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昭和16年 1941年 
 

ここからヨーロッパ戦線は赤字となります



 昭和16年 1941年 年表 
1月8日 東条英機 戦陣訓を出す

戦争の長期化にともない、前線兵士は士気が低下してきて、軍紀も乱れてくるようになりました

暴行や略奪、戦場離脱などが多くなり、軍内部の統制の乱れが問題化してたのです

ここに喝!!を入れたのが陸軍大臣の東条英機であります

「戦陣訓」を示達し、有名な「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」を残しました

意味はですね〜、解釈の違いが色々あるんですが当時の人にとって降伏よりも死を選べといった感じのものだったと思います

捕虜には死んでもなるな。捕虜になるしかない状況であれば、死ね。ということ

絶対服従が強調されております

国民にとっては逆らえるはずもなく、この後に起きる太平洋戦争では玉砕や自決などの悲劇が生まれてしまいます



 ↑戦陣訓の歌を聞きたい人はドウゾ

1月 新聞紙掲載制限令

軍事・外交の機密や、軍用資源などを掲載することが禁止となりました

1月27日 米英参謀本部の秘密戦略会議がスタート!

ワシントンで、米英参謀本部の秘密戦略会議がスタートしました!

結果、ドイツを先に倒すことを優先しようということで合意しました

2月11日 日米交渉が本格化

野村吉三郎が駐米大使としてワシントンに着任しました

本格的な日米交渉の始まりとなります

日本はアメリカと戦争する覚悟はあるんだけど、一方では和平の道も考えてたんですねぇ〜

3月19日 慶弔電報の取扱いが中止になりました

4月1日 小学校が「国民学校」に

この日から、小学校が「国民学校」という名前に変わりました

初等科6年 高等科2年という義務教育8年制となります

「理数科」「国民科」「体錬科」「芸能科」の4教科となり、高等科になると「実業科」が加えられました

国民学校の目標は「皇国民の錬成」

子供たちのことを「少国民」と呼ぶようになり、学校生活全てが管理されることになりました

今までの義務教育は6年だったのに、なんで8年になったのか?というと、兵の資質を向上させるためであります

要はいい兵隊を作るためには、これくらいの頃からきちんと教育しとこうというもの

まだ子供なのにね・・・



↑国民学校の歌を聴きたい人はドウゾ

4月1日 生活必需物質統制令 お米が配給制になる

戦争の長期化と拡大によって農業人口はものすごい減ってしまいました

さらに去年は不作だったため、とうとう東京・大阪・名古屋・京都・神戸・横浜で米の配給制が実施されることになりました

一般男女で一人当たり一日ニ合ちょっと(300グラム)ほどです

また、外食券制も導入され、券を持っていない人は食堂などで自由に食事ができなくなってしまいました

米から始まり、小麦粉・マッチ・木炭・酒・油など、さまざまな生活必需品が配給制となっていきます

4月6日 ドイツ軍がユーゴスラビア・ギリシャに侵攻「マリタ作戦」

4月13日 日ソ不可侵条約

アジアを侵略しようとしていた日本にとってソ連は脅威でした

ソ連にとっても、ドイツをけん制したいんだけど、日本が脅威でした

お互いの思惑が一致したため、日ソ不可侵条約がモスクワで締結されたのです

日本の松岡洋右外相は、ほんとは日本・ドイツ・イタリアの三国同盟にソ連を加えて四国同盟にしたかった

で、アメリカ・イギリスに対抗したかったんだけど、ドイツが「ソ連と仲間?冗談じゃない」と、断固NO!!

仕方なく諦めた松岡外相が、単独でモスクワに向かおうとした時、ヒトラーが「ソ連には行かない方がいいよ」と忠告しました

どうやらドイツはソ連にむかって開戦しようと思ってるんだよ・・・といった含みだったようです

四カ国同盟は失敗に終わりましたが、日ソ不可侵条約により日本は北の脅威を取り除くことに成功し、東南アジアへの南侵攻を本格化させることが可能になったのでした

4月16日 日米交渉がスタート

ワシントンで日米関係を良くするための交渉が始まりました

交渉にあたるのは、駐在大使館付き海軍武官の経験があり、ルーズベルト大統領と旧知の仲である野村吉三郎

日本政府は野村を大使に任命してワシントンへ派遣しました

アメリカ側の交渉相手はアメリカ国務大臣のコーデル・ハルです

もともと日米交渉は、元大蔵官僚とアメリカ人神父さんのという民間レベルで行われていました

そのうちアメリカが満州国を承認し、日中間の仲介役になりましょうか?といった案が出されてたんだけど、民間レベルから政府レベルに話が移ると、政府はその案を拒否しました

