昭和19年 1944年 



昭和19年 1944年 年表 
服装が様変わり

非常時という声のもと、服装も今までとは全く違うものとなりました

男性は国民服を着用し、戦闘帽にゲートルを巻いておりました
女性は防空頭巾にもんぺ姿であります

1月11日 チアーノが処刑される

ムッソリーニ内閣宣伝相で外相であり、ムッソリーニの娘婿でもあるチアーノ

ムッソリーニ追放の陰謀に加担して処刑されました。40歳でした

1月20日 イギリス空軍 ベルリン爆弾を投下しまくる


1月30日 マーシャル諸島クェゼリンも玉砕

マーシャル諸島クェゼリン環礁は世界最大の珊湖があるので、大艦隊の停泊地に最適でした

そしてここから一直線にマリアナまで出撃できるため、アメリカ軍はココに狙いをつけたのです

クェゼリン島には秋山門造海軍少将ら5000人(そのうち陸軍が1000人)と、すぐ側のルオット島・ナムル島には山田道行海軍少将3000人が駐屯していました

この日からアメリカ軍の上陸作戦がスタートし、一斉射撃により日本軍機はほぼ壊滅し、飛行場も破壊されてしまいました

そして壕に立てこもった日本兵に火炎放射器を使用したのです

日本軍は8割が戦死、自決しました

クェゼリンはすでに絶対国防圏から外れていたため、応援は一切ありませんでした

こうしてクェゼリンは攻略されたのです

そしてアメリカは、絶好の場所を手に入れマリアナ攻略を確実にするべく日本海軍最大の根拠地であるトラック諸島に狙いをつけました

2月17日 南方最大の根拠地 トラック基地が壊滅!!

トラック基地はアメリカ軍の真珠湾と同じくらいの存在でした

アメリカ軍はトラック基地を叩きのめそうと計画をたて、攻撃作戦を開始したのです

日本にとっては、トラック基地は中部太平洋における海軍の最大の根拠地でした

1月末にマーシャル諸島を爆撃して占領したアメリカ軍は次々とトラック島へ飛行機で偵察

日本軍は敵襲が近い!と察知し、戦艦武蔵といった主力艦を横須賀やパラオへ引き上げました

そして日本軍は攻撃は16日だ!と判断して厳戒態勢をしいたのです

が、攻撃がなかったため普通の配備に戻したところスプルーアンス中将が指揮するアメリカ機動隊の攻撃を受けたのです

トラック基地はこの攻撃によって壊滅的な被害を受けました

さらに輸送するための船も多く失い、大きな痛手となったのです

また、燃料タンクをはじめとした軍需施設などもことごとく壊滅し、トラック基地は機能が完全にストップとなるほどの壊滅状態となりました

2月21日 東条英機首相が参謀総長になる

東条英機首相が参謀総長を兼任することになりました

これにて軍事面・政治面の両方を独裁することになったのです

そして東条の副官と言われている嶋田繁太郎海相が軍令部総長を兼任することに

内閣の一員である登場首相が陸軍を統率する参謀総長を兼ねるということは前代未聞で、大日本帝国憲法にある「統帥権独立」の原則に反していました

軍部の中には「これじゃ東条幕府だ・・・」と批判の声もありましたが、全ての権限をゲットした東条英機に向かって文句を言える人は誰もいませんでした

2月23日 「竹槍事件」 毎日新聞記者 首相を批判!!

毎日新聞の新名丈夫(しんみょう たけお)記者が、朝刊で首相を批判しました!!

陸海軍が物資の奪いあいをずーーーっと続けていることをばらし、戦局がめっちゃ悪くなっているということを国民に知らせたのです!!

ほかにも「竹槍訓練じゃ間に合わない!」などなど

政府を批判するような記事は厳しい検問によりチェックされ、修正されていたんですが、新名記者は海軍の報道関係者と組んで奇跡的にこの記事を国民へ知らせたのです

この記事を読んだ国民は驚きましたが、それとともに新名記者の主張に共感の声を寄せました

が、東条首相をはじめとした陸軍首脳部は、「新聞記者ふぜいが作戦に口出しするな!!」と激怒しました

治安維持法により新名記者を逮捕しようとしましたが、記事がどっちかというと海軍寄りのものだったので海軍がなんとか守ろうと必死に

陸軍は新名記者を召集するべく動き出しましたが、新名記者は37歳なので以前の召集対象からは外れてました

そのため「人数が足りないんだよね」と、つじつまを合わせるために同世代の人250名を召集することも決定

陸軍は新名記者を合法的に激戦地に追い込むことにしたのです

ちなみに、海軍が頑張って新名記者を3ヶ月で戻ってこれるようにしましたが、上に書いた同世代の250名は、硫黄島に送られみんな戦死してしまいました

2月25日 決戦非常措置要綱が決定する

このあたりになると、日本の戦況はものすごく悪くなってました

国民の中にも「この戦争はもしかしたら勝てないのかもしれない」とゆー考えの人もいたんだけど、絶対に口に出すことはできませんでした

もし口にだしちゃたら憲兵や特高に捕まっちゃって、非国民扱いされてしまうからです

4日前に参謀総長になった東条英機首相は「決戦非常措置要綱」を決めました

内容はどんなのか??とゆーと

日本はもう決戦態勢にはいるしかない!そのため、国民は今よりもっと努力しろ!!というもので、具体的には

・高級料理店の廃止
・遊興機関の廃止
・女子挺身隊を強化する
・学徒勤労強化
・国防態勢の強化
・官公庁の休日を減らす

などなど

とにかく、国民全部が兵士のような状況になったのです

この要綱により、これからは高級レストランなどが店を閉じ、14歳から25歳までの未婚女性も軍需工場で働かされることになり、学徒出陣ももっと多くなっていきます

とにかく、日本国民の娯楽や個人的な楽しみなどがいっさいない状況になっていくのでした

でもって、こうした国のやり方に反対する人には、ものすごい罰が待ってました

このような日本の状況に人々の心も、ものすごくすさんでいくのでした

零戦は時代遅れ!?

