東京の地名             



現在の東京の地名には、歴史的な由来や物語を持っております

そんな東京の地名を紹介いたします



東京とは・・・

東京の地名を知る前に、まず「東京」の意味を知りましょう

東京とは「東の都」という意味です

もともと天皇が住んでいたのは「京都」ですが、明治新政府が天皇を東京に連れてきました

東京には「徳川将軍家」があったので、明治新政府は天皇を江戸(東京)に連れて行ったんです

もちろん、幕府の反抗そのたモロモロを抑えるためであります

ということで、天皇がいる「東の都」・・・東京となったのであります


新政府は江戸へ遷都を考えていたんですが、京都の公家が反発しまくって、とりあえず天皇を江戸へ連れて行き、「天皇がいるんだから、こっちも都だ!」となったんですね

でもって、その後天皇は京都へ戻ることがなく、事実上東京遷都が行われちゃったわけです

いまだ東京遷都ははっきりした法令とかがないんで、京都が都だ!という考え方の方もいらっしゃるわけです


ちなみに東京駅の敷地は、もと三河吉田藩と信濃松本藩の大名屋敷でありました


さらに東京駅は、明治時代の建築家・辰野金吾が設計し、オランダのアムステルダム中央駅をモデルにしました

東京駅には最初、中央に皇室専用の出入り口があったりしました

歴史的にも、大正十年には原敬がここ、東京駅暗殺されており、昭和五年には浜口雄幸が狙撃されるなど、歴史の舞台にもたびたび登場しております




地名の由来


赤坂(あかさか)
・・・赤坂には「紀伊国坂(きのくにざか)」というのがあるんですが、これをもともと赤坂と言ってました。なんで紀伊国坂になっちゃったのか?というと、この場所に御三家の一つ・紀伊家があったから名前が変わっちゃったんですねぇ
ままた赤坂は花柳界としても有名でありますが、もともとは「下ランク」の花街でした
ここ赤坂に江戸中期に岡場所(詳しくは当サイトの吉原細見をごらんくだされ)ができたんですが、麦茶を看板にして売春をしておりました
江戸っ子の間では、赤坂を「米(吉原とか、一流のとこ)より安い麦飯屋」と言ってましたが、天宝の改革で麦飯屋は一網打尽されちゃいました
が、花街としての土台はできてたんで、江戸時代が終わってから芸妓屋ができ、その後は財政怪の奥座敷として高級イメージを作るのに成功したのでありました


赤羽橋(あかばねばし)・・・増上寺の赤羽門と、水天宮、そして久留米藩有馬上屋敷があり、江戸時代はかなりのにぎやかスポットだった赤羽橋
増上寺の僧侶が表門ではなく裏の赤羽根門から出て品川の遊女街に遊びにいったのを皮肉った川柳もあったりします
ちなみにコレです「赤羽の 鳥居を越すと 医者になり」
ほかにもこの地は、地方から参勤交代のお供としてやってきた「勤番武士」が多くいた場所
つまりは、単身赴任の長期東京出張サラリーマンみたいなもんです
で、こーいった武士は、粋を好む江戸っ子から「野暮」と言われ馬鹿にされちゃってたんですね〜



浅草(あさくさ・・・浅草といえば浅草寺ですよねぇ〜。雷門の写真は行ったらみんな必ずカメラにパシャっとやるはず!!その浅草寺は推古天皇時代に二人の兄弟が隅田川で観音様を見つけ祀ったのが起源だそうです
徳川家康が江戸へ入ってきたときも、浅草寺は徳川家の菩提寺となり手厚く保護されました
「浅草」という地名は、このあたりは平原で草も浅いってことで浅草だそうです
ちなみに有名な浅草海苔ですが、もともとは浅草茶屋町の商人・正木四郎左衛門が流木についた海苔を売り始めたのが始まり
で、海苔商人が増えたんですが、江戸が発展しにいくにつれ、みんな大森や品川に移っていっちゃいました
養殖してるのは大森とかだけど、販売はいまだ「浅草」なのであります



