室町時代その7 1543年〜1555年

1543年3月 山本勘助 武田家に仕える
信玄「諏訪の姫」を欲しがる
8月25日 種子島に鉄砲伝来
蝮の道三一国の主となる
1544年 松平(徳川)家 大パニックに!
毛利家三男 小早川家へ養子に(小早川隆景)
1545年 信玄 高遠城攻略
信玄 3000人もの生首をさらす
1546年 13代将軍足利義輝
4月20日 北条氏康 扇谷上杉を滅亡させる
ヤンキー少年 織田信長
1547年 武田信玄 「甲州法度」を制定する
信玄VS村上義清 疾きこと風の如く
10月 家康 今川家に行く途中織田家に奪われる
1548年 長尾景虎(上杉謙信) 家督を継ぐ
将軍義輝 細川晴元と仲直り
1549年2月24日 信長 道三の娘濃姫と結婚
3月 家康の父・広忠 家臣に殺される
7月 フランシスコ・ザビエル来日
11月 今川・織田 人質交換 
家康の人質ライフ
1550年 わがまま坊ちゃん 大友宗麟家督を継ぐ「大友二階崩れ」
2月 毛利元就 元春を吉川家にいかせる
1551年3月 非難ゴウゴウ織田信長
5月 真田幸隆 謀略で城を落とす
村上義清 大ショック!「こうなったら・・・」
9月 陶隆房(すえはるたか)主君・大内義隆を討つ
1553年1月 信長ショック!ジイ・平手政秀の諌死(かんし)
4月 斉藤道三 信長とご対面
8月 村上義清 上杉謙信のもとへいく
川中島の戦い始まる
1554年3月 今川・武田・北条の「三国同盟」成立
1555年 家康「三河武士魂」に涙する
太原雪斎死去 今川衰退の道へ
7月 川中島第二回 犀川の戦い
毛利元就「陶隆房を討とう!」
9月20日 厳島の戦い 毛利元就VS陶隆房
わがまま宗麟に家臣は呆れまくり




室町時代 その7 
1543年3月 山本勘助 武田家に仕える
戦国一の醜男といわれている勘助。

あばたづらで背は低く、肌は黒く、左目を失明しており、右足は不自由で手の指は動かなかったという。

今川家の家臣の子として生まれた勘助は、とりあえず今川家に仕えるが、醜いため嫌われ能力を発揮せずにいました。

そんな中、今川家の使者として信玄のもとに行かされた時、信玄は勘助の醜さに驚くも、これは逸材だ!と見抜き、勘助を自分の下に置くようになったのです。

他の説によると、信玄が築城の話しをしていた時に、家臣の1人が「山本勘助という諸国を歩き回り勉強していた城造りの名人がいるそうです。今川家に仕えていますが、あまりの醜い顔のために、義元殿が嫌っているとか。勿体無い話しです」と言い、興味をもった信玄が「では、その男を100貫で雇おう!」と言ったそうです。

で、実際に信玄と勘助が会いました。

信玄は「その方は、城造りの名人だといいうが、偽りはないか?」と聞きました。

勘助は「偽りはございませぬが、今まで頭の中ばかりで造っており、実際に造ったものはございません」とバカ正直に答えたのです。

信玄は「気に入った!100貫では勿体無い!200貫つかわそう!」と言ったのです。

この時勘助50歳といわれています。

今までずーっと底辺にいた勘助を見立ててくれた信玄を、勘助は感謝するとともに、尊敬し、ぐんぐんとその才能を発揮していったのです。

1543年 信玄「諏訪の姫」を欲しがる
この頃の信玄は信濃侵略を目指し、隣の諏訪家を滅ぼし佐久にも侵略の手を伸ばしていました。

去年の1542年に信玄が諏訪氏を滅ぼしたとき、信玄は諏訪家の14歳の湖衣姫にヒトメボレ!

側室に迎えようとしたんだけどが重臣らは「諏訪の人の反感を買う!」大反対したのです。

が、勘助だけは「新参の私が申し上げるのはなんですが、ご側室に迎えるべきだと思います。」と言ったのです。

家臣一同ムッとした空気が流れました。

勘助は「わが殿は天下をとるべく器のあるお方。諏訪の姫を側室に迎え、わが殿が合戦に勝つたび諏訪の人々は、諏訪の姫に早く子が生まれないかと願うでしょう。お子が生まれたら、諏訪家再興の希望も出てきます。殿が勝つたびに諏訪の人々は喜び、殿のために働くでしょう」と意見したのです。

こうして勘助の「一挙両得論」は通り、信玄の願いどおり側室に迎えることとなったのです。

以後、勘助は信玄に信頼されまくることとなります。

ちなみに、この諏訪の姫との間に生まれたのが勝頼です。
1543年8月25日 種子島に鉄砲伝来
幕府が不安定で、地方も争いを続けている中、暴風雨により種子島の南端に大きな中国船が流れ着きました。

そこにポルトガル人の商人が乗船していて、大きな棒のような武器を持っていました。

領主の種子島時堯は、雷のような音とともに的を射るその武器に興味津々。

好奇心旺盛なその領主は、鉄砲と呼ばれるその武器を2丁譲ってもらったのです。その金額は当時のお金で1億円!!

