室町時代その9 1561年〜1564年

1561年 斎藤義龍死す!
3月7日 謙信 北条氏の小田原城を攻撃する
3月16日 上杉謙信 関東管領に
謙信ドロ沼状態
8月3日 木下藤吉朗(豊臣秀吉)ねねと結婚
秀吉・ねねのお隣さん 利家とまつ
14歳の斎藤龍興 後を継ぐ
8月14日 謙信「こんどこそ宿敵・信玄と決着つけたる!」
8月29日 信玄 海津城に入る
山本勘助 啄木鳥の戦法
9月10日 川中島第四回 八幡原の戦い
最強!武田軍団
最強の武田軍団 戦国一の醜男 山本勘助
武田軍団 信玄の弟 真の武将 武田信繁(のぶしげ)
武田軍団 高坂昌信
兄より忠義をとった 山形昌景
武田軍団 馬場信春(信房)
武田軍団 武田信廉
信玄5男 仁科盛信
武田軍団 穴山梅雪
武田軍団 武藤喜兵衛
武田軍団 内藤昌豊
武田軍団 土屋昌次
武田軍団 原昌胤
真田の祖 真田幸隆
1562年1月 織田信長&徳川家康 清洲同盟
1563年 毛利元就長男・隆元死す 
1564年2月 家康 三河一向一揆を平定する
2月 いじめられっ子の竹中半兵衛 稲葉山城を乗っ取る
木下藤吉郎(秀吉)三顧の礼 半兵衛をスカウト
8月 川中島 第五回 塩崎の対陣
川中島の闘い その後
7月4日 三好長慶 死す!松永久秀乗っ取り成功





室町時代 その9 1561年〜1564年
1561年 斎藤義龍死す!
美濃一国譲り状を受けた信長は、たびたび斎藤家と小競り合いをしていました。

義龍も頑張って抵抗してたんだけど、とうとう病気で死んでしまったのです。

家督を継いだのは、14歳の龍興。

ちびっこなので、家臣らは「斉藤家は終わりじゃー」と次々と織田家に寝返ってしまうことになります・・・。
1561年3月7日 謙信 北条氏の小田原城を攻撃する
この頃、北条氏康は武田信玄と連携して上野の上杉氏を攻めまくっていました。

