武将の一生             


ここでは武将の一生を簡単に紹介




誕 生

家にとって、まず大事なのが「男の子」だった

江戸時代になると「長男」が跡継ぎとなるのが一般的になってきますが、戦国時代はまだ「正妻の妻の最初の子」が跡継ぎとなった

つまり、側室の子は優秀でも跡継ぎにはなれなかったのであります

それはなぜ?というと「血」が大事だったから

戦国時代は「優秀な血を持った子供」が主君じゃなければ・・・という風潮があった

正室の子であれば、間違いなく血筋はいい

ということで、正室の子供が跡継ぎになることが多かった






幼 名

子供が生まれたら、まず名前をつけます

が、きちんとした名前がつくのはもう少し大人になってから

まず最初に「幼名」がつけられます

幼名は、松・竹・梅・鶴・亀など縁起のいい文字を取り入れた名前が多かった

やはり自分の子供には幸せに育ってもらいたいという親心ですね〜

このおめでたい文字を取り入れつつ、○○丸とか、○千代とか、○法師などがつけられました

では、ちょこっと武将の幼名を紹介


徳川家康・・・竹千代

島津義久・・・虎寿丸

大内義隆・・・亀童丸

加藤清正・・・夜叉丸

斉藤道三・・・峯丸

伊達政宗・・・梵天丸

今川義元・・・芳菊丸

豊臣秀吉・・・日吉丸(?)

毛利輝元・・・幸鶴丸

上杉謙信・・・虎千代

前田利家・・・犬千代

織田信長・・・吉法師

石田三成・・・佐吉

蒲生氏郷・・・鶴千代




子供時代


力の支配する乱世を勝ち抜くには、武芸はもちろんでしたが、何も知らないと馬鹿にされるので学問や教養も大事でした

馬鹿なヤツがお家の大将になったら、お家滅亡となってしまう時代だったため、戦国武将たちは「家を守るため」に、自分の息子を「将になる器」に育てるべく、熱心に教育したのです


一般的な教育カリキュラムは

8歳くらいまで・・・遊びながら協調性を身につけさせる。家臣の子供達と交わり、集団の中で社交性を身につけさせる。シツケはめちゃくちゃ厳しい

10歳〜13歳・・・「読み・書き」を教える。下級武士や庶民の子はココどまり。エリートコースになるとさら勉強が続く

13歳・・・本格的に時間割を組まれ勉強!読書・手習い・経文を読むなど。毎朝6時に起きて決められた勉強をし、終わるのは夜の11時ごろ。読書は般若心経など。

14歳・・・本格的な漢字勉強。武将としての兵書も教わる。和歌にも取り組む。

15歳・・・さらに難しい漢字勉強!またこの頃から初陣に出るようになる

とまぁ、これが一般的な少年時代のすごし方であります

では、あの武将はどんな子供だったのか?をちょこっと紹介!


織田信長・・・ヤンキー。手がつけられない子供で、みんなかなり困っていた

前田利家・・・ヤンキー。織田信長と一緒にかぶきまくっていた

徳川家康・・・人質。今川家に人質に出され、大人しくしていたが、大胆なことをしたりして周囲をビビらせたりもした

上杉謙信・・・お坊さん。正直、いらない子だったため、さっさかと寺に入れられていた。が、寺で軍学にはまりよく怒られていた

武田信玄・・・ダメ男のフリ。おとーさんに嫌われていたため、うつけのフリをしていた

伊達政宗・・・内気な少年・片目が飛び出していたため、コンプレックスの塊。さらにおかーさんに嫌われていたためとっても内向的な少年だった

長宗我部元親・・・女の子みたいな子供。なんせあだ名が姫若子。みんな将来を心配していた







元 服

12歳くらいになると子供から大人になるという儀式が行われる

元の「元」とは、頭という意味で、服は洋服のこと

ということで、今までのちびっ子ファッションから大人ファッションへと代わっていく

で、加冠(かかん)という儀式があり、烏帽子をかぶせてもらう

この烏帽子をかぶせる役目のことを「烏帽子親」といい、主君や大将クラスの人が親になった

で、名前も変わる

だいたい親の一字をもらったりする





初 陣

武将のデビュー戦

大人への第一歩であり、元服と同じくらい重要だった

ある意味儀式っぽかったので、まず負けそうな戦を初陣には選ばなかった

なぜ?というと、初めての合戦で負け戦だったら縁起が悪いから

さらに格好とかもカッコよく整えて参加した

では、武将たちは何歳くらいで初陣を迎えたのでしょうか??