で、1丁をバラして刀工師の矢板金兵衛清定(やいたきんべえきよさだ)に同じものを作れ!と命令しました。

だけど、清定がどーしてもわかんないことが1つあった。

どうやら「ねじ」の部分だったらしく、困った清定は17歳の自分の娘をポルトガル人に嫁がせ、代わりに情報を貰おうとしたが教えてもらえず、娘も連れて行かれちゃいました。

だけど翌年、ポルトガル人がまたやって来て、どうにか教えてもらうことに成功。

1545年 第一号が完成したのです。

もしこの船が、となりの屋久島に漂流していたら、この時、鉄砲は伝わらなかったと言われています。

種子島は元々砂鉄が多く取れ、鉄に関しても知識がある国でした。

また、16歳の好奇心旺盛な領主じゃなかったら、戦国はこんなにすさまじいものにならなかったかもしれない。

で、この鉄砲の技術を堺の商人橘屋又三郎(たちばなやまたさぶろう)が持ち帰り、堺は鉄砲の産地となるのです。

鉄砲の出現によって、お城の築城方法も変わりました。

壁は弾を通さないよう厚くなり、天守閣や深い堀が作られるように。

また、戦い方も一騎打ちから足軽などを使うなどと変化していきました。

ちなみに、鉄砲隊は女性が多かった。

遠くから撃つことができるので、お城の中に女性の鉄砲隊を作り撃たせたらしいです。

男性は篭城の際、鉄砲隊の将に任命されることを「女どもを率いる将など情けない!」と、みんなすごく嫌がったのです。

また種子島時堯の娘は、のち島津義久の正室になります。

1543年 蝮の道三 一国の主となる
長井家を乗っ取り、着々と上を目指した道三。

だけど、道三は美濃の人々からやはり「他国者」という目でみられていました。

この解決策として、土岐氏の流れを汲む名門「明智家」から正室を「小見の方(おみのかた)」を迎えることに。

この人が濃姫の母親。ちなみに、明智光秀はここに出てくる「明智家」の人です。

長井の性を継いで実権を握った道三は、守護代の「斎藤利良(さいとうとしよし)」が死んだのを機に「斎藤秀龍」と名前を改め守護代になりました。

美濃一の実力者となった道三にとって、邪魔になってきたのはかつての主君「土岐頼芸」

道三は、頼芸の嫡子を追放し、頼芸をも攻め追放したのです。

美濃をゲットし、200年続いた美濃の土岐家は滅びた。

美濃は新しい主君斉藤家を迎えることとなったのです。

道三は、美濃に来て20年も経たないうちに一国の大名となったのです。

道三は、美濃で楽市楽座(税金なしで店を開けるというフリマみたいなもん)を開き、美濃城下町はとても賑やかに発展していきました。

しかし、追い出された土岐家の人たちも黙っちゃいない。

尾張の織田家に協力してもらってたびたび道三を攻撃。

道三は困って、娘「濃姫」を織田家に嫁がせ同盟を結ぶことに。この相手が信長だったわけです。

1544年 松平(徳川)家 大パニックに!
松平家では岡崎城にて長男竹千代が誕生し、ハッピーモードでした。

が、その幸せはつかの間のものだったのです。

お富の前夫で、於大の実父である水野忠政の後を継ぎ刈谷の城主となっていた水野信元が、松平広忠を裏切り、織田信秀に寝返ったのです。

この頃松平家は今川義元をバックにつけて、尾張の織田信秀と戦っていたため大パニックとなりました。

水野の裏切りによって、今川家から睨まれたら、弱小である松平家などあっという間に潰されてしまうからです。

これまで通り今川家に保護を受けるためには、水野信元と絶縁し、今川義元に対して忠誠の証とするしかありませんでした。

松平広忠は、妻の於大と離縁することとなったのです。

於大は涙を流しながら竹千代(家康)と離れることとなりました。
1544年 毛利家三男 小早川家へ養子に(小早川隆景)
小早川家は源頼朝に仕えていた土肥実平(どひさねひら)から始まります。

