昭和18年 1943年 

ヨーロッパ戦線は赤字となります

昭和18年 1943年 年表
1月2日 ニューギニアのブナ日本軍全滅

去年の11月16日にアメリカの大軍が上陸したニューギニアのブナでは、残っていた日本兵がなんとか守っていましたが、もはや全滅は時間の問題でした

とうとう日本軍が最後の突撃を敢行し、玉砕

日本軍は全滅してしまいました

少年達のあこがれ「予科練」

予科練というのは、海軍飛行予科練習生を省略したものです

海軍は陸軍に劣っていた海軍飛行予科練習生を募集し、有能なパイロットを育てることに

年齢は15歳以上17歳未満であります

この制度は1930年からスタートしたんだけど、全国から応募が殺到するほど大人気でした

難関を潜り抜けて合格した少年は、横須賀海軍航空隊に入隊し、パイロットになるため猛特訓しました

最初は超難関だったんだけど、太平洋戦争が始まるとパイロットになる人数が足りなくなったので、20万人近くが大量採用されました

ちなみにスケジュールは

朝6時起床  7時朝食 午前中は一般教養 午後は銃剣・体操・手旗など体を使った競技

こうして毎日ハードな猛特訓をするのであります

でもって、この年に予科練の活躍を描いた「大空の凱歌」という映画が封切りされ大人気に

予科練が着ている制服がめっちゃ有名になり、予科練たちは日曜日に外出する時この制服を誇らしげに着用して街へ出ました

こうして当時の子供たちにとって「予科練」は憧れの的となっていったのです

が・・・・・予科練の末路は悲惨なものでした

というのも、彼ら予科練は太平洋戦争に多く参戦し、神風特攻隊の一員になる若者が多かったのです

また、戦争末期になると予科練の航空基地はアメリカ軍に次々と破壊されてしまうので、予科練教育は中断してしまいます

大空への夢も断たれ、彼らの多くは本土決戦にそなえた陸戦隊となっていくのでした

1月10日 ソ連軍がスターリングラード周辺で攻勢を開始する

去年の9月にドイツ軍が市内に入ってから激しい攻防が行われていました

が、ドイツの恐れていた「冬将軍」がやってくると、ソ連軍は猛吹雪の中反撃を開始したのです

ドイツ軍は慣れない極寒の地で窮地に追い込まれていくのでした

1月13日 英米曲のレコードの発売と演奏が禁止になる

1月15日 増税決定!タバコ大幅値上げ!

政府はお金が足りないために増税を行いました

飲食税・酒税・砂糖消費税が上がるほか、洋服の仕立てや美容院費などに特別税をつけることに

また17日からはタバコが60%以上の値上げとなりました

国民はますます窮屈で大変な生活を強いられるのです

1月20日 登呂遺跡を発見

静岡市で軍需工場用地を造るために工事をしている最中、水田の下約1メートルから弥生時代後期の遺跡が発見されました

集落跡や倉庫跡、水田の跡が集中している大規模な遺跡で、機織機や農耕具なども出土しました

1月28日 ドイツでは13歳〜65歳までの国民・占領地住民に強制労働を義務

敵性語はぜーーーったい禁止!

昭和15年から敵性語はダメという通達がありましたが、あ、敵性語というのは英語のことですよ

さらにこのあたりから、もっと厳しくなってきました

ちなみに東条英機は「そんなことまでしなくても・・・」とつぶやいたそうですが、それくらい馬鹿げた政策でした

タバコの銘柄「チェリー」が「桜」になったのは初めのころですが、この頃になると「ロスアンゼルス→南太平洋」「スター→星」「カンガルー→袋鼠」などなど、ありとあらゆる英語が日本語になおされました