零戦は昭和15年に九十六式艦上戦闘機の後継として中国戦線で登場しました

正式名称は「零式艦上戦闘機」というんですが、アメリカ軍が「ゼロファイター」と呼んでたので「ゼロ戦」と呼ばれてます

当時は中国軍がソ連から輸入した戦闘機を次々と撃ち落し、太平洋戦争になっても零戦の天下でした

アメリカ軍は零戦に勝るような航空機を開発するべく必死になり、また零戦の弱点を見抜くために撃ち落した零戦の回収に全力をつくしてました

昭和17年6月にアリューシャン方面で、アメリカ軍は無傷の零戦を手に入れることに成功し、徹底的な調査を行ったのです

そして零戦は軽量化を追及しているために防弾設備がほとんどないということと、急激な降下には弱いこと、そして右に回転する性能がよくないということを発見!

以後、零戦との空中戦では一対一の戦いをせず、急降下で逃げるといった作戦を取ることになったのです

そしてアメリカ海軍がF6Fを開発

零戦より旋回性能はよくないんだけど、防弾能力などでは零戦をしのぐものとなり、零戦の天下は終わったのです

3月8日 牟田口廉也 インパール作戦を行う

日本軍はインド領のインパール攻略を目的とした「インパール作戦」を開始することに

作戦の目的は

・3つの方向からインドへ攻め込み、イギリス軍のビルマ進出を防ぐこと

・作戦が順調にけば、インド全域まで戦線を拡大すること

インドはというと、ずっと植民地にされていたイギリスから独立したかったため日本政府に協力し、自由インド軍もインパール作戦に参加しました

欧米列強による支配から逃れ、大東亜共栄圏を作ろう!と、と立ち上がったのです

インパール作戦は第十五軍司令官の牟田口廉也(むたぐちれんや)が主導権を握り行われました

牟田口廉也は慮溝橋事件の首謀者の一人です

インパール作戦を成功させることに異常なほどの執念を燃やしていました

参謀長の木畑信良少将は、補給線の維持が不可能だ!だから作戦はやめたほうがいい!と、牟田口廉也に進言しただけで満州へ転任命令を受けちゃうほど

それほど牟田口廉也はインパール作戦に異常な執念があったのです

3月20日 灯火管制訓練

東京都の35区と立川市では灯火管制訓練が行われました

夜の7時に訓練警戒警報を鳴らすと、黒い布で電灯を多い、警防団員が灯りが漏れていないかどうかチェック

これは敵が夜間にやってくることを想定した訓練で、地上の灯りが爆撃目標にされないためのものです

みんな「いよいよ空襲がやってくるのか・・・」と、不安と緊張、そして恐怖にさいなまれるのでした

3月29日 パラオも壊滅状態に!

3月29日に日本軍の索敵機がスプルーアンス大将が率いるアメリカ機動部隊を発見しました

戦艦武蔵などの連合艦隊の主力を率いてパラオに停滞していた古賀長官は、アメリカ軍の接近を知ると艦隊を後方へ退避させました

日本軍はマリアナ諸島などからアメリカ機動部隊に攻撃をしましたが、反撃を受け大損害を受けました

そしてパラオにいた輸送船など、34隻の艦隊が攻撃にあいほとんどが沈没してしまいました

ちなみにアメリカ軍が一番狙っていたのは工作船「明石」

「明石」は損傷した船の修理にとっても貢献していたので、アメリカ軍の最重要攻撃目標になってました

今回の攻撃で、浮かぶ修理工場である「明石」は沈没したのです

この戦いでは、前もってアメリカ機動部隊の接近を察知していたのに迅速な行動が全くとれませんでした

3月31日 古賀司令長官 行方不明に

戦艦武蔵らを引き連れ安全地域に退避していた古賀司令長官ですが、武蔵には乗らず二式飛行艇で退避しようとしていました

その途中、天候不良のため遭難してしまったのです

山本五十六が死んだ後、連合艦隊の司令長官となった古賀長官はまったく戦果をあげることができないまま、行方不明となってしまったのです

4月1日 チビッコ大喜び!学校給食が出た

この日、東京・大阪といった六大都市の国民学校で、学校給食がスタート

というのも、都市では食糧事情がめちゃくちゃ悪く、子供たちは栄養不良児や身体衰弱児だらけ

さすがにこれでは都市児童の健康悪化が進みすぎているということとなり、お昼におにぎり1個が配られたのです

子供たちはものすごく嬉しそうに食べたそうです

4月 補給がない!!どうなる!?インパール作戦

さて、日本軍は最初は勢いがあったため、後方のヒコマを占領し、インパールを孤立させました

が、この作戦は最初からわかってた通り、補給や制空権の確保をまったく無視していた作戦だっため、食料と爆薬が底をついてきました

最初から3週間分の食糧しか持っていかず、制空権もないため航空機による運搬もできない状態だったのです

インパール作戦は、最初から反対の声もいっぱいあったのですが、なんで決行されたのか??とういと、牟田口廉也司令官が「3週間でインパールを陥落させる。その後は敵から食糧を奪う」と豪語していたからです

が、陥落間近になってきたため、イギリス・インド軍も必死の抵抗をしていました

日本軍は食糧不足でだんだん兵に疲れが見え始めてきました

4月5日にはヒコマを占領した第三一師団は、敵から火気や爆弾などを奪って健闘してたんですが、敵は次々と物資や兵を大量に送り込むことが出来るので、日本軍は補給なき戦いを続けることになるのでした

4月6日 取り残されたラバウルでは自給自足生活に

ガダルカナル島を舞台にした攻防戦が行われていた時、ラバウルはものすごい重要拠点でした

アメリカ軍は要塞化されたラバウルの攻略作戦を決行せず、包囲するだけにしてました

でもって矛先は中部太平洋へ

ラバウル航空隊はというと、トラック基地へ多く引き抜かれていったので、いまや解散状態でした

でも残された戦力でなんとかかんとかやっていました

ここはもはや補給網が遮断された状態で、生き抜くために自給自足の道を模索しているのでした

4月17日 福留参謀長がゲリラに捕らえられる

福留参謀長は上に書いた古賀司令長官とともに退避していました

一番機に乗った古賀司令長官は遭難し行方不明となってしまいましたが、二番機に乗っていた福留参謀長はセブ島沖に不時着しました

そこで反日ゲリラに拘束されてしまったのです

福留参謀長らが拘束された時、作戦の計画書や暗号の入ったケースを無くし、のちに回収しました

どうやらゲリラは全て写してからもとの場所に放置したそうです

福留参謀長はゲリラとの交渉が成立し解放されましたが、機密を守りきらなかったこに対して強く糾弾されていきます

4月18日 大陸打通作戦

畑俊六大将が率いている支那派遣軍は、南方に兵力をとられまくっていながらも、いまだ62万の兵力を維持していました

太平洋戦線での日本軍はものすごく苦戦してるけど、重慶政府軍が相手の中国戦線だったら勝てるのではないかと陸軍が判断しました

ということで、北京から南方までの輸送路確保を目的とするため、「大陸打通作戦」を開始したのです

北京か漢口までの輸送路を確保するのが一番の目的でした

陸軍首脳部は「勝てるだろう」と思ってたんですが、中国共産党軍がゲリラ戦を展開したりと、そう思い通りにはなりませんでした

4月19日 東京都が幼稚園の無期限休園を決定する

5月1日 ドイツのルミュールゼン収容所でソ連軍捕虜が反乱を起こし暴動!

