昭和15年  1940年


       ここからヨーロッパ戦線は赤字となります



昭和15年 1940年 年表 
ここらへんでちょっとまとめ★日本の軍隊について★

このあたりで日本の軍隊についてちょっと解説しようと思います

日本には軍事国家であり、陸軍・海軍があって、いろんなランクがあります

今までに説明したとこもあるけど、簡単におさらいしちゃいます

わかってるからいいよ〜って人は、飛ばして年表に行っちゃってくださいね〜

まずは陸軍をちょこっと説明

陸軍ができたのは明治4年

明治維新の後に薩摩・長州・土佐の人たちが作った天皇直属の御親兵であります

その後、陸軍省となり明治7年には台湾出兵などを行いました

次第に「天皇の守り」というより、外国相手の外征軍となっていくようになります

明治27年の日清戦争・日露戦争でも陸軍は出兵しました

昭和に入ると政府の言うコトを聞かなくなり、独断で突き進んでいくようになります

特に日中戦争・太平洋戦争では暴走しまくります

「陸軍」という一つの独立したよーな機関になっちゃって、「海軍」に対してライバル意識バリバリ持つようになるんですね〜

お次は海軍をちょこっと説明

海軍はもともと陸軍と一緒だったんだけど、新たに海軍省が設置されました

で、日露戦争の時は軍艦が大活躍し、世界三大海軍(アメリカ・イギリス・日本)と呼ばれるようになっていきます

最高統帥権を持っているのは天皇であります

陸軍・海軍とも対等な位置にあり、命令なんかは同時に出されるんだけど、お互いがお互いをライバル視していて一方がもう一方に従う必要がないから統一された作戦がなかなか遂行されない状態になっちゃうんですねぇ

徴兵制度と兵役

徴兵令が制定されたのは明治6年

この後、何度も大幅な改正があり明治22年に兵役が義務となります

満17歳から満40歳までの男子が徴兵されることになりました

でも、一家の主たる人は兵役の義務から免除されてました

陸軍大臣が定めた検査区で徴兵検査が行われ、現役に適する者・国民兵役に適するも現役には適さない者・兵役に適さない者・兵役の適否を判断しにくい者といった感じで分けられていきました

ちなみに現役に適する者は、身長が155センチ以上で、体格に応じて「甲・乙・丙・丁・戊」に分けられていきます

ちなみに兵士として最適とされる甲種合格の条件はというと

・胸囲が身長の半分以上
・裸眼視力が0.6以上(改正されたりもするよ)
・筋骨が薄弱ではない者
・精神異常がないもの

といった感じであります

が、戦争が激しくなっていくにつれ「甲・乙・丙・丁・戊」にあまりこだわらず、がんがんと徴兵されていくことになります


兵役も徴兵令の時に定められるんだけど、何度も改正があります

徴兵検査によって判断され、常備兵役、後備兵役、補充兵役、国民兵役の4種類に分けられます

志願兵(将校になりたい人)は、兵役法の対象外でした

期間も陸軍と海軍では違ってます

陸軍は現役2年で、海軍は現役3年

現役がおわってからも後備兵役の期間が何年もあります

陸軍の組織

徴兵制度によって男子が兵に入るわけですが、まず最初は二等兵から始まります

陸軍士官学校(軍人になるための学校)を卒業した人は、エリートコースへいきます

一般的に「将校」というのは少尉から上のランクです


では、陸軍の偉い人順に解説

元帥・・・軍事においての最高顧問

大将・・・なれるのは兵科出身者のみ。今まで大将になったのは94人しかいない。基本が「お飾り」のようなもので、あまり活躍の場がないケド、責任だけは重い

中将・・・大将は基本「お飾り」なんで、中将はやりたい放題できる

少将・・・一つの連隊や師団長となれる。戦闘はしないで、指令する人

大佐・・・連隊の長になれる。やりがいがあるらしく、支持者も多い

中佐・・・「佐」がつくレベルでは一番人数が多い

少佐・・・大きな隊の長となる。特殊部隊なんかはこのクラスが受け持つ

大尉・・・中隊の長として戦闘指揮を行う。前線に出る兵の中では最高レベル

中尉・・・大尉の補佐を行ったり、小隊長の指揮をとる

少尉・・・小隊の長として戦闘指揮を行う。士官学校卒業生はここからスタート!