野球でも今まで「セーフ→よし」「アウト→ひけ」となりゲームに違和感が出ちゃいました

悲惨だったのは医学生が電車の中で医学書を読んでいたら「非国民!!」と怒鳴られたりしたこと
勉強もまともに出来ない状況になっていったのでした

2月1日 ガダルカナル島 撤退開始

この日から2月7日にかけて、ガダルカナル島からの撤退作戦が行われました

北西にあるエスペランス岬から、生き残った兵士ら11000人がブーゲンビル島へ

大本営はこの撤退を「転進」と発表しました

ガダルカナル島で死んだ兵は2万人を超え、そのうちの70%が飢えと病気による悲惨なものでした

ちなみにアメリカ軍は、この撤退作戦を増援部隊上陸と勘違いしていました

2月2日 ソ連軍 スターリングラード勝利宣言

ソ連VSドイツで行われていたスターリングラードでの戦いですが、とうとうドイツが飢えと寒さに絶えられず、また弾薬も尽きてしまったため降伏しました

ちなみにドイツ軍を率いるパウルス元帥は、ヒトラー総督に「もう降伏するしかありません」と願い出ましたが、ヒトラーは却下したそうです

2月8日 日本の豪華客船「竜田丸」がアメリカの魚雷攻撃を受けて沈没

2月18日 ヒトラー批判グループ「白バラ」のショル兄弟が処刑される

去年の1942年春に差出人不明の「白バラ通信」というビラが配られました

「打倒ヒトラー!」と書いてあるビラでした

ナチスとヒトラーの独裁政治を支えているゲシュタポ(秘密警察)は、このビラを配った人を探し始めたのです

そしてミュンヘン大学の学生グループが怪しいということになり、とうとう捕らえたのです

白バラの中心人物はショル兄弟と医学生のシュモーレルらでした

彼らは人間を人間として扱わないナチスをものすごく批判していたのです

ショル兄弟は逮捕された後すぐに取調べを受け、捕まってから4日後にナチスがつくった裁判所において「死刑」を宣告されました

そして翌日、死刑執行となったのです

2月 女性は竹槍訓練

大日本婦人会が、各支部で竹槍訓練をスタートさせました

1億国民全て武装せよ!ということで、女性達にモンペと鉢巻を着用させました

「マエ マエ ウシロ ウシロ ツケッ!!」と、帰還兵士たちによって軍隊式を叩き込まれました

3月3日 ダンピールの悲劇

第五十一師団の主力7000人を乗せた輸送船団が、ビスマルク海のダンピール海峡を通過した時、アメリカ軍の爆撃機B17とB25など100機以上の大軍に襲われ沈没しました

この輸送船団はニューギニア増援のため、ラバウルからラエに向かっていました

ガダルカナル島から撤退したため、東部ニューギニアの防備を固めるという作戦でした

今はアメリカ軍とオーストラリア軍に制空権を奪われており、「この作戦は危険だ」という声もあったんですが、強行突破したのです

作戦は大失敗し、3300人以上の死者が出てしまったのでした

連合国軍はこの勝利に沸き立ち、「ビスマルク海海戦」と名づけました

3月9日 ドイツ空軍がイギリス本土夜襲を開始すると発表

3月9日 ジャワ島占領記念切手発売

ジャワで南方占領地初の切手が発売されました

3月10日 第三十八回陸軍記念日

陸軍は記念日を迎えるにあたり、決戦標語「撃ちてし止まむ」と書いたポスター5万枚を各地に配布しました

撃ちてし止まむというのは「敵を撃たずにおくものか!」という意味

古事記で、神武天皇が東征する時の歌にある一節であります

その他に、米英撃滅の講演会などを全国的に行い、国民の戦意を高めようと大キャンペーンを展開しました

3月13日 ヒトラー暗殺計画「閃光作戦」が失敗する

ロシア戦線を見に行くヒトラーの専用機に爆撃を仕掛けるという暗殺計画がばれる事件がありました

首謀者は反ナチス軍人のトレシュコウ将軍とシュティーフ将軍

トレシュコウ将軍はロシア戦線で戦っている将軍です

トレシュコウが爆弾をしかけたお酒ビンをヒトラー専用機に乗り込む将校の一人に渡したのですが、爆弾は作動しなかったのです

そのため、暗殺計画はバレず、再度暗殺計画がたてられるのでした

3月25日 黒澤明監督の第1作「姿三四郎」が封切り

4月12日 ドイツ軍がレニングラード攻撃を再開する

4月13日 ソ連 カチンの森で大量虐殺

ドイツのベルリン放送がソ連領スモレンスク西にあるカチンの森で4000人の遺体を発見したというニュースを流しました

そして、どうやら遺体はソ連の秘密警察が殺したポーランド将校たちではないか?と告発しました

ドイツがポーランド西の国境から侵攻した時、ソ連も東の国境からポーランドに侵攻していました

ドイツとソ連でポーランドを分割したんだけど、その際ソ連の捕虜となっていた1万人のポーランド将校が行方不明になっていたのです

が、この告発はイギリスとアメリカに、ソ連に対する不審感を抱かせる戦略かもしれないという話も出てきて、ポーランド亡命政府が万国赤十字社に調査を依頼することになったのでした

