことがあまりスキじゃなくなったそうです。 |
どさくさに紛れて独立!徳川家康 |
ずっと人質生活を送りっていた家康にチャンスが訪れました。 今川義元が信長に殺されたのです。 この時家康は、三河の軍勢として今川の一部隊で戦っていました。 義元死すのニュースを聞いても「あの義元が織田に殺された?まさか!」と、最初は半信半疑でした。 とりあえず三河の岡崎城へ帰りました。 岡崎城にいた今川家の家臣は、義元が死んだとわかると、早く駿府に帰りたいと騒いでいました。 家康が戻ってきたことを知ると、「わしらは駿府に行くので、城に入りなされ」と言って来たのです。 家康は「義元殿が死んだと言っても、勝手に命令に背いて逃げ帰ることはまずいのでは?ワシらはここに残ります」と言い、そのまま岡崎城に入ったのです。 家康曰く「捨てた城ならば拾って入りましょう」ということで、ここで家康は今川家から離れ、独立することとなるのです。 とはいっても、家康は律儀なので、義元の息子・氏真に「父上の弔い合戦をしましょう。ワシが先陣を仕ります!」と進言しました。 ですが、氏真まったくやる気なし。 何度かお尻をたたいたんだけど、氏真は蹴鞠大好きなお坊ちゃま。 まったく動く気配がなかったのです。 |
義元の息子 氏真 |
1560年桶狭間の戦いの後、何万人もいた今川軍は、ほとんど信長に攻撃もせずそのまま駿河に逃げ帰ってしまいました。 嫡子・氏真(うじざね)は、生まれたときから大国だったためあまり危険なことはしておらず、ぬくぬくと強大な国の中で育っていました。 蹴鞠大好き♪公家趣味だったため父の弔い合戦も何も考えていなかったのです。 さらに徳川家康が三河で独立したため、いい武将がスカウトされまくり。 今川家の家臣らも、「あんな坊ちゃんについていったらヤバイ・・・」と思い始め、家臣らはガンガン今川家を去り、今川家はぼろぼろになっていきました。 こんな氏真が後継ぎになったため、武田・徳川・北条ら強敵が動き出すこととなるのです。 それでも一応は、楽地楽座をやったり、足利義輝に接近して今川の権威を高めようと努力はしてました。 さらに信玄に危機感を抱き始め、上杉謙信と手を結ぼうとしたりしていたのです。 |
1560年5月 松永久秀動く!!十河一存(そごうながやす)事故死!? |
野望に燃えまくりの三好長慶家臣・松永久秀が動き出しました。 まず久秀は四国で大活躍をしている長慶の末の弟「鬼十河」こと、十河一存を狙いました。 1560年に三好家の中で軍事的に重要だった一存が急死したのです。 これは馬から落ちたといわれていますが、めちゃくちゃ怪しく「久秀暗殺説」があります。 そして翌年、弟三好義賢が戦死してしまいました。 さらに!長慶の長男義興が、突然病死してしまったのです。 これには松永久秀毒殺説があります。 さらにさらに!長慶の弟で淡路島を拠点としている安宅水軍のボスであった安宅冬康が、久秀の謀略にひっかかってしまい、なんと長慶は大好きだった弟の安宅冬康を殺してしまったのです。 長慶を支えていた兄弟・息子が立て続けに死に、長慶はだんだんおかしくなってきてしまいました。 そこへ足利家や敵対している勢力の攻撃が続き、長慶は精神的に鬱になっていくのです・・・・。 |
1560年6月15日 長宗我部国親死去 元親家督を継ぐ |
土佐の長宗我部元親は、1539年に生まれました。 幼い頃からなよなよしていて「姫和子(ひめわこ)」と呼ばれていました。 背が高く色白でおかまっぽいってこと。 内気で挨拶もろくにできないため、父の国親は「うつけもの」ともてあましていて、初陣の機会をもいつにすればいいか・・・と悩んでました。 普通なら15歳くらいで初陣なんだけど、元親の初の出陣は弟と一緒にってことで22歳。 相手は元親のおじーちゃんを殺した本山茂辰。 元親は、この時はじめて槍を持ち、直前にどうやって使ったらいいのかと聞きました。 家臣は、「大将は敵を前にしたら逃げちゃダメ。槍は敵の目をついて!」と教えました。 すると元親、まっすぐ敵に向かって、即席で教わった戦術を次々とやってのけ4倍以上いる敵をやっつけちゃった。 みんなビックリ!以後、元親を見直すことになりました。 そして21歳の時、国親が死に家督を継ぐことになったのです。 |