ヘルプを出された謙信は、2万の兵を率いて北条氏康・氏政父子のいるの小田原城へやってきたのです。

堅城である小田原城は籠城戦に持ち込みました。

遠征軍である謙信は、落とすことはできませんでした。

ですがこれにより、北条氏はお疲れとなってしまい一応は行動を控えめにしだしたのです。

1561年 3月16日 上杉謙信 関東管領に
小田原出陣の際、謙信は上杉家から「関東管領」という関東を統治する役職を貰う受けることになりました。

この頃関東は北条家が幅を利かせてて、元々関東管領を持っていた「上杉氏」も頑張ってたものの、北条家には太刀打ちできそうにありませんでした。

そのため「今、上杉の系統で一番力を持っているのは越後の長尾景虎だ・・・」ということとなったのです。

関東管領上杉氏は、「おれら上杉の代わりにがんばってくれ!」と謙信に後を頼んだのです。

この時、長尾ではなく「上杉姓」を名乗ることになりました。

ちなみにライバル信玄は、謙信が関東管領になったことをムカついており、名前が「上杉」に変わった後もずっと「長尾」と言い続けていました。

一方では、信玄との戦いも続いており、第4回目の川中島がスタート。

さらに、一向一揆も始まったりと24時間戦闘モードに入ってました。

こんなに戦いまくってるのに、上杉家の領土は全然増えませんでした。

なぜかとゆーと、謙信は領地支配にあんまり興味がなく、信義に沿って戦うことが多かったから。

川中島の後も、信玄と今川が三国同盟を破り戦いはじめちゃうんだけど、その時、今川は「塩止め」という、武田領地に塩が入らないようにしちゃう。

それを聞いた謙信は、「塩がなくて困るのは民である」と言い、甲斐に塩を送ったらしい。

これが「敵に塩を送る」のモトです。
謙信ドロ沼状態
謙信は1552年頃から関東と関わりを持ち始めていました。

関東管領・上杉憲政が北条氏に攻められ、謙信を頼ってきたからです。

はっきりいってコレが謙信を疲れさせる原因となってしまうのです。

ただでさえ村上家などに頼まれ、強敵・武田信玄と戦うことになったというのに、関東の強敵・北条氏康をも敵としてしまったからです。

さらに太源雪斎プロデュースの三国同盟は、謙信をほとほと疲れさせました。

上杉憲政は何度も「関東管領になってくれ!」と頼み、将軍義輝までもが謙信に「そうだそうだ!関東管領になれ!」とプッシュ。

それでも自分の取り巻く環境を考え「無理です」と断っていた謙信でしたが、とうとうOKすることとなります。

そのため無益な戦をしざるを得なくなり、謙信の人生設計は狂っていくのです。

ちなみに、謙信の関東出陣は大小合わせて14回にのぼり、関東で年越しをしたのは7回になります。
1561年8月3日 木下藤吉朗(豊臣秀吉)ねねと結婚
秀吉25歳の時に好きな女の子ができました。

信長に仕える杉原定利の娘・ねね(14歳)。

ねねは播磨(兵庫県)の杉原定利という武士の娘でしたが、ビンボー武士だったので妹と一緒に叔母の嫁ぎ先である浅野家に養われていました。

そんなねねは、とっても明るくいい子で周りのみんなからとても好かれていました。

前田利家もねねが好きで、秀吉より先にねねにプロポーズ。

が、ねねが「藤吉郎様の方がスキです」と言ったため利家玉砕。

秀吉大喜び♪

が、ねねの母・朝日は百姓生まれの男に大事な娘をやれるか!と大反対!!