進尉・・・士官候補生。一般からたたき上げでここまでくればスゴイ!曹長と任務は同じなんだけど、自分で仕立てた軍服を着ることができる。ここまでが「下士官」で、こっから上はちょっとレベルが違う

曹長・・・小隊をまとめる人。一般兵が話せることができるのはこの辺まで。人間関係もこっから下で成り立ってる

軍曹・・・2班をまとめ、鍛え上げえる人

伍長・・・職業軍人レベル。4人の部下ができる

兵長・・・下士官昇進試験を受けれるクラス

上等兵・・・班長クラス。よくイジメとかやるのもこのあたり

一等兵・・・そこそこ活躍したり、態度が良かったりすると2年後に無条件に昇進

二等兵・・・まずはここから始まる。フツーに徴兵されると二等兵になり、2年ほど働きます。消耗品扱いされるクラス

その他

幹候・・・幹部候補生のことを幹候と言いました。幹部候補生に採用されると、すぐに一等兵の階級が与えられ、2ヵ月後には上等兵に進みます


海軍の組織

大将・・・ 初めての海軍大将は西郷隆盛の弟・西郷従道であります。定年は65歳。連合艦隊指令長官の山本五十六は最後にこの階級まで上り詰めました

中将・・・ここまでこれたらもう充分ってくらいのランク

少将・・・ここから上は高級将校で、「閣下」と呼ばれる地位
   
大佐・・・戦艦や航空母艦といった艦長になれるクラス。船が沈む時は責任を取る地位で、一緒に沈没していくことが多い

中佐・・・巡洋艦や戦艦の副長になれるクラス

少佐・・・小さい駆逐艦や潜水艦の艦長や通信長などのクラス

大尉・・・戦いの裏側にまわり、指揮官として作戦を立てるクラス

中尉・・・零戦の指揮官になれるクラス

少尉・・・士官学校を出た人はここからスタート。経験がないのにいきなり部隊を任されるので、下士官たちをまとめるのに必死!!一般からのたたきあげでやってきた人は一番ノリノリの時期
       
兵曹長・・・見習い将校

上等兵曹・・・駆逐艦クラスの班長になれるクラス

一等兵曹・・・陸軍でいうと軍曹と同じクラス

二等兵曹・・・陸軍では伍長クラス。5人〜10人の部下がいる

兵長・・・部下が数名できる。現在だと係長クラスで、一番こちょこちょと働かされる

上等兵・・・軍隊の生活に慣れてえばり始めるクラス

一等兵・・・人数的に一番多い

二等兵・・・最初に入る時はコレ。教育期間中でイジメにあう。階級章が何も無いので「カラス」と呼ばれる


その他

特務士官・・・海軍だけの制度

憧れの役職「三長官」

軍人となったからには、誰でも憧れるポスト

それが「三長官」

陸軍の三長官は、参謀総長・陸軍大臣・教育総監

海軍の三長官は、軍令部総長・海軍大臣・連合艦隊指令長官

参謀総長ができたのは明治11年で、参謀本部が独立した時に出来た役職

軍令部総長は、明治26年に陸軍の参謀本部のように独立し、昭和8年に名称が軍令部総長に代わりました

超エリート 天保銭組

陸軍大学校と海軍大学校は最高研修期間であります

陸軍大学校の受験資格は、隊付勤務2年以上で、品行方正・勤務がマジメ・身体が強い・頭脳が優れていると所属長が認めた中尉・少尉

海軍大学校の受験資格は、身体強健・成績優秀で高等兵学に適しており、海軍大臣が選考した少佐か大尉

陸軍大学校の76% 海軍大学校の78%が少将以上の将官になるという、まさに軍のエリートコース

この大学を卒業した人に与えられる微章が、江戸時代の通過だった天保銭と似ている形・大きさだったことから「天保銭組」と呼ばれました

軍を引率しているほとんどが「天保銭組」であります

ちなみにその他の将校は「無天組」と呼ばれてました

が、のちにこの微章がみんなのやっかみの的となり、48期生以降は廃止されました

そのためそれ以降の卒業生を「カラ天組」と呼ぶように

また、トップの成績で卒業しつつも、なんらかの理由で出世コースに乗れなかった将校のことを「サビ天」と呼んでバカにしました

サビ天第一号と言われているのは、第三期を主席で卒業した恒吉忠道と、次席の児島八二郎

2人とも出世街道まっしぐらかと思われてたんだけど、旅団長の少将で終わってしまったようです

師団ってなに?

