室町時代その6 1487年〜1542年

名将続々誕生
戦国の申し子 梟雄登場
戦国大名第一号デビュー!北条早雲
1487年 早雲 一城の主となる
早雲 領民に大人気
早雲 伊豆攻撃の準備を整える
この頃の関東の勢力「足利ミニ幕府」
1491年 伊豆の堀越公方お家騒動
北条早雲 伊豆を征服 
早雲 ねずみの夢を見る
1495年4月 早雲 小田原をゲット
中国地方の雄・尼子経久
1508年 幕府ははちゃめちゃ 10代将軍義植返り咲き!
1512年 正体不明の奇病「梅毒」
1516年 80歳の早雲 最後の大仕事
1518年 尼子経久悲しむ 長男の死
1519年 戦国の申し子 北条早雲死去
1521年 尼子家最盛期!11カ国をゲット★
12代将軍 足利義晴
11月3日 武田信玄生まれる
1523年8月10日 出てきた!毛利元就家督を継ぐ
1526年4月 今川氏親「今川仮名目録」を制定する
1527年 蝮の道三 登場!
1530年1月21日 上杉謙信生まれる
1532年 三好長慶 後継ぎとなる
1534年5月12日 織田信長生まれる
1536年6月 今川義元 太原雪斎との出会い
10月 今川家お家騒動 花倉の乱
1537年2月6日 豊臣秀吉生まれる
元就尼子家にボロ負け
1541年6月 武田信玄 父・信虎を追放し家督を継ぐ
7月 北条氏康家督を継ぐ
1542年 三好長慶立ち上がる!
12月26日 徳川家康生まれる


室町時代 その6 
名将続々誕生
1432年 北条早雲
1492年 平手政長
1494年 斎藤道三
1496年 太源雪斎 
1497年 毛利元就
1500年 山本勘助(?)
1506年 フランシスコ・ザビエル
1510年 松永久秀
1513年 馬場信春 真田幸隆
1514年 島津貴久
1515年 北条氏康 稲葉一鉄
1518年 飯富虎昌(おぶ)
1519年 今川義元
1520年 今井宗久
1521年 武田信玄
1522年 千利休 柴田勝家(?)
1523年 毛利隆元 森可成 
1524年 金森長近
1525年 滝川一益
1526年 蜂須賀小六
1527年 酒井忠次 高坂昌信
1528年 明智光秀(?) 種子島時堯(ときたか)
1529年 龍造寺隆信 宇喜田直家
1530年 上杉謙信 大友宗麟 磯野員政(かずまさ)(?)
1532年 ルイス・フロイス(?)
1533年 大村純忠 朝倉義景 小早川隆景 島津義久
1534年 織田信長
1535年 荒木村重 佐々成政 島津義弘 濃姫(?) 丹羽長秀
1536年 池田恒興
1537年 豊臣秀吉 足利義昭
1538年 前田利家 鍋島直茂 本多正信 小山田信茂 北条氏政
1539年 前田玄以 長宗我部元親 鳥居元忠 ヴァリヤーノ 
1541年 羽柴秀長
1542年 徳川家康 服部半蔵 茶屋四郎次郎 九鬼嘉隆(?)
1543年 本願寺顕如 狩野永徳 古田織部
1544年 竹中半兵衛(?)
1545年 浅井長政 山内鹿之介 六角義治
1546年 武田勝頼 森蘭丸 黒田如水 最上義光 南部信直 山内一豊
1547年 斎藤龍興 浅野長政 織田有楽 島津家久
1548年 田中吉政 本多忠勝 榊原康政 吉川元長 島左近(?)
1549年 筒井順慶
1550年 津軽為信
1552年 高山右近
1553年 毛利輝元
1554年 脇坂安治(?)
1555年 上杉景勝
1556年 別所長治 蒲生氏郷 片桐且元 藤堂高虎
1557年 仁科盛信(?)
1558年 織田信孝 織田信雄 石川五右衛門(?)小西行長(?)
1559年 大谷吉継 徳川信康
1560年 石田三成 後藤又兵衛(?) 直江兼続
1561年 吉川広家 福島正則 井伊直政
1562年 加藤清正 北条氏直
1563年 加藤嘉明 京極高次 細川忠興
1564年 池田輝政
1565年 長宗我部信親
1567年 伊達政宗 真田幸村
1568年 豊臣秀次 黒田長政
1569年 立花宗茂 金地院崇伝
1570年 佐竹義宣
1571年 支倉常長 柳生宗矩
1572年 宇喜田秀家
1574年 結城秀康
1575年 長宗我部盛親 大野治長
1576年 有馬晴信
1579年 徳川秀忠
1580年 松平忠吉
1582年 小早川秀秋
1593年 豊臣秀頼