ここで秀吉の親友・前田利家が、朝日を説得。

自分はねねにフラれたけど、親友のために頑張っちゃいました。

そしてめでたく、ねねと秀吉は相思相愛でゴールイン♪

2人の結婚式は、浅野家のかやぶきの狭い家で行われました。

式もとっても簡単で土間に藁を引いただけだったそうです。

秀吉・ねねのお隣さん 利家とまつ
秀吉・ねねのお隣にすんでいたのが前田利家。

この4人はとっても仲良しに。

ここで前田利家のついて★

前田家は、織田家に仕える家。

利家の若い頃の名前は「犬千代」14歳の時、19歳の信長に仕えました。

利家は身長180センチほどあり、美男子だった。

信長の当時の恋人でありました。

この頃は男色はフツー。

信長とともに「かぶきもの」として町を闊歩しまくってましたが、信長が家督を継ぐようになると、小姓から馬廻役へと順調に出世。

が、信長の身の回りの雑用をやっている拾阿見(じゅうあみ)が自分の笄(こうがい・刀についてる小物)を盗ったので、「ヤツを殺したい!」と信長に言ったのです。

信長はもちろんダメと言ったけど、利家は言うことを聞かず信長の目の前で拾阿見を斬り殺してしまいました。

この笄は多分信長からもらったもので、まぁ簡単にいえば三角関係のモツレ。

これに怒った信長は、利家を1559年に出仕停止。

ちなみに、この時佐々成政が、拾阿見をかばったことから、利家と佐々成政は仲が悪くなっていきます。

利家は信長のモトを去りましたが、信長命だったので、翌年の桶狭間の戦いの時、黙って参加し今川方の首を3つ取って来たのです。

が、信長これを無視。

すると今度は、斉藤家とのバトルにも勝手に参加。

ここで「槍の又左」(当時は犬千代ではなく又左衛門と名乗ってた)と言われるほど大活躍しました。

これにはさすがの信長も、利家を許して褒美をあげました。

この謹慎期間に、親しかった友人らは巻き添えをくらったら困ると、ほとんど利家に近づかきませんでした。

それでも柴田勝家・森可成ら数人だけは、以前と変わらず遊びにきてくれました。

また、この2人は信長に「そろそろ利家を許してやってください」とことあるごとにお願い。

利家は感動し、2人に感謝しまくるのです。

以後勝家のことを「オヤジ」と呼び、勝家を尊敬し、人との絆を大事にする人間へと成長していくわけです。

1561年 14歳の斎藤龍興 後を継ぐ
マムシの道三をやっつけた義龍。

が、義龍が道三を破った5年後の1561年に、35歳の若さで死んでしまったのです。

そして、わずか14歳の龍興が家督を継ぐことに。

義龍死す!のニュースに、信長は大喜び♪

今がチャンス!と、電撃的な速さで美濃を攻めましたが、斎藤軍の竹中半兵衛の策により押し返されました。

道三は、死ぬ前に「美濃一国譲り状」を信長に渡していました。

信長はこれを楯に、斎藤家をガンガン攻め込んで行ったのです。

また、14歳の若い龍興が家督を継いだということで、たびたび信長に攻撃の隙を与えてしまうこととなったのです。

1561年 8月14日謙信「こんどこそ宿敵・信玄と決着つけたる!」
謙信の怒りは頂点に達していました。

これまで3回信玄と戦ったけど、勝ちらしい勝利を一度もあげてない。

今度こそ、宿敵・信玄と決着をつけようと思っていました。

謙信は13000人の兵を引き連れ8/14 妻女山に陣地を構えました。

妻女山(さいじょさん)に陣をひいたのには訳があります。

1年前、武田家重臣の高坂昌信(こうさかまさのぶ)が妻女山のすぐ近くに海津城を築き、武田軍の最前線の城としていました。

この近くに布陣すれば、必ずや信玄が仕掛けてくるに違いないと踏んだのでした。

1561年8月29日 信玄 海津城に入る
謙信の予想通り、信玄は高坂昌信から知らせを受け、8/29に海津上へ入城。

海津城は越後に近く、妻女山は甲府に近いので、両軍とも布陣が入れ替わるという退路が絶たれる形となりました。

ということは、どちらかが相手を倒さない限り、自分の領地には帰れないという状況に。

不気味な対陣は10日間続きました。

上杉軍は兵糧が少なくなってきて、武士の士気は下がってきはじめました。

が、謙信は悠然としていたといわれています。

信玄は、謙信の出方を伺いながらまったく動く気配はありませんでした。

両者とも、知謀の限りをつくして腹の探り合いをしていたのです。
山本勘助 啄木鳥の戦法
信玄は軍議を開き、軍師山本勘助が提案した「啄木鳥の法」を使うことにしました。

啄木鳥の法とは、軍勢を二手に分け、一方が妻女山に夜討をかける。

上杉軍は夜襲に勝っても負けても必ず下山して川中島へ向かうであろう。

そこをもう一方の本陣が待ちうけ、謙信を討ち取ろうという作戦です。

妻女山を襲う攻撃隊は、飯富兵部・馬場信春・真田幸隆ら12000の兵。

川中島にて迎え撃つ本陣は、信玄を先頭に弟の武田信繁・山本勘助ら8000の兵。

川中島とは霧がよく発生する場所で、両者ともこの霧に乗じて攻撃を考えていました。

9/9 川中島が深い霧に覆われた。時は熟したのであります。

信玄は、啄木鳥作戦の実行を開始!