5月5日 国民酒場ができる

政府が警視庁指導のもと「国民酒場」を開設しました

夜の灯りがまったくない街では、あまりにも生活に潤いがないということで政府公認の酒場ができたのです

が、飲める量も決められておりお酒は一合のみ

ビールならびん1本

お昼に雑炊食堂をやっている場所が、夕方になると国民酒場になるとうい仕組みでした

が、これじゃ全然足りない!!ってことで、一人分を飲むと外に出てまた並ぶという人だらけでした

5月16日 学校が軍事工場に

文部省が「学校工場化実施要綱」を出しました

中学校以上の学校の校舎を軍需工場とし、授業の代わりに軍需物資の製造をすることになったのです

実は工場の一般工員の中では、「もう負けるんではないか?作っても無駄なのではないか?」というムードが漂っていて、遅刻や欠勤が増えていました

そこで政府は「純真で規則正しい」学生を使うことにしたのです

6月4日 ローマが解放される

イタリアが無条件降伏してから、首都ローマは実質的にドイツに占領されていました

連合軍はというと、すでにシチリア島からイタリアの南側に上陸していたんだけど、下↓に書いてあるノルマンディ上陸作戦を優先させてたので静かにしてました

がノルマンディ上陸作戦の計画が固まったため、連動して侵攻をスタートさせたのです

ローマ南方でドイツ軍を破り、首都突入に成功

ローマ市民はやってきた連合軍を歓迎しました

パドリオ政権の考え

さてさてムッソリーニ首相を解任して新たに首相となったイタリアのバドリオ政権ですが、実は連合軍に参加して敗戦国扱いをまぬがれようとしてました

が、イタリア軍はドイツに武装解除させられてたので、連合軍への協力は不可能となってたのでした

6月6日 史上最大の作戦 ノルマンディ上陸

ヨーロッパ戦線で、連合軍がフランスのノルマンディに上陸をしました

この作戦は去年の8月にアメリカ・イギリスの首脳会議で決定し、1年かけて準備してきました

ドイツがソ連との戦いで苦しんでいる間に、第二戦線を築こうというものです

連合軍200万人の兵士らがノルマンディ海岸から物資を陸揚げし、いっきにパリへ侵攻を狙いました

兵と物資がものすごく集められたイギリスでは、この重さで島が沈むと言われたほど

連合軍の勢力は艦艇が5300隻 航空機14000機です

まずはアメリカの第八十二、一○一両空挺師団がビール川の河口へ落下傘で降下しました

イギリス第六空挺師団はオルヌ川東側に降下

イギリス空軍はドイツ砲兵陣地へ6000トンもの爆撃の雨を降らせ、アメリカ軍爆撃機も3000トンの爆撃を降らせたのです

ドイツ軍はというと、「砂漠の狐」と恐れられているロンメル元帥が率いるB軍集団を、64キロに及ぶノルマンディ海岸線に配備して水際撃退をすることに

が、連合軍は多くの犠牲を出しながらもノルマンディ上陸に成功したのです

6月12日 アメリカ軍 サイパン島へ

アメリカ軍は、サイパン・グァム島への攻略をスタートさせました

小沢治三郎中将率いる連合艦隊の第一機動隊がそうはさせるか!!と、対抗することに

が!!日本はサイパンではなくニューギニアにあるビアク島にやってくると判断してしまったため、そちらに艦隊を動かしてしまったのです

その間、アメリカ軍は着々とサイパン島へ上陸し、しかもサイパンの付近にある島々に配置している戦闘機や爆撃機をほとんど壊滅させました

日本は戦う前から150機の航空機を失い、サイパン島の高射砲24門のうち20問が使用不可能になってしまったのです

どこの島に何機配置しているかというのは、アメリカにバレバレでした

というのも、4月に福留参謀長にセブ島のゲリラに作戦書類を奪われちゃいましたよね

その暗号解読が全て行われていたからです

そればかりではなく、小沢機動艦隊の詳細全てがばれていました

小沢機動艦隊は自分達の作戦がばれているのも知らず、完璧な状態で待ち構えるアメリカ軍と戦うこととなるのです

6月12日 マリアナ諸島 サイパン島 1ヶ月間の戦いが始まる

この日から7月12日までの1ヶ月間、サイパン島にいる日本軍はアメリカ軍からものすごい攻撃を受けました

日本にとってはサイパンは絶対に失ってはならない大事な場所

アメリカにとっても、サイパンを奪回して日本本土を爆撃して戦争に決着をつけようとしていました

こうしてマリアナ諸島のサイパン島・グァム島・テニアン島などでは、1ヶ月に及ぶ凄まじい戦いが始まるのです

6月16日 最初の本土空襲!B29が北九州を空襲

中国大陸からの爆撃機が来るというのを済州島の日本軍電波探知所がキャッチしました

八幡市を中心とした北九州の5つの市に警戒警報が出され、日が落ちてからは完全に灯火管制がひかれました

八幡市は「日本のピッツバーグ」と言われているほどの鉄鋼の街で、周辺にある小倉・戸畑・門司・若松とともに一大工業地帯となっていました

日本最大の製鉄所である八幡製鉄所もあり、国家の命運をかける製鉄施設が集中していたのです

16日の午前0時半に空襲警報が発令しました

それと同時に第一陣が若宮上空に侵入し、陸軍の戦闘機8機が八幡上空で大気

そして関門海峡からは軍艦が射撃しましたが、高度8000メートルもあるB29には届きませんでした

空襲は午前3時過ぎまで続き、370発の爆弾が投下されました