と、続々と戦国をにぎわせる武将が産まれました!
戦国の申し子 梟雄登場
この下克上の時代、全くの無名から謀略によって一国一城の主の座を奪い取った者を「梟雄」(きょうゆう)と呼びます。

梟(ふくろう)の雄と書き、闇の中から獲物を狙う夜行性鳥の獰猛なイメージから取ったもの。

代表的な3人が、「北条早雲」「斎藤道三」「松永久秀」の3人で、3人とも中年を過ぎるまでは存在自体が不明確な怪しげな存在でした。

戦国大名第一号デビュー!北条早雲
幕府がごちゃごちゃして権威がなくなってきた中、下克上の風潮が世の中に広まってきはじめました。

そんな中、伊勢新九朗長氏という浪人が1人いました。

長いので以下は「早雲」でまとめちゃいます。

出身はいろんな説があるがはっきりしてません。

40代半ば頃、妹が駿可(静岡)の今川義忠の妻だったので、妹を頼りに今川家家臣となりました。

今川家というのは、万が一将軍家が絶えてしまうことがあったら、将軍職を引き継ぐという権利を持っている名門中の名門。

ちなみに順番は@足利A吉良B今川です。

8代将軍義政から遠江(静岡県)を与えられていました。

が、1476年に領地内の豪族が反旗を翻し、これを討伐中に今川義忠が矢に当たり死んでしまったのです。

これにより今川家のお家騒動が始まりました。

妹である北山殿の子龍王丸は6歳だったので、跡取りにはまだ早く、一族の小鹿範満(おじかのりみつ)を当主にしようという声があがり、今川家内で対立するようになってきたのです。

家内では激しく抗争がありましたが、まだ6歳の龍王丸は分が悪く、「龍王丸が成人したら当主にさせるから、それまでは範満が当主でいるように」ってことで話がつきました。

この話し合いに早雲も参加していました。

その後早雲は京都に戻って小笠原氏の娘と結婚。

長男氏綱が生まれたのです。

1487年 早雲 一城の主となる
今川家はというと、いつまでたっても当主の座を範満が譲らないので、みんな困ってました。

早雲は妹らに「範満どうにかしてよ!」と頼まれたのです。

早雲は龍王丸派の家臣らを動員し、範満のいる館を襲撃しました。

そして範満を殺して龍王丸を今川家の跡取りにしたのです。

龍王丸は今川氏親(うじちか)となります。ちなみに今川義元の父親です。

そして早雲はその功績を認められ、興国寺城とその周りの領地をもらったのでした。

早雲 領民に大人気
早雲は、以前京都で僧の修行をやっていた時に京都で応仁の乱を目の当たりにしてしました。

腐敗した政治等をみてきたことから、「民衆を安定させないといい国にはならない!」ということで、早速領内の年貢を今までよりずーーーっと安くしてあげました。

不作の時は資金の貸し出しをしたりと、銀行みたいなこともやりました。

また、病人に対して無料で薬を分け与えたりして民衆に大人気!