瀬戸内海に面した「海の一族」で、強力な水軍を持っていました。

そんな中、竹原小早川家の当主が死にましたが、子供がいなかった。

当主の妻が毛利元就の姪だったので、毛利家から養子を・・・という話になり、最初は本筋ではない竹原小早川家に隆景は養子に行きました。

が、小早川家の本筋である沼田小早川家の当主が戦死し、その子繁平(しげひら)が、失明してしまうという不幸が起きちゃったのです。

ここで「盲目に武将はつとまらん!」と「盲目でもみんなが協力すれば大丈夫!」と家臣が2つに分かれちゃうのです。

時代は戦国・・・。生きるか死ぬかの時代に、盲目の後継ぎはみんな不安で、ここでクローズアップされてくるのが、竹原小早川家の小早川隆景だったのです。

そうして、盲目の繁平には妹がいたので、隆景はこの妹と結婚して、2つの小早川が1つにまとまりました。

ちなみに、盲目でも協力すれば平気!と言ってた家臣らはみんな罰を受けてます。

結局は毛利家の小早川家乗っ取りとなるわけです。

さらに、毛利元就は次男の元春を吉川家に養子に行かせ、吉川・小早川は「毛利の両川(りょうせん)」といわれ、毛利を守る2本の川となります。

事実、この2人は自分の家より毛利家を大事にしてました。

1545年 信玄 高遠城攻略
この頃信玄は高遠城主である高遠頼継に恨みを買っていました。

というのも、頼継は信玄の滅ぼした諏訪家の一族で、頼継は諏訪家を継ぎたくて信玄とともに協力して本家の諏訪家を攻撃していたのです。

が、信玄が全ていいとこどりしていしまい、高遠頼継は激怒!信玄に攻撃をしていたのでした。

信玄としては、頼継のいる城を落とさなければ上伊那地方を占拠できないのです。

この時山本勘助は、真田幸隆と相談しあいました。

真田幸隆は勘助の推薦により、武田信玄に仕えることとなっていたのです。

そして勘助は信玄に「ワシが高遠城攻略をいたしましょう」と進言しました。

信玄は「何?そんなことできるのか?」とビックリ。勘助は「私の言うことを聞いてくれれば・・・」と言ったのです。

信玄は勘助の言うとおりにお触れを出しました。

一、高遠城を攻略するにあたり、降参してきたものは所領を安堵する

一、敵対するものは武士であろうが、百姓であろうが、捕らえて鉱山の鉱夫にする

一、その妻と娘は、鉱夫の遊び女(売春婦)にする。これには例外はない。

というものでした。勘助はこの情報を素破(すっぱ・武田家の忍者)に広めるよう命令しました。

これを聞いて大騒ぎしたのは、妻と娘達。

「ジョーダンじゃないわよ!なんであたし達が遊び女に!?」とギャーギャー言い出したのです。

おかげで、妻や娘に騒がれた高遠城の領民達は戦いに参加しないと言い出し始めました。

兵の集まらない高遠城はもはや戦う気力もなく、高遠頼継らは逃げていったのです。

信玄は「あれだけ大きな城を1人の犠牲も出さず我が物にできた。脅かすだけでうまくいくとは・・・。これもみな勘助のお陰じゃ」と言いました。

勘助は、謀略によってゆるぎない信頼を得たのです。
信玄 3000人もの生首をさらす
高遠城をゲットし、勢いに乗った信玄。

お次は佐久の志賀城主笠原清繁を狙いました。

城主の笠原は、飛ぶ鳥を落とす勢いで迫ってきている若造・信玄にどうするよ?といった感じでした。

そこで、関東管領の上杉憲政に援軍を要請したのです。

上杉憲政は、北条氏康とバトル中でしたが、信玄の快進撃もめちゃくちゃ気になっており「この際、信玄もたたいとくか」ということで、援軍を出すことをOKしたのです。

関東管領である憲政が援軍をよこすということを聞いて、笠原清繁は大喜びでした。

「いくら武田軍が強いといっても、2000くらいの兵であろう?憲政殿は2万の大軍をよこすらしい。あー、良かった」と、ほっと一安心したのです。

が、驚きのニュースが!

なんと憲政の送った2万の軍隊が、こてんぱんに武田軍にやられてしまったのです。

清繁は真っ青になりました。

さらに真っ青になる事件が!

なんと信玄は、討ち取った憲政軍の首を、志賀城のまわりに並べたのです。

その数、3000首。

城内は蒼然となり恐怖におののきました。

3000もの生首は、城内の兵の士気を下げまくったのです。

清繁は「神をも恐れる男め!こうなったら佐久の武士の根性を見せてやろうぞ!」と、戦うことを決意。

清繁らは3日間よく戦いましたが、それでも果敢な武田軍団には勝てず、とうとう城は落ちたのです。

清繁の戦いぶりは凄まじく、もはやこれまでと自刃するとき「わしの首はどんなことがあっても信玄だけには渡すな!」と言ったそうです。

その後、清繁の妻は武田重臣・小山田信有の側室となり、他の者は売買されました。

身寄りのない者は鉱夫や遊び女となり、信玄は佐久の人々の恨みを買いまくったのです。

が、信玄は「ワシに刃向うものはこうなるという見せしめじゃ!」と平然としていました。
1546年 13代将軍足利義輝
12代将軍義晴の長男です。

幕府の権威は応仁の乱により地に落ちまくっていたので、父の義晴とともに、細川晴元と六角定頼の保護を受けて過ごしていました。

が、義晴は細川晴元のえばりくさった態度にムカムカし、畠山政国らと手を結んじゃいました。

これに怒ったのが細川晴元。

義晴は細川晴元と対立し、京都を追出だされてしまいました。

義晴疲れちゃって、義輝が元服と同時に将軍職を譲ってしまったのです。

11歳の少年将軍の誕生です。

この頃になると「将軍」の権威はまったくナシ。

管領である細川家や、打倒細川に燃えている三好家の間でぐっちゃぐちゃに。

逃げまくったりしていた将軍家でした。

1546年4月20日 北条氏康 扇谷上杉を滅亡させる
関東にぐんぐんと進軍していった北条氏。

ケンカばかりしていた山内上杉と扇谷上杉も「このまま両家が争っていたらヤバイ。結局は北条をのさばらせることになるんじゃないか?」とやっと気がついたのです。

が、気がついたのが遅すぎました。

北条は名君と呼ばれる氏康になってからますます強大となり、身内争いでボロボロになっていた上杉に対抗する力はありませんでした。

そして扇谷上杉氏は北条氏に攻められ滅亡。

関東は北条氏のものとなったのです。

が、幕府のバックがついている上杉氏も粘りました。

遠い筋である越後の上杉謙信に「北条をやっつけてくれ!」とお願いしに行くこととなるのです。

ヤンキー少年 織田信長
信長は13歳の時に元服。

初陣は14歳の時。後見役は平手政秀でした。

信長は元服後も作法や形式・秩序というもの全て無視。知っていて破るという反抗的な子でした。

「うつけもの」と呼ばれ、頭はぼさぼさで紐で結び、着物は片肌を出したりととても殿様の息子とは思えない「うつけ」スタイルでした。

行儀の悪さも天下一品。

人目を一切気にせずに人の家の柿なんかにかぶりつき町をヤンキー仲間と闊歩する毎日。

そのときのヤンキー仲間が前田利家ら。

そんな信長でしたが、乗馬の稽古や弓・槍の稽古は真剣。

戦ごっこなんかもヤンキー仲間とやってました。

教育係の平手政秀はてんてこまい。

信長の後をくっついて説教の毎日。

それでも、どこかでこの非凡な信長を見抜いていたのです。

1547年 武田信玄 「甲州法度」を制定する
信虎と全然違う国にするぞ!と考えた信玄は、政治を重視し「甲州法度(こうしゅうはっと)」という法律を定めました。

この頃の大名は、国を治めるため分国法(家法)と呼ばれる法律を作っていて、信玄は今川家を参考にしつつ手を加えたりして完成させまた。

どんなものかというと、まずケンカした人は、喧嘩両成敗。

じゃあ、ケンカやめて仲直りして両家の結束を固めよう!というのもダメ。

家臣の同盟は主君に対する忠誠に差し障るから。

また、恩地という土地の売買もダメ。恩地は主君が与えた土地だから、勝手なことしちゃダメ。

また、地頭が悪いコトした犯罪者から勝手に財産を没収したりするのも禁止で、恋愛においては、他国の人とは結婚しちゃダメ。内情を知られたら困るから!などなどの法律を作ったのです。。