死者・行方不明者は250名ほどでした

八幡製鉄所のも5発投下されましたが、生産設備に影響はありませんでした

6月19日 マリアナ沖大海戦

15日に連合艦隊司令長官の豊田副武大将が電文を発しました

「皇国の興廃はこの一線にあり!各員いっそう奮闘、努力せよ!!」

こうして「あ」号作戦を実行に移すことを決定したのです

「あ」号作戦は、敵機攻撃圏外から飛び立つ「アウトレンジ戦法」で先制攻撃をし、いっきに勝敗を決めようというもの

ということで、小沢治三郎中将が指揮する機動部隊が飛び立ちました

が、なんと200キロも手前からアメリカ軍のレーダーによって捕らえられており、サイパン島の南西海上で待ち構えていたアメリカ機に次々と撃ち落されてしまったのです

日本軍はアメリカ軍の艦体を一隻も沈められず、完敗となりました

さらにアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け、日本軍の空母「翔鶴」「大鳳」が沈没し、航空機395機を失いました

そしてパイロットのほとんどが戦死してしまったのです

これにてサイパンの防衛強化は絶望的となりました



絶対国防圏危うし!

去年の9月に行われた御前会議で「絶対国防圏」が発表されましたが、とうとうサイパン島にアメリカ軍が上陸してきました

ここが破られ、アメリカに基地を築かれてしまうと北海道を除いた日本のほぼ全域がB29の航続距離内に入ることになってしまうのでした

アメリカ戦闘機 B29

B29は「超空の要塞」と呼ばれる戦闘機です

今年の1月にテスト機が完成し、実戦機生産が始まりました

250キロ爆弾を9個まで搭載できる戦闘機で、アメリカはこの開発に30億ドルも投入しました

飛行距離は5000キロという長い航続距離が強み

幅が43メートル 長さは30メートル 乗員10〜14名 爆弾最大9トンも搭載できるという巨大で高性な爆撃機

北九州を襲ったB29は中国の成都飛行場から発進したんですが、成都から北九州までは2500キロ

往復すると5000キロなんですが、今までの最大飛行距離は5230キロ

ということで、アメリカとしては日本本土上陸作戦を成功させるためには、できるだけ日本の軍需工場を壊滅し、日本本土からなるべく生還できるようにしておきたかったのです
6月23日 北海道に昭和新山が誕生

午前八時ごろ、北海道の有珠山周辺の丘が急に裂け、噴火しました

去年から何度も地震が起きていたんですが、とうとう噴火

そして噴火と隆起を繰り返し、山になってしまいました

この山は「昭和新山」と名づけられました

6月30日 学童疎開が始まる

アメリカ軍がサイパンに上陸してきたことにより、本格的な本土空襲が危ぶまれてきました

そのため、国民学校の初等科児童を学童疎開することが決まりました

表向きは「学童・老人・病弱者は東京での生活に耐えられないであろう」というものでしたが、本音は「帝都防衛のためには子供たちは足手まといになる」というものでした

はじめは東京、そして横浜・川崎・横須賀・大阪など、12都市の3年生から6年生のうち、縁故疎開ができない児童を教師が引率することに

親元を離れて全国7000箇所の疎開先へと移住しました

疎開場所はお寺や集会所・旅館などで、児童たちは厳しい規律の中、貧しい食事に耐えながら生活することになります

疎開先では「教育」はなく、食べ物もなく、シラミやノミだらけ

子供たちは毎晩両親を思って泣いていました

疎開先の子供たちと争いなんかもあり、まだ幼い子供たちの精神はとても傷ついていきました

中には親に会いたいあまりに脱走する子供もいましたが、次々に捕らえられ泣きながら戻されるという光景がいたるところで見られました

来年になると、1・2年生も疎開させることになり、授業も廃止されていきます

7月4日 インパール作戦 中止命令がでる

とうとう大本営からインパール作戦中止命令が出ました

これを受け、退却が始まりましたが、この作戦はものすごい死者が出ました

インパール作戦は3月に開始され、東北インドのインパール攻略が目標だったんですが、最初から食糧不足でした

日本軍はイギリス・インド軍に押され始め独断で退却を開始する師団も現れていました

爆弾も食糧も底をつき、将兵は飢え、栄養失調に加えてマラリアと赤痢が蔓延しました

5月は雨季になったんですが、この地域の雨季の降雨量は世界一と言われており、ぬかるみの中、撤去する最中に飢えと病気で多くの兵士たちが死んでいきました

インパール作戦は、戦死者は3万人・戦傷病死者が4万人以上となり、ビルマへ向かう道は日本兵の死体だらけになってしまい「白骨街道」もしくは「靖国街道」とまで呼ばれました

そしてインパール作戦を決行した牟田口は、この無謀な計画の責任を部下に押し付け、東京へ戻っていったのです

7月 日本 アメリカに向け、風船爆弾を飛ばす

風船爆弾とは、気球に爆弾を取り付け、日本から太平洋を越えてアメリカ本土まで飛ばすというもの

9300発がアメリカに向けて飛ばされました
実際にアメリカ各地に落下したのは300発であります

というか、爆弾を乗せた気球が太平洋を渡り、1万キロを超えて飛び続けるってすごいですよね


7月9日 サイパン陥落!!