師団というのは、陸軍の戦略単位のこと。旅団よりは大きいけど、軍隊よりは小さい

日本では明治21年に6個師団が置かれたのが始まり

師団司令部は参謀部・経理部・兵器部など7つで構成され、参謀と副官をあわせて幕僚と呼びました

連合艦隊

陸軍の戦略単位は師団だけど、海軍での戦略単位は「艦隊」

2個以上の艦隊で編成されてます

三八式歩兵銃

日本陸軍の象徴でもある三八式歩兵銃

陸軍に入ると、一人に一艇づつ貸し出され、6桁の番号をすぐに覚えなくちゃいけない

重さは約4キロであります

でもって菊の紋章が彫りこまれてて、「これは陛下から授かったものだ!雑に扱うな!」とされ、実際手入れがよくないと罰を与えられた

転ぶ時も、銃を体の上にしろ!と教育されました

「傷」をつけちゃった場合、理由書が必要になってくるので、兵器検査で新しい傷がついたもんなら昇進に差し支えるので皆必死に銃を守ってました

赤紙ってなに?

赤紙というのは、戦地へ行くための召集令状の色がピンク色だったから「赤紙」と呼ばれるようになります

誰が発行するのか?とゆーと、全国各地にある連隊区司令部で、ここには管轄地域の兵籍名簿が保管されているのであります

名簿には成人男性の職業や住所だけでなく、性格や思想、体格なども細かく書いてありました

人数が足りない!となると、各師団司令部から連隊区司令部に「何月何日までに○人をどこどこの部隊へ補充せよ。その時はこういう特技がある人を派遣しろ」と、細かく書いた命令がきます

そして連隊区司令部はすぐに兵籍名簿を見て選ぶのでした

1月16日 米内光政内閣が成立

親英米派である米内光政内閣が成立しました

だんだん険悪になってきている日米関係の改善に期待されつつも、陸軍の強い抵抗があり先行きは不明でした

2月2日 帝国議会で反軍演説!

日本における「権力」は、どんどんどんどん陸軍に集中していました

それに抵抗したのが斉藤隆夫

斉藤は早稲田を出てからアメリカ留学し、衆議院議員となった人

権力が陸軍に集中していく世の中を批判していました

そしてこの日、質問演説にたち激しく陸軍を批判したのです

「ただいたずらに聖戦という美名に隠れ、国民を犠牲にしている。雲をつかむような文字を並べている。支那事変から2年半たつが、10万の英霊を失ってもいまだ解決していない。どうするつもりなのか!?」と、詰め寄ったのです

これに陸軍がめっちゃくちゃ激怒!!!

「聖戦の目的に批判意見を述べるなど許されないことだ!」と、畑俊六陸相は怒りまくり

議会の中にも陸軍応援派がいて、3月7日に斉藤を議会から除名してしまったのです

斉藤は「迷惑がかかるから」と、民政党を離党しました

これが帝国議会での最後の陸軍反対演説となりました

そしてこれからは軍批判ができない状態になってきちゃいます

2月11日 創氏改名に関する法律ができた

朝鮮人の氏名を日本式にするという法律が出されました

朝鮮の伝統だった「夫婦別姓」を「夫婦同姓」に変えて、日本の「家」の観念を植え付けようとしました

日本式の姓を名乗ることが「皇民のあかし」とされ、役場や警察を通して様々な形で強制されました

創氏改名をしない人は「非国民!」と言われ、嫌がらせを受けてしまったため、1760万人(80%くらい)が、いっせいに日本式に姓を変えたのでした

2月11日 紀元2600年のお祭り

1940年は、日本書紀にある神武天皇が即位してから、2600年目ということでお祭り騒ぎ!