なぜか?というと、日本がドイツ好きだったため、アメリカは不信感を持ちまくりだったからです

こうしてアメリカ政府は強い態度で日米交渉に臨んできたため、日米関係がよくなる見込みはだんだん無くなってきたのでした

ちなみに日本の要求はアメリカとの正常な貿易の復活であります

アメリカは日本が中国を侵略していたので、日本の軍事産業に影響が出るような物の輸出を禁止したりと、経済制裁を加えてたのでした

アメリカはというと、ドイツと軍事同盟を結んだ日本に対して譲歩する気はまるでナシ

でも、戦争の準備期間が必要だったので、交渉に応じたのはその時間稼ぎ??とも言われてます

4月17日 ユーゴスラビア ドイツに降伏

4月21日 ドイツ軍 ギリシャを占領

ブルガリアからギリシャへ侵攻していたドイツ軍が、ギリシャ全土を占領しました

ギリシャ軍と援軍でやってきたイギリス軍はクレタ島へ逃げることに

去年の10月にイタリア軍がやってきた時は、侵攻をしりぞけることができたんだけど、今回のドイツ軍の圧倒的な兵力の前にはかないませんでした

5月6日 スターリンがソ連首相に就任

5月10日 ナチス副総統が単身でイギリスへ!

ナチスドイツの副総裁であるルドルフ・ヘスが、戦闘機でイギリスにやってきました

ルドルフ・ヘスは、ドイツVSソ連の戦争が始まりそうなので、イギリスとドイツが世界二分割協定を結んで戦争を終わらせましょうと言ってきました

ケド、本当のところは不明

もちろんイギリス政府はヘスのコトを全く信用せず、ロンドンに監禁したのでした

6月10日 パリの日本大使館が閉鎖になりました

6月15日 クロアチアが日独伊3国同盟に加入

6月15日 アフリカにいるイギリス軍の「バトル・アクス」作戦が失敗

イタリア領のリビアにあるトブルクはイギリス軍が占領しており、要塞を造っていました

そこへドイツのロンメル率いる軍がやってきました

イギリス軍はロンメルらを倒そうとしたんだけど、逆に撃退されました

イギリス軍は戦車をさらに増加し、またもドイツ軍に対してバトルアクス作戦を開始

が、作戦は失敗

ドイツ軍が包囲しようとすると、包囲されることを恐れたイギリス軍は撤退したのでした

6月22日 ドイツ軍ソ連へ侵攻!バルバロッサ作戦

ドイツ軍がソ連の国境を越えて、進撃をスタートさせました

独ソ不可侵条約を破ったのです

ドイツ軍は300万の兵力と戦車3580・戦闘機2740機という史上最大の侵攻をはじめました

今回のドイツ軍の作戦は「バルバロッサ」

バルバロッサとは、神聖ローマ帝国のフリードリヒ一世のあだ名である「赤ひげ」からとりました

ドイツが独ソ不可侵条約を破って攻撃に踏み込んだのか??というと、東欧支配におけるソ連との対立と、ソ連&イギリス・フランスの連携を断ち切るため

ドイツ側は2・3週間でソ連をやっつけることができるだろうと考えていました



6月26日 フィンランド ソ連に宣戦布告

7月8日 ドイツ軍 レニングラード攻略をスタートさせる

7月16日 スモンレスクの戦い

7月28日 日本軍 ついに南部仏印(南部フランス領インドシナ)に進駐!

日本軍が突然南部フランス領インドシナ(仏印)に進駐しました

まだワシントンでは野村大使とハル国務長官が交渉中だというのに、いきなりの進駐です

大本営が7月23日に南部仏印の進駐を発令したのでした

この頃、フランスとタイとの間で仏印国境をめぐるバトルがあったため、チャンス!!と思った大本営が強引に決めたのでした

ほかにも石油の取得のための資源獲得目的もありました

日本の武力を恐れるフランス政府は、さっさと仏印の共同防衛に関する議定書に調印しちゃいました

そして日本はサイゴンやプノンペンにある空軍基地や海軍基地の使用権をゲットしたのです

この使用権により、イギリス領マレーまでの航空攻撃が可能となったのでした

ABCD包囲陣

日本軍は南部仏印(サイゴン)へ進駐しました

これに対してアメリカは、在米日本資産を凍結し、イギリス・オランダも続いて凍結

さらにアメリカは日本に対して石油を輸出することを禁止しました

これにより、日本はアメリカと東南アジアから一切の資源を確保することができなくなりました

これをABCD包囲陣といいます

ちなみにA=アメリカ B=イギリス(ブリテン) C=中国(チャイナ) D=オランダ(ダッチ)ですぞ


8月9日 日本 ソ連との戦いを断念

大本営は年内にソ連と戦うことを予定していました

が、とうとう断念したのです

ソ連国境に配備されていた兵力は85万で、陸軍始まって以来の大動員となってました

が、6月22日からのドイツVSソ連の開戦で、ソ連極東軍がヨーロッパ戦線に移動したのです

これはチャンス!と、ソ連攻略に乗り出そうとしたんですが、ドイツ軍のモスクワ攻撃がいまいち不調なため、日本側はちょっと動揺しちゃいました

ということで、やはり南方に専念しようということを決定したのです

8月14日 大西洋憲章発表 

アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトと、イギリス首相のウィンストン・チャーチルが、戦艦プリンス・オブ・ヴェールズの上で大西洋憲章を調印しました

