日本の女性史



         


昭和女性の生活

大正デモクラシーなどで大忙しだった時代を終え、昭和がやってまいりました

昭和のポイントは「戦前と戦後」でございます

昭和6年の満州事変から日本は太平洋戦争へと突き進んでいきます

この戦争は国民の参加と協力ナシでは継続できませんでした

そのため日本全国が国民精神総動員運動をスタートさせたのです
国民の言論や運動を規制する様々な法律が作られはじめました

婦人雑誌も「戦いに出た夫が、憂いなく戦えるように」と自殺した妻を賛美したりしました
また、教育も「お国の為に命を捧げる」というものとなり、軍や政府の考えを批判する人を「非国民」と呼ぶように

戦争反対を叫んだら捕らえられる時代となってきたのです

「非国民」という言葉は国民の間でも大流行しました
こうして「天皇の為に死ぬ」ということが、日本国民の最大の忠義であり、そしてそれが当たり前のようになっていくのです

当サイトのおばあちゃんの戦争実話も参考にしてみてくださいね

さて、女性はというと女学生は軍事工場で働くようになりました
1943年には働いていない14歳から40歳の未婚女子に挺身隊を結成し働くことが呼びかけられました

挺身隊は政府の指定する工場で働かねばなりませんでした
さらに挺身隊といして連行された朝鮮人の女性の多くは従軍慰安婦という、兵を慰める性の相手としされてしまったのです

この時代で管理人が一番嫌なのは「従軍慰安婦」のことです
ホントに、女性の権利を全て剥奪したものです
が、戦争というのはそういうものだと多くの方が述べています
確かにそれが戦争なのかもしれませんが、やはり同じ女性として従軍慰安婦については考えさせられます

こうして天皇の為に死ぬことが最大の美徳のとなり、そして日本は敗戦し幕を閉じることとなります

大戦後に国際連合が誕生しました
国際連合はファシズムを許さず、大きな国も小さな国も平等な国際関係を結び、男女を含め全ての人々を平等な関係にするとして生まれたのです

そして日本も大きく変わりました
国の主権は天皇ではなく国民にあるとなったのです
そして戦争放棄という条項ができました
さらに今までの「家」制度や、女性の無能力規定を廃止し、恋愛や結婚・離婚も自由にできるように
そして婦人参政権も実現したのです
つまり、人間として生きる生活が保障される国へとなっていくのです

ですが、まだまだ「夫は仕事。女性は家庭」という役割分業は消えませんでした
妻は無料で家庭内の仕事をし、夫や子供のために生きるという社会構造は、女性の労働を社会的にも低くし、まだまだ性差別が続くこととなるのです


生めよ増やせよ

政府は戦時中人口政策として「生めよ増やせよ」と呼びかけていました
兵の人数が足りないので、とにかく子供を生めというものです

堕胎罪

軍事力を増大させるために「生めよ増やせよ」の風潮が高まりまくった
そのため妊娠が奨励され、中絶をすると堕胎罪として逮捕されたのです
堕胎罪で有名な犠牲者は志賀暁子などの有名女優
中絶・出産と、どちらが正しいとかそういうのは置いといて、選ぶ権利が女性に与えられていなかったのです
男の勝手で妊娠し、一人で育てる事ができないため中絶する
そして女性は逮捕され、女性を妊娠させた男性はなんのお咎めもなし
今思うと、ホントすごい時代ですよね

間引き

昭和初期、東北地方は大凶作に見舞われました
農家の女性達は生んだ子を育てる事が出来ないため、間引きが盛んに行われたのです
間引きとは口減らし(食べるものがないから、食べる口を減らすこと)のために、生まれた子供を殺すことです
生まれたばかりの子供をぼろ布に包み、押しつぶすのです
この方法だと、中絶をして堕胎罪で捕まらないし、母体にも影響がない
死産ということにして、警察の目をごまかすことができたのです
産んで殺すなら、どうして避妊をしないのか!?と思う管理人であります・・・
「生めよ増やせよ」の風潮が激しく根付いていたのでしょうか?


しゃぼん玉

間引きが頻繁に行われていた時によく歌われたわらべ歌です
作曲した人は、自分の子が早く死んでしまった為に作ったということですが、この歌が色んな人に歌い継がれるようになったのは時代背景も絡んでいるのではないでしょうか?