池袋(いけぶくろ)・・・江戸時代の池袋は、農村地帯でありました。もともと巨大な池があったと言われております。
ちなみに紛らわしいのが、池袋の東口に西武百貨店があり、西口に東武百貨店があること
でもって、東口から西武池袋線が出発して、西口から東武東上線が出発すること
これは西武と東武のライバル関係から出来上がってしまったようですよ



鶯谷(うぐいすだに)・・・寛永寺の人が、京都から取り寄せた鶯をたくさん放ったことから、このあたりはいっつも鶯のいい鳴き声が聞こえるということで「鶯谷」になったようです
閑静な土地だったので、文化人が好んだ場所だったようです



恵比寿(えびす)・・・恵比寿は明治維新まで農村として存在しておりました
1704年に初めて赤穂藩の藩邸が建ちましたが、忠臣蔵でおなじみの刀傷事件によって改易し、いまいちぱっとしない場所として明治維新を迎えました
恵比寿の名が有名になったのは「ビール」です
明治20年に現在のサッポロビールが設立され、ビールの種類である「えびす」がそのまま町名となりました
まさに恵比寿の地名はビールの歴史とともにできたんでありますね〜



御徒町(おかちまち)・・・将軍家直参の幕臣(ちょっと下級クラス)のことを「御徒(おかち)」といい、御徒たちは「組」を作ってそれぞれ所属していました
で、この御徒の組屋敷が御徒町周辺に多く存在していたのであります
ちなみに御徒町には「アメ横」がありますが、ワタクシ、最初聞いたときは「アメリカ横丁」だと思ってましたが「アメヤ横丁」だったんですねぇ(笑)
で、このアメ横ですが、もともとは戦後まもなく闇市が開かれた場所であります
で、ある時期から列車を待つ人々に「飴」を売る人が増えはじめ、「上野の飴屋」がクチコミで広がるようになり、いつのまにか「アメヤ横丁」になったようです
いちおー、進駐軍のアメリカ兵が物資を多く流していたから「アメ横」という説もあるんですけどね



春日(かすが)・・・そのものズバリ!あの三代将軍家光の乳母・春日局にまつわる地であります。
ちなみに江戸時代の戯作者・恋川春町(本名・倉橋挌)は、駿府小島藩出身なんですが、小島藩の藩邸が小石川春日町だったんでペンネームを「恋川春町」にしたようです



亀有(かめあり)・・・亀有といえば「こち亀」ですが、もともと亀有は「亀無し」という地名だったようですよ〜
なぜだかわかんないのでそれは置いといて・・・・
家康は鷹狩りがダーイスキで、でもって江戸周辺に「ナイスな鷹狩りスポット」を探してました
亀有付近は湿地帯で鷹狩りを行うのにはぴったりだったので、家康が将軍をやめてからかなり通った場所のようです



神田(かんだ・・・徳川家康が入ってきた頃の神田は、大部分が農村でした
で、町人地として傾城するようになり、職人さんたちが集まってきたのであります
鍛冶職人が集まり、それぞれの職にあった町名がつけられていきました
現在でも残ってるのは、鍛冶職人が集まった「鍛冶町」 染物職人が集まった「紺屋町」
ちなみに現在の駿河台にある杏雲堂病院が建ってると子は大久保彦左衛門忠教の大名屋敷があったトコ



北千住(きたせんじゅ)・・・北千住は江戸から東北に行くときのスタート地点!
品川・板橋・内藤新宿とともに四大宿場町として栄えていました
まさに江戸の玄関であります
さらに忘れちゃいけないのが江戸時代に欠かせない「飯盛女(めしもりおんな)」
宿場で旅人の雑用やご飯の支度をしてあげる女性なんですが、ほんとのこと言うと売春婦であります
この時代、女性はなかなか旅なんて出ることが出来ないし、お客さんも男ばかりですからね
ちなみに幕府は風紀上あんまりよろしくないが、150人までなら許してあげましょうということになりました
が、もちろんそんなの守るはずもなく、多くの飯盛女が働いていた(働かされていた?)のでした