正倉院を初公開したりと、各地で奉祝行事が行われました

11月10日には政府主催の祝賀式典があり、宮城前広場で、天皇・皇后をはじめとし、軍人や官僚など5万人以上が参加する大々的なお祭りとなりました

が、11月15日には「祝いは終わった。さぁ働こう」と、大政翼賛会がスローガンを発表し、再び戦時生活を送ることとなります

2月29日 アカデミー賞授賞式

風と共に去りぬが、作品賞・主演女優賞など8部門も獲得

3月13日 ソ連VSフィンランド ソ連が勝利して終了

3月14日 武蔵野デパート(後の西武百貨店)ができました

3月28日 ガイジンのような名前は変更しなさい!

内務省から映画会社に「風紀上おもしろからぬ名前・外国人とまぎらわしい名前は一切禁止」という通達がきました

この頃は西洋風はすべて消していこう!という政府の厳しい締め付けがあり、ちょうど紀元二千六百年を祝う年でもあったため「神国日本」を国民に押し付けていたのです

政府からまず最初にヤリ玉にあがったのが16人の芸能人

漫才師のミス・ワカサ
新興演劇部の平和ラッパ
歌手のミス・コロンビアやディック・ミネ
日活の尼リリス・熱田みや子

などなど

どうして悪いのか?というのを説明してくれなかったんですが、泣く子と役人には勝てないという時代だったので、みんなシブシブ名前を改名しました

ちなみに戦後、すぐにもとの名前に戻した人がいっぱいいました

4月9日 ドイツがノルウェーへ侵攻スタート

5月 ドイツ「座り込み戦争」

ヒトラーはポーランドへ侵攻した後すぐに西部戦線(ドイツの西にあるフランス・デンマーク・ベルギー・ルクセンブルク・オランダ)で戦闘を行う予定でした

でもめっちゃ悪天候で、ずーっと延期してました

この、いつまでたっても始まらない戦争をドイツ人は「座り込み戦争」といい、アメリカ人は「奇妙な戦争」と呼んでます

そのドイツ軍がとうとう動き出しました

ドイツ軍がやってくることを見込んでいたフランス・ベルギー・イギリスの軍は防衛線を敷いていて、戦力的にもこっちの連合軍の方が勝ってたんですが、装甲師団がほとんどなかったため戦術面で劣っていたのです

6月3日 ドイツ空軍がパリを初空襲

6月3日 幻の16代将軍 徳川家達死去

大政奉還後に徳川宗家を継いだ徳川家達(とくがわいえさと)が死去しました

徳川幕府が続いていれば、16代将軍となった人であります

76歳でした

6月10日 イタリアがイギリス・フランスに宣戦布告

イタリアはずっと中立宣言をしてたんだけど、フランスはもうドイツに降伏するな・・・と悟ると、戦果の分け前にありつこうと駆け込み参戦しました

この日、イギリスとフランスに大して宣戦布告し、アルプスを越えてフランスへ進軍したのです

ドイツ軍がパリに迫る中、背後からイタリア軍が迫って行ったのでした

6月14日 月島・築地を結ぶ勝鬨橋(かちどきばし)ができる

月島と築地を結ぶ橋が完成しました

実はここ、万国博覧会の会場予定地でした

でも、第二次世界大戦が始まってしまったので中止になり、橋だけが建設されました

で、この橋は「勝鬨橋」と命名されたのです

6月14日 ドイツ軍 凱旋門をくぐる

ドイツ軍はとうとうパリへやってきました

そしてフランスが休戦を求めたのです

ドイツ軍が凱旋門をくぐるのをみて、パリ市民は呆然

フランス軍はすでに撤退していたので市街戦はほとんどありませんでした

フランス政府はというと、レイノー首相がボルドーに政府を移しており、この日辞任しました

6月15日 ソ連がバルト三国を占領

6月22日 ドイツ・フランス休戦調印

レイノー首相が辞任したため、ペタン元帥を首班とするフランス新政府は、パリ北東のコンピエーニューの森で休戦協定に調印しました

調印式には第一次世界大戦でドイツの降伏文書調印に使われた新台列車を使ったんですが、これは博物館に展示していたものをわざわざ運び出しました

今後フランス国土の5分の3がドイツの軍事占領下に置かれることになり、残りは中部のビシーにペタンが樹立した新政府が統治することになります

ちなみにビシー政権はドイツに協力的なんじゃないの!?といった非難の声がとっても多く、その声に応えるようにロンドンに亡命していたドゴール将軍がラジオ放送でフランス国民にレジスタンスを呼びかけました!