アメリカ第五艦隊指令長官のスプルーアンス大将がサイパン島を攻撃開始しました

68000人がサイパンに上陸を開始したのは6月15日なんですが、日本側は31000人で守備していました

日本軍は上陸してくるアメリカ軍に最初の総攻撃をかけましたが失敗し、島の南にあるアスリート飛行場を放棄し、タッポーチョ山麗まで後退してました

が、6月26日にはタッポーチョ山もアメリカ軍に奪われ、日本軍は北へと追いやられました

その間、どんどん兵の数は減っていき、サイパン島の北にある地獄谷へ集結した時には3000人しかいませんでした

7月5日にサイパンを守備している陸軍部隊司令官の斎藤義次中将が「1人が10人を倒し、もって全員玉砕すべし」という打電を大本営へうちました

そして斎藤中将と海軍の南雲忠一中将が残っている将兵に最後の訓示を出しました

「今や止るも死、進むも死、生死すべからくその時を得て、帝国男児の真骨頂あり。今、米軍に一撃を加え、太平洋の防波堤として、サイパン島に骨を埋めんとす」

そして総攻撃を命じたのです

将兵らは「星に七夕」という合言葉とともに最後の総攻撃を開始しましたが、アメリカ軍の照明弾の下で集中砲火を浴び、玉砕していったのです・・・・

生き残り将兵たちは「バンザイ突撃」をし、全て玉砕

日本軍の死者は民間人を含め41244人となり、アメリカ軍の戦死者は3441人でした

そして、サイパンが陥落したことにより、B29による本格的な本土空襲が行われていくこととなるのです

ちなみに大本営の精一杯の虚勢は、新聞に「敵に大損害を与えた」と書いたこと

思いっきり、ウソです

また、東条英機はサイパン陥落を聞くと、信じられないほど顔を青ざめたそうです

サイパン島の民間人

サイパンには、日本人が住んでいました

ほとんどの日本人が日本兵と運命を共にすることになります

第一次世界大戦後に日本の委任統治領となったサイパン島は、サトウキビ産業などを中心とした開発が進んでいて、日本人の移住者が30000人ほどになっていました

移住者の8割が沖縄出身者であります

戦争が始まると、60歳以上の老人と女性は強制送還となったんですが、送還船がどんどん撃沈されてしまい、全員を日本へ帰せないうちにアメリカ軍が上陸してきたのです

その時、まだ20000人の民間人が残っていました

日本兵とともに行動し、一緒に北へ逃げて行きました

そして最後は島の最北端のマッピ岬山頂に追い詰められたのです

アメリカ軍は降伏を勧告しましたが、日本の教えである「生きて捕虜の辱めを受けるなかれ」は、日本人に根付いていました

そのため、子供を抱きながら50メートル下の海に飛び込んで自殺する女性や、軍から与えられた手榴弾で自殺する人々など、10000人もの民間人が死んでいったのです

ここは今でも「バンザイ・クリフ」と言われてます

7月18日 東条内閣が総辞職

サイパン陥落を受けて、東条首相の独裁政治に対する不信と批判が集まりました

そして木戸幸一内大臣が東条英機に3つの項目を指示したのです

@大臣と参謀総長・軍令部総長の分離

A海相更迭

B重臣の入閣

そして東条首相は参謀総長を辞任し、嶋田繁太郎海相を更迭しました

が、岡田啓介・近衛文麿が「内閣を一部改造しただけでは何もならない!」と、事実上総辞職を要求したのです

とうとう東条内閣が総辞職となりました

3日後、小磯国昭が首相となります

政府は大混乱

東条英機を総辞職に追い込んで喜んでいた近衛・岡田たちですが、とりあえず数名の軍人候補者の中から小磯国昭を首相にしたものの、その後のプランはまーったく考えてませんでした

小磯は表向きは「戦いがんばるぞ!!」と、国民をあおってましたが、裏では和平工作に動きまくってました

が、和平工作は挫折しちゃうこととなります

7月30日 サン=テグジュペリ「星の王子様」を書いた作家が偵察飛行に出たまま行方不明に

8月1日 アンネ・フランクの日記が今日の日付けで終わりました

8月3日 テニアン島 陥落

アメリカ軍はサイパン島に続き、テニアン島・グァム島攻撃を開始しました

7月24日に日本軍が待ち受けていた海岸とは正反対の海岸にアメリカ軍が上陸しました

アメリカ軍9100人に対し、日本は2000人

充分な装備と食糧を持っているアメリカ軍に対し、もはや勝ち目はありませんでした

テニアン島にも日本から移住してきた民間人が住んでいて、彼らも軍とともに逃げました

そして最後に民間人3500人が命を落としたのです

ここでの日本人戦死者は15000人と言われています

8月4日 学童疎開 第一陣出発

東京の上野駅から、集団疎開第一陣が出発しました

今日出発したのは6つの国民学校の子供たち

疎開児童を送り出す進発式が行われましたが、いつまでも母親は子供の側から離れませんでした

教師が「上野駅まで行けば余計離れられないので、ここでお別れしましょう」というと、親たちは鳴きながら子供たちを見送りました

8月4日 国民総武装が決定!竹槍訓練スタート

政府は「国民総武装」を決定しました

一億国民が一丸となって総力戦体制を確立しろ!というもの

大本営陸軍部が編集した「国民抗戦必携」には、「銃・剣はもちろんのことヤリ・なた出刃包丁などすべてを白兵戦闘兵器としろ」とありました

8月5日 日本人捕虜 オーストラリアの収容所で暴動

オーストラリアのシドニーから西に300キロにあるカウラの連合軍第十二捕虜収容所で、暴動が起きました

この収容所はイギリス連邦軍と中近東で戦っていたドイツ軍とイタリア軍の捕虜とともに、ソロモン諸島やニューギニアで捕虜となっていた日本兵も収容されていました

でもって日本人捕虜は思いっきり2つに分裂してました

開戦してからすぐに捕虜となった海軍関係者は強硬派で、連敗しまくって傷ついたところをオーストラリア軍の手厚い保護を受けた陸軍関係者は穏健派になってました

8月4日にいっぱいになった収容人数を整理するため、別の収容所に移すということになりました

日本の捕虜達は、これを「日本の組織を解体するつもりなんだ!」と思い、投票により暴動を起こすことを決めたのです

5日の午前2時に食事用のナイフやフォークを持ち、オーストラリア軍守備隊に突撃!!