他の国の人たちがうらやむほどでした。

実は早雲、目の前にある豊かな「伊豆」を狙っていたのです。

この頃伊豆は、戦乱続く東国を治めるため8代将軍義政の弟である政知が、堀越ってトコに派遣されて堀越公方(ほりごえ)と呼ばれるていました。

早雲は密かにここが欲しかったのです。

早雲の領内の農民らは生活がすっごく楽になり、伊豆に人々も「早雲殿のとこはいいなー」と思うように。

もし早雲が伊豆をゲットしたら、領民達は喜んで早雲を迎えてくれるだろうと読んでいたのです。

早雲 伊豆攻撃の準備を整える
こうして早雲は評判もよくなり、みんなが羨む領主様となってきました。

さらに早雲のもとに忍びである「風魔一族」のボスである小太郎が雇ってくれと言ってきました。

早雲は小太郎を気に入り、風魔一族を召抱えたのです。

こうして風魔一族はのち北条家のお抱え忍者となるのです。

また今川氏親に「何かあったら兵を貸してくれ」とお願い。

氏親は早雲が大好きだったので、もちろんOKしました。

こうして早雲が伊豆をゲットするための準備は整いました。

あとは時期だけとなったのです。
この頃の関東の勢力「足利ミニ幕府」
この頃の関東は、応仁の乱が始まる前からぐちゃぐちゃでした。

まずはじめに1338年足利尊氏が京都に室町幕府を開くと、尊氏は弟の直義に関東に派遣しました。

が、尊氏&直義の仲が悪くなり、直義が毒殺されると、尊氏の嫡男である義詮が関東を統治しました。

その後義詮が2代将軍になると、次男の基氏が「鎌倉公方」となり、その子孫が「鎌倉」を統治していくのです。

足利家は本拠地である鎌倉を離れ、京都に幕府を置いたため「鎌倉府」をミニ幕府として設置し、身内を鎌倉公方に任じて関東を支配していくのです。

が、「鎌倉公方」は京都の本筋である将軍家に偉そうにされるのを嫌う傾向にありました。

さらに鎌倉府の実力者NO2である「関東管領」の上杉氏とも険悪に。

1416年には関東管領の上杉家と鎌倉公方の足利家が大喧嘩をしたりと、鎌倉府でも公方VS管領がバトルを繰り広げていたのです。

そして8代将軍義政の頃に、義政の弟の政知が鎌倉公方に任命されました。

が、管領の上杉家が政知を受け入れず、伊豆の堀越に留まることに。

関東の実質的な統治者は関東管領の上杉氏となっていったのです。

また関東管領の上杉氏も山内(やまのうち)扇谷(おうぎがやつ)宅間(たくま)犬懸(いぬかけ)の4家に分かれ、一族で主導権争いをしていました。

特にすごかったのが山内上杉氏と扇谷上杉氏で、闘争しまくっていたのです。

そしてこの闘争に乗って、北条早雲が関東へ進出することとなるのです。
1491年 伊豆の堀越公方お家騒動
早雲が伊豆を攻めるチャンスが訪れてきました。

堀超公方である足利政知が病死したのです。

政知には3人の息子がいました。

茶々丸・義晴(のちの12代将軍です)・潤の3人です。

次男は京都の寺に入れられていたので、茶々丸と潤が堀越に残っていました。

が、潤の母である円満院は自分が腹を痛めた息子ではない茶々丸が大嫌いでした。

また茶々丸も18歳でありながら酒ばかり飲んでいて、大暴れするという乱暴者でした。

円満院は自分の息子である潤を後継ぎにするべく策略をし、茶々丸を家臣に命じて座敷牢に閉じ込めたのです。

茶々丸は円満院を恨みまくり、自分に同情してた家臣を騙して牢屋番を刺し殺し、なんとそのまま円満院と潤を殺してしまったのです。

翌日茶々丸は「オレが公方になるからな!」と宣言。

家臣たちはビックリしましたが、文句を言ったら殺されそうなので従うこととなったのです。

が、この茶々丸が最悪でした。

権力の座についたとたん、横暴さがパワーアップ!

長年虐められていたストレスを発散させ始めちゃったのです。

家臣の中には「少しちゃんとするように」と注意した人もいたんですが、その家臣は殺されてしまいました。

そのため公方家は火が消えたように静まり返っていたのです。

1491年 北条早雲 伊豆を征服 
この情報は早雲の耳にも入ってきました。

おまけに、関東管領の山内上杉・扇谷上杉の争いに伊豆の大半の武士団が駆り出されていた。

これ以上のチャンスは二度と巡ってこない・・・。

早雲は堀越公方を襲撃することを決めたのです。

公方家では突然の襲撃にビックリ!

茶々丸は勇ましく戦ったらしいのですが、やはり勢いには勝てませんでした。

山林に逃げ込み、自刃したのです。

この瞬間に、早雲は戦国大名にのし上がったのです。

この頃武士には「大義名分」が必要だというのが武士社会の暗黙のルールだったんだけど、早雲はそんなの無視して、内乱と混乱のどさくさに紛れて国を盗ってしまった。まさに戦国大名です。

そして戦国大名第一号早雲の登場によって「乱世戦国」の幕開けとなるのです。

早雲 ねずみの夢を見る
ある晩、早雲は夢をみました。

2本の大きな杉の木を、ねずみがかじってて、とうとうそのねずみは杉の木を倒す。

すると、ねずみの姿から虎に変わるというもの。

早雲はこの2本の杉の木は、当時関東を支配してた扇谷の上杉氏と山内上杉氏のことで、ねずみとはねずみ年生まれの俺のことだ!と考えました。

ということで、早雲はこの夢によってこの二つの杉の木を倒す決心をしたのです!
1495年4月 早雲 小田原をゲット
早雲は、まず大森氏が支配していた小田原城へ。

小田原城は、当時名君と評判の高かった大森氏頼から息子藤頼に家督を継いだばかりでした。

早雲は藤頼に近づき、プレゼント攻撃をしまくりました。

そうして藤頼に気を許させてから、「鹿狩りをやってるんだけど、鹿が小田原城の裏に逃げちゃったから、うちの兵を小田原城の裏に行かせますけどいいかな?」と聞いたのです。