4月15日 アメリカに原爆研究所ができる

アメリカのニューメキシコ州ロスアラモスで、原子爆弾を製造する研究所が極秘で設立しました

原爆の完成を目指すマンハッタン計画のための研究所です

所長になったのは物理学者のオッペンハイマー博士です

そして軍や企業から150人もの専門家を集結させました

いよいよドイツと日本を標的にした原爆開発が本格化していくのです

4月18日 山本五十六 ブーゲンビル島上空で戦死

ガダルカナル島を撤退後、ソロモン海域で形勢挽回をはかるため、海軍は山本五十六の指揮の下「い号作戦」を展開することに

い号作戦とは、トラック島にいる第三艦隊空母搭載機を、最前線のラバウルに投入して、ソロモンとニューギニアのアメリカ軍基地を総攻撃するというもの

4月2日にはトラック島から戦闘機200機がやってきていました

18日に山本五十六は敵地を視察するためにソロモン諸島を回ることにしました

そして午前6時にラバウルを出発し、到着予定のパラレを目の前にした午前8時、突然アメリカ軍の爆撃機に襲撃されたのです

山本五十六が乗った飛行機はブーゲンビル島のジャングルに墜落し、乗務員全員が死亡しました

どうやら山本が視察に行くという情報が、アメリカに暗号解読されていたという噂があります

山本の死は軍の最高機密として、5月21日まで国民に公表されずにいました

ちなみにアメリカ南太平洋指揮官のハルゼー提督は、ガダルカナル陸軍のミッチェル司令官へこのような暗号文を打電しました

「撃墜したアヒルの中に孔雀が一羽いたようだね。おめでとう!」

「ヤマモト・ミッション」

どうやら、山本五十六を殺害する計画があったそうです

山本五十六が視察するという予定を入電したところ、それが全てアメリカ軍に解読されてしまいました

情報はハワイの戦闘情報班に伝えられ、情報参謀のレイトン中佐がすぐさま太平洋艦隊司令官のニミッツ大将に報告

ニミッツは「山本一人を撃墜しても、彼以上の指揮官が出てくるのでは?」と、レイトンに訪ねると、レイトンは「山本を撃墜するということは、長官(ニミッツ)を撃墜されるのと同じです。代わりはいません」と応えました

そしてルーズベルト大統領のゴーサインを貰い、「ヤマモト・ミッション」が行われることになったのです

4月19日 ワルシャワゲットーでユダヤ人必死の抵抗

ポーランドのワルシャワにあるゲットーで、ユダヤ人たちが立ち上がりました

ナチスはヨーロッパにいる1100万人のユダヤ人絶滅計画を進めており、ワルシャワにある最大のゲットーに50万人のユダヤ人を強制収用していました

この日ナチスはワルシャワに残っていたユダヤ人を「大作戦計画」という名前の一掃計画を実施する予定でいました

そしてゲットーの内側に入ると、どこからか銃を手に入れたユダヤ人が予想をしていなかった反撃をしてきたのです

ナチスは驚いて一旦は退却しましたが、すぐに体制を建て直し鎮圧しました

が、この事件はナチスドイツに対するユダヤ人最後の抵抗として歴史に残るのです

4月20日 東条英機内閣が改造

東条英機首相は、内閣を改造しました

新しく入ってきたのは、首相を支える組織・大政翼賛会らの人々です
4月21日 古賀一峯大将が連合艦隊の司令長官に任命

山本五十六が死去したため、古賀一峯が後を引き継ぐことになりました

4月30日 ユダヤ人のドイツ国籍が剥奪される

5月 日本も原爆を投下しようとしたのか?