また信玄は、お城を作らず大きな屋敷に住んでいたので「お館様」と呼ばれるように。

軍事面も強力な騎馬隊を整えていった。

正室には三条夫人。今川義元の紹介です。

が、結婚当初は信玄は女遊びばっかしてました。

ちなみに長男義信は信玄に刃向い自害させられ、次男は盲目でした。

信玄VS村上義清 疾きこと風の如く
志賀城を落とした信玄。

お次は信濃の村上義清が相手でした。

義清は60才すぎの老武将でしたが、今までの相手とは違いました。

信玄は生涯大小合わせて100回以上の合戦を行っていますが、「敗戦」といわれるものは28歳と30歳の時の2回で、2回とも村上義清が相手となっています。

とはいっても、「敗戦」というほどのものではなく、何人かの優秀な武将は死にましたが、信玄本陣はまったく無傷でした。

あまりにも信玄が強いため、この2回の戦いが大きく取り上げられることとなるのです。

この戦いで逃げる時に武田家臣・高坂昌信が殿(しんがり)を務め、うまかったため「逃げの弾正」と呼ばれることになります。
1547年10月 家康 今川家に行く途中織田家に奪われる
家康のいる松平家では、今川と織田に挟まれ滅亡の危機でした。

家康は今川家に対する忠誠の証として、今川家へ人質に出されることになったのです。

コレを知った織田家は、家康乗っ取り計画をたてました。

竹千代一行は岡崎上を出発し、陸路で駿府まで行く予定でした。

が、田原というところで城主の戸田康光が「陸路は危険ですよ。船のほうが安全です」と言って来たのです。

戸田康光の娘は、家康の父・広忠の後妻だったのでみんな信用して船で行くことにしました。

が、この時すでに戸田康光は織田信秀に買収されていたのです。

ちなみに買収金額は現在の金額で約6000万円ほど。

こうして家康は今川家へ行く途中で織田家へ奪われてしまったのです。

早速信秀は松平広忠に「オマエの息子を奪ったぞ。息子の命が惜しければ織田の味方になれ」と脅迫。

が、広忠は「竹千代はすでに人質である。生かすも殺すもご自由にどうぞ」と返事をしてきたのです。

広忠からしてみれば、今川家の援助なしでは松平家は存続しないので、こう返事するしかなかったのです。

「ええ?じゃあ竹千代どうする?」と、困ったのは信秀。

父から見捨てられた子供など、まったく値打ちがない。かといって殺しちゃったら後々めんどくさいことになるし・・・ということで、家康は尾張で役に立たない人質として過ごすことになったのです。

尾張での人質時代に信長と出会い、将来を話し合ったといわれています。

またこの時、織田家の家臣である河野氏吉という者は幼い家康を哀れに思い、モズやヒバリを捕まえては「竹千代殿、退屈ではござらぬか?元気にしておりますか?」と優しい言葉をかけ続けていました。

のちに家康が大物になった頃に、この頃の恩返しとして河野宛に立派な刀を送り、河野家を旗本に取り立てました。
1548年 長尾景虎(上杉謙信) 家督を継ぐ
寺で僧になるべく勉強中の謙信。

が、越後において内乱が起こり始め、当主だった謙信の兄は反乱を起こされ、もう家中めちゃくちゃになり始めたのです。

さらに春景は病気がちだったので「このままじゃ上杉家は危ないかも」ということで、寺にいる謙信は無理やり引っ張り出されたのです。

14歳で初陣に行かされた謙信。

相手は寺から出てきた謙信をバカにしていました。

が、謙信の知略により、あっけなく負けてしまったのです。

「寺にいた坊主が敵をやっつけた!」とみんなびっくり。

みんなの期待は膨らみ、とうとう謙信はみなの期待を一身に受け、家督を継ぐことになったのです。

元々才能があったのか、次々と起こる反乱を抑え、越後が安定した時は、超有名人となっていたのです。

1548年 将軍義輝 細川晴元と仲直り
この年将軍家は、細川晴元と講和して京都へ戻ってきました。

細川晴元と仲直りをして京都に戻ってきたものの、今度は晴元と三好長慶がケンカをおっ始めちゃったもんだから大変なことに。

晴元は破れ、京都を出て行っちゃったので、しょーがないから義輝はまたも京都を追い出されることになるのです。

1552年にいったんは長慶と手を結び京都へ舞い戻ることとなるのです。

が、またもや晴元と裏で手を組み、それがバレてまた逃げる。

もう逃げまくりの将軍様です。

やっとこさ1558年に六角義賢に仲介してもらい、なんとか長慶と仲直りすることとなります。

1549年2月24日 信長 道三の娘濃姫と結婚
国内の敵を抑えようと、道三は娘である濃姫(帰蝶)を織田信長と結婚させることにしました。

この時、道三は娘・帰蝶に「もしあれが本当にうつけならこの刀でやつを殺せ」と刀を渡しました。

が、帰蝶は「いずれこの刀は父上を刺すかもしれません」と言い返したそうです。

さすがオレの娘だ!と道三は喜びました。

信長はというと、この結婚が決まっても「娘がきたからといって道三なんかあてになりゃしない」と鼻で笑っていました。
1549年3月 家康の父・広忠 家臣に殺される
人質ライフを送っている家康のもとにショッキングなニュースが入ってきました。

父・広忠が岩松八弥という家臣に暗殺されてしまったのです。

松平家はパニックになりました。

後継ぎである家康は尾張に人質になっているため「この際、尾張の織田信秀に着いたほうがいいのではないか!?」という声が、松平家で上がり始めたのです。

これをヤバイと感じたのが、今川家軍師の太源雪斎でした。

「このままじゃ、松平家は織田についてしまうかもしれん。その前に・・・」と、信秀の長男・信広を攻め、生け捕りにして人質交換をしようと企み始めたのです。
1549年7月 フランシスコ・ザビエル来日
スペインの宣教師であるフランシスコ・ザビエルが、鹿児島にやってきてキリスト教を広めました。

ザビエルはなぜ日本にやってきたかというと、マレーシアでヤジロウという一人の日本人に出会ったからです。

ヤジロウは日本で人を殺しちゃったので、海外へ逃亡。その時停泊していたポルトガル船に乗り込んだらしい。

このヤジロウが礼儀正しく、おりこうだったためザビエルは「日本人が全てヤジロウのようであるなら、日本人とは最近発見した諸国の中で一番高級な民族なんじゃないか?」と思い始めた。