第二次世界大戦と戦後の世界を構想したもので、8つに分かれてます

簡単に書くと

@ 領土をガンガン拡大しちゃダメ

A 領土の変更は人民の意思によるものにする

B 政府の形態は人民が決める

C 通商を自由にする

D 労働条件と社会保障をきちんと考える

E 恐怖と欠乏からの自由を目指す

F 海洋の自由

G 武力行使を放棄して、軍備を縮小する


で、これが後々国際連合憲章の基本理念になるわけであります

宝塚歌劇団特別公演「大空の母」が話題に

宝塚歌劇団の雪組が公演している「大空の母」がとっても話題になってました

夫や子供を送りだす女性の姿を演じたものです

8月20日 高村光太郎の「智恵子抄」が発売

8月30日 金属回収令が公布される

金属類が回収されることになりました

施行は9月1日からになります

鉄や銅を原料としているものが対象で、看板や階段までもが回収されました

しかも使用中のものまでですよ〜!!

9月 アメリカ ルーズベルト大統領 ドイツ船撃沈するからな宣言

さてさて、アメリカの考えをちょこっと解説しましょう

実は、アメリカのルーズベルト大統領は第二次世界大戦が勃発してからずーーーーっと「アメリカも大戦に参加したいんだよな」と密かに思ってました

とゆーのも、当時のアメリカは不景気でニューディール政策も行き詰ってました

この不景気を打開するには、第二次世界大戦に参加して軍需製品を作ることにより景気を良くしようと思ってたのです

かといって戦争参加しちゃえば国民から大ブーイングが起きちゃうのでなかなか参戦することはできませんでした

ちなみに日本との戦争に関しては「日本と戦争してもたいしてメリットないんだよね。だってイギリスに輸出することができないじゃん」といった考えでした

軍需製品をいっちばん買ってくれる国はイギリスなんで、どっちかとゆーと対日本戦には興味なかったんですね

でもってドイツVSイギリスはどんどんドイツが押してきてるため、「苦境にたつイギリスを助けなければ!戦争には参加しないが援助は惜しまない!」と宣言し、輸出をしまくってたのであります

で、ちょっとづつちょっとづつ戦争へ参加するべく裏準備をしてました

この年の9月、とうとうルーズベルト大統領は「アメリカ軍が太平洋上でドイツ船を発見したらすぐさま撃沈する!」とゆー宣言をしちゃいます

が、おりこうさんのヒトラーはアメリカの挑発には乗らず、スルー

「あれ?挑発に乗ってこないんスカ?」状態のルーズベルトは、「くそー!どうにかして大戦に参加しなくちゃ!そうだ!こうなったら日本に対して経済封鎖をして、でもってハルノートで爆弾要求を出して日本を怒らせてやれ!」と思うようになってきたのでした・・・・

9月3日 ドイツ軍 スターリングラード総攻撃!

ソ連に侵入したドイツ軍は、ボルガ川東岸に到着し、スターリングラードの総攻撃を開始しました

ソ連はドイツ軍に侵入された時は100万を超える捕虜を出すほど苦戦していましたが、極東方面から援軍が駆けつけたため(あ、これは下に紹介しているスパイのゾルゲからの情報で、日本がソ連を断念し南方に向かうという計画がばれたため、極東方面にいた兵たちがこっちに来たのであります)抵抗することができました

ソ連国民もゲリラ戦を展開し、ドイツ軍の補給を妨害したりしました

ドイツ軍の最終目標はモスクワの攻略

冬将軍が来る前になんとか決着をつけなければ!!と、焦るのでした

9月8日 天気予報は禁止します!