すっかり気をゆるしている藤頼は「うん。どうぞご自由に!」と、それを許可したのです。

そして早雲は小田原城の裏にまわり、角にたいまつをつけた牛を数千匹小田原城に向かわせたのです。

これは「火牛の計(かぎゅう)」という戦法で、以前木曾義仲が倶梨伽羅峠の戦いに用いたもの。

大軍が押し寄せてきたのか!?と、ビックリした大森藤頼は慌てて逃げちゃったので、早雲はいとも簡単に小田原城をゲットしたのです。

中国地方の雄・尼子経久

応仁の乱の前に生まれている尼子経久。

北条早雲とならび、この時代「下克上」を起こした人であります。

尼子氏は、南北朝時代の有力者佐々木道誉の子孫です。

京極高詮の弟が住んでいた土地の名前をとって「尼子」にしました。

経久は応仁の乱が起こったとき10歳でした。

応仁の乱のときは、京極氏が細川勝元の味方をしたため、山名氏に狙われることに。

経久の父・清定は勇敢な武将で、山名氏からの攻撃からたびたび出雲を守っていました。

経久は、17歳から22歳まで京都にいる京極氏のもとに人質として預けられました。

出雲から京都へ出てきた経久は、京文化を身につけたんだけど、反面京都の腐敗した政治やだらしなさを知ることに。

1479年に経久は家督を相続。

ここで経久、京極政経とケンカをしちゃいました。

というのも、今まで京都で腐った政治を見てきた経久は、父の清定が命がけで戦い守ってきた領国の税を簡単に治めるのがイヤになってきたのです。

京で経久は、自分達地方武士が必死で治めた税金で、京極らおえらいさん達が私利私欲のために使いまくってるのを見てきてしまったから。

税金を納めないことに怒った京極政経は、経久を追放するため幕府に助けを求めました。

とうとう経久は、富田城を追い出され出雲の守護代をクビになってしまったのです。

ですが経久も負けてはいない。

3年後の元旦の時、早朝4時に富田城に忍び込み、火をつけ襲い掛かったのです。

そして経久は富田城を取り返すことに成功。京極政経はもう出雲はいいや・・・と、出雲を捨てちゃいました。

こうして経久は、富田城を拠点とし、着々と領地を広げ始めました。

1508年 幕府ははちゃめちゃ 10代将軍義植返り咲き!
地方の守護たちは、幕府をがんがん見放していって、この時の天皇である土御門天皇のお葬式のお金も出してもらえない有様。

さらに、細川氏の内部にも争いが起きてしまい、幕府はさらに混乱。

どんな争いかというと・・・。

細川政元には男子が生まれなくて、澄之と澄元という養子をもらいました。

この2人に細川の家臣がついて真っ二つに対立しちゃったのです。

ついに、澄之派の家臣によって、政元が暗殺(永正の政変)されてしまいました。

政元派は反撃をし澄之をやっつけるが、この隙をついて前将軍の足利義植が攻撃してきて返り咲きするというはちゃめちゃぶり。

11代将軍 義澄は京都からサヨナラとなるのです。

義植が将軍に返り咲き、管領は細川高国が飛び出してきました。

だけど、この2人気が合わずにケンカ。

高国はなんと、義植を追放。

11代将軍の義澄の息子、義晴を12代将軍に迎えたのです。

1512年 正体不明の奇病「梅毒」
この頃、ドバーっと広がり始めたのが「梅毒」

梅毒は1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見したときに、隊員が現地の女性とエッチしちゃって梅毒を持って帰ってきちゃいました。

その後コロンブス一行はスペインに帰り、ヨーロッパで怒涛のように広がるのです。

そして今度はバスコ・ダ・ガマ御一行様。

インド行った時に梅毒をに持ってっちゃって、インド大陸にドバっと広がりました。

インド→マレー半島→中国と梅毒は広まりまくり。

そして日本の「倭寇」という海賊が、中国の領域で海を荒らしまくっていた時に梅毒を持ってきちゃうのです。

以後「梅毒」は日本中に広まりまくるのです。
1516年 80歳の早雲 最後の大仕事
さらに1516年、80過ぎた層雲は最後の仕事として鎌倉時代から続く名門相模の三浦氏を4年かかって滅ぼしました。