もともと原爆はナチスの迫害によってアメリカに逃げてきた原子物理学者たちが、ルーズベルトに勧め、研究開発に乗り出したものです

ウラン235に中性子をあてると、原子核が分裂し巨大なエネルギーを生み出す

それを兵器として使うということは、アインシュタインやフェルミらといった原子物理学者がものすごく恐れたことでした

ルーズベルトはナチスに開発されるようりも、先にこちらが・・・と考えたのです

さて、日本はどうだったのか?というと、実は日本も原爆を作ろうとしていました

日本にも20代・30代の原子物理学者が結構いたのです

ですが彼らは兵器を作ることに不満を持っていました

が、陸海軍に協力すれば研究費には困らないし、なんといって戦争に行かなくてもすむのです

陸軍は理科学研究所にお願いし、海軍は京大研究室にお願いしていました

そして戦況がどんどん悪化してくると「早く完成させろ!」と、何度も催促してました

原爆投下場所も決まっていて、どうやらサイパンだったそうです

5月13日 チェニジアで戦いが終了

チュニジアで戦っていたドイツ・イタリア軍の25万人が、降伏しました

5月15日 コミンテルン(第3インターナショナル)の解散が決まる

5月18日 クリミアのタタール人家畜運搬車で中央アジアへ

ソ連がクリミアにいるタタール人全てを、家畜運搬車で中央アジアへ移送しました

理由は、タタール人がドイツに協力したからだそうです

5月30日 アメリカ軍がアッツ島を占領する

5月12日にアメリカ軍が12000人の部隊をアッソ島に上陸させました

アッソ島守護タイの山崎海軍大佐は増援部隊の派遣を要請しましたが、海軍上層部はガダルカナル島攻防のような消耗戦になるのを恐れてしまい、アッソ島を見捨てることにしたのです

アッソ島に残された守備隊は孤立無縁となりました

生き残りの守備隊はそれでも援軍が来てくれる事を信じながら必死の抵抗を続けましたが、20日に大本営からこのような命令が

「最後に到らば潔く玉砕し、皇国軍人の精華を発揮する覚悟を望む」

そして山崎大佐率いる150名の兵士が「英魂とともに突撃せん!」と、最後の攻撃をし、玉砕したのです

アメリカ兵はこの攻撃を「バンザイ突撃」と呼び、以後南の島の多くで、玉砕が繰り返されることとなります

アッソ島守備隊のように孤立無援の状態になっている守備隊は、キスカ島や他の島にも残っていました

5月31日 アッソ島に皇軍の神髄 壮絶・夜襲を敢行玉砕

この上のタイトルは、朝日新聞の見出しのタイトルであります

山崎部隊はほんっとーーーーーーーーに、最後の最後まで、全員が死ぬまで戦いました

降伏しろ!投降しろ!と叫び続ける米軍部隊に向かって、よろよろと突撃を敢行したのです

アメリカ軍は山崎部隊長戦死の碑を建てました

6月4日 長袖は切りましょう!!