銀座(ぎんざ)・・・銀座といえば、日本一土地代が高いとか、高級料亭とか、そーいったイメージの街でありますね〜
が、江戸時代の銀座は商業街だったのであります
徳川家康がやってきた頃の銀座は海でした。で、家康はここを埋め立てるように命令したのであります
で、銀を作らせる場所となったのです
ちなみに「金」を作らせる「金座」という街もあったんですが、今は残ってないようですネ〜



錦糸町(きんしちょう)・・・江戸の錦糸町といえば本所七不思議。あ、詳しいことはコトは当サイトの本所七不思議



蔵前(くらまえ)・・・ズバリ!幕府のお米蔵があった場所であります
江戸時代、お米は武士の給料代わりだったんで、このあたりには俸禄米受け取り代行業なんかも出来たりしました
この人たちが後に「札差(ふださし)」と言われるようになり、江戸時代で莫大な財産を持つようになっていくんですね〜



駒込(こまごめ)・・・駒込はヤマトタケルが東征の途中、陣を張った時に「駒込みたり」と言ったからという説などなどがあります
駒込みたり・・・とは、どういう意味なんでしょ???ぜひ知りたいという人は調べてみてください
江戸時代、ここ駒込でとれる「茄子」は大人気だったようで、セレブな江戸っ子が買ってたようです



駒場(こまば)・・・駒場はもともと草がたくさん生えている野原で、馬の放牧が行われていたので「駒場」という名前になりました
この駒場が超お気に入りだったのが八代将軍吉宗!
駒場で狩りを楽しみまくったようです



渋谷(しぶや)・・・いっつもにぎやかな街・渋谷ですが、「渋谷」の地名には2種類の説があります
まず一つは渋谷氏の一族が住んでいたという説
も一つは、この付近はもともと海辺で、ちょっと掘れば海底の土が出てくる。塩の谷と呼ばれており、「塩谷(しおや)」→「しぶや」という呼び方に変わったというものであります
ちなみに渋谷の待ち合わせのメッカ・ハチ公は、主人をまつけなげな犬として有名ですよね
ハチは東京帝国大学教授の上野栄三郎さんの送り迎えを日課としてたんですが、大正十四年に栄三郎さんが脳出血で亡くなってしまい、ハチは親戚の家に預けられたんですが、毎日渋谷に戻ってきて主人を待ってました。
これが多くの人の同情を引き、昭和七年に新聞に紹介され、二年後、銅像が建てられました。
その翌年、ハチは病死しました
で、もう一つの待ち合わせ場所「モヤイ像」
これはイースター島のモアイ像とは全然関係ないんですね〜
この像は新島から寄贈された、新島特有の銅像なんであります
「モヤイ」には、共同作業という意味があり、渋谷の人々にも連帯の気持ち持ってくださいねという意味が込められているのでした



新橋(しんばし)・・・元禄時代はとっても寂しい場所だった新橋ですが、東海道の整備が進むにつれにぎやかになってきました。新橋という名前は、隣になった難波橋に対する「新しい橋」という意味であります。
余談ですが、新橋といえば「新橋芸者」
現在の銀座の新橋寄りあたりの花街にいた芸者さんなんですが、これにはおもしろい話があります
もともと新橋の芸者さんは、柳橋の芸者さんより全然グレードが下でした
で、徳川幕府が破れ、薩長出身の役人たちが江戸(東京)にわんさかやってきました
江戸っ子の意地と粋を重んじる「柳橋芸者」さんたちは、薩長らの役人たちに冷たくしまくり
が、新橋芸者さんたちは温かく迎えたそうです
ってことで、新政府の人たちに新橋芸者は大人気となり、柳橋芸者さんをしのぐ勢いとなったんですネ〜
ちなみに新橋芸者がダイスキだった人は、伊藤博文・榎本武揚などなど