あ、レジスタンスというのは抵抗運動のことであります

7月7日 「奢侈品等製造販売制限規則」(7・7禁令)が交付

奢侈品等製造販売制限規則というのは、簡単にいうと「ぜいたくするな」ということを言ってる法律です

生活必需品を確保するために出したもので、これによって色んな物が禁止されました

例えば、ダイヤモンドなどの宝石類や、ネックレス・指輪といったアクセサリー、キレイな着物などです

8月1日の「興亜奉公日」には、女性達に「華美な服装は慎みませう。指輪はこの際全て廃止しませう」というビラが配られました

最初はこの程度だったんですが、次第に「ぜいたくは敵だ!!!」という、厳しい口調になっていき、国民の標語となっていきます

7月9日 カラブリア沖海戦

イタリアにあるカラブリア半島の沖合いで、イギリス海軍とオーストラリア海軍で構成された連合国艦隊VSイタリア海軍で海戦が行われました

この海戦は両軍引き分けで終わりました

が、これ以後イタリア海軍は弱気になっていき、イギリス海軍はどんどん強気になっていきます

7月16日 米内内閣 崩壊

7月22日 第2次近衛文麿内閣が成立!陸相には東条英機が就任しました

近衛文麿内閣発 ★ 八紘一宇(はっこういちう)

近衛文麿内閣は基本国策要綱に「八紘一宇の実現」をあげました

八紘一宇(はっこういちう)ってナンだ??

実はこの言葉、日本書紀からきてるんですね〜

紀元前660年に初代天皇に即位した神武天皇が「八紘をおおいて宇とせんこと、またよからずや」と言いました

つまり「全ての国家が一つ屋根の下に集まりましょう」という世界平和の意味

うーん・・・この頃の日本にはあまり(というか、全然)マッチしてない言葉ですなぁ

7月23日 近衛首相がラジオで「一億一心、真実の御奉公を」と放送しました

7月23日 東京市精勤婦人同盟が、繁華街で8月1日から「贅沢女狩り」を行うと決定

7月27日 日本 「アメリカと戦争しようか・・・」と、考え始める

近衛文麿内閣が発足する前、ドイツ軍はあっという間にフランス・ベルギー・オランダを制圧しました

ドイツ軍のすばやい戦闘は「電撃作戦」と呼ばれ、日本を羨ましがらせました

なんでか??というと、日本は中国と戦争を始めてからすでに3年

70万もの軍隊を送り込んでるのに、中国政府はいつまでたっても降伏しない

日本は中国に援助しているアメリカさえいなければ、中国をゲットできる

また、日本はベトナム・カンボジア・ラオス・フランス領インドシナ、イギリス支配地のマレー半島とシンガポール、オランダ領であるインド(今のインドネシア」を攻略してゴムや石油などの資源が欲しかった

そこに日本が攻め込めば、フィリピンにいるアメリカ軍が黙っていない

日本は考えました

「ドイツがヨーロッパでやったことを、日本がアジアでやればいいんじゃないか?戦争の名目を大東亜の確立、つまりアジアを植民地から解放するということにして、ドイツと手を組み、新たな戦争を始めるのがいいのではないか!?」

このように日本は考えていくのでした

謎の会社(?)田中商会

東京神田のとあるビルに「田中商会」という会社がありました

実はこの会社、参謀本部第二部第八課の「絵画班」の事務所

漫画家が数多く存在していて、謀略ビラの絵を書かされていたのです

例えば、東南アジアの国の下級兵士向けに「君たちは上官を殺せ。さすれば日本は必ず君らを救うだろう」というビラを空から投下するのです

で、下級兵士がこのビラを上官に持っていく

上官はこのビラを見て「もしかしたら、このビラを見て俺を殺そうとする奴がいるかもしれない」と恐れる

この感情が戦況で役にたつかもしれないという、心理的な作戦

あ、この↑の作戦を考えたのは、江戸川乱歩じゃないか?という説があります

漫画家を多く使った理由としては、東南アジアには、文字が読めない人も多くいるので、できるだけ絵でわからせるようにしてたんですね〜

8月25日 イギリス空軍がベルリンを初空襲

9月7日 ドイツ空軍 ロンドンを猛爆!!