が、もちろん機関銃を持っている彼らにかなうわけはなく、2日で鎮圧


231人が死んでしまいました

この事件はオーストラリアによって世界に報じられました

戦陣訓を叩き込まれた日本人が「生きて虜囚の辱めを受けない」の心でおきてしまった事件でした

また捕虜の多くが「虜囚の辱め」を受けたくないため、偽名を使っていたため死亡者は誰だったのかが全然わからなかったのです

8月6日 アメリカ軍 サイパン島に滑走路を完成させる

サイパンを陥落させたアメリカ軍は、サイパン島のイスリー飛行場に1800メートルの滑走路を完成させました

日本本土爆撃の準備が着々と整い始めていたのです
8月11日  グァム島陥落

サイパンを占領したアメリカ軍は、容赦なくマリアナ諸島に襲い掛かってきました

日本兵2万人がグアムを守っていましたが7月8日からものすごい艦砲射撃と空襲が続きました

そして兵30万人を集結させ、とうとう上陸してきたのです

日本軍はアメリカ上陸部隊に対して迎撃しましたが、兵の8割を失って後退

マリアナ諸島守備の総指揮官である小畑英良中将は、「こうなったら持久戦はやめた。玉砕戦だ!」と作戦を変更

8月11日には小畑司令官らも玉砕したのです

戦死者は18000人でした

8月25日 パリ解放 ドイツ軍の占領が終わる

フランスのルクレール将軍が指揮する戦車200台 兵16000人がパリの南と西から市内へ突入しました

パリにいるドイツ軍司令官コルティッツ将軍はヒトラーが命令した「パリを敵に渡す時は、廃墟にせよ」という指示を無視

爆破を引き伸ばして降伏しました

これにより4年間のナチス・ドイツの支配が終わったのです

翌日にはド・ゴール将軍が凱旋パレードを行い、ノートルダム大聖堂でミサに出席し「パリ解放」を宣言したのです

今回のパリ解放ではかなりの死傷者が出てしまいました

9月4日 流言輩語防止対策

流言輩語防止対策が出され、特高が取り締まりにあたることが決定しました

ただ単に、噂とかを取り締まるという言論弾圧であります

この頃になると、戦争の長期化が政府の不満へとなっていて、多くの流言輩語が飛んでました

民衆を動揺させないためにと、特高や憲兵が監視しまくる生活になっていったのです

国民は世間話も出来なくなってしまいました

ちなみにどんなことが取り締まられたかとゆーと

・駅の共同便所に「戦争ヤメロ」というラクガキ

・50銭紙幣に「天皇陛下のばか」というラクガキ

などなど

9月 松代に大本営を作ろう!!計画

陸軍は密かに松代に大本営を作る孝えをすすめていました

始めたのは9月からで、本土決戦を覚悟した陸軍は体制作りのため、松代に大本営を置いて本土決戦の指揮をとろうとしたのです

この工事は「マ工事」と言われ、白鳥山と皆神山に全長1万数千メートルもある地下室や坑道を作ろうとしてました

「マ工事」はほんっとーーに極秘だったらしく、海軍にも知らされてませんでした

陸軍からすれば「本土決戦」になれば、陸軍がリーダーになって進める戦争になるだろうということで、海軍だけじゃなく天皇や宮内庁にも秘密にしてました

肝心の松代では、大本営を作ることは公然の秘密になってて、毎日何千人もの住民が勤労奉仕させられてました

で、ここで工事を指揮していた将校がこの町の名前を「大本営町」に名前を変える!なんて言ってたので、だんだん噂が広まり始めたのです

翌年、海軍が陸軍に確かめてやっと工事が行われてることを知りました

で、海軍はものすごーーーくコレを反対

でもって、昭和20年5月に天皇にこのことが伝えられたんですが、天皇は不愉快な顔をしながらこの話を聞き、「私は行かないよ」と言いました

結果、この松代の大本営は莫大な戦費を使った無用の長物となってしまったのでした

9月7日 中国ではじめての玉砕

中国と国境を接しているビルマの北部では、5月から怒江を渡って侵入してくる中国軍と日本の第三三軍が激しい戦いを繰り広げてきました

日本がビルマを全域占領したため、連合軍はビルマと中国を結ぶ道が使えず、空輸で行ってました

そこで連合軍が、地上ルートの確保に動き出したのです

今まではなんとか持ちこたえていたんですが、今年の8月3日にインドから延びるレド公路の大半が連合軍に奪われました

これによって中国から延びるビルマ公路を絶対に死守しなければならなくなってきたのです

が、400キロもの前線を守るのには無理があり、第三三軍はどんどん孤立

じわじわと兵力が減少し、9月5日には100名しか残っていませんでした

ついに3名だけを報告のために脱出させ、残りの全員が玉砕したのです

9月18日 ハイドバーク協定

ニューヨーク州のハイドバーグで、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相が会談を行いました

内容は日本への原爆投下と、これからの核の管理に関する秘密の協定です

この会談の内容はは昭和47年に初めて公開されました

10月10日 沖縄が空襲される!台湾沖航空戦

アメリカ第三艦隊司令長官のハルゼー大将が指揮する機動部隊が、1000機もの航空機で沖縄・宮古島・奄美大島などを急襲しました

この攻撃は、アメリカ軍がフィリピンへ侵攻するため、日本の後衛基地を叩いておいた方がいいというものです

台湾の新竹基地にいた豊田副武連合艦隊司令長官は、九州・台湾にある航空部隊の総力を結集し、アメリカ機動部隊と戦うことに

台湾沖で12日から14日にかけて航空戦が行われましたが、日本軍400機のうち、戻ってきたのは100機だけでした

で、戻ってきた隊員たちは威勢がいい戦果を報告しました

それを聞いた大本営は有頂天になり、戦果を確認もせず「敵兵力の過半数は壊滅!」といったウソを報道したのであります

実際は日本側の大敗北に終わったのでした

日比谷公会堂では「勝利は必ず我らにある!!」といった、一億憤激英米撃墜国民大会が行われ大盛り上がりしちゃうし、でもって天皇もこの大戦果に思わずお褒めの言葉を出しちゃいました

大本営はいまさら「ウソです」とは言えず、このままに

ケド国民は「過半数を壊滅したって言ってるけど、アメリカ軍の飛行機がどんどん本土に来てるんだけど!」と、大本営のウソに薄々は気付いてましたが大きな声では言えないのでした


10月18日 捷一号作戦発動!フィリピン戦始まる

いまさら、台湾沖航空戦で「うそです」と言えなかった海軍ですが、何にも知らない陸軍は今がチャンス♪ということになり、大本営は「捷一号作戦」を下しました

レイテ島に上陸したアメリカ軍に対し、決戦を挑んだのです

それを受けた栗田健男中将率いる「戦艦大和」「戦艦武蔵」を含む第一遊撃部隊がシンガポールからブルネイに向かいました

アメリカ軍はほんとはもっと遅くに上陸する予定だったんだけど、ハルゼー大将が「フィリピンの日本航空兵力は手薄だし貧弱だ」と察知し、レイテから上陸を開始させることにしたのです

日本はというと、フィリピンに迫ってくるアメリカ軍に対して万全の作戦準備をしきました

日本にとってフィリピンは南方の物資を調達する場所であり、フィリピンを失うと戦いが出来なくなってしまうため必死で抵抗します

10月20日 「アイ・ハブ・リターンド」 マッカーサーがレイテ上陸

午前10時 アメリカ軍がレイテ島東岸から上陸を開始しました

60000人の兵士と、1万トンの物資を陸揚げ

そして、マッカーサー極東軍総司令官は、この日の午後にレイテの土を踏み「アイ・ハブ・リターンド」と、言いました

意味は「私は帰ってきた」であります

10月21日 忠犬ハチ公も出陣

渋谷駅前にある「忠犬ハチ公」の銅像が、鋼鉄回収のため戦地に赴くことに(?)