神保町(じんぼちょう)・・・古書の街・神保町!ワタクシ本ダイスキなんで、会社帰りにしょっちゅう足を運んでましたっ!
ここが本の街となっていったのは大正時代から昭和初期にかけてだそうです
幕府の旗本神保長治(じんぼながはる)の屋敷があったので神保町というそうです



巣鴨(すがも)・・・おばあちゃんの原宿・巣鴨は、大きな池があって、そこに鴨がたくさんいたから「巣鴨」と呼ぶようになったと言われております
で、江戸時代には植木職人たちが多くいて、巣鴨の植木屋街は庶民たちの花見の場所となっていたようです
関係ないですが、ワタクシ、魚の骨がのどに刺さった時、マジで巣鴨のとげぬき地蔵に行きました
で、治りました!!!かなり、とげぬき地蔵サマサマのことは信じてます(笑)



千駄ヶ谷(せんだがや)・・・多くの萱(かや)が生い茂りまくっていたので「千駄ヶ谷」といわれていた千駄ヶ谷村。が、こののどか〜な村に、実は幕府の軍事設備が置かれていた場所だったんですね〜
火薬庫なんかも置かれていて、幕府はこの付近では花火禁止!!という命令も出してました



日本橋(にほんばし)・・・江戸幕府が開かれた1603年に、天下人の城下町として本格的な街づくりがスタート!!!このとき、江戸城外堀から神田川へと抜ける日本橋川が作られ、この川にかかる橋を「日本橋」と名づけました。「日がのぼる元の橋」という意味が込められております
江戸っ子には欠かせない橋となっていく日本橋ですが、東京の両国にある江戸東京博物館にこの日本橋の北側部分(半分の部分)が再現してあります。しかも渡ることができるっっ
江戸が体験できるのでとても楽しいですよ〜



丸の内(まるのうち)・・・丸の内は徳川家康が埋め立てをした後、大名屋敷が立ち並び、外堀が完成したときに「丸の内」と呼ばれるようになりました
明治維新の時に、政府の官有地となり、その後陸軍の練兵場に

で、明治になって岩崎弥太郎が払う下げを受け、ロンドンのロンバード街のようなオフィス外にしたい!ということになったのでした



向島(むこうじま)・・・徳川家康は鷹狩りがダイスキ!ってことで、隅田川近辺で鷹狩りに行く時に、こっから先は向こう側ってことで「向こう島」という名前がつけられました
最初向島は農村だったんですが、隅田川に植えられた桜により大人気に
花と水(川があるからね)の行楽地として、大人気なった場所であります
ちなみに榎本武揚は向島がダイスキで、住んじゃったほど



八重洲(やえす)・・・人名に由来しております。ヤン・ヨーステンというオランダ人の航海士が漂流し、1600年に大分県に漂着しました。その後、徳川家康に仕え、現在の丸の内三丁目あたりに屋敷をもらいました。
この「ヤン・ヨーステン」が「やえす」と呼ばれるようになったのでした



湯島(ゆしま)・・・昔温泉があった!?という説がある湯島は、江戸時代は「学問の街」でもって、「歓楽街」でありました。江戸っ子がダイスキな富くじ(今でいう宝くじ)が湯島天神で売ってたり、芝居なんかも多く行われていました
また、江戸幕府の東大である「昌平坂学問所」があり、幕府のエリートを養成しておりました
ちなみに現在は東京医科歯科大学になっとります



六本木(ろっぽんぎ)・・・・かつてこのへんに古い六本の松の木があったことが由来。それがどこなのかはわかんないみたいなんですけどね
今のテレビ朝日がある場所は、長州藩の毛利藩邸のお屋敷
さらに忠臣蔵で有名な赤穂浪士の内の10人がここで切腹しました
さらに、あの乃木希典(のぎまれすけ)のお父さんは長州藩の馬廻屋宇だったんで六本木生まれであります
六本木には数多くの大名の上屋敷・中屋敷・下屋敷が集まっていて、とにかく武家屋敷の多い場所でありました
ちなみに明治時代になると、司令部や陸軍大学などが六本木に建てられ、軍隊の街になっていきます