相模一国を統一した早雲。

小田原城を本拠地に、北条5代に基礎を築きました。

1518年 尼子経久悲しむ 長男の死

経久には長男政久がいました。

経久があまりにも偉大だったため、政久はつねにプレッシャーを感じていました。

酒に溺れることはなかったけど、芸能・詩歌を好むタイプに成長していきました。

得に笛はプロ並みの腕前。

ところが1518年、経久と一緒に磨石山城(島根県)の桜井家を攻めた時、優雅に笛を吹いていると、敵兵が場内から矢を放ち、なんと政久に命中。

長男政久は死んでしまったのです。

突然の息子の死。経久は嘆き悲しみ、城兵を皆殺しにしちゃいました。

また、三男が問題児。

三男興久は、要害山城主だったんだけど、原手郡の土地も欲しい!と言い出したのです。

経久は、ここは無理だから別のとこを・・・と、備後国の土地をあげました。

が、興久はこれにかなり不満で、間に入っていた家臣を殺そうとしちゃったのです。

経久は、「家臣は大事にしろ!」と怒りましたが、興久は逆に「息子より家臣をかばうのか!」と、とうとう反乱を起こしてしまうのです。

が、百戦錬磨の父にかなうはずもなく、とうとう追い詰められて自害。

最愛の長男をなくし、3男まで自分の手で滅ぼしてしまった経久はかなり辛かっただろうにね。

経久は、孫(政久の子)の晴久が成長するのを待ち、家督を譲るのでありました。

そして、その頃急速に這い上がってきた毛利家と中国地方の覇権を争うようになるのであります。

1519年 戦国の申し子 北条早雲死去
早雲はその後、88歳まで歯も抜けず気力も盛んに生き、1519年に死去しました。

ちなみに50歳過ぎて結婚した早雲は、55歳の時に長男氏綱が生まれました。

三男の幻庵は61歳の時の子供。すごいよね。

早雲の逸話をちょっと紹介★

ある時、馬泥棒が捕まり裁きの場に早雲も居合わせました。

すると馬泥棒が、「私は確かに馬を泥棒しましたが、あの方(早雲)は、国を盗みました。あの方に比べれば、私の罪など軽いものです」と言ったのです。

早雲は大笑いし、「確かにその通りだ!」と、馬泥棒の罪を許してあげました。
1521年 尼子家最盛期!11カ国をゲット★

富田城を拠点とした尼子家は1521年には中国地方11カ国をゲット。尼子氏の最盛期となります。

ちなみに尼子家がなぜこんなに伸びてきたかというと、それは経久の性格にあります。

経久は無欲で正直な性格で自分の味方になった者はとことん信じました。

そのため一度家臣になった者は「経久殿を裏切ったらバチがあたる」と思うようになっていったのです。

また貧乏人を救うのに力をいれまくりました。

さらにステキな癖が・・・。

富田城を訪れたお客さんが経久の持ち物を褒めると、経久はとても喜び、お客さんが褒めた物を気前よくプレゼントしちゃうのです。

また家臣には有り金はたいて新しい着物を作ってやり、自分は質素な着物で過ごしました。

家臣や領民はそんな経久の恩に報いようと必死で戦ったのです。

また敵の中にも尼子家の家臣になりたいと思う者も出始めるのでした。

1521年 12代将軍 足利義晴
高国は幼少の新将軍を迎え、ますますパワーアップしたけど、またもや家臣団の間でトラブルが起き反乱が・・・。

高国に反乱を起こしたのは、高国に兄弟を殺されたという人たちで、高国はガンガン攻められ弱くなっていくのです。

そして今度は、細川晴元が代わって勢力を伸ばしていきました。

とうとう1531年に、天王寺の戦いで細川晴元は高国を殺しましたが、今度は晴元陣営で内部分裂。

天王寺の戦いで一番頑張った三好元長(三好長慶のお父さん)と、細川晴元が対立し始めたのです。

晴元は、一向一揆を味方につけて三好元長を自害させました。

晴元は京都へ帰りましたが、やっぱり晴元政権は不安定でした。


1521年11月3日 武田信玄生まれる
信玄の父信虎は、生まれたときから自分の父信縄とその弟が家督争いをしていました。

で、父信縄が死んで信虎が家督を継ぐと、叔父さんである父の弟が一斉に謀反を起こしたのです。

信虎は、謀反を起こした奴らをなだめ、妹を嫁がせたりとなんとか頑張りました。

1515年には、大井信達ってのが、駿河の今川家の応援を受け謀反。

信虎はなんとか大井と和解し、その娘を自分のお嫁さんにもらいました。この人が大井夫人で、信玄達の母となります。

1521年にまたも戦い。このさなかに信玄が生まれたのです。

信玄は、小さい頃本ばかり読んでいる少年でした。

孫子の兵法を会得して、信虎を学問的にやりこめてばかりいたため、父の信虎から嫌われ「あんななよっちいヤツにまかせられん!家督を継ぐのは弟の信繁にする!」とずっと言われ続けていたのです。