が、謙信はあがった狼煙を見逃さしませんでした。

謙信はこの霧に乗じて信玄らは絶対襲ってくるだろうと予想しました。

夜襲される前に妻女山を下って妻女山にはわずかな兵を残すことに。

武田軍をあざむくためにかがり火を焚いて、上杉軍がまだ妻女山にいるかのように見せかけたのです。

信玄らはこの戦略を見破ることができませんでした。
1561年 9月10日 川中島第四回 八幡原の戦い
啄木鳥の作戦を決行中の武田軍。

が、10日の朝6時、霧が晴れてくると突如謙信の軍旗が見えたので信玄はめちゃくちゃ驚きました。

上杉軍は1万人武田軍は8000人。

しかも意表を突かれたので、分が悪く押されてしまったのです。

信玄の弟信繁は、「わが隊は、全員玉砕するつもりで敵を防ぐので、援軍の必要にはこなくてもいい!兄、信玄の勝利を願う!」と使者を出し、上杉軍に討たれてしまったのです。

のち、信玄は弟信繁の遺体にすがって泣き崩れました。

この時山本勘助は、啄木鳥作戦を見破られコトを知り「みなワシの責任じゃ」と敵の中に突撃し討ち死にしてしまいました。

謙信は怒涛の勢いで信玄の本陣に迫り、月毛の馬にまたがり三太刀七太刀で信玄を斬りつけたのです。

それを信玄軍配で防ぎました。

その時、近くにいた家臣らが謙信を槍で斬りつけようとしたところ、謙信の乗った馬のお尻を刺してしまい、馬は驚き駆け出したのです。

信玄は危ういところで謙信の太刀から逃れたのです。

が、実際両者が激突したというのはフィクションらしい。

夜襲隊はというと、行ってみたら妻女山はもぬけの殻。

慌てて引き返しました。

最初は、押していた上杉軍でしたが、夜襲隊が引き返してきたことにより今度は押され、犀川を渡り敗走していきました。

信玄軍は追撃をせず、ここに八幡原の戦いは終わったのです。

最強 武田軍団
戦国時代、最強と言われいた武田軍団

信玄(お館様)に忠誠を尽くし、数々の戦場で勝ちをあげ「武田の騎馬隊」は、どの大名も恐れました。

あの織田信長でさえ、信玄だけには逆らいたくないと恐れ、徳川家康をも子供扱いした武田信玄。

そんな武田信玄率いる武田軍団の紹介です。
最強の武田軍団 戦国一の醜男 山本勘助
川中島での「啄木鳥作戦」は謙信に見破られ、責任を感じ無謀にも乱戦の中に飛び込み討死。

62歳でした。

勘助を詠んだ歌は数多く、江戸時代の庶民にも人気者でした。

「目が一つ増えて信玄やたら勝ち」という狂歌もあります。
武田軍団 信玄の弟 真の武将 武田信繁(のぶしげ)
信虎の次男で信玄の弟。

信玄とは違い、父信虎の寵愛を受け次期当主と期待された人です。

が、信玄により信虎は追放されたので以後、信玄に従うように。

信繁は、信玄が父に嫌われ悩んでいたことを知っていたので、信虎追放の信玄の心中をはかりすぐさま信玄に忠誠を誓ったのです。

もともと信玄を好きだった信繁は、信玄を補佐し信玄に逆らうことなく君従の姿勢をとりました。

家臣はもとより信玄からも信頼され、北条氏康は「武田の真の副将」と褒め称えていました。

文武両道の信繁は名実ともに武田家のNO2に。

が、1561年川中島において勘助の啄木鳥作戦の失敗から窮地に追い込まれた信玄を助けるべく「討ち死に覚悟のため援軍無用!」と言い奮闘。

自らの命と引き換えに信玄を救うこととなったのです。

信繁戦死はすぐさま広まり、崇福寺のエライお坊さんなんかは「信繁殿の戦死は惜しんでも惜しんでも惜しみきれぬ」とまで手紙に書いたほど。

真田昌幸は信繁の武勇にあやかろうと、次男の名を信繁と名づけました。

これが後の真田幸村です。

江戸時代の儒学者である室鳩巣(むろきゅうそう)は、「典厩公(信繁のこと)は、最も素晴らしい武将であった。兄信玄に仕え節を失うことなく、その忠信・誠実さは人の心に通じ、加えて武勇もよく知剛知柔。まことの武士である」と賛辞しました。