人々は気の毒がり、渋谷ではお別れ式が行われたのでした

山下大将「あれ?おかしくないか?」

フィリピン防衛の最高指揮官である山下奉文(ともゆき)大将は、フィリピンからやってくるアメリカ軍の戦闘機の数が全然減っていないことから、「もしかしてアメリカ軍部隊の全滅とゆーのはウソなんじゃないか??」と感じるように

でもって、色んな人に聞いたところ台湾沖航空戦に出撃していたパイロットから話を聞き、ウソとゆーことがわかりました

それでも南方軍総司令官の寺内寿一元帥はレイテ決戦を山下大将に命令したのです

10月23日 レイテ沖海戦が始まる 1日目

圧倒的な威力を持つアメリカ機動部隊相手に、日本が考えたのが「おとり作戦」

巨大戦艦の「大和」「武蔵」を中心とした栗田健男中将が指揮する主力艦隊をレイテ湾に突入させ、同時にアメリカ輸送船団を撃滅するために日本本土から小沢中将が指揮する空母部隊を送る

これが「おとり」であり、ハルゼー大将率いる高速機動部隊をおびき出してレイテから離れさせ、その間に栗田艦隊と第一遊撃部隊第三部隊と第二遊撃部隊がそれぞれのルートからレイテ湾に突入し、アメリカの輸送船団を撃滅させようという作戦なのであります

22日の朝・・・栗田中将の第一遊撃部隊主力がブルネイを出発

23日午前6時30分・・・パラワン島に来たところで、重巡洋艦「愛宕」と「摩耶」が魚雷攻撃を受け撃沈

こうして戦闘の火蓋が切って落とされたのです



10月24日 レイテ沖海戦 2日目

24日・・・戦艦武蔵に魚雷が命中!

24日午後7時35分・・・戦艦武蔵沈没

10月25日 レイテ沖海戦 3日目

西村祥治中将が指揮する第一遊撃部隊第三部隊が、レイテ東南のスリガオ海峡で待ち伏せしていたアメリカ艦隊から攻撃を受け壊滅しましました

おとり作戦はというと、こっちは成功していました

アメリカ艦隊をおびき寄せ、注意をひきつけることが任務ですからね

小沢部隊が乗っている艦隊はおとりだったので一切攻撃はしませんでした

その間に、栗田艦隊がルソン島とサマール島の間にあるサンペルナルディに向けて進んでいたのです

栗田艦隊はおとりとなっていた西村艦隊によってやってきていたアメリカ艦隊を発見しました

午前6時58分・・・戦艦大和の46センチ砲六門が初弾を放つと、「長門」らも続いて発射

アメリカ軍は煙幕を張り、またスコールがやってきたためどさくさに紛れ、逃げました。栗田艦体はこれを追いかけ、レイテ湾に接近したのです

コレを聞いたマッカーサーはレイテの司令部で顔色を変えたといわれています

午前9時11分・・・レイテ湾まであと80キロのところまでやってきました!!あと1時間ほどで到着か!?と思われた時、なんと栗田艦体が突然追撃を中止し、戻っていってしまったのです



10月25日 神風特攻隊が初出撃

フィリピンを奪還することを目指している連合艦隊は、戦艦武蔵・大和・長門・金剛を中心として海軍最強編成隊を組みました

そしてレイテ湾突入を決めたのです

が、アメリカ軍の機動部隊の攻撃により阻まれてしまい、戦艦三隻と空母四隻を壊滅させられてしまいました

この壊滅状態に対して、海軍航空部隊が「神風特攻隊」を編成したのです

250キロの爆弾をゼロ戦に装着し、飛行機ごと敵の艦隊に突撃するというものです

もちろん、生きて帰ってこれるはずがありません

特攻隊の第一次隊の24名は「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」の4隊

この名前は本居宣長の「しきしまの やまと心を ひととわば 朝日ににおう 山さくら花」という歌からとりました

つづいて「菊水隊」「葉桜隊」「若桜隊」が新編成されたのです

この後、神風特攻隊は全部で45回の出撃が記録されていて、3000人以上(6000人とも言われてます)が出撃したのです

彼らの大半は学生などでした

しかも、彼らが敵の戦闘機や航空母艦などに命中した確率は20%にも及びませんでした

やっと飛行機の操縦になれてきたばかりの人たちだったからです

また、飛行機だけではなく、人間魚雷も突入しています

この死ぬ覚悟の体当たり機の出現はアメリカ軍を驚愕させ、恐怖に陥れました

アメリカ軍はこの玉砕戦法を「カミカゼ」と呼び、アメリカ兵は特攻機を発見するたびに逃げ出しました

この時に突撃していった23歳の関行男大尉の言葉が残ってます

「命令とあればやむをえない。日本が負けたらKA(海軍の隠語で奥さんのこと)がアメ公に何をされるかわからない。彼女を守るために死ぬ」



レイテ湾海戦の結果

結局、4日間にわたる海戦で無敵を誇った連合艦隊は壊滅状態となりました

大本営はこの戦いは全海軍兵力を集結し、決戦に打ってでましたが結果は敗北に終わったのです

そもそも、決戦が始まる時点ですでに空母も兵力も足りない状態だったので、「大艦隊の殴りこみ」と呼ばれていました

それほど、一か八かの賭けだったのです

レイテ決戦の戦死者は10万人も出てしまい、大敗北に終わりました

ウソから始まった戦いですが、そんな無謀な戦いに挑もうとしている陸軍に対し、海軍は台湾沖航空戦の事実を知らせなかったのは、信じられないことですよね

そして情報を入手し、レイテ決戦の無謀さを訴えた山下大将の言葉を無視した寺内元帥の責任も重いのではないでしょうか・・・

11月24日 ペリリュー島も玉砕

パラオ諸島のペリリュー島にもアメリカ軍42000人が上陸しました

といっても、先発隊が9月15日に上陸してから、残り少ない日本軍で守り続けていたのです

が、とうとうこの日玉砕しました

日本軍の守備隊は12000人で、そのうち10000人が犠牲になったのですが、残っている兵は最後まで降伏せずゲリラ戦を行い抵抗を続けていました

11月24日 B29が東京を空襲

午後12時15分 111機の爆撃機B29が東京の武蔵野にある中島飛行機工場を集中空襲しました

また江戸川・品川・杉並などにもやってきてました

飛行機工場の78人は死亡し、ほかにも550名の死傷者が出ました

日本側は迎撃し、B29を5機撃墜しました

11月24日 人間魚雷「回天」がウルシー環礁のアメリカ海軍基地を攻撃!