長男としての誇りを傷つけられた信玄は悩んでいました。

で、ダメ兄貴を演じることにしたのです。

乗馬をしては落馬をし、書道をすればわざと下手クソに書いたりなどどうつけのフリをしたのです。

でも、このうつけぶりを演技だと見抜いてる家臣は大勢いました。

一方残虐な性格だった父・信虎は、ワンマンで勝手な振る舞いが多く、人気がありませんでした。

次第に家臣や領民の不満は高まっていくこととなるのです。

1523年8月10日 出てきた!毛利元就家督を継ぐ
毛利家は、もともと源頼朝に仕えていた大江広元の子孫。

毛利元就は1497年に生まれました。

父・弘元が39歳で死に、長男が後を継ぐが酒の飲みすぎで死んじゃいました

長男の子が2歳で後を継いだんだけど、8歳の時病死。

しよーがないので元就が毛利家の家督を継ぐことに。

元就が20歳の時、当時めちゃくちゃ強いと有名だった武田元繁とバトルになりました。

その武田元繁を元就が討ち取ったことから一躍有名人に。

この頃、毛利家は大内家・尼子家の2大勢力に比べると全然弱小でむしろこの2つの家のどっちについた方が得か?なんてことで悩んでいました。

どっちかというと尼子派だったんだけど、元就が武田元繁を討って、ちょっとヒーローになってたので尼子家から反感を買ってました。

ムカつき気味の尼子家は元就のイトコに「謀反起こせば?」とささやいたのです。

これが元就にバレ、むかついた元就は1525年に尼子経久より大内につく!と決意したのです。

元就が尼子家にとって最大のライバル大内家についたことにより尼子家は怒って元就を攻撃しはじめました。

なんとかしのいでいた元就だったが、1540年尼子経久の孫晴久が3万の大軍でやってきたのです。

対する毛利軍は2000人ちょっと。

郡山城で篭城していましたが、大友軍が援軍を出してきてくれたおかげで毛利軍は勝利!

晴久が元就に負けた翌年1541年に、尼子経久が84歳で死去。

経久の死とともに、尼子家に翳りが見えはじめることになるのです。

1526年4月 今川氏親「今川仮名目録」を制定する
氏親は、関東を支配していた北条早雲と同盟を組んでいて三河・尾張を攻めようとしていました。

戦力もさることながら、政治もしっかりとやってました。

「今川仮名目録」という武田信玄が真似した、国を治める法律も早々と作ったりしてたのです。

家柄・軍事・政治と全て優れた家として強大になっていくのです。
1527年 蝮の道三 登場!
若い頃は何をしていたかイマイチはっきりしてない人です。

京都妙覚寺において「知恵者」と将来を嘱望されていた僧だったと言われています。

その後、京都から美濃(岐阜)にわたり、山崎屋庄治五郎という名の量り売りの油商人に。

一文銭の中央にある穴を通して油を注ぎ、もし油が穴からそれたら代金をタダにしますぜ!という街頭パフォーマンスで人気者に。

その後、美濃の有力者「長井家」に仕え、そこから紹介されて長井家の主人である美濃を200年にわたって支配していた「土岐政頼」の弟である「土岐頼芸」に仕える事になりました。