政府は衣料を簡素化しなさい!という通達をしました

銀座の街頭では大日本婦人会東京支部が「決戦です!!すぐにお袖を切ってください」というチラシが配られました

和服の袖を切ることによって作業能力は向上し、しかも端切れは再利用できます!とありました

6月5日 山本五十六 国葬

山本五十六の国葬が行われました

国葬では「元帥の仇は増産で!」という掛け声が響き渡りました



6月8日 戦艦「陸奥」 謎の爆発沈没

この日の午後12時過ぎ、戦艦「陸奥」が原因不明の爆沈をしました

広島湾の柱島泊地に止まっている途中いきなり白い煙が噴出し大爆発

艦体が真っ二つとなり沈没しました

大正10年に完成していましがた、戦局に貢献する前に沈没してしまったのです

沈没後に調査が始まり、スパイによる放火の疑いもあり!とされましたが、結局火薬庫からの自然発火という無難な結果で終わることに

乗員1121人中771人が死亡し、大本営は生き残った350人にこの事故のことを一切口外しないよう血判契約書を書かせました

そして彼ら生存者は南方の戦地に送られることになったのです

6月16日 ルンガ沖航空戦

この日ガダルカナル島のルンガ岬沖に停泊しているアメリカ輸送船団を日本の「ラバウル航空隊」が攻撃しました

94機の航空部隊は2隻の輸送船に損害を与えましたが、ベテランパイロット28機を失ってしまい作戦は失敗に終わりました

ちなみにラバウルからガダルカナルまでは片道100キロほどあり、零戦が飛ぶことができる距離ギリギリ

敵機との空中戦が長引けば燃料不足になってしまうため、作戦自体にも少し無理があったのです

6月27日 東京府結婚奨励組合 初めて集団見合いを開催

6月29日 芸妓もお座敷外では国民服を着ることに

7月1日 東京市と東京府が1つに!東京都になる

7月19日 連合国軍がローマに初空爆を行う

7月21日 社長も徴兵される

政府は軍需産業の生産力が足りないため国徴用令を改正しました

この改正は徴用の範囲が拡大され、事業主も工員として働くことに

徴用は国が国民を強制的に配置するもので、学歴とは職歴は全く無視で、収入も大幅に減らされます

国民に広がる不満を抑えるために、事業主(社長さん)でも徴用しますよ!ということにし、士気を高めようとしたのであります

といっても、いくら社長さんを働かせたとしても労働力不足は全然足りない状態

若者や熟練の工員がどんどん兵隊になってしまうため、工場などではまだまだ未熟な労働者ばかりで生産力がどんどん低下していくのでした

7月24日 ドイツのハンブルクがイギリスの無差別爆撃を受けて壊滅状態

7月25日 イタリアのムッソリーニが失脚!逮捕される

イタリア軍は北アフリカで戦い続けていたんですが、ドイツ軍率いるロンメル将軍は、イタリア軍将校のだらしなさや士気の低さにいっつも悩んでいました

そしてとうとう5月に北アフリカ戦線でドイツとイタリア軍が降伏したんですが、イタリア国内で「反ムッソリーニ感情が高まってきたのです

7月に連合軍がイタリア南部のシチリア島に上陸し占領

さらにイタリア本土に迫ってきました

これにより反ムッソリーニの動きがさらに活発となり、この日ムッソリーニから統帥権の剥奪が決定したのです

ムッソリーニはイタリア国王の命令によって首相の座も失い逮捕されました

黒幕は参謀総長のアンブロジオ大将です

アンブロジオ大将は連合国軍との戦いはドイツの片棒を担いでるだけで、イタリアには何の得にもならないと考えていたのでした
7月27日 イタリアの新首相にバドリオが任命される

7月29日 日本軍 キスカ島から撤退成功

千島列島を出発した「阿武隈」が、濃い霧を利用しキスカ島に接近

守備隊の5300人を無事に撤退させることができました

キスカ島はアメリカ軍によって厳重に包囲されていましたが、たまたまレーダーが壊れてしまい、ラッキーなことにその間キスカ島に接近することができたのです

8月1日 ビルマが独立宣言

日本の支援でにより、ビルマがイギリスからの独立を宣言しました

それと同時に日本と同盟を結んでアメリカとイギリスに宣戦布告!

8月2日 駆逐艦「天霧」がケネディが乗っている魚雷船を撃沈

この日、駆逐艦の「天霧」が接近してきたアメリカ軍の魚雷艇PT109に体当たりし撃沈させました

実はこの沈没した魚雷艇には、あのJ・Fケネディが艦長として乗っていました

ケネディは九死に一生を得て帰還することができましたが、「ちょっと強引に突っ込みすぎた。腰が痛いよ」と語ったそうです
8月14日 連合国空軍がウィーンを爆撃する

連合国軍がオーストリアへ初空襲を行いました

この空襲の時、サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会の修道院部分が、「最後の晩餐」の壁画部分だけを残して崩壊してしまいます

8月22日 島崎藤村死去 72歳

9月1日 買出し制限ができる

都市から近県へ買出しに行く際、買出しの量に制限が加えられることになりました

9月3日 イタリア首相バドリオが秘密で連合国と休戦協定

9月3日 上野動物園 動物を殺害

8月、東部軍司令部の命令により、空襲時に危険とされる動物リストが作成されました

そして今から1ヶ月以内に、猛獣を全て処分するように命じられたのです

処分方法として、銃殺は音が聞こえるために禁止、そして秘密を守るために動物園の職員は家族も含めて口外禁止と書いてありました

上野動物園の園長代理であった福田三郎らは猛獣の疎開を計画しており、名古屋の東山動物園からは黒ヒョウを引き取りますと返事があり、仙台の動物園からは象を引き取りますよという返事が来ていました

が、猛獣疎開は実現することはありませんでした

処分の方法は、ほとんどが猛毒のストリキニーネで、ライオンやヒョウは毒殺されました

が、毒物を受け付けない動物もたくさんおりました

そんな動物はかなづちや槍でとどめをさしたり、絞殺したり、蛇などは切断したりと、残酷さを極めました

そして、インドゾウは「餓死」という方法でした

象のトンキーは、最後まで餌をねだるため飼育係に芸を見せていたそうです

もう・・・書いてて悲しすぎる・・・

9月8日 イタリアが無条件降伏

イタリア臨時政府が連合国と休戦協定を締結し、無条件降伏しました

ムッソリーニが失脚してから新首相となったパドリオ政権が降伏を決定したのです

これを聞いた日本はというと、「イタリアは三国同盟のお荷物だ。降伏しても体勢に影響はない」と言いました

9月9日 イランがドイツに宣戦布告する

9月12日 ヒトラーがムッソリーニを救出!