37歳でみんなに惜しまれ死去した信繁でした。

武田軍団 高坂昌信
はじめは信玄の小姓として仕えていました。

すごい美男子で、信玄の男色の相手となりました。。

ある日、信玄が他の小姓と浮気をして、それを怒った昌信。

信玄は慌てて弁解のラブレターを送ったほどのお気に入りでした。

小姓をやっている間、常に信玄の傍にいて信玄の戦い方を学んだのであります。

とても慎重なタイプで、その慎重さから「逃げの弾正」と呼ばれる。

上杉謙信でさえも昌信と戦いたくないと避けて通るほどとなっていくのです。
兄より忠義をとった 山形昌景
武田家の譜代家臣。

合戦にも大活躍し、外交面でも優れた手腕を発揮する武田家の万能武将。飯富(おぶ) 虎昌 の弟。

兄の飯富 虎昌は、信玄が信虎に反乱を起こした時に信玄の味方をし、信玄から絶大な信頼を得ていました。

その時に、信玄の長男である武田義信の守り役を務めました。

が、信玄と義信が次第に仲が悪くなっていき、義信が反乱を起こそうとしたのです。

これを知った昌景は「兄よりも主君をとる」と、信玄に泣く泣くクーデター計画を密告しました。

兄・虎昌はその責任を受けると言い自害したのです。

そんな兄・飯富虎昌の弟が山県昌景であります。

このことがあり、昌景は信玄に信頼され勇猛果敢な武将になっていくのです。

また兄・虎昌から譲り受けた「赤備え」は、武田最強軍団として戦国の世で恐れられました。
武田軍団 馬場信春(信房)
武田家三代(信虎・信玄・勝頼)に仕えた譜代家臣。

信虎を追放する時に信玄に協力し、信頼されるように。

以後、信玄とともに40年以上合戦に行き、一度も傷を負ったことのないほどの猛将でした。

ですがただの単細胞な猪突猛進型の武将ではありませんでした。

駿河の今川家を攻撃する際に、兵たちが城内にあった財宝を運び出すということがありました。

その時信春は「武田家の家臣が盗人のようなマネをするな!笑いものになるであろう!」と激怒し、財宝を火の中に投げさせたそうです。

川中島でも山本勘助とともに戦い、つねに先陣をつとめていた猛将です。
武田軍団 武田信廉
信玄の7歳下の弟。信虎の三男です。

漢詩や彫刻・絵など学びまくっていて、数々の作品を残しています。

次兄信繁とともに、信玄を助けほとんどの合戦に参加していました。

ですが本陣を固めることが多く、華々しい戦功は残していません。

また信玄に容貌がよく似てたため、影武者を務めていました。

川中島の一騎打ちも実は信廉という噂もあります。

信玄5男 仁科盛信
信玄の5男で、勝頼の1才下の弟。

信玄が攻めた仁科家は清和源氏の流れを汲む名家だったため、滅ぼすのは勿体無いということで、盛信は仁科家を継がされ高遠城の城主となりました。
武田軍団 穴山梅雪
本名は穴山信君(のぶきみ)。

母は信玄の姉、妻は信玄の次女で甲府に領地を持っていました。

領地経営の腕は素晴らしく、領民から慕われていました。

武人タイプではなく文人タイプで、武勇はほとんどありません。

武田軍団 武藤喜兵衛
武藤家は武田の中で一番の名家です。

ですが喜兵衛には子供が生まれずにいました。

喜兵衛の死後、真田幸隆の三男である昌幸(幸村の父)が武藤家を継ぎました。(のちに真田姓に戻りますが)