元々道三は何をやっても器用で頭もよく、人間的な魅力に溢れいていたらしい。

すぐに土岐頼芸のお気に入りになり、頼芸の側室「深芳野」を譲り受け妻とするくらい信頼されましたが、道三の野望はここで終わりではありませんでした。

主君頼芸を酒に溺れされ、政治から関心を遠ざけ意のままに操るようになっていくのです・・・。

頼芸はというと、大名であり兄である土岐政頼と仲が悪く、道三はそれを利用することに。

頼芸をそそのかし1527年に謀反を起こさせ、頼芸が美濃の大名になりました。

が、頼芸を言葉巧みに山の中のお城に閉じ込め政治を道三が操るように。

そんな道三のやり方に、長井氏らが不満を持ち始めるのです。

道三は自分を紹介してくれた長井氏を謀反の疑いあり!とし、長井氏を謀殺してしまいました。

その居城であった稲葉山城を含む長井家を乗っ取り、名前を長井新九郎とした。

自分を取り立ててくれた恩人である長井氏をも、自分の出世の為に消す。

これぞ乱世戦国を代表する梟雄ですねー。
1530年1月21日 上杉謙信生まれる
「上杉家」というのは、源頼朝の一族の流れを汲む名家でした。

謙信の「上杉家」は、もともと「長尾家」という家柄で、本筋の上杉家より格下の家でした。

が、本筋の「上杉家」が、この時代に没落してしまったため、謙信のいる長尾家が、この本筋の上杉家を継ぐことになるのです。

謙信は、長男である兄春景がいて謙信(幼名虎千代)が生まれた時は兄は18歳。

「いまさら余計なヤツが生まれやがったよ」と、小さい頃はお寺に奉公に出されていました。

が、謙信は僧としての学問を学ぶより、兵学の方が好きで、お寺から「この子は僧には向いてません」という手紙までもらうような少年に成長していきました。

その後謙信は、禅や仏の修業を7年も続け、後は僧侶になる予定で成長していくのです。

1532年 三好長慶 後継ぎとなる
三好家は細川家の支配化にある阿波にありました。

応仁の乱の時、三好家は細川の軍に入って大活躍。

三好家は、細川軍の中で一番強力となっていくのです。

が、そんな三好家に危機感を感じ始めたのが主君である細川家。

これ以上でかくなる前に・・・と、三好家の当主を殺してしまったのです。

次の後継ぎになったのは長慶の父である三好元長。

ですが元長も細川家に危険視とみなされ、自害させられてしまうのです。

三好家は主君である細川家によって、めちゃくちゃにされてしまいました。

次の当主が「三好長慶」でした。

長慶はこの時まだ9歳。

どうすることもできず、所領を細川家に取られ淡路島に逃げていったのです。

淡路島へ逃げた後も三好家は細川家の家臣として、戦いに参加させられてしまいます。
1534年5月12日 織田信長生まれる
織田家は、斯波家の家臣でしたが、信長の父・信秀の時に独立。

信長の幼名は吉法師(きっぽうし)

乳飲み子の頃から、乳母の乳首を噛み切ってしまい、何人も乳母が代わりました。

池田恒利の後妻が乳母になってから、その癖がぴたりと止んだらしいです。
1536年6月 今川義元 太原雪斎との出会い
今川義元は氏親の五男として生まれました。

五男だったので、家を継ぐ身分じゃありません。

そのため幼い頃からお寺に奉公に出されていました。

とはいっても、正室の子は長男氏輝と五男義元だけでした。

この奉公先のお寺で会ったのが太原雪斎。

父・氏親が死んだあと長男の氏輝が家督を継ぎましたが、すぐ病死。

他の兄弟は養子に行ってたりしたので、残ってるのは三男と五男の義元。

これにより家督争いが始まることとなるのです

1536年10月 今川家お家騒動 花倉の乱
雪斎は今川家の重臣の子で、14歳の時に建仁寺の僧になりました。

ゆくゆくは高僧に・・・と思っていた雪斎だけど、転機がやってくるのです。

今川家の4歳の五男(義元)が寺に入り、その養育係として雪斎が指名されたのでした。

そして今川氏親が死に、長男氏輝が死に、氏輝に子供がいなかったために三男の玄広恵探(げんこうえたん)と五男方菊丸(義元)の家督争いがスタートすることとなったのです。

この今川家家督争いを「花倉の乱」といいます。

雪斎は、自分が育てた義元が家督を継ぐチャンス!と考えました。

まず雪斎は、氏親の正室で、未亡人の寿桂尼(じゅけいに)と手を組んだのです。

寿桂尼も、自分の産んだ義元に家督を継がせたかった。

さらに、重臣らに「恵探が家督を継いだら、恵探の母の父親方の福島一族が口出ししてきますヨ・・」と根回し。

これは効き目ばっちりで、重臣の殆どが義元側につきました。

そして恵探と福島一族は花倉城に立てこもり、そこを重臣らが攻撃。恵探は自害したのです。

以後、雪斎は義元の軍師として大活躍することに。

義元は「海道一の弓取り」と呼ばれ東北地方に一大勢力を築いていくのです。

また、駿河の街は義元好みの京風文化となり華やかになっていきました。

1537年2月6日 豊臣秀吉生まれる
秀吉は尾張の貧しい農民の家に生まれました。

最初の名前は「木下藤吉郎」でした。

8歳の時、口減らし(くちべらし・食べるものがないので外に出されること)のため近くの光明寺に奉公に出されました。

ここでの奉公は長続きせず、ある時寺を飛び出してしまいました。

家に戻った秀吉は、亡き父が残してくれたちょっとのお金をもらって、一国一城を夢見ながら清州城下で針を売り歩き西へ向かっていたのです。
元就尼子家にボロ負け
元就は、その後もライバル尼子家をやっつけるぞー!と、尼子家の本拠地である富田城を包囲。

が、この時尼子に寝返ったヤツラがいて、大内・毛利ともボロ負け。

元就も死にそうになったが、渡辺太郎ら七騎が身代わりとなって元就を救いました。

これを元就七騎落ちといいます。

 
1541年6月 武田信玄 父・信虎を追放し家督を継ぐ
信虎はかなり厳しかったため甲斐の民衆に人気がありませんでした。

また家臣達も自分勝手で乱暴が多い信虎に嫌気が差していました。

家臣らは、信玄を武田家の領主にしようと反乱を起こし、信虎を追放しようと考え始めるのです。

そして信虎が今川家に挨拶に行き、帰ってくる途中に兵が信虎の周りを取り囲みました。

出迎えと思った信虎が、ノコノコと挨拶しようとすると「謀反」ということがわかり、信虎大ショック!