ドイツ軍が連合軍に降伏したイタリアへ侵攻しました

そして北部から中部を支配下に治めたのです

またヒトラーはコルノ山の山荘に監禁されていた盟友のムッソリーニをパラシュート部隊で救出したのです

これには世界中がビックリしました

9月21日 国内必勝労対策ができる

14歳から25歳の結婚していない女性を勤労挺身隊とすることが決定しました

車掌など、今まで男性がやっていた職業の代わりに女性を当てることになったのです

9月23日 台湾で徴兵を決定

政府は台湾で徴兵を行うことにしました

今までは外地人は志願した人だけを兵にしていたんだけど、今後は徴兵制にすることにしたのです

これにより陸軍18万人 海軍2万人の兵士が増員されることに

また、産業兵士という名のもと多くの外国人を日本に呼び国内の労働不足を補うことに

そして、重労働ばかりさせられることになるのです

9月26日 ムッソリーニがイタリア社会共和国を発足

ヒトラーはムッソリーニを首班とした「イタリア社会共和国」を発足させました

もちろん日本政府はムッソリーニ政権を承諾

が、ドイツの傀儡政権と言われてしまいました
9月28日 「ナポリの4日間」が始まる

イタリアのナポリの市民がドイツ軍に反抗して決起しました

9月29日 アッツから英霊が帰ってくる

激戦の末 玉砕したアッツ島の守備隊・山崎保代海軍大佐やら2600人の合同慰霊祭が行われました

場所は札幌の中島公園です

全国から家族が駆けつけ、戦死者は英霊として祀られました

9月30日 御前会議で絶対国防圏を決定する

現在の戦線を縮小して連合軍の攻撃に対し時間を稼ぎ、兵力と防衛体制を立て直すため絶対国防圏が設定されました

絶対に確保しろ!という地域は、小笠原、西部ニューギニア、千島、ビルマを含むインド洋と太平洋で、特に大事なのがトラック島とマリアナ諸島でした

ラバウルなどの東部の島々は絶対国防圏からは外されてしまいました

この外された地域にはまだ30万人の日本兵が死闘を続けていましたが、これらの部隊についての処遇は発表されませんでした
10月2日 日本軍 コロンバンガラ島から撤退

絶対国防圏外となったコロンバンガラ島からの撤退が行われました

無事成功し、陸海軍の将兵12435人がラバウルへ転進しました

10月6日 日本軍 ベララベラ島から撤退

絶対国防圏外となったベララベラ島からの撤退が行われました

アメリカ軍の空襲にあいましたが、なんとか成功

10月13日 イタリアのバドリオ政権 ドイツに宣戦布告!

10月21日 学徒出陣

軍では戦況が悪化し、兵士の消耗が激しかったため兵士不足が深刻な問題となっていました

そこで目をつけたのが学生

中学に入学してから、ずーーーっと軍事教育を受けている学生たちは、即戦力になる!と判断したのです

今まで学生には徴兵猶予というものがあり、在学中であれば満26歳までは兵役につかなくてもいいことになっていました

が、とうとうこの特典を取り消し、学生を兵士として使うことになったのです

この日、明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が行われました

冷たい雨が降る中、スタンドには息子を見送る家族たち7万人で埋め尽くされ、東京近県の大学生・高等学校・専門学校など77校から25000人の学生が出陣することになったのです

午前9時20分に東京帝国大学を先頭に入場が開始となりました

そして、東条首相が演説しました

「諸君のその燃え上がる魂、若き肉体、清新なる血潮、すべてこれ御国の宝である。この全てを大君の御為に捧げたてまつるは、皇国に生をうけたる諸君の進むべきただ一つの道である。諸君の心魂には三千年来の皇国の貴き伝統の血潮が満ち溢れている」

そして東京帝大の学生が答辞を述べ、「挺身もって頑敵を撃滅せん」と言いました

最後に全員で「海ゆかば」を歌い、戦場へ向かったのです

以後、敗戦までに30万人もの学生達が出陣することとなるのです



10月27日 中野正剛代議士が割腹自殺!