陸海軍大臣が天気予報の報道を禁止にしました

防空対策上、天候に関することは機密扱いとなったのです

以後、新聞・ラジオなどで天気予報や気象情報が禁止となりました

9月18日 中国戦線は泥沼化

この日、湖南省の長沙に集結していた蒋介石軍30万に対して大規模な掃討作戦が行われました

そして阿南惟幾(あなみこれちか)中将率いる軍が長沙を占領しました

が、実際は主要地点を占領したものの、終点が見えないのが現状

今まで何度も停戦をするチャンスがあったんだけど、18万以上の戦死者を出している陸軍は和平に見向きもしませんでした

「皇軍将兵の血が流れた土地を手放すなど、英霊に申し訳ない」というのが理由

こうして終点が見えない中国戦線は続くのでした

10月2日 ドイツ軍のモスクワ攻撃「タイフーン作戦」スタート

10月16日 ドイツ人スパイ ゾルゲ検挙される

ソビエト赤軍情報部の指導でスパイ活動を続けていたドイツ人のリヒャルト・ゾルゲら数人の諜報員が検挙されました

ゾルゲはコーカサス生まれのドイツ人で、1925年にコミンテルン本部に派遣され諜報部員に

1930年には上海へ渡り、諜報団を組織化しました

1933年に日本へやってきて「フランクフルター・ツアインドウンダ」の特派員として諜報活動を行っていました

日本が一番驚いたのは、ゾルゲが近衛内閣成立後のブレイントラストである昭和研究会のメンバーとなっており、数々の情報収集を行っていたこと

ちなみに彼ら諜報員の目的は、戦争体制に突き進む日本帝国主義の政治的・軍事的な考えなどをつかむことであります


中心人物はゾルゲですが、諜報団のメンバーには元満鉄の尾崎秀実もおりました

尾崎は東大を卒業後、朝日新聞に入社し上海特派員になった頃からゾルゲと知り合いだったらしく、諜報団へ入ったそうです

なぜ手伝ったのか?というと、「一日も早く日本帝国主義が引き起こした戦争を破滅に終わらせたかった」からだそうです

ちなみに、ゾルゲと尾崎は1944年に死刑となります

10月16日 近衛内閣が総辞職

この頃、石油の備蓄が2年分くらいしかありませんでした

石油が入手できなくなると大変なことになってしまいます

その前に一挙に戦争によって決着をつけるべきだ!という開戦論が軍部を中心として勢いを持っていました

近衛首相はそういった意見を押さえることも出来ず、かといって開戦の決定もできずに総辞職することになりました

ぶっちゃけ近衛首相は「開戦を主張する陸軍を押さえきれない!こうなったら自信がある人に舵取りをしてほしいよ!」と開戦の責任から逃げ、政権を放り投げたのです

こうして開戦派の東条英機内閣が成立することになります

10月17日 東条英機内閣 成立

この日、陸軍大臣だった東条英機は総理大臣になるよう命じられました

めっちゃ国策がこんがらがっている時に、陸軍内部のことしか知らないという軍人が総理大臣になったのです

東条英機は陸相も兼任することになりました

そして外相には全駐ソ連大使の東郷茂徳・商工相に岸信介・蔵相に賀屋興宜といった扱いやすい官僚を起用しました

独裁政権に近い形となったのです

開戦派軍人の筆頭とされる東条英機の就任は大きな衝撃を与えました

特にアメリカの反応は厳しいもので、ハル国務長官は「日米交渉にますます期待が持てなくなった」と言いました

開戦を心配している国民からも失望の声があがりました

ちなみに、近衛内閣の後継には東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)を起用しようという考えもありました

皇族出身の内閣なら軍部もあまり強い態度に出れないだろうと考えたからです

これに木戸幸一内大臣が大反対!理由は戦争になって負けた場合、責任が天皇に及ぶかもしれないからというものでした

で、木戸内大臣が東条英機をめちゃ推薦したんですねぇ

「陸軍内部から首相を出した方が、逆に軍部の暴走を防げるんじゃないか?虎穴に入らんば虎児を得ず」という苦肉の策だったのです

10月23日 ドイツが在住ユダヤ人の国外移住を禁止する

アメリカなんて全然たいしなことないですヨ!

東条英機にとってアメリカという国は、腹心の部下・佐藤賢了のいうコトをそのまんま信用してました

佐藤は昭和の初めてにアメリカにいたことがありました

ちょうどその頃アメリカは大恐慌の時でした

そのためアメリカ人はめっちゃ無気力状態

佐藤はその時のアメリカ人のことを国民的性格と思い込んでしまい

「アメリカなんてたいしたことない。あいつらは酒と金がありゃなーんでもいうコトを聞く人種だ。精神の柱になるものはなーんも持ってない。日本人のような大和魂なんて持っちゃいないんですよ。土曜日になれば大騒ぎしてばっか。酒を飲んでダンスしまくり。とても強い兵隊なんかいる状態じゃないですね」