で、1549年7月にヤジロウとともに日本へ。

最初に会ったのは、島津貴久。

領主の島津氏は、キリスト教の布教を認める代わりに、貿易も頼むよ!ってこと布教をOK。

以後、宣教師らは、布教を認めてくれた大名とだけ貿易を行ったので、貿易の利益のために布教を許す大名も出てきました。

ザビエルは、日本は貧しいけど礼儀正しい心のキレイな人が沢山いる!と思ってはいたものの、僧らに「キリスト教は邪教じゃあ!」と迫害されるのです。

1550年 ザビエルは京都へ行くが、ひどい荒れようにびっくり。

こりゃ、将軍も朝廷も力がないので、キリスト教を援助してもらうのは無理だ・・・と見切りをつけ周防(山口)の大内義隆の元を訪ねました。

大内氏は信者となり、布教を許しました。

1551年 ザビエルは日本を去り、残った宣教師らは学校を建てたりして活動しました。

1587年には、教会200信者はなんと20万人にもなり、西日本を中心に広まっていくように。

だけどでかくなりすぎて、この後悲劇が待ち受けてしまうのでありました。

1549年11月 今川・織田 人質交換 
今川家は、太原雪斎を総大将とし、三河の安祥(あんじょう)城の主君織田信広を攻めました。

織田信広は、信長の5・6歳上の兄なんだけど、おかーさんの身分が低いので家督は継げなかった。

この時、雪斎は「織田信広は殺すな!生け捕りにしろ!」と命令。

というのも2年前、松平広忠の息子竹千代(家康)が、今川家に人質としてくるところを途中で奪い取られ、尾張に送り込まれていました。

雪斎は、信広と竹千代の人質交換をしようとしてたのです。で、これは成功。

この人質交換は、織田信広の命の代わりに三河の国の支配権を今川がもらうヨってこと。

これは信広、屈辱だった。

竹千代は今川家に行き、8歳から19歳までの12年間を駿河で過ごすことになります。

ちなみに、その後の織田信広ですが、1556年に斎藤義龍と手を組み、清洲城のっとりを企むが失敗。

この時は信長から許してもらった。

その後は、信長に忠実に仕えてたんだけど、1574年に一揆衆に殺されてしまう。

また、弟の信行には味方になる重臣がいたけど、信広にはいなかったみたい。

母の出が悪いってだけで、お気の毒ですネ・・・。


家康の人質ライフ
織田家から今川家へ移った家康。

そこで今川家軍師の雪斎に教育されたと言われています。

実際は雪斎の弟子が教えたらしいです。

雪斎は、聡明な竹千代をとても可愛がっていて、「竹千代は、一武将で終わる男ではない」と言ったそうです。

家康の人質ライフについてきたのが鳥居元忠。のちに「親友」となります。

また元旦に今川家にて挨拶があった際に、家康は「あれはどこの小せがれか?」と話題になりました。

「松平家の嫡男」と知った彼らは「あぁ、父が意気地なしなために、連れられて来た子せがれか」と馬鹿にしました。

それを聞いた家康は、すくっと立ち上がり、縁側へ出て皆の前で立小便をし、平然と戻ったそうです。

1550年 わがまま坊ちゃん 大友宗麟家督を継ぐ「大友二階崩れ」
大友家はこの頃九州NO1の実力がありました。

宗麟は大友家の嫡子として生まれたんだけど、不幸な子供時代を送っていました。

宗麟の父・義鑑は長男である宗麟を差しおいて、寵愛している側室の息子「塩市丸」を溺愛していたのです。

そして、塩市丸を後継者にする!と発表したのであります。

が、そうはいかないのが宗麟側。なんと宗麟の家臣が夜中に義鑑を襲撃!

義鑑をはじめ、側室と塩市丸、さらに塩市丸の妹までも斬殺してしまったのです。

この場所が2階だったので、「大友二階崩れ」と呼ばれました。

こうして宗麟は21歳にして家督をついだのです。

1550年2月 毛利元就 元春を吉川家にいかせる
元就は三男の隆景を後継ぎのいない小早川家へ養子にいかせ小早川を味方につけました。

そして今度は、お家騒動で大変なことになってる吉川家に次男の元春を養子に行かせたのです。

元就は無理やり吉川興経を隠居させ、元春に家督を継がさせるというお家乗っ取りに成功したのです。

この後こうるさい吉川興経は暗殺されてしまいました。

1551年3月 非難ゴウゴウ織田信長
1551年3月。父・信秀が死にました。41歳でした。ちなみに信秀は死ぬ前17歳の愛妾に溺れまくっていたそうです。

そして信長は織田家の新当主となりました。

葬儀の場では誰もが悲しみ、礼装で座っていました。

ですがいつまでたっても、信長が現れない。

重臣の柴田勝家なんかは次第にイライラしだしました。

そこへ颯爽と信長登場!

その姿にみんなビックリしました。

信長はいつものスタイル(上半身裸)のかっこで現れたのです。

そしてずかずかと居並ぶ家臣の真ん中を歩き、焼香の灰をつかむと、父の位牌にざっと投げつけ「渇!」と一言叫び、さっさと帰ってしまったのです。

家臣は突然の出来事にボー然・・・。

信長のふるまいに金縛り状態にあっていた家臣らは、我に帰るとあちこちでザワメキが起こりました。

みな口を揃えて「あんなうつけものに織田家をまかせられん!!」と言い、品行方正な弟・信行を中心とした反・信長派が出てくるのです。

1551年5月 真田幸隆 謀略で城を落とす
真田幸隆は山本勘助の紹介で、信玄の家臣となっていました。

信玄は8歳年上である幸隆の知略を気に入り、召抱えたのです。

信玄がてこずっていた村上義龍の戸石城を落とすべく、謀略を働かせました。

まず幸隆は、戸石城の周りの民に、自分の味方をするよう武田の碁石金を惜しみなく配りました。

そして攻める時期は5月の田んぼの刈入れ時に選びました。

裏切り者が出ても、兵は農耕に忙しいためすぐにこれないだろうと読んだのです。

この作戦は信じられないくらい成功しました。

夜を狙い、城内に入り、瞬く間に戸石城を落としたのです。

信玄は「戸石城無血奪取」を聞いて大喜び。

同時に、真田幸隆の謀略を褒め称え、幸隆に戸石城とそのまわりの領地を与えました。

ここで幸隆は真田三代の基礎を築くこととなります。

ちなみに真田三代とは幸隆・昌幸・幸村のことで、昌幸の長男は入りません。

その後、昌幸は幼少の頃から信玄の小姓を務め、信玄のもとで武将として育っていくこととなるのです。
村上義清 大ショック!「こうなったら・・・」
戸石城を落とされた義清は大ショック!