午前0時に中野正剛代議士が割腹自殺しました

中野代議士は大政翼賛会を設立時からいたんだけど、ずっと「翼賛会では政治ができない」とぼやいており、とうとう総務の座からおりました

で、去年の総選挙では、翼賛会の非推薦議員だというのにトップ当選

が、今年1月1日に朝日新聞で「戦時宰相論」を寄稿し、「独裁者」である東条首相をものすごく批判しました

で、10月21日に倒閣を企てた!として取調べを受け、一応容疑不十分として釈放されたんだけど、自殺したのです

国民的に人気があたっため、東条首相の命令を受けた暗殺者に殺されたのでは?という噂もありました

11月1日 軍需省が発足

生産増加を促進するために、新しく軍需省ができました

軍需省は企画院と陸海軍の一部、そして商工省が統合されたもので、東条首相が大臣で、岸信介国務大臣が次官を兼務することに

ここのことろ戦局がかんばしくないため、航空機を増産するのが1番の目的でした

が、資材も全然ないので進みがめっちゃ遅い

また、陸軍と海軍の険悪さも原因に!

というのも、生産工場や労働力を巡って陸軍と海軍が奪い合いしまくっていたのです

この陸海軍の仲の悪さは天皇も心配するほど

軍需省を設置したことで、少しでも陸海軍の確執がとれるかどうか、問題になっていくのでした

11月5日 大東亜会議

大日本帝国の影響下にあるアジア諸国(タイ・満州・フィリピン・ビルマなど)の責任者が参加して大東亜会議が行われました

この会議は史上初めて「有色人種」のみで行われた首脳会議であります

東条首相は「英米のいう世界平和は、東亜をずっと植民地にしておくことだ。利己的秩序の維持にすぎない」と力説しました

実際、この頃のアジアはヨーロッパ列強に支配され続けていたため、民族の中には日本の侵攻=列強からの解放として、喜んでいるところも少しはあったのです

そして会議では、戦争完遂という共同宣言が出されました

注目は「人種差別の撤廃」があったことです

大東亜会議 裏話

実はこの会議の2日前にパーティが行われました

日本はこの会議で大東亜のリーダーであることを証明しようとしてたんですねぇ

あ、ちなみに「大東亜」というのは極東・東南アジアのことを日本側が「大東亜」と呼んでました

極東というのは、ヨーロッパ側からこの言葉で「東の果て」のことで、アジアのことを指してました

で、日本が軍事的にはめっちゃ苦境なんだけど、この会議で政治力があることを見せ付けようとしてたんですね〜

だけど実際、このパーティでは日本が考えていた指導者の数人が現れませんでした

タイは日本のやり方に不安を感じてたので、ピプン総理じゃなく代理がきたしね

ぶっちゃけ、出席した国のお偉いさんたちは日本に協力するってことはすっごい危険なことだったので、パーティ中はずーっと浮かない顔

日本側だけがはしゃいでて、日本のいいなりになる各国のお偉いさんたちに自慢話をいっぱいしてたそうです

ラバウル制空権はアメリカがゲット

11月5日から11日まで、ラバウルの日本海軍航空部隊がアメリカ軍の攻撃を受け、大打撃を受けました

日本軍は夜間電撃作戦を決行するなどして反撃しましたが、たいした損害を与えることは出来ませんでした

11日にはアメリカ空母三隻がラバウルがやってきて日本軍は壊滅状態に

ラバウルはガダルカナル攻防戦をはじめとして、ソロモン諸島での攻防戦で重要な拠点としての役割を果たしており、「ラバウル航空隊」として有名でした

が、とうとう敗北しラバウル周辺の制空権はアメリカのものとなったのです

11月21日 恐怖の島「タラワ島」の戦い アメリカ軍タラワ島を占領

この日タラワ島で日本軍とアメリカ軍の戦闘が始まりました

戦艦を中核としたアメリカ軍の上陸援護部隊は、日本軍の沿岸砲台を艦隊砲撃によってストップさせ、その間に18600人のアメリカ軍を上陸させました

日本軍は虎の子の戦車部隊を突入させ、決死の玉砕作戦を行い、戦場は日本兵の死者で埋め尽くされました

日本軍の4600人の守備隊のうち、生き残ったのは146名しかいなかったのです

またアメリカ軍も3000人がこの上陸作戦によって死んでしまいました

アメリカ軍はこの予想外の被害を受けたタラワ島での戦闘により、今後は抵抗する気力がなくなるまで徹底的に砲撃を繰り返し、もう反撃する力が残らない状態になってから上陸を開始しようという戦術に変更していきます