名前を途絶えさせたくないほどの名家だったのです。

喜兵衛はそんな武藤家の中で一番の猛将として知られていました。
武田軍団 内藤昌豊
信玄の弟信繁が死んでからは、昌豊が武田家の「副将」となりました。

信玄とともに多くの戦いに出ています。

山県昌景、馬場信春、高坂昌信とともに信玄四名臣でした。

物の見方が大きく、信玄は昌豊をすごく信頼していました

合戦での武勇もさることながら、内政・外交にも大活躍。

甲斐の国力増大に大きな役割を果たしました。
武田軍団 土屋昌次
17歳で川中島に初陣。

22歳で侍大将に抜擢されるなど信玄に信頼された武将。

そして甲斐の豪族である「土屋家」を継ぐこととなりました。

息子らも武田家のために活躍していくこととなります。
武田軍団 原昌胤
昌胤の父は陣馬奉行という合戦の際、どこに布陣するかを見極める重要な役割の職務についていました。

その後を継いだのが昌胤。

父以上に才能を発揮し「陣取りは昌胤にまかせろ」と信玄に言わしめるほどでした。
真田の祖 真田幸隆
元々は信濃の豪族だったんだけど、村上家に攻められ山内上杉の家臣長野業正を頼って逃げ、流浪し1564年頃武田家臣となる。

武田家臣になるとき、山本勘助が仲介したらしいです。

ここから小さい勢力ながらも戦国に名を残した真田家が始まります。

その後は、信玄さえ落とすことができなかった城を謀略によって落としたりと、さまざまな知略・謀略によって活躍。

その才能は信玄以上といわれています。

だけど、正々堂々と戦うことを好む武田家臣からは嫌われちゃう。

上杉謙信は「真田がいる限り信濃を取ることは難しい」とまで言ったほどでした。

村上家は、真田幸隆によって信濃を追われ謙信に助けを求めることに。

これにて武田VS上杉の争いが始まったのでした。

1561年の川中島のあと長男の信綱に家督を譲ります。

信綱のほか、昌輝・昌幸・信伊ら4兄弟はみんな名将として活躍していきます。

が、信玄が上洛途中で病死してしまうと、すっごい落胆してその後を追うように病死しちゃいました。

ちなみに、真田家は「昌幸」が継ぎます。

昌幸は信玄に「我が両目の如し」と言われるほど優れた武将で、のち一躍有名人になります。孫が真田幸村です。
1562年1月 織田信長&徳川家康 清洲同盟
1560年にどさくさ紛れに独立した家康は、何度も氏真に「父上の弔い合戦を!」と言ってたんだけど、氏真がまったく動く気配がないので呆れ気味でした。

そんな家康に目をつけてきたのが信長。

信長は家康に同盟を組もうと言って来たのです。

もともと人質時代に出会っていたこともあり親交のあった2人ですが、ここで同盟を結びました。

これで信長は背後がだいぶ楽になり、次は浅井家と同盟を結んどくか!と考え始めることとなるのです。

ちなみに家康の正室築山殿は、自分の出身である今川家の義元を殺した信長にいい感情を持っていませんでした。

家康が今川を見限り、信長に急接近するのを腹ただしい思いで見ていました。

家康は居城を浜松へ移したんだけど、築山殿と信康は岡崎城に残ったままでした。

そして家康が信長と同盟を結んだことを知った今川氏真はが超激怒!!

「オマエは今川家の配下にあるくせに、なに勝手に同盟結んでるんじゃ!」と使者を送ってきたのです。

すると家康は「たびたび弔い合戦をするべく出陣を願っているのに、いまだ出陣がありません。われらは信長の領地の境にあるのですぞ?不安なのでとりあえず同盟を結んだのです。これはワシの策謀なのです」と嫌味たっぷりの言い訳をしました。