ドイツ空軍はイギリス本土爆撃を本格化させました

ロンドンの上空ではドイツの攻撃機とイギリスの迎撃機が毎日のように空中戦を行いました

ドイツ軍による爆撃は65日間連続で続きました

ロンドン市民は地下鉄の駅構内などに避難して、毎日不安な日々を過ごすことになるのでした

チャーチル首相は
「市民の死傷者は1万人におよんだ。が、戦闘員の被害は250人ほどしかいない。ロンドンが瓦礫となっても戦意は失っておらず戦闘能力も衰えていない!」と述べました

9月 ドイツ人の妻 スパイとして逮捕される

東京の芝で医師を開業していたドイツ人の妻「プレスナ」が、スパイということで東京憲兵隊に逮捕されました

プレスナはドイツ国立音楽学校を卒業したオペラ歌手でものすごーーーい美人

で、ソ連のスパイとして情報集めをしてました

ソ連からの指令として「日本海軍の特殊技術者の名簿を作れ」「近衛首相と関係のある日本人と接触して、様子をさぐれ」などがありました

が、どうやらプレスナはスパイになんかなりたくなかったらしく、友達に「あーあ、やんなっちゃうわ〜」と愚痴ったため、バレたそうです

で、逮捕となったわけですが、今度は日本側から「逆にソ連を探って来い」と強制されちゃいました

が、美人すぎて目立ちまくりだったため、結局スパイは廃業したそうです

9月13日 イタリアがエジプトに攻撃開始

イタリアは第二次世界大戦が始まった頃は軍備が不足だったということで中立でした

ケド、今年の6月に駆け込み参戦してからはアフリカ方面へ積極的に侵攻開始

イタリアのムッソリーニ首相の長年の夢だった「地中海イタリア化」に向けて、着々と突き進んでいきました

9月27日 日独伊三国軍事同盟

日本・ドイツ・イタリアの参加国が、ベルリンで日独伊三国軍事同盟に調印しました

ベルリンにあるヒトラー総督官邸で、日本からは来栖三郎駐ドイツ大使が参加し、リッベントロップドイツ外相・チアノイタリア外相によって調印されました

この三国同盟の前身は、昭和12年11月に結ばれた日独伊防共協定であります

この時はソ連の赤化対策と軍事政策に対応するためというものでした

で、その内容をもっと強化しましょうよ!と交渉を進めてたんだけど、去年の8月にドイツが独ソ不可侵条約を結んだので中断しちゃってました

ですが第二次近衛内閣が「ドイツ・イタリアともっと結束を強くしよう!」と交渉再開始めたのです

実はドイツは、ドイツの活躍に日本が便乗してきた!として、最初は積極的に動きませんでした

だけどイギリスを屈服させる見通しがなかなかないことと、ここで日本を邪険にしてアメリカと接近されたら困る・・・と考え、前向きに考えるように

で、新たな仮想敵国をアメリカにすることで、意見が一致したのであります

今回の軍事同盟の内容は、日本・ドイツ・イタリアがアジアとヨーロッパでそれぞれの侵略を互いに認め合いましょうというもの

日中戦争やヨーロッパ戦争に参加していない他の国から、同盟国のどれかが攻撃を受けた場合は互いに助け合いましょうというものです

三国同盟によって、ドイツとイタリアは欧州戦線が好転することを期待し、日本はアメリカとイギリスに中国支援を断念させたいという期待がありました

この同盟により、日米関係の険悪さは決定的となりました

海軍はアメリカと戦うことは「反対!!」

日独伊三国軍事同盟を調印しよう!という動きになった時、海軍のお偉いさんは大反対してました

それは「ドイツ・イタリアと同盟組んじゃったら、アメリカとの戦いは避けられない。アメリカには勝てない」という理由からです

陸軍が三国軍事同盟に積極的だったのに対し、海軍はめっちゃ反対し、米内海相・山本海軍次官などは職をかけてまでも反対し続けました

米内(よない)海軍大臣は「アメリカに勝てる見込みはありません。日本の海軍はアメリカ・イギリスを敵にまわして戦争するようには作られてません」とまで言ってました

連合艦隊司令長官の山本五十六もアメリカとの戦争に反対していて、「ぜひやれと言われれば、はじめの半年は一年は暴れてご覧に入れる。が、2年3年となれば全く確信は持てぬ」と言いました