回天とは「天を回らし戦局を逆転させる」という意味の海軍の特攻兵器です

一発で大型の軍艦を撃沈できるよう、爆薬量も多くなってました

人間魚雷というからには、もちろん人間が乗って敵の軍艦へ当りに行くのです


11月29日 不沈空母「信濃」が沈没

横須賀から呉に向かっていた空母「信濃」が、紀伊半島沖でアメリカ潜水艦から魚雷攻撃をうけ沈没しました

「信濃」は11月19日に横須賀で竣工したばかりで、大和型戦艦を改造した世界最大の空母でした

「不沈空母」と噂されていたほどだったのに、魚雷攻撃で沈没

みんな衝撃を受けました

そして乗組員ら1100人が犠牲となってしまったのです

12月2日 沢村栄治 戦死

巨人軍のピッチャーとして活躍していた沢村栄治が戦死してしまいました

3度目の召集を受けて南方へ向かっていたところ、東シナ海でアメリカ潜水艦の攻撃を受け沈没してしまったのです

まだ28歳という若さでした

12月7日 東南海大地震!!

午後1時ごろ、東海地方を震度6の大地震が襲いました

73000戸もの家が壊れ、死者は4000人以上となりました

この地域は名古屋・浜松を中心に軍需産業が集中しており、戦局が左右されるとして軍部はものすごく慎重になったのでした
12月13日 名古屋で初めての大空襲

名古屋にB29が80機もやってきて、大規模な空爆を行いました

死者330人 負傷者356人

名古屋周辺は軍事工場が多かったため、破壊を狙っての空爆だったのでした

12月23日 B29の爆音を放送する

東京放送局で、B29の爆音の放送が開始されました

空襲に備えるために、爆音を聞き分けましょうというもの

12月25日 レイテ島を放棄する!!と 決定

10月にレイテ海戦があり、日本軍は総崩れになりましたが、まだ20000人の日本兵が残っていました

が、フィリピン全域の防衛を指揮する山下奉文大将は、レイテ作戦の中止を決定

レイテ島に残っている第三五軍に対し「自活自戦をし、永久に抗戦を継続しろ」と命令したのです

つまり、この命令は事実上第三五軍を見捨てたものとなったのでした

色んな決戦食

政府は国民が食糧不足に嘆いている中、「もっと工夫をしろ!我慢が足りない!」と戒め、代用食を「決戦食」として勧めました

・ふりかけ・・・魚の骨はカルシウムがいっぱい!!すりつぶして海苔とまぜなさい!栄養満点のふりかけになっちゃいます★

・粉食・・・芋のつるや果実の皮は乾燥させて粉末に!この粉末を小麦粉にまぜれば割り増しされるし、すいとん味もいつもと違います★

・茶殻・・・お茶の殻は捨てずに乾燥しなさい!乾燥して保存してた茶殻をちょっとのお水でもどせばビタミンとたんぱく質がいっぱいの野菜代わりに★

・さつまいも・・・蒸したサツマイモをお茶碗に入れ、ごま塩をふりかけてから番茶をかけましょう!お箸でサツマイモを崩しながら食べます。いつもと違うサツマイモのお料理のできあがり★

・寿司・・・お米の代わりにうどんを使って食べてみて!おいしいよ★

・天ぷら・・・小麦粉を普通の天ぷら衣より固めに練って!そして魚や野菜を充分に小麦粉汁で包んでちょっとづつ沸騰中の熱湯をかけてみてね★

・必勝しるこ・・・更生めんをよーーーくお水にさらして小麦粉を入れてお団子に!番茶を煮立てて塩味をつけて食べてね★

・イナゴコロッケ・・・イナゴは魚や肉に負けないくらい栄養があります!しかも原料はタダ!フライパンで強火でいってからすりつぶしておイモと混ぜてコロッケにどうぞ★

というわけで、いろーーーんな代用食が出てきました

調査によると、食べれる雑草は1000種類で、昆虫は100種類という結果が出たそうです

松の根から油を!

農商省では燃料不足のため飛行訓練に支障が出まくり

とうことで、松根油の増産をはかることに

松根油というのは、松の根を乾留してつくる油です

この松の根を掘るというのは意外と重労働で、またあまり掘りすぎると地盤が弱くなってしまうので、大雨が降った後などがけ崩れが起きてしまったりしていました

野犬にご注意!!

都会では捨てられたペットが氾濫していました

ペットを捨てる理由はもちろん食糧事情の悪化です

捨てられた犬などは野犬化し、残飯も出ないため人を襲うことが多くなってきたのでした

学校も工場に!勤労動員が本格化する

学徒の勤労動員は数年前から行われていましたが、この年から本格的になりました

学校に材料を提供し、教師が労務官として生徒に勤労させるという形になっていたのです

学徒でない女子は、挺身隊として組織され働かせられました

国民学校初等科以外の全てが授業を停止し、食糧増産と軍需生産の業務に動員させられます

関東731部隊

戦争というものは、あらゆる非人間行為を行わせるものです

関東軍が行っていた第731部隊もその一つです

731部隊とは、細菌研究を行っている部隊で、陸軍軍医中将の石井四郎が率いていました

石井四郎とは、京都帝大医学部を優秀な成績で卒業し、すぐに陸軍に入りました

陸軍第一病院へ勤務し、細菌研究に乗り出したのです

特にペスト菌の培養に注目しました

その後、関東軍731部隊に移り、部隊長として人体研究を繰り返していたのです

ここでの行いは「悪魔の行為」と呼ばれていましたが、戦争中は先駆け的偉業だったのでした


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