日本の女性史



         


尾竹紅吉
おたけこうきち

尾竹紅吉は、明治26年に富山で生まれ、大阪で育ちました

尾竹家は画壇で有名な家柄で、紅吉は芸術家の血を受け、自由な性格に育っていきました

紅吉は女子美術学校で日本画を学んでいましたが、性に合わず中退しましたが、19歳で展覧会に入賞するなど、天才女流画家とも騒がれていました

そんな紅吉が興味を抱いたのが平塚らいてうが発刊した「青鞜」
大阪に住んでいた紅吉はしきりに青鞜へ手紙を書いたのです

青鞜では「ちょっと変な手紙を書いてくる変わった女性がいる」ということで、紅吉に興味津々
そしてとうとう、紅吉は青鞜に入社することとなったのです

紅吉は自由奔放に生きてきたのびのびとした女性でした
そのため、らいてうはそんな紅吉をとても可愛がりました

さて、まだ十代だった紅吉は、青鞜のために何かしたかった
それに背伸びもしたい年齢だった

紅吉は青鞜が赤字経営と知ると、手柄をたてようと「メイゾン・ド・鴻の巣」という人気のある大人のバーから広告をとって来ようと意気込んで出かけました

ここで紅吉はマスターに「五色の酒」というお酒を作ってもらい、何度も通いました

が、これが問題に

マスコミは「青鞜の新しい女は、女のくせに五色の酒を飲んでいる」と批判したのです

現代では女性がバーに行って飲みに行くのは普通のことですが、この時代はすごい批判されるものだったんですね〜

さらに批判される事件が
それが「吉原登楼事件」です

これは紅吉の叔父がらいてうや紅吉・中野初子の三人に「女の解放とか言ってるが、それなら女の暗闇を見せてやる!」と、三人を吉原遊郭へ連れて行ったのです

紅吉は遊女の境遇などに関心を寄せたわけではなく、その独特の吉原の世界のとりこになった
紅吉からしてみれば、吉原で働く女性というのは、絵空事の世界だったからです

ここで吉原をきちんと理解していて、マジメに吉原に働くことになった女性の境遇などの辛さをわかってあげれば良かったのに、若い紅吉は「吉原」という甘美で怪しげな世界に憧れていただけの若い女の子だったのです

今でいうと、世の中をあんまりわかってないのに、ちょっと大人の世界に背伸びをして、友達に「あたし、色々遊んでんのよ〜」なんて言うギャルのような感覚だったんでしょうね

紅吉はこの吉原遊びをいろんな人に喋りました
これが大問題となるのです

「女が吉原に行くなんて!許しがたい事である!!!」と、青鞜に対して大ブーイング
男性にとって、「吉原」は男の遊び場
そこに女性が足を踏み入れるなんて言語道断!というものだったのです

怒った男性マスコミの人々は、青鞜の社員の私生活をおもしろおかしく書いたりと、今では考えられないようなことまでしちゃいました

さらに青鞜の社員の間でも内部分裂が!

マジメ派で、最初から青鞜に関わっていた保持研子は「私達は真剣にやっているのに、不真面目な人のせいで青鞜がおかしくなってきた」と、怒り出したのです

また、らいてうが紅吉を可愛がるのもマジメ派からしてみればおもしろくなかったのです

紅吉は仲間に責められ「死んでやる!」と手首を斬りましたが、浅かったため大事にはいたらなかった

そしていつまでたってもらいてうが紅吉をかばうので、「もしかしてレズ?」という噂が出始めるのです
確かに同性愛だったのかもしれません

そんな紅吉ですが、肺結核になってしまい、神奈川県の茅ヶ崎へ療養にいくことになりました
らいてうはすぐさま茅ヶ崎へ行き、病院の近くに家を借りて住んだのです

ある日、青鞜の関係者である西村陽吉という男性が着ました
このとき、一緒にやってきたのが、21歳の学生、奥村博史でした

博史とらいてうはお互いヒトメボレしてしまったのです

らいてうを奪われ嫉妬に燃える紅吉は、よくも!と、奥村博史に恨みの手紙を送ります
そのため、らいてうと紅吉の間に亀裂が入ってきてしまいました

さらに奥村博史の友人は「あんな女達に近づくとロクなことがない!」と大反対していました

紅吉は、らいてうを奥村博史に奪われたことにショックを受け、とうとう青鞜を退社することにしたのです
紅吉のすぐ後に青鞜に入ってくるのが、伊藤野枝です

そして青鞜に対抗して「番紅花(さふらん)」を出版するも、長くは続かなかった

大正四年、奈良の陶芸家と結婚
らいてうは当たり前のようなフツーの結婚をした紅吉にがっかりしたという

が、夫が浮気したりと、この結婚はあまり幸せではなかった

それでも紅吉は昭和になってからも「女人芸術」や「暮らしの手帖」などに関わり、女性のために活動し続け、昭和41年に71歳で死去しました








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