と、東条英機に言ってたのでした

信用できる部下の言葉だったので、東条もアメリカをみくびりまくることになっちゃいます

11月18日 ドイツ軍 レニングラードを完全包囲する

11月26日 最後通帳 「ハル・ノート」

ハル国務長官は、野村駐米大使に対して「包括的基礎協定案」を提出

これがいわゆる「ハル・ノート」

内容はというと、今までの日本政府の色んな案を完璧に無視したものでした

@中国とフランス領インドシナから兵を撤退させなさい
A日本・ドイツ・イタリアの三国同盟を破棄しなさい
B中国政府を否認しなさい

というもの

アメリカ政府から突きつけられた最後通牒となる「ハルノート」に対し、日本側は拒否する構えをみせました

いよいよ日本とアメリカの開戦は避けられない情勢となっていくのです

12月1日 御前会議で英米オランダに開戦を決定

「対英米蘭開戦に関する件」についての御前会議が開かれました

ハルノートを受けた政府は、大本営と連絡会議を開き御前会議にかけることを決定

そしてアメリカの態度を不遜だとし、開戦やむなしとなったのです

いよいよ、開戦が決定してしまいました

東条英機首相の報告を受けた天皇は、開戦に不安を抱きました

重臣に意見を求め、海軍大臣や軍令部総長などを呼び、開戦準備の最終確認もしました

嶋田海軍大臣と永野軍令部総長は「艦隊の訓練も完璧ですし、山本五十六連合艦隊司令長官は陛下からの命令を待っております」と言いました

こうして戦争が始まることとなったのです

なぜ真珠湾にしたのか??

実は真珠湾を攻撃することはみーんな反対してました

なぜかとゆーと、ハワイは遠すぎるから発見される可能性が高いことと、真珠湾は水深が浅いため飛行機から魚雷が落とせないこと、もし発見されて攻撃されたら、日本の空母も攻撃にあっちゃうなどなど

そんな反対意見を押し切ったのが、連合艦隊司令長官の山本五十六

山本五十六は「戦争が長引けばアメリカの軍備は充実してしまう!戦意をくじくためには一気に真珠湾を叩いたほうがいい」

山本はこの意見が通らなければ、辞職するとまで言い出しました

さすがに今頃になって連合艦隊司令長官を替えるわけにはいかないので、真珠湾攻撃が行われることになったのです

また真珠湾にはアメリカ太平洋艦隊が集結していたため、ここを一気にやっつけちゃえば当分の間制海権を確保できると読み、さらにうまくいけばアメリカ国民の戦意を喪失できるかもしれないと思ってました

12月2日 「ニイタカヤマノボレ」

広島湾に浮かぶ旗艦「長門」に置かれていた連合艦隊司令部は、太平洋上をハワイに向けて進んでいる「赤城」に対し特別暗号「ニイタカヤマノボレ一二〇八」が発しました

これは12月8日の午前0時になったとき、予定通り真珠湾を攻撃せよという暗号です

ちなみにニイタカヤマというのは、日本が領土にした台湾の最高峰の山である「新高山」のこと

標高が3950メートルと日本の富士山より高い山なのであります

また、海軍への暗号は「ニイタカヤマノボレ」だけど、南方にいる陸軍へは「ヒノデハヤマガタトス」という電報が発進されました

ヒノデ=開戦日 ヤマガタ=8 という暗号です

12月6日 深夜 東条一人泣き

深夜の首相官邸でのこと

通称日本間といわれる別館2階にある首相の執務室の電気がずっと消えませんでした

東条英機はここでずーっとあさってに迫った日米開戦のことを考えていたのです

一人、正座しながら嗚咽を漏らし、ただただ涙を流していたといわれています

12月6日 イギリスが、フィンランド・ハンガリー・ルーマニアに宣戦布告する

12月6日 ソ連が反撃を開始する

モスクワから30キロの地点まで攻め入っていたドイツ軍に対し、ソ連軍が反撃を開始しました

ドイツ軍によるモスクワ攻撃は10月から始まっていて、ドイツ軍優勢でモスクワまでの距離を縮めていましたが、だんだん寒くなってきたのでドイツ兵も疲れ始めてきました

この日の朝は氷点下50度となり、ついに恐れていた「冬将軍」がやってきたのです

どんな寒さなのか、想像も出来ませんよね

冬将軍によって、ドイツ軍はものすごい士気が下がりました

これをソ連軍は見逃さず、冬の装備を万全に整え反撃を開始したのです

つかれきっていたドイツ軍は防戦一方となり、少しづつ後退していきました

実は、独ソ不可侵条約を破ってソ連に攻撃をするという「バルバロッサ作戦」は、ほんとは4ヶ月で完了する予定でした

が、あまりにも戦線が広範囲だったことが予定を狂わせたのです

またソ連軍が予想外に強く、国民のゲリラ戦もあったため大幅に狂ってしまったのです

第二次世界大戦の開戦以来、快進撃を続けていたドイツ軍に陰りが見えてきました

厳しい冬の寒さの中、ドイツの無敗神話は続くのか!?