しゃぼん玉飛んだ 屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで 壊れて消えた
風 風 吹くな しゃぼん玉飛ばそ

しゃぼん玉消えた 飛ばそに消えた
生まれてすぐに こわれて消えた
風 風 吹くな  しゃぼん玉飛ばそ

なんとなーくわかりますか?しゃぼん玉は赤ちゃんに例えているんですね
よくよく聞くと哀しい歌です

避妊を推奨する人は非国民

中絶は女性の体を傷つけます
そのため一部では避妊をした方がいいという人々がいました
堕胎罪を廃止するべく立ち上がった人たちもいたのです
が、その人たちは非国民として弾圧されていたのです


トラック一杯の女に男一人

戦争は数多くの兵士を死なせました。そのため男性の人数がとても少なくなり、「トラック一杯の女に男が一人」の割合となっていました
また、戦争未亡人が多く、幼い子供を抱えて生活苦となる女性が大量に発生しました

離婚の自由

離婚の自由が認められたことに一番喜んだのは女性でした
家からの解放を求めて離婚率が急上昇したのです
戦後になってようやく離婚ができ、初めて私は人間になれたと喜ぶ女性が数多くいました

女性の参政権

1946年に初めて婦人参政権が行使されました
が、今まで政治にタッチできなかった女性達の関心は低かったそうです
それでも第一回目の衆議院選挙では女性だけで67%の投票率となりました
そして、39人の女性議員が誕生したのです
が、次の選挙の時の女性当選者は15人
どうやら男性社会の壁は厚かったようで、とある男性議院は「首相への質問演説に女など出すなんてだめだ!」とまで言ったほどでした

電化元年

1953年、この年を電化元年といいます
スイッチ一つでご飯が炊ける電子ジャーが登場したのであります
そして次々と新しい電化製品が出てくるのでした
ちなみにこの時代、大学卒の初任給は1万円ほど。で、洗濯機は2万円ほど
給料二か月分でした

三種の神器

1950年代の終わりごろになると、洗濯機・冷蔵庫・テレビの3つが「三種の神器」として庶民の憧れに
主婦にとってとーーっても欲しい商品となりました
この3つが各家庭にいきわたるようになったのが1965年ごろ
この頃の三種の神器は「カラーテレビ・クーラー・カー(車)」の3つで3Cと呼ばれました

アンネナプキンの登場

1961年11月に「アンネナプキン」という生理用品が発売されました
このナプキンの出現は、女性の生理の歴史にとって、まさに大衝撃を受けたのです
今まで生理というのは「穢れ」の対象としてくらーいイメージだったのが、このネーミングと、堂々とテレビで宣伝したことによって、暗いイメージが払拭されたのです
その二年後にタンポンが発売され、女性の生理は新時代を迎えたのであります

技術・家庭の授業

1958年から中学校では「技術・家庭」の授業がスタートしました
が、技術は男子・家庭科は女子と区切っていました
こうした「男女の特性に応じた授業」は性的役割意識を助長するものとなりました
まだまだ「女の子はお料理ができるようになりなさい」という考えのものです
また、どこの学校も出席簿や名簿は男子が先にくる「あいうえお順」でした


男女雇用機会均等法

長い長い女性差別の中、とうとうここまできました
1985年に出来た男女雇用機会均等法です
職場での募集・採用・昇進など、男性と女性に差をつけてはいけなったのです
この法律ができるまで、どれだけ女性が苦労したことでしょう
女性管理職が出るようになり、女性でも総合職として働けるようになり、男性だけが配置されていた部署に女性がつけるようになったのです
さらにお茶くみなど、「女性がやるもの」と思われていたものを見直す会社も多くありました

が、果たしてこの男女雇用機会均等法はホントに女性の地位の向上になったのでしょうか?
それはこれからを生きる皆様が体験してください

三つ子の魂百まで

ことわざです。3歳までに培われた性格は、一生変わらないというもの。だから母親は3歳まではしっかりと子供の面倒をみなさいという教えです
んーーーー、コレはどうなんでしょうかね〜
現代の働く母親にとっては嫌なことわざでありますね







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