が、嫌味は通じず、氏真はその言葉を信じました。

「確かにあの織田の隣ならいつ攻撃されるかわからんしなぁ」と、納得したのです。

こうして家康は、信長と同盟を結び、三河平定に力を注ぐこととなります。

1563年 毛利元就長男・隆元死す 
毛利元就はノリノリでした。

大友家を滅亡させ、次なるターゲットは宿敵・尼子家。

この時の尼子家の当主は経久の孫義久。

尼子家と毛利家は戦いまくっていました。

そんな中、元就の長男隆元が死んでしまったのです。

後継ぎは隆元の子・輝元になりました。

元就は後見役として輝元をみることに。

また、隆元の死によって、吉川元春・小早川隆景の「毛利の両川」はさらに団結。

元春・隆景は「俺ら、長男じゃないってだけで、バックアップ役かよ。オレラだって能力あるのに。いいよな、兄貴はさ!」というねたましい思いがあったんですが、隆元の死によって、「輝元じゃまだチビッコじゃん。オレラが頑張って守っていかなければ」という考え方に変わったのです。

そして元就は、「まだワシが元気なうちに、宿敵尼子家を潰さねば!」と思うようになっていくのです。

1564年2月 家康 三河一向一揆を平定する
桶狭間の合戦後、今川から独立した家康は三河統一を急ピッチで進めていました。

ところが家臣達が一向宗の寺から、兵糧米を強引に掠奪するという事件が起こり、怒った一向宗が1563年の秋頃に一揆をスタートさせたのです。

これにてんてこまいとなった家康。

というのも、自分の重臣達にも一向宗信者が沢山いたのです。

さらに一揆軍に加わる家来も多く、家康は苦戦を強いられました。

小栗忠政(幕末に活躍する小栗忠順のご先祖様)も一揆軍に加わりました。

後に許されますが、それ以後小栗忠政は許された時の感謝を忘れず、数々の合戦に先駆けし、「又一」という名前を貰いました。

また蜂谷貞次も一揆の際、家康に背き一揆軍の大将クラスになりました。

が、蜂谷は合戦場でガンガン殺しまくっていましたが、家康の姿を見るなり「さすがに家康殿を討つことはできぬ」と、さっさかと逃げました。

家康にとってめちゃくちゃ疲れたこの一揆は、1年ほど続きました。

この頃やっとこさ平定したのです。
1564年2月 いじめられっ子の竹中半兵衛 稲葉山城を乗っ取る
半兵衛の父は、斎藤家の重臣の一人でした。

当然半兵衛も、斎藤家に仕えていましたが、色白で女性っぽかったことから斉藤龍興の家臣らからいじめにあっていました。

21歳の時、いつもどおり半兵衛が稲葉山城に登城すると、龍興の家臣らが櫓(やぐら)の上から下を通る半兵衛めがけて小便をひっかけるという事件が起きました。

今まで半兵衛は姿かたちをからかわれ、いっつもいじめにあってましたが、やつらには、龍興というバックがついてるため我慢の連続。

が、これにはさすがの半兵衛も我慢の限界!