日本だけではなく世界各国がこの戦いに注目していたのです

ハワイ沖では臨戦態勢 真珠湾攻撃の準備

太平洋上にいる日本の機動部隊は午前一時にハワイ・マウイ島真珠湾の北1100キロ地点に到達

明日の作戦開始のための臨戦態勢に入りました

第一航空艦隊司令長官の南雲忠一が率いる機動部隊は「赤城」「飛竜」「蒼竜」「加賀」「翔鶴」「瑞鶴」の空港母艦6隻

そして「比叡」「霧島」の戦艦2隻

他、駆逐艦9隻・タンカー8隻・巡洋艦4隻が終結

海軍では日米開戦が起きた場合の具体的な戦術を練っていて、山本五十六連合艦隊司令長官が「日本軍の南方作戦を成功させるためには、ハワイのアメリカ艦隊主力を叩いておく必要がある」と主張し続けていました
そして今回の作戦で、ハワイを航空機で奇襲することにしたのです

開戦と同時に奇襲をかけようとしていたため、「ハル・ノート」の提出によって日米交渉が決裂したのを受けるとすぐに太平洋を航行しながら作戦開始命令を待っていたのでした

そしてとうとう連合艦隊指令本部から「ニイタカヤマノボレ一ニ〇八」の電報がもたらされたのです

山本五十六は兵たちに、「皇国の興廃はこの一戦にあり。各員粉骨砕身努力せよ」という訓示を出しました



12月8日 太平洋戦争が始まる

日本時間午後3時19分 日本軍はハワイ真珠湾を奇襲攻撃しました

とうとう太平洋戦争が始まったのです

午前7時には、日本放送教会が臨時ニュースを伝えました

「大本営陸海軍部12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」

実は、ここにはちょっと裏話があります

日本軍が真珠湾を奇襲攻撃したという臨時ニュースが、午後7時に放送されました

軍の発表は6時だというのに1時間も遅れるという事態が

1時間遅れのわけはマスコミ各社の「遅刻」が原因

大本営の報道部が「今日の午前6時に重大発表があるから」とマスコミに連絡したのが午前5時なんだけど、マスコミ側は「重大発表」に慣れっこになっていたので、緊張感に欠けていたらしい

また、大本営報道部は日本映画社に連絡するのを忘れたため、これだけ貴重な重大場面をフィルムに残せませんでした

そのため、再度マスコミを集合させ、発表シーンを撮影のためだけに繰り返したのでした・・・

真珠湾攻撃の全貌

1:30 第一航空艦隊の第一次攻撃隊183機は淵田美津夫中佐攻撃総隊長の機に率いられ、空母の「赤城」から飛び立ちました

2:36 アメリカ海軍のレーダーが接近する飛行機編隊を探知するも、日本の攻撃隊と思わずにいました

2・45 第二次攻撃隊の167機が嶋崎重知少佐の指揮により、75分後のに飛び立ちました

3:10 第一次攻撃隊はオアフ島北端のカフクポイント上空に到着

3:19 淵田少佐が「トトトト(全機突撃せよ)」と命令を下す

3・22 「トラトラトラ」発信。意味は「我奇襲に成功せり」

3:25 急行下爆撃隊がオアフ島のフォード・ヒッカム飛行場に第一弾を投下

3:27 電撃隊が戦艦「ウエストバージニア」に向け、最初の魚雷を発射

3:28 ハワイ海軍航空隊司令官が全世界に向けて「真珠湾が攻撃された。演習ではない」と無線放送した

4:20 第一次攻撃隊と入れ替わって、第二次攻撃隊が真珠湾に突入

5:30 攻撃停止

8:30 第一次航空艦隊が攻撃隊の収容を終える

9:00 北北西に針路を取り、帰路につく

2つの隊は、約2時間にわたる連続攻撃を行い、戦艦4隻を撃破し、基地にあるほとんどの航空機に被害を与えました

が、アメリカ軍の燃料庫や整備工場などといった基地施設にはほとんど攻撃を加えず、ちょうどハワイを離れていた米空母の「エンタープライズ」「レキシントン」「サラトガ」は無傷でした

第一次航空艦隊航空参謀である源田実中佐と淵田総隊長らは、この海域にとどまり再度攻撃をし、徹底的に破壊するべきだといいましたが、南雲長官らは「与えられた作戦は達成できたのだから」と、任務終了としました



ハル激怒!「こんな嘘をいう国はみたことがない!」

12月7日 日本の外務省は駐米日本大使館電報を出しました

それは「戦争はしないよ」という電報で、午後1時にハルに渡すよう書いてありました

が、暗号を解読するのに手間取ってしまい、午後一時に渡せという時間に遅れてしまい、野村・来栖の二人の大使が国務長官ハルのもとへ行ったのが午後2時

ですが、この時すでに日本は真珠湾を攻撃していたのです

ハルはその電報を見て「こんな嘘をいう国はみたことがない」と、つぶやき、あごでドアをさして「出て行け」と言いました

二人の大使は「なんでハルが怒ってんの??戦争はしないって書いてるのにさ〜」と、意味がわかんなかった

で、大使館に戻ってやっと理由がわかったのです

そう。すでに日本は真珠湾を攻撃しちゃっていたのでした

12月8日 日本 宣戦布告

この日の11時45分 真珠湾と南方で交戦状態が入った後、アメリカ・オーストラリア・イギリス・カナダの各在日大使館に対して宣戦布告しました

ちなみにドイツの占領下となったオランダには宣戦布告しませんでした

12月8日 国民はラジオに釘付け

国民が開戦を知ったのはこの日の朝7時

NHKラジオの時報に続き、臨時ニュースが流れたのでした

「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部午前6時発表。帝国陸海軍部隊は本8日未明 西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり」