でも、戦争をするからには海軍には頑張ってもらわないとどーにもならない

アメリカと戦争するといっても、日本はアメリカ本土を攻略するというものではなく、アメリカ・オランダ・イギリスなどが支配しているアジアの地域を攻略し、彼らを追い出すというもの

日本から軍隊をアジアに派遣して、アメリカ・イギリスなどをやっつけ、奪った資源を日本に運ぶためにはどーしても海軍に頑張ってもらわないといけないのであります

イギリスはドイツとの戦いに忙しいのでこっちまで手が回んないけど、アメリカはフル回転で反撃してくるハズ

陸軍にとって「海軍は資源を無事に守ることができるか??」というのがめっちゃ気になってたのでした


10月 産めよ殖やせよ!表彰される

「産めよ殖やせよ」が、政府からめっちゃ推奨されました

で、厚生省が「多産報国」の子宝部隊長として、全国の10人以上の子持ち家庭を表彰することにしたのです

各都道府県に子持ち家庭を推薦させることにしたら、なんと10336の家庭が出てきました

ちなみにただ子供が多いってだけじゃダメで、父母が同じというのが条件

でもって、病死させずに生育させていることと、子供たちが丈夫であること、そんでもって父母は善良であることなどを

ということで、日本一の「多産報国」として長崎県にいる白戸半次郎夫妻を表彰することに

なんと16人の子供がいたそうです

ちなみに15人の子持ちは5組 14人の子持ちは30組もいたそうです

で、一番表彰された家庭が多かったのは北海道で918家庭
一番少ないのは鳥取の39家庭でした

10月6日 大阪で女性モンペ部隊が「贅沢全廃!」の大行進をしました

10月12日 大政翼賛会が結成される

近衛文麿首相を総裁とした大政翼賛会が誕生しました

政友党や民政党など、すべての政党が解散して吸収されました

そして国民は「隣組」や職業ごとに「大日本連合青年団」や「翼賛壮年団」「大日本婦人会」などに強制的に加入させられ、いたるところで生活を縛られるようになっていきます

また大政翼賛会も、内務省の支配下におかれるようになり、戦争協力の機関となっていきます



大政翼賛会ソング
10月28日 イタリア・ムッソリーニ首相 ギリシャ侵攻スタートさせる

10月31日 敵性語をやめましょう!

戦争が長期化してくるにつれ、敵性外来語は廃止しよう!ということになってきました

そしてこの日、タバコの「ゴールデンバッド」は「金鶏」になり、「チェリー」は「桜」に改名することになりました

音楽のドレミファソラシドも「はにほへといろは」に変更されました

他には・・・

サンデー毎日→週刊毎日
コスモス→秋桜
ラグビー→闘球
アメリカンフットボール→鎧球
ゴルフ→杖球

などなど
10月31日 東京では最後の夜を楽しむ人でいっぱい

贅沢追放の一環として、東京のダンスホールが閉鎖することになりました

この日はどこのダンスホールも最後の夜を楽しむ人が押し寄せ、超満員となりました

東京にいるダンサーは690人ほどといわれていて、彼女達は工員になることを勧められましたが、あまりの給料の低さに上海に渡っていく人もいました

こうして日本中の娯楽がどんどんと消えていくのでした


11月2日 大日本帝国国民服令!ファッションを統一  

この日、大日本帝国国民服令が交付されました

みんな国防色(カーキ色)の国民服を着るように!というものです

国民服は軍服がモデルで、背広や平城服を着る場合に着用するようになりました

また、女性はもんぺ姿がどんどん多くなってきました

オシャレも自由にできなくなってしまうんですねぇ・・・

11月 ワルシャワにゲットーができる

ポーランドのワルシャワ知事フィッシャーが、市内にいる30万人のユダヤ人をゲットーに閉じ込めるべきだと提案しました

そして「ユダヤ人居住地区」を設営したのです

11万人以上のポーランド人がゲットー地区から離れ、13万8000人のユダヤ人がここに入れられました

さらにワルシャワ西部からも7万人以上のユダヤ人がゲットーへ送り込まれたのです

ゲットーの広さはワルシャワ市の2・4%でした。今まで、市全体の30%にユダヤ人がいたというのに、2・4%のところに押し込めたのです

ここでの生活は、命の保障がありませんでした

ユダヤ人を救った決断!!杉原千畝(すぎはらちうね)