戸石城と本拠地葛尾城があってこそ、義清の守備は万全だったというのに、戸石城を落とされたとなっては義清に勝つ見込みはなくなったのです。

それでも義清は「信濃の武士の意地を見せようぞ!」と諸国に呼びかけました。

そこには信玄にやられた小笠原氏などもいましたが、みんな「もう信玄には勝てないよ・・・」と弱気モード。

「それでも信濃武士か!この弱虫どもめ!こうなったらワシ1人でも戦うわ!」と、義清は信玄に向かっていきました。

義清は千曲川の河原で、信玄と激戦し、自ら槍を取り戦いましたが、武田軍の勢いには勝てそうにありませんでした。

もはや義清は信玄に勝てる確率は0に等しかったのです。

「もはや我らは信玄には勝てない。村上源氏の嫡流たるワシがこのような情けないことになるとは・・・。だが、ここで終わらせるなど先祖に申し訳がたたん。かくなるうえは、武名名高い越後の上杉謙信(長尾景虎)を頼るしかない・・・」と、義清は考えたのです。
1551年 9月 陶隆房(すえはるたか)主君・大内義隆を討つ
周防(山口)の大内義隆は、大内義興の嫡男として生まれました。

生まれた頃から、大内家は尼子家と戦ってました。

1528年に父・義興が死ぬと家督を継いで中国地方の安定&拡大に頑張った。

1543年に尼子晴久をやっつけるため大軍を率いて出雲へ行くが嫡子の晴持が死んでしまい大ショック。

戦いはボロ負けだった。

もともと戦いがあまり好きじゃなかった義隆は、文化人であり学問や芸能が好きで、「小京都」と呼ばれるほど文化の花を咲かせました。

フラシスコ・ザビエルの布教を認め、日本初の教会を建設。

ザビエルは、とっておきのおみやげ機械時計(日本で初めて伝来した)を数ある大名の中から、大内義隆に渡しました。

これに気を良くした大内義隆は布教をOKしたらしい。

文化を花咲かせる一方で、そのお金は領民らが出していました。

そのため人々の不満も膨らみ始めることとなったのです。

文化にはまりまくったため、家臣団をないがしろにし、領内政治をあまりやらなくなってしまい、とうとう1551年 家臣である陶隆房が反乱を起こしました。

義隆は長門に逃げ、自刃となったのです。45歳でした。

こうして陶隆房は、主君大内義隆の甥に家督を継がせ、大内氏の実権を握ることとなったのです。


1553年1月 信長ショック!ジイ・平手政秀の諌死(かんし)
家督を継いだ信長ですが、相変わらず勝手な振る舞いばかり。

信長を幼少の頃から面倒みてきた平手政秀(ひらてまさひで)は困り果てていました。

信長が家督を継げたのも、平手政秀と義父である斎藤道三のバックアップがあってのこと。

それでも信長は全く以前と変わらずうつけ三昧。

政秀は他の家臣に攻められ、信長を諌めたんだけど信長は聞く耳持たず状態でした。

政秀には3人の息子がおり、長男の五郎右衛門はめちゃくちゃいい馬を持っていました。

信長はその馬が欲しくなり「五郎右衛門!その馬をオレにくれ!」と言って来たのです。

すると五郎右衛門は「わたしは戦の時に殿をお助けするべく馬を育てております。戦場での働きを見せるために、わが愛馬を譲るわけにはいきません」と拒絶したのです。

信長はむかついて、五郎右衛門を嫌うように。

政秀はなんとか2人の確執を取り除こうとするも、信長に「じいは黙ってろ!」と、逆ギレされる始末。

とうとう政秀は「ワシは今まで信長殿に立派な主君になってもらおうと必死にやってまいりました。そんなつまらぬことで家臣と争うようではワシが今までやってきたことは意味のなかったことでございます。ワシはもう生きていても仕方がありませぬ」と言って切腹してしまったのです。

もー信長大ショック!

今までの非礼を悔い、菩提を弔うために寺も建て、線香を絶やすことはありませんでした。

政秀の死んだ後も、信長のキレぶりはとまることはありませんでしたが、鷹狩に行った時などにふと政秀を思い出し「政秀、これを食え!」と獲物を空に投げたり、ふと柿をもいでは「政秀これを食え」と言っていたそうです。
1553年 4月 斉藤道三 信長とご対面
1549年に娘を信長に嫁がせた道三は「正徳寺」という寺で信長とご対面することとなりました。

信長がやってくる行列をみた人々は、道三に「信長はこんな時でもいつものうつけスタイルでやってきましたヨ」と知らせました。

正装して待っていたいた道三でしたが「どうせヤツはうつけモノ・・・。じゃあこちらも正装すんのやめるか・・・」と普段着に着替えちゃったのです。

が、道三の前にあらわれた信長はおりまげに褐色の長袴を着用し、小刀をきっちり腰にさすというパーフェクトな正装でやってきたのです。

もともと色白の美男子だったので、みんなびっくり!