武田家から追放されてしまったのです。

だけど、武田の基盤を築いたのはこの人!と言われています。

ちなみに、信玄に追放されてからも身の回りの面倒を見る人や、側室をあてがってもらえて生活費なんかもすべて信玄が出してました。

また信玄は「親を追放した男」というレッテルを貼られ、今後何かと辛い思いをしていきます。

以後、家督を継いだ信玄は領地拡大のためグングンと実力を発揮していくのです。

1541年7月 北条氏康家督を継ぐ
戦国大名第一号「北条早雲」から始まった北条家。

鎌倉時代の「執権・北条氏」とは全く関係なく「後北条」と呼ばれています。

といっても、執権・北条家をめちゃくちゃ意識していました。

早雲死後、氏綱が後を継ぎ勢力拡大していきました。

氏網は天才・早雲とは別タイプで、内政に力を入れまくっていました。

慎重なタイプで、コツコツと領地を安定させ、北条の基盤を確固たるものにしていったのです。

さらにその子、氏康が家督を継いだことによって、さらに北条氏はパワーアップ!関東一帯を支配するようになるのです。

氏康は「武力」というより、どっちかというと政治向きのイメージがありますが、生涯36回合戦に出て一度も敵に背中を向けたことがなかったらしい。

早雲以来の家訓である「家臣と民を大切に」「戦いに勝っても思慮深くして、人心を掌握するように」などなどを忠実に守り、北条家は氏康の時に全盛期を迎えることになります。

ちなみに「北条家」は、土地柄、鎌倉幕府の時の感覚をずっと持っていました。

「東国の武士はこっちで適当にやるから!朝廷とか京都の連中は関東に口出すな!」と言った感覚が、北条家の領地全体に染み込んでいたのです。


1542年 三好長慶立ち上がる!
9歳で三好家の後継ぎとなり、淡路島に逃げていた長慶も17歳となりました。

この間、細川家は室町幕府三管領の「畠山氏」「斯波氏」よりも勢力を持ちまくっていました。

三好家は細川家の子分として、淡路島でなんとか頑張っていましたが、とうとう「三好家が持っていた領地を返せ!」と、細川家に要求したのです。

「生意気なことを言うな!」と激怒したのは細川家。

こうして主君細川家VS家臣三好家のバトルがスタートしたのです。

細川VS三好のバトルは長々と続きました。

長慶は「十河家」と手を結び、とうとう父を殺した三好政長を殺し、大坂をゲットしたのです。

そして京都に進み、細川晴元を追い詰めていきました。

ですが京都には「将軍」がいる。

細川家は将軍を守る立場にあるため、細川家をやっつけるということは将軍をも京都を追い出すこととなります。

ですが三好家は「長年の恨み、今こそ晴らしてやるぜ!」とばかり進軍しまくりました。


1542年12月26日 徳川家康生まれる
この頃はまだ「松平家」として三河にいました。

家康のおばあちゃんである「お富」は、三河武士の生まれでしたが、とても美人でした。

その美しさに惹かれたのが三河刈谷城の城主であった水野忠政。

で、水野忠政とお富は結婚し「於大(おだい)」を出産しました。これが家康の生母となります。

が、お富のことを娘時代から「かわいいなぁ」と狙っていたのが松平清康。

三河一国を平定した頃に、水野忠政に「お富をくれ」と強制的に奪ったのです。

お富は夫の忠政と娘達と泣く泣く別れることとなったのです。

そして松平清康のもとへ嫁いだお富でしたが、なんと清康が1535年25歳の若さで家臣に殺されてしまったのです。

この時使った刀が「村正」だったため、家康は「村正」を嫌っていたそうです。

松平清康が死んだことは、弱小国の大ピンチ!

西からは織田信秀(信長の父)・東からは今川義元が三河を奪うべく侵入しだしたのです。

この時清康の息子広忠(ひろただ・家康の父)はまだ10歳。

そこでお富は広忠を守るべく、女でありながら家臣団の団結を図ったのです。

そして広忠が16歳の時に、別れた娘「於大」を花嫁として迎えさせたのです。この時於大は14歳でした。

お富は最愛の娘「於大」を、松平家の後継ぎである広忠の妻として政略結婚させたのです。

こうして広忠と於大の間に、長男・竹千代が誕生しました。これが松平元康(のちの徳川家康)となるのです。