ナチスドイツによるユダヤ人迫害はものすごくエスカレートしていました

上に書いたように、ゲットーが出来てユダヤ人は全て収容されたりと、ホントにひどい扱いをされました

ですが中には安全な第三国に逃れたユダヤ人もいました

その手助けをした1人がリトアニア領事代理の杉原千畝です

杉原千畝は、満州・フィンランド勤務をへて、リトアニア領事館代理となりました

ここへやってきたのが、ポーランドからリトアニアに逃げてきたユダヤ人たち

で、彼らは7月にソ連がリトアニアを併合したため、各国大使館が閉鎖されてしまいビザの獲得ができなくなってしまっていたのです

そのため閉鎖前に細々と業務を続けていた日本領事館にユダヤ人が殺到!!
ピザを発給してくれるようやってきたのでした

他の領事館はみんな閉鎖しちゃってましたからね

ユダヤ人がナチスから逃れるには、シベリアを通過し日本経由で第三国へ行くしか道がなかったのであります

杉原は日本の外務省へ交渉するも、日本は「日独伊防共協定」があったため、答えはNO

が、領事館の前には死から逃れる為に多くのユダヤ人が必死になって発給を待っていました

そして杉原は「この人たちを見殺しにするわけにはいかない」と無断でピザ発給をしたのです

7月から領事館が完全に閉鎖される9月初めまで日本へのビザを書き続けました

その数は2039枚で、助けた人は約6000人(家族もいるからね)

これは映画の「シンドラーのリスト」で、シンドラーが助けたユダヤ人の5倍であります

こうして彼らはシベリア鉄道経由で神戸に行き、上海やアメリカ・パレスチナへ逃げることができました

が、杉原は日本に戻ると「独断で勝手にビザを発行した」ということでクビになってしまいます

この時47歳でした

それからは色々と仕事をし、「国際交易」のモスクワ支店長に

昭和43年8月のある日、杉原のもとにイスラエル大使館から電話が

それはイスラエルのニシュリ参事官が、ボロボロになった紙(杉原ビザ)を持って、28年間杉原を探していたというものだったのです

68歳の杉原は、翌年イスラエルに招待されました

そこでバルハフティック宗教大臣が杉原を出迎えました

この人は、かつて領事館前で、ユダヤ人代表として杉原に会った人だったのです

そして杉原はイスラエル政府からヤド・バシェム賞(諸国民の中の正義の人)を日本人として初めて受賞したのです

感動の再会を終えた杉原は、その後鎌倉市内の病院で静かに息を引き取ったのでした

11月11日 イギリス軍がイタリア軍港タラントを奇襲

夜、イギリス地中海艦隊の空母から電撃機(魚雷発射装置がある飛行機)「ソードフィッシュ」21機と爆撃機8機がイタリア軍の港であるタラントを奇襲しました

停泊していたイタリア艦隊は、主力3隻以外は全て行動不能となり、イギリス側は2機を失っただけとなりました

この奇襲の成功により、地中海の軍事バランスは圧倒的にイギリスが優勢となったのです

「ソードフィッシュ」は、時代遅れの飛行機だったにもかかわらず、予想以上の戦果をあげたことで、艦船に対しては航空機の方が有利なんだなということが実証されました

ちなみに日本海軍はこの奇襲作戦にすっごい興味津々だったそうです

11月23日 ルーマニアが日独伊3国同盟に加盟

11月24日 西園寺公望死去 

11月24日 チェコスロバキアが日独伊3国同盟に加盟

12月4日 慶應義塾大学が全学生の服装検査を実施

「変りズボン」などの着用者は学内立ち入り禁止となりました

12月6日 イギリスがハンガリーに宣戦布告!!



12月20日 リバプール大空襲が行われる

12月26日 従軍看護婦が増員

日本赤十字社では、戦時救護規則が改正され、新しく乙種看護婦制度が設けられました

戦争の拡大により不足した従軍看護婦を補うためです

従軍看護婦達は短期間で育成され、前線に送られました

ちなみに今までの救護看護婦は「甲種」救護看護婦となります

12月29日 最大規模のロンドン焼夷弾空襲が行われました

参考文献は全てこちら