さらに道三を驚かせたのは、信長の腰に差した刀。

この刀はいつでも戦闘できると言われている刀で、これから舅となる男にこんな姿でくるとは・・・と、道三は感服したのです。

またこの時、信長は臆することなく堂々とした態度だった。

道三はこの時の信長の器量を見抜き、「わが一族は、信長の配下となるだろう」と言ったのです。

1553年8月 村上義龍 上杉謙信のもとへいく
とうとう信玄に勝ち目が無いことを悟った義龍は、息子のような年齢の越後の長尾景虎に会いに行くことに。

(以下、上杉謙信とさせていただきます)

この時謙信は24歳。

まだ若い青年でしたが、知略により越後を平定するほどの実力を持っていました。

謙信は「そなたの他にも小笠原殿や高梨殿なども、信玄をどうにかしてくれとお願いにやってきている。このへんで信玄の進出を止めておかぬとわが領地も危ない」と言いました。

この頃、関東管領の上杉憲政も北条氏康に負けて、謙信を頼って越後に亡命していました。

謙信は、その憲政から「関東を鎮圧してきてよ!」とお願いされていました。

ほんとは、関東に行こうとしていたんだけど、ガンガン自分の領地の近くにまでやってきた信玄が脅威になりつつありました。

信玄がいると、心置きなく関東に行くことができなかったのです。

そのため謙信は「あいわかった!信玄を倒そうぞ!」と義龍に言ったのです。

また、謙信はスパイから色々信玄のことを聞いており、自分よりも9歳年上の信玄に興味を抱いていました。

そして謙信は8月の終わり、8000人の兵を率いて春日山城を出発したのです。
1553年 8月 川中島の戦い始まる
ここに日本史上に残る合戦・川中島の戦いがスタートとなったのです。

信濃(長野)の川中島で1564年まで5回にわたって戦い、最後まで勝敗を決めることのできなかった戦いとなります。

謙信は「毘沙門天」という仏教の戦いの神の「毘」の文字を軍旗に使いました。

対する信玄は、「風林火山」(疾きこと風のごとく徐かなること林のごとし侵掠すること火のごとく動かざること山のごとし)を掲げ陣をとりました。

1553年 第一回 布施の戦い

上杉軍は布施一帯に陣をとりました。

武田軍は1万の兵をひきいてやってきました。先陣は高坂昌信です。

この時はお互い牽制しあい、激闘を繰り広げることはありませんでした。

謙信は一糸乱れぬ武田軍の陣を見て、「なかなかやりおるな」と呟きました。

信玄の方も噂に聞く謙信を牽制し、積極的な行動を起こそうとはしませんでした。

この時はお互い深追いせず、相手を伺うだけとなったのです。

1554年3月 今川・武田・北条の「三国同盟」成立
太原雪斎のプロデュースによって、今川・武田・北条の三国同盟が成立しました。

今川家は花倉の乱で義元が当主となっており、その直後、京都の公家である三条公頼の娘を、信玄に紹介したことから、今川家と武田家は仲良くなっていました。

その翌年には信玄の姉が今川義元の正室となり、政略結婚によって「甲駿同盟」を組んでいたのです。

ですが、それを知った北条氏綱が激怒!

両家は北条早雲と今川義元のおじーちゃんである氏親からの付き合いでしたが、北条氏綱は「今川め!裏切りやがって!」と、今川家に対して攻撃してくるようになったのです。

暗雲たちこめる中、なんと信玄の姉が病死。

両家は「甲駿同盟」の絆となってしまった女性が死んだため焦りました。

すると今度は義元の長女が信玄の長男である義信に嫁ぐことに。

その頃の北条氏はというと、三代目として氏康が継いでおり、今川・武田とも争っていたばかりか、関東管領家・上杉謙信ともバトル中。

まさに四方八方敵だらけ状態。

そこで氏康は、この危機を打開するために武田信玄と同盟を組むことにしたのです。

氏康の長男氏政と、信玄の娘が結婚することとなり、「甲相同盟」が成立したのです。

ここで飛び出してきたのが今川家軍師である太原雪斎でした。

「はっきりいって今川家とて、北条と戦うのは得じゃない」と、なんと氏康の娘を、今川義元の長男・氏真のもとへ嫁がせたのです。

そして数ある戦国時代の同盟の中でも異色といえる今川義元・武田信玄・北条氏康の三国同盟を善得寺で結ばせたのです。

ちなみに駿河の善徳寺に3人が集まって盃を取り交わすというシーンは事実ではありません。

これにて武田は安心して信濃で上杉謙信と戦えるし、北条も関東へ進出できるし、今川も三河・尾張を攻撃できるし、三国にとって、背後を心配することなく戦えるというプラスになる同盟となったのでした。

1555年 家康「三河武士魂」に涙する
今川家に人質となっていた家康ですが、15歳の時に初めて今川義元から許しを貰い、墓参りのために岡崎へ戻りました。

三河で忍耐の日々を送っていた家臣たちは、立派に成長した家康を見て涙しました。

80歳になる家臣の鳥居忠吉が「若君、こちらへ・・・」と家康を自分の家の蔵に案内しました。

そこには数々の兵糧や武器が置いてあったのです。

「これらは若君が岡崎へ戻ってきて、兵を挙げる時のために今川の目をかすめて用意したものです。なにとぞ無事にお戻りできることを願っております」と言いました。

家康はその思いに報いようと涙を流しました。

またこの時、家康は鷹狩のついでに、岡崎城周辺を歩いていました。

ちょうど田植えの時期で、田んぼには大勢の領民が働いていました。

家康一行が通ると、田植えをしている何人かが慌てて顔に泥を塗り、背をそむけたのです。

家康は1人の男の顔を見て「あれ?あそこにいるのは近藤じゃないか?」と気がつきました。

が、近藤は家康に呼ばれても知らん振り。

すると家康の供の者が

「若君、彼ら松平家家臣は武士でありながら今川家にこきつかわれ、非常に貧しい思いをしております。そのため田植えをさせられているのでございます。殿の前で武士が田植えをしているなど知られたら、彼らは恥ずかしくて顔向けできません。なにとぞここは知らないフリをしてやってください」と言ったのです。

家康は「ワシは何も知らなかった・・・」と、自分の無知さを知り愕然としました。

そして「ワシがふがいないばかりに、苦労をかけて申し訳ない。だが、いずれ時が来る。それまで耐えしのんで欲しい。そして今の姿を決して恥と思わないで欲しい」と言い、それを聞いた家臣らは改めて結束を固くしたのです。
1555年 太原雪斎死去 今川衰退の道へ
三国同盟プロデュースという大役をつとめた雪斎は、1555年に死去しました。