家に帰って、舅である斎藤家家臣NO1の安藤守就に「この恨みを晴らしたい!」と訴えるが、安藤守就は「そたなとわしだけじゃどうにもならん」と説得。

が、半兵衛はこの時ばかりは、このまま引き下がることはできなかった。

そんな時、半兵衛の弟久作が稲葉山城で病気に。

半兵衛は、16人の従者を連れ長持に刀や槍などを詰め込み見舞いとして稲葉山城へ。

夜になって半兵衛らは長持から武器を取りだし、稲葉山城の中で暴れだしました。

龍興や家臣らは、夜間敵の正体が見えないまま大パニックとなり慌てて逃げ出しました。

半兵衛は、「オレをいじめるとこういう目にあうぞ!」と脅すだけで、龍興の命を狙う気はなかったのでした。本気だったら、龍興を殺すこともできたしね。

で、半兵衛は稲葉山城を乗っとりましたが、さっさと城を明け渡しちゃいました。

この結果、半兵衛は斉藤家を離れ浪人となります。


木下藤吉郎(秀吉)三顧の礼 半兵衛をスカウト
竹中半兵衛は斉藤家を出て浪人となりました。

そこに目をつけたのが秀吉。

何とか半兵衛を味方につけたいと思ったんだけど、まともにあたっても無理。

秀吉は浪人の格好をし、偶然出会ったフリをして、「尾張の信長は大物らしい。ワシは信長に仕えようと思うが、そなたも一緒にどうじゃ?」と誘ったのです。

が、半兵衛はその浪人が秀吉であることを見破っていてました。

バレたら仕方ないと、「おぬしの才能をこのままにしておくのは惜しい」とスカウトするが2度断られました。

3度目の秀吉のお願いに、とうとう半兵衛は「では、信長ではなく秀吉殿に仕えましょう」とOKしました。

これが「木下藤吉郎三顧の礼(さんこ)」というエピソードです。

以後、竹中半兵衛は秀吉の軍師として大活躍していきます。
1564年 8月 川中島 第五回 塩崎の対陣
信玄は、今度は山県正景(やまがたまさかげ)に飛騨を侵略させた。

飛騨の三木氏は、謙信に助けてくれとお願い。

謙信はまたも川中島へ向かいました。

信玄もこれに応じて軍を進めました。

両軍の対陣は67日間にも及びましたが、すでに北信濃の大半を占領していた信玄は、無理に戦おうとしませんでした。

対する謙信も関東のことが気になってるので、戦わずに帰ってしまった。

お互い相手を認めていたので、2人とも自分が大事なためコトを大きくしなかったと言われています。

1565年にはお互い沈静。

1560年に織田信長が桶狭間にて今川義元を討ったことにより、強大だった今川が弱体化してきました。

これにより、信玄のターゲットは疲れる信濃よりこっちの方が・・・ってことで今川攻めにターゲットを変えて行くのです。

川中島の闘い その後
11年にわたる長い戦いは、日本史上に残る激戦で、沢山の死者を出しました。

勝敗はどちらに軍配があがったのか?

死者の数は武田軍の方が多いが、負傷者は上杉軍の方が多かった。

武田軍の方が、名だたる名将をこの戦いで失ってしまった。

が、敗走したのは上杉軍である。

豊臣秀吉は、第四回の戦いのコトを「前半は上杉・後半は武田の勝ち。なので引き分け」と言っていたそうです。

が、謙信も信玄も「オレが勝った」と盛んに宣伝していたらしい。

この5回に及ぶ戦いは、すべて信玄の侵略により起こったもので、謙信は全て他の大名に助けてくれ!と言われ戦ったものです。

なので、信玄は死ぬ間際息子勝頼に、「謙信とは戦うな。困ったコトがあれば、謙信を頼れ。ヤツは、自分を頼ってきたヤツを見放すことはできないヤツだ。そして、甲斐の国の存続させろ」と、言ったそうです。

とまぁ、どちらが勝ったかわからない戦いが終わったわけですが、この両者が長年にわたり戦っている間に、織田家の信長が着々と天下取りに駒を進めていました。
1564年7月4日 三好長慶 死す!松永久秀乗っ取り成功
親しい人がことごとくいなくなり、鬱になっていった長慶。

何もかもがイヤになってお茶などにはまりはじめたのです。

待ってましたとばかりに出てきたのが松永久秀でした。

そしてとうとう、長慶は精神を病み、弟達の死を嘆き悲しみながら死んでしまったのです。

長慶は風流を好み、自分の野望のためではなく、お家最興のために力を尽くした人でした。

そんな人だったために、野心家の久秀や、権威回復に燃える将軍義輝につけこまれる隙があったのかもしれないです。

長慶の跡継ぎは養子の義嗣でしたが、頼りの長慶ブラザーズが全員死んじゃってて三好家ぼろぼろ状態。

ここに、久秀の三好家乗っ取りが成功したのです。

主の家が自分と三好家家臣である「三好三人衆」という三好一族の思い通りに動かせるようになると、今度は将軍までも操ろうと野望を燃やし始めました。

そして京都は、長慶の死によって再び権力闘争がスタートとなるのです。