日本の女性史



         


お初
常高院〜じょうこういん〜

浅井三姉妹の次女・お初
姉や妹ほど有名ではないですが、お初は4度も落城を経験した稀な女性であります

淀君のところで書きましたが、父・浅井長政・母・お市の方、そして義父の柴田勝家も豊臣秀吉によって殺され、三姉妹は秀吉の保護を受けるようになりました

そしてまず、秀吉の駒となったのが三女のお江与であります

秀吉は早くから長女の茶々を側室にしようと考えていたため、次に縁談が持ち込まれたのはお初でした

お相手は京極高次(きょうごくたかつぐ)

お初が18歳の時でした

京極家というのは、鎌倉時代以後、勢力を持っていた佐々木氏の流れを汲む家で、南北朝時代に佐々木道誉が出てから、北近江を本拠としていた名門の家でした
戦国初期になると、浅井家に押され力を失いつつありましたが、名門には変わりありません

そして高次の父は時流に逆らえず織田信長に従ったのです

が、織田信長が本能寺の変で明智光秀に殺されてしまいました。このとき、20歳になった京極高次は、旧領地の奪回を目指し、明智光秀に加担したのです

が、明智光秀が豊臣秀吉に殺されてしまったため、高次は逃亡生活へと入りました
色々なところを転々した後、柴田勝家のもとへ
が、柴田勝家も豊臣秀吉に滅ぼされてしまい、高次は行くあてがなくなってしまったのです

ここで思わぬ事態が

なんと秀吉が高次の妹である竜子の美貌に惚れ、側室としたのです
これが後に淀君と側室争いを繰り広げることとなる松の丸殿です
そのため、高次は妹のおかげで命拾いしました
そして1万石を貰ったのです
秀吉はこの頃、お初を高次と結婚させたのです

京極高次は正直、ぱっとしない武将でした
悪評もなければ、いい評価もない
妹のおかげで命拾いしたため「蛍大名」とも言われています

そうこうしているうちに、秀吉が死去
秀吉の変わりに台頭してきた徳川家康によって、関が原の合戦が始まることに

この時、三女のお江与は徳川家康の三男・秀忠と結婚していました
そして姉の茶々は豊臣家の唯一の跡取り秀頼を出産しており、お初はどちらともうまくやっていたのです

関ヶ原の時には、家康が伏見城を出て、高次の居城である大津城に立ち寄っています
たぶん、京極家は関ヶ原では徳川方である意思表示だと思われます

こうして石田三成が挙兵し、大津周辺は三成方の西軍だらけに
高次は仕方なく、嫡男の忠高を西軍の人質に差出したが、家康が美濃へ向かっているという情報を聞くと、高次は大津へ戻って挙兵したのです

もちろん西軍はその寝返りを知ると大津へ攻め込みました
そして高次は降伏し、お初は三度目の落城を経験したのです

が、高次が降伏したその日に関ヶ原の合戦で東軍は勝利したのです

そして家康は大津へ到着し、数日間大津城を本営としました
ですが高次は「あと少し頑張っていれば、勝利の軍を出迎える大津城の主となれたのに!」と、自分の降伏を恥じて、剃髪し高野山へ行ってしまったのです

が、家康は「気を使うな!東軍の為に戦ったではないか!恥じることはないので出てきてくれ」と使者を出し、結果高次は若狭85000石を貰ったのです

こうして京極家は大名として復活
そして高次は47歳で死去したのです

ここでお初の人生が終わりか?と思ったら、こっから先もあるのです
お初は剃髪し、常高院となりました
京極家の跡継ぎは嫡男である忠高が継ぎ、江戸幕府が開かれ、妹のお江与のダンナ秀忠が二代目将軍となりました

天下をとった家康にとって邪魔なのは豊臣家だけ

こうして豊臣家VS徳川の大阪の陣が始まるのです

お初にしてみれば、姉の家と妹の家が戦うというもので、かなり複雑だったと思われます

大阪冬の陣は水面下で講和の動きがあり、大阪方の講和の代表に淀君の妹であるお初が選ばれました
そして徳川方は家康の側室である阿茶の局です
女性二人が講和の代表となり、大阪冬の陣が幕を閉じました

が、すぐさま大阪夏の陣が始まります

お初はせっかく講和したというのに、またも家康がイチャモンをつけ豊臣を攻めようとしていることを知ると、あの家康に対して怒りを露にしました
そして大阪城へ入り、夏の陣が始まってからも望みを捨てずにいたのです

が、すでに勝負は決っしていた。徳川の勝利です

とうとうお初は大阪城から出ました。そして姉の淀君と甥の秀頼は自刃したのでした

四度目の落城を経験したお初
落城の時、秀頼の遺児である後の天秀尼を救ったのはお初だと言われています

こうして豊臣と徳川の間で翻弄されたお初は、64歳で没しました
この時、お初を好きだった侍女らが何名か髪を下ろし尼になったと言われています

それにしてもこの「お初」という女性は、すっごい世渡りの上手な人ですね
正直、お初がアレコレ動かなければ、京極家は無かったんじゃないかと思われます
秀吉が絶好調の時は淀君にゴマすりし、徳川が頑張り始めるとお江与に近づくという、知略にかけては三姉妹の中ではNO1だったのではないでしょうか?
そして京極家は無事、生き延びたのでございました〜







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