戦いという戦いは全て雪斎が采配を振るっていたし、義元にとっていなくてはならない相談相手だった雪斎。

この頃になると雪斎は今川家になくてはならない存在となっていたので、義元にとってはかなりの損失となるのです。

以後、義元はブクブクと太ってしまい、馬にも乗れなくなっちゃうほどに。

さらに京風文化にますますはまりまくって、顔に京都風の化粧しまくり。

武田家軍師・山本勘助は「今川家は雪斎に頼りすぎている。ヤツがいなくなったら今川家は終わりだ」と常日頃言ってました。

その予言は見事当たることとなり、雪斎亡き後今川家は坂道を転げまくるように衰退していくのであります。

1555年7月  川中島第二回 犀川の戦い
信玄は、今川・北条と三国同盟を結び、北信濃攻略に力を注げるようになりました。

で、信玄は信濃に入り犀川にて謙信と対峙。

この時謙信は、勝つか負けるかの短期決戦のつもりだったんだけど、信玄は長期戦に持ち込むつもりでいました。

この対陣が3ヶ月に入ろうとする頃、上杉軍は長い勝負に動揺し始めました。

が、両軍とも睨み合い続きに疲れちゃって今川義元が仲介に入り終了。

この後すぐ、謙信が隠居する!と言い出し始めたのです。

元々謙信は僧侶になるはずだった人。

相次ぐ反乱や家臣の対立。それを鎮圧する戦いの繰り返し。

さらには信玄登場。

謙信長い戦いと家臣らのワガママに疲れてちゃいました。

突然「もう大将やめる!」と言い、隠居しようとしちゃったから長尾家大パニック!!

今謙信を困らせて謙信が隠居しちゃったら、上杉家大変!ってということで家臣らは大慌て!

「もう反乱はしません。対立もしません」と、約束状を書き、なんとか謙信の隠居を押しとどめました。

これで上杉家臣団は一致団結するようになるのです。

毛利元就「陶隆房を討とう!」
主君を倒した陶隆房。

ですが、陶隆房を認めない!という家臣もたくさんいました。

この頃、毛利元就は一応毛利両川(吉川・小早川)の毛利グループを確立していたものの、安芸(広島)をちょこっと持っているだけの小勢力でした。

そこへ反・陶隆房グループが「陶隆房を討つ」という噂が流れたのです。

さらに陶隆房から「吉見氏を討つから来い!」と命令がきました。

毛利家は意見が真っ二つに。

元就は陶隆房に従おうとしてたんだけど、嫡男の隆元が大反対!

「陶隆房は、吉見氏を滅ぼしたら絶対に次は毛利氏を攻撃する!絶対に陶隆房を討った方がいい!」と主張したのです。

元就はもっともだ・・・ということとなり、陶隆房を討つことにしたのです。

が、陶隆房チームに元就の苦手なヤツがいました。

江良房栄(えらふさひで)といい、元就と何度か一緒に戦ったことがあり、元就の戦術を知り尽くしていたのです。

そこで元就は「江良が謀反を企ててるよー」というウワサを流しました。

陶隆房は敏感になってたので、そのウワサを信じてしまい、江良房栄を殺害。

元就はやりにくい相手がいなくなりラッキー。

さらに、今度はうるさい尼子軍がこの戦いに割り込んでこないよう対策を練りはじめました。

尼子晴久には国久(経久の次男)という仲の悪いのがいました。

元就は、国久は毛利家と仲良くなろうとしてますよーという噂を流したのです。

これに慌てた晴久は、国久を殺してしまいました。

これでとりあえず尼子はお家騒動で忙しいのでこっちにこれないってことで、心置きなく陶隆房討伐に参加できることとなったのです。

1555年9月20日 厳島の戦い 毛利元就VS陶隆房
謀略しまくって敵を来させないようにした元就。

お次は「あーあ厳島に城を築いたのは失敗だったよ。あんなとこ攻められたらひとたまりもないよー」と後悔しまくっているという噂を流させました。

それを聞いてニヤリとしたのは陶隆房。

「厳島を攻撃じゃー!」と2万の兵を上陸させたのです。

待ってましたとばかりに喜んだのは元就。

元就は2万の大軍を厳島におびき寄せ、そして背後から闇夜に乗じて厳島に上陸。

背後から一気に襲い掛かったのです。

陶隆房は毛利軍は厳島の城にいると思っていたので、大混乱に陥りました。

元就の作戦は成功し、陶隆房は自刃しました。32歳でした。

元就は大内晴賢の嫡男も殺しました。

今度は中国地方の覇権を巡って、山陰地方の尼子家と対立することとなるのです。

わがまま宗麟に家臣は呆れまくり
翌年には、陶隆房(すえはるたか)が大内家に対し謀反を起こしてくれたので超ラッキー。毛利が陶隆房とバトルしてくれたおかげで、当分九州にはやってこれないだろーと一安心。

今のうちに貿易しまくり、キリスト教も許可して貿易による利益がでまくってウハウハ。

大友家には立花道雪・高橋紹雲・一万田親実などなど、メジャー家臣がたくさんいました。

だけど、肝心の宗麟はこの家臣らを困らせてばかり。

宗麟は女好きで、立花道雪は何度も説教をしたんだけど、宗麟はお気に入りの家臣ばっかまわりにおいちゃって聞きもしなかった。

しょーがないので道雪は、京都から踊り子軍団を呼び、「道雪の家に美女軍団が来てる」と噂を流させた。

女好きの宗麟はさっそく「連れて来い!」と命令。道雪は踊り子を踊らせ、その後にわざわざ説教した。

つまり言うこと聞かない宗麟に、わざわざ京都から踊り子を呼び寄せて説教したのでした。ご苦労様。

また、宗麟のわがままぶりで有名なのは、家臣に美人妻がいればその妻をとりあげちゃうってもの。

代表的なのが重臣である一万田親実の妻を奪ったというもので、これはとうとう一万田親実と兄の高橋鑑種が謀反を起こすという事件にまでなりました。

バックには毛利元就がいて、この謀反の鎮圧に3年もかかってしまい、宗麟の好色によって確実に大友家滅亡は早まったのでありました。