12歳  吉川元春(尼子家討伐) 本田忠勝(大高城攻略) 毛利輝元(月山富田城攻略) 

13歳  榊原康政(三河一向一揆攻め) 

14歳  織田信長(大浜城攻め) 浅井長政(六角家攻め) 前田利家(尾張海津の戦い) 上杉謙信(谷田川の戦い)

15歳  伊達政宗(相馬攻め) 武田信玄(海の口城攻め) 藤堂高虎(姉川の合戦) 細川忠興(雑賀衆討伐)

17歳  徳川家康(寺部城攻略)

18歳  福島正則(三木城攻め) 

20歳  加藤清正(鳥取城攻め) 

22歳 長宗我部元親(長浜表の戦い) 石田三成(淡路島攻略)

24歳 龍造寺隆信(佐賀城攻略) 






影武者

いつ殺されるかわからない世の中だったので、万一の時に備えて影武者を用意していました

影武者に選ばれる人は、その人物に完璧になりきらなければならなかった

また、影武者がいるということさえも知られてはいけないので、どの家もかなりガードが固かった

実際影武者を使ったといわれている人は


武田信玄・・・信廉という信玄の弟を影武者にしていたといわれている。山本勘助によって影武者に仕立て上げられたとも・・・

上杉謙信・・・川中島の合戦の時にいたのは荒川伊豆守だという説がある

真田幸村・・・何人もの影武者に赤一色の武具を着させた(?)

伊達政宗・・・側室の田村御前を影武者に仕立てていたという説がある

蒲生氏郷・・・亀田太郎太という影武者を使っていたという説がある

前田利家・・・前田慶次郎を使ったことがあるが、肝心の慶次郎が合戦の場で「われこそは利家が影武者である!!」と叫んだため、意味無かった(笑)

藤堂高虎・・・何十人もの影武者がいたと言う説がある


ということで、有力な武将というのは、いつどこで命を狙われるかわからないので、影武者を置いていたのであります






結 婚

現代のようにスキだから結婚する♪なんてのはまずナシ

側室なら多少は「好き♪」なんてのはありますが、正妻はまず政略結婚

正妻は「人質」のようなものなので、顔もみないで家同士で話し合いして決めます

どっちにしろ、女性は選ぶ権利は一切なし

この時代の女性は道具みたいなものでしたからね

ということで、とりあえず武将は、家が決めた相手と結婚します

政略結婚の家同士の結びつき例は・・・


織田信長×濃姫(斉藤道三の娘)

徳川家康×築山殿(今川家) 次の正妻は朝日姫(豊臣秀吉の妹)

武田信玄×三条夫人(左大臣の娘)

細川忠興×ガラシャ(明智光秀の娘)

浅井長政×お市(織田信長の妹)

武田勝頼×夫人(北条氏康の娘)






合戦三昧!!

主君となったからには、とにかく合戦!合戦!

隠居するまで合戦三昧!!!

合戦についての詳しいことはコチラ





隠居

見事(?)生き残り、跡継ぎの子供も育ち、戦に出なくなってこれる日がやってきました

武将たちはだいたい体の不調が出だすと、家督を子供に譲り隠居します

隠居後は和歌やお茶の世界に入ったりと、趣味三昧・・・・かと思いきや、それは江戸時代になってから

時代は戦国なので、隠居しても「家」を守るため息子たちにアレコレアドバイスをしたり、アンダーグランドで知略・謀略を使いまくります

なかなかゆっくりできる日は来ないのであります

そして忘れちゃいけないのが「遺言状」

自分が死んだ後、どうするかをきっちりと遺言状にしたためます

有名な遺言は武田信玄の「三年間、わしの死を隠せ」というもの

さらに最後の時は辞世の句を読んだりします

こうして、波乱万丈の戦国を生きた武将の一生が終わるのでありました