アナウンサーはこれを2度繰り返し読み上げました

そして「今日は重大ニュースがあるかもしれませんから、ラジオのスイッチは切らないでください」

こうして緊張と不安の一日が始まったのです

午前11時になると真珠湾の奇襲作戦成功が報じられました

そして正午になるとアメリカ・イギリスに対して宣戦の詔書が発せられたことと、東条英機の談話「大詔を拝し奉りて」が放送されました

午後9時になり、真珠湾攻撃の戦果が発表され、国民はやっと緊張と不安から解放されたのです

街では新聞の号外が出され、売り切れ状態となりました



当時の新聞とラジオ放送

山本五十六の誤算!

山本五十六はものすごいアメリカ通でした

アメリカの国民が戦争するのをイヤがってることも気付いてたし、市民団体が「息子達を戦争に行かせたくない!」という運動をしてるのも知ってました

だから、前もって宣戦布告して真正面から堂々と真珠湾を叩けば、アメリカ国民は戦意喪失して、適当な時期に和平交渉に持っていこうという考えでした

ルーズベルト大統領はというと、ドイツと戦って苦しんでいるイギリスを助けたかったんだけど、参戦しちゃうと国民から人気がなくなってしまうため助けられずにいました

ところが、ここで誤算が生じてしまったのです

真珠湾攻撃が成功し、艦隊でアメリカのラジオニュースを聞いていたら、日本軍の卑怯なだまし討ちのような攻撃は許さない!!と流れていたのです

アメリカ国民も日本の攻撃をものすごく非難し、またルーズベルト大統領も世論をあおり参戦ムードを高めました

国民の感情は一夜にしてくつがえり、若い人たちは軍隊志願に殺到

ルーズベルト首相の側近は、「真珠湾攻撃は全ての問題を解決してくれた」と語りました

こうして山本五十六の読みははずれてしまったのです

12月8日 イギリス・アメリカ 日本に宣戦布告する

12月8日 日本軍 マレー上陸作戦を開始する

真珠湾攻撃の1時間50分ほど前、山下奉文(ともゆき)司令官率いる第二十五軍がマレー半島中東部のコタバルを奇襲攻撃しました

目的はシンガポール攻略です

シンガポールにいるイギリス艦隊を叩き、無力にしてこれからの南方侵略を有利にしようとしていました

また、イギリス軍と応援にきているオーストラリア軍を撃破し、ゴムなどの天然資源を確保するつもりでした

日本軍はどんどん上陸し、南下してイギリス東洋艦隊の根拠地・シンガポールを目指しました

ここで日本軍VSイギリス軍の戦闘が始まったのです

が、シンガポール攻略は直接上陸が難しそうだったので、半島の北部に上陸してから南下しイギリス軍の背後から攻撃したのでした

12月8日 フィリピンを空から攻撃

同じく12月8日の午前10時ごろ、陸軍の爆撃隊43機が台湾南部にある基地から発進し、フィリピンにあるアメリカの東洋の拠点の攻略が始まりました

その日はものすごい霧で、攻撃隊がマニラ上空に来た時は作戦より6時間も遅れていました

が、これが幸いとなります

真珠湾攻撃を知ったアメリカ軍は、同時に攻撃されるんじゃないか?と予想し、空中で飛行機を待機させていたのです

が、いつまでも来襲がこないので基地に帰還させました

その後に日本軍がやってきたため、フィリピンの米軍航空隊は大打撃を受けたのです

12月8日 ヒトラーが東部戦線休止の声明を出しました

12月9日 危険人物を続々逮捕

東条英機は、危険視していた自由主義者・左翼主義者など200人以上をを予防拘禁・スパイ容疑などで検挙しました

実は暗号解読してました★BYアメリカ

さてさて、実はアメリカは、どーやら日本の暗号を全て解読していたようなのです

開戦前の日本の外交暗号だけではなく、海軍の「D暗号」の解読にも成功してたそうなのです

ルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を知っていたとされてるんですねぇ〜

でも、決定的な証拠はありませんので、ここではサラっと流しちゃいましょう

12月9日 ルーズベルト大統領 ニヤリ

真珠湾攻撃の翌日、ルーズベルト大統領は上下両院を集めました

そして長男に腕を抱えられ、疲れきった顔で登場

そして「この戦いは強いられたものである。アメリカの勝利を信じて徹底的に戦い抜こう」と演説

集まった議員たちは感動しまくり、立ち上がって熱狂的な拍手を送りました

こうして大統領の対日宣戦要求は、反対票たった1票で可決されたのです

アメリカって国は、どーもアンフェアなやり方をめっちゃ嫌う人種で、卑怯なやり方をした場合めっちゃ燃え上がる国民性