それほど、日本兵の執拗さにアメリカ兵は恐怖を感じたのでした

11月24日 アメリカ軍 マキン島を占領

21日に戦艦二隻を中核とするアメリカ艦隊が接近し、猛烈な援護射撃の中6400人のアメリカ兵がマキン島に上陸しました

日本兵は海岸線から3キロほど離れた場所に防御ラインを築いて、上陸部隊を待ち構えました

アメリカ軍はものすごく簡単に上陸できたことで、すぐにここも占領できると思ってました

が、内陸へと進撃するにつれ、日本軍の激しい抵抗にあいまくりました

ですが圧倒的な兵力と物資を持っているアメリカ軍にはかなわず、とうとう日本軍守備隊は玉砕し、壊滅したのです

11月27日 カイロ会談 

エジプトのカイロで会談が行われました

出席者は

アメリカ・ルーズベルト大統領
イギリス・チャーチル首相
中国国民政府・蒋介石主席

「ヨーロッパでは、イタリアが無条件降伏してるし、ソ連によってドイツも弱くなってきてる。日本も太平洋において守りに入ってきたので、まぁこっちが勝つだろう」

ということで、この会談では日本に無条件降伏させるために共同に戦争を遂行しようとなりました

日本が降伏した後処理の方針を出したのです

・太平洋の各諸島の日本の権利を剥奪する
・朝鮮の独立を認めさせるなど、
・戦争の目的は、日本の侵略行為とする
・満州と台湾を中国に返還させる
・日本が無条件降伏するまで戦争を継続する

といった事を決めました

これに対して東条英機は全面反撃を表明したのでした

11月27日 病院船「ぶえのすあいれす号」が沈没

日本の病院船「ぶえのすあいれす号」が、ニューアイルランド島の西海上でアメリカ軍の攻撃を受けて沈没しました

この船には傷病兵と看護婦1411人が乗っていて、そのうち174人が死亡しました

中には漂流中にアメリカ兵に撃たれ死んだ人も

病院船は国際条約で保護されることになっているため、日本政府は赤十字を通してアメリカに抗議することに

が、ここで問題が

どうやら日本軍は病院船を隠れ蓑にして、物資を輸送しているという噂が

病院船は国際条約で絶対に攻撃されないと保証される代わりに、軍需物資や兵などを輸送してはいけないとされているのであります

うーん・・・

12月1日 新一円札発行される 竹内宿禰の肖像です

12月3日 モンテカッシーノの戦いが始まる

12月10日 学童の縁故疎開政策を発表

文部省が学童の縁故疎開を推進する政策を出しました

田舎で子供を預かってくれる親戚などといった縁故者がいる人は、親元を離れて預けてもらうという政策です

12月24日 アイゼンハワーが、連合軍最高司令官に任命される

反・東条派が出てくる

総理大臣と参謀総長を兼任し、全ての権力を握った東条英機に対して反感を持つ人が出てきました

近衛文麿・米内光政・岡田啓介といった力のある政治家や、陸軍皇道派などなどです

石原完爾らは暗殺計画までたてるほどでした

日本男児が全然いない〜

開戦時の兵力は240万人ほどだったんだけど、徴兵年齢が35歳から40歳になり、下は20歳から19歳に下がりました

そうなると総兵力は400万人ほど

日本の男子人口の10%が徴兵となり、労働人口の17%が軍隊へ行っていることになるのでした

日本中 麻薬が氾濫

戦地にいる兵士も、軍需行動で働く労働者も、皆ものすごく疲れていました

ということで、疲労回復のために「ヒロポン」が支給されていました

ヒロポンというのは麻薬であります

一時的に眠気や疲労感を無くし、精神を高揚させるもので、いっつも使っていると食欲を無くさせ、体力は低下してしまいます

が、国は総力戦において生産性確保を理由に使用を認めていたのでした


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