これをルーズベルトはうまーーい具合に持ってったんですねぇ

だってアメリカ軍は日本の暗号解読に成功してたから、日本が奇襲攻撃してくること知ってたと言われてますもんね

それをストップさせずに奇襲攻撃をさせ、大戦に参加したかったんですね

ということで、熱望した大戦参加が成功したルーズベルト大統領

日本のお仲間であるドイツとイタリアもこの後すぐにアメリカに対して宣戦布告し、これを受けアメリカもドイツ・イタリアに宣戦するのでした

12月10日 マレー沖海戦 

この日の早朝、サイゴンを出ていた索敵機が、マレー沖にいるイギリス戦艦2隻と巡洋艦1隻、そして護衛の駆逐艦3隻からなる艦隊をとらえました

サイゴンの基地から直ちに日本の攻撃隊が発進し、12時45分に攻撃機8機が戦艦「レパルス」に爆弾を投下したのです

さらに元山航空隊の魚雷攻撃隊が戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」に魚雷を投下し、2発命中させました

レパルスは14時3分に沈没し、浮沈戦艦と言われていた「プリンス・オブ・ウェールズ」も14時50分に沈没しました

浮沈とされていた戦艦が撃沈されたと聞いたイギリスのチャーチル首相は「あらゆる戦争で、私はこれほどのショックを受けたことがない」と、語りました



12月11日 ドイツ・イタリアがアメリカに宣戦布告

12月12日 大東亜戦争と発表

大本営は「現在のの対英米戦は、支那事変を含め大東亜戦争と呼ぶことを発表しました

大本営ってナニ??

この頃の記事などを読むと、「大本営発表!」といった文字がいっぱい出てきます

ケド、「大本営」ってナニ??とゆー方のためにちょこっと説明

大本営というコト場は「天皇の本陣」という意味

戦争の時、天皇のもとに設置される軍の最高機関のことなのであります

最初に大本営が出来たのは1893年5月

日清戦争の時であります

このときは陸軍参謀本部内に大本営ができて、一番偉い人に陸軍参謀長が就任

日清戦争が終わると、海軍が「なんで大本営の一番偉い人が陸軍からでるわけ??」とイチャモンをつけてきたので、大本営幕僚長は陸軍と海軍から1名ずつ選ばれるように

これが後の太平洋戦争の時にめんどくさいことになるんですねぇ

というのは、陸軍も海軍も仲が悪いので、大本営内でもあっちにお伺いをたて、こっちにお伺いをたて・・・といった具合で、意見がなかなかまとまらない状態になっちゃうのであります


12月12日 ブルガリア・ルーマニア・スロバキアがアメリカ・イギリスに宣戦布告

12月13日 ハンガリーがアメリカ・イギリスに宣戦布告

12月16日 呉ドックで戦艦大和が竣工

広島県の呉海軍工厰(呉ドック)で、4年の歳月をかけた戦艦・大和が竣工しました

全長256メートル・幅36メートルで排水量は6万5千トン

世界最大の軍艦です

大和の最大の特徴は46センチの主砲丸門の搭載で、艦内は冷暖房完備でエレベーター付きでした

12月19日 ヒトラーがブラウヒッチ陸軍最高司令官を解任!自分がその任務を継ぎました

12月22日 アルカディア会談

ワシントンでルーズベルトとチャーチルが会議を行いました

アメリカは戦争に勝つことを約束し、最初にナチス・ドイツをやっつけようという話し合いをしました

12月23日 日本軍 ウェーク島攻略 成功

日本軍が苦戦していたウェーク島攻略に成功し、島を占領しました

グァム島に続き、アメリカの重要拠点を奪いました

12月8日から攻撃を開始していてたんですが、アメリカ側も猛反撃をしていて手間取っていました

そこへハワイから帰還中の「飛龍」「蒼龍」を投入し、敵前上陸に成功したのです

12月25日 香港のイギリス軍 日本軍に降伏する

抵抗を続けていた香港島のイギリス軍陣地に、白い旗があがりました

香港攻略は陸軍二十三軍が命じられており、12月8日から攻撃を開始していました

守っているイギリス軍は陸軍1万人ほど

が、この狭い島にものすごい人数が密集していたため、ものすごい食糧・水不足となってきました

日本は降伏するよう勧告しましたが、イギリス軍が拒否したため爆撃しまくり

18日から上陸を開始し、追い詰められたイギリス軍は島の西部で抵抗しましたが、とうとう降伏したのです

12月29日 南方熊楠死去 75歳

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