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安土桃山時代その3 1576年〜1577年

1576年1月 信長 安土城築城!
天才画家 狩野永徳(かのうえいとく)
4月 本願寺動く!
この頃の毛利家
5月 本願寺家・上杉家の仲直り
戦国時代最強 村上水軍
5月 毛利輝元 宣戦布告
7月 第一次 木津川口の戦い 毛利VS織田
反信長派大喜び
助っ人!雑賀衆(さいかしゅう)
1577年 謙信上洛へ!
9月 手取川の戦い 信長VS謙信
謙信 畠山氏と余計なバトル
10月 松永久秀 壮絶な爆死
松永久秀 SEX HOW TO本



安土桃山時代 その3 1576年〜1577年
1576年1月 信長 安土城築城!
信長は琵琶湖近くの安土に「安土城」を作ることを決めました。

築城を命じられたのは丹羽長秀(にわながひで)。

柴田勝家につぐ織田家臣NO2で、政治に優れている人でした。

この城を作ったときも的確に素早く行ったため、信長から褒美を貰っています。

1576年の末にはほぼ完成。

1579年には天守閣を作りました。

安土城下はとても栄え、楽市楽座の政策を取り、関所を廃止しました。

また、商品の流通をよくするために安土と京都を結ぶ道をめちゃくちゃキレイにしました。

安土に引っ越そう!という人が増え、とても発展していきました。

天才画家 狩野永徳(かのうえいとく)
安土城は当代最高級の建築物となりました。

そしてその室内を飾る絵画も超一流にしたかった信長が選んだのは、天才画家狩野永徳でした。

安土城の障壁画は永徳により素晴らしいものに。

狩野派を起こしたのは、室町時代の大家 狩野元信(もとのぶ)です。

元信には3人の息子がいたんだけど、いずれも才能がなかった。

元信は自分が死んだ後の狩野派がどうなってしまうのか心配で仕方がなかった。

そこに生まれたのが孫の永徳。

幼い頃から画法を覚え、元信もびっくりするほどの大物ぶりを発揮。

狩野派の将来に光の見えた元信は、永徳を溺愛し全てを教え込みました。

将軍 義輝に挨拶に行く時も、9歳だった永徳を連れて行くほど。

永徳も偉大な祖父に教え込まれ天才として名をはせていったのです。

偉大な天才画家は1590年に48歳で死去しました。

代表作は「洛中洛外図屏風」

これは洛中洛外の名所や1年の年間行事なんかを巧みに活写している作品で、1574年に信長から上杉謙信に送られました。

謙信懐柔策の重要な役割を担った貢物でした。

また、「オレのトコはこんな風に活気があってすごいんだぞ!」という意味合いも込めてました。


1576年4月 本願寺動く!
去年の夏に越前を攻められ、一揆は信長によって平定された本願寺家。

3回目の和議をし、何とか平静を保っていました。

そんな中、本願寺家は動き出したのです。

というのも、中国の王者 毛利家が本願寺に援助してくれることになったから。

また上杉謙信にも上洛の噂があり、三好家残党もまだ信長に恨みを持っていたからです。
この頃の毛利家
信長にとって「天下統一」の邪魔になる存在である毛利家。

秀吉を中国方面に行かせ、牽制させていました。

中国の覇者であり、いつどこで戦いが始まってもおかしくない状況でした。

さらに、信長が追い出した将軍・義昭は現在毛利家に滞在中。

正直毛利家は義昭のことがめちゃくちゃうざったかった。

というのも、死んだ毛利元就の考え方は「焦って天下を望むな」

そこへ将軍義昭がやってきて「信長を討て!」だの何だの騒ぎまくる。

あまり信長を刺激したくない毛利家にとって、義昭はうざい存在だったのです。

が、時期というものがある。

いずれ信長は毛利家を攻めてくるだろうし、いつかは戦わなければいけない相手。

そこへ信長包囲網ができて、本願寺の協力要請。

さらには上杉謙信の上洛。

毛利家は「いい頃合だろう」と、反信長体勢を整え始めたのです。
1576年5月 本願寺家・上杉家の仲直り
将軍義昭はまだ野望は捨てていませんでした。

毛利家にいる義昭のシナリオは

「本願寺を中心として東から上杉。西からは毛利。この3家で信長を襲撃すれば勝てる!そして幕府再興じゃぁ!」

というものでした。

ですが、本願寺は信玄に頼まれて上杉謙信の領地にいる一向宗を暴れさせた。

そのため上杉家とはめちゃくちゃ仲が悪かったんだけど、将軍の頼みは断れない。

本願寺家は上杉家に使者を送り、講和することとなったのです。

こうして謙信は、上洛する際一番気になっていた一向宗の一揆の心配はなくなったのです。

そして将軍義昭は昔っからいっちばん頼りにしていた謙信が上洛してくるという噂を聞き、超喜んでいたのです。
戦国時代最強 村上水軍
毛利家は本願寺から食料援助要請が来たので、毛利家の水軍である「村上水軍」に食料調達をさせました。

それが信長にとってはうざったく、織田家の水軍である「九鬼水軍」と「村上水軍」は、こちょこちょとバトルをしていたのです。

村上水軍というのは、南北朝時代からある水軍で、瀬戸内海を制していました。

村上水軍は陸上の大名と持ちつ持たれつの関係にあり、強い所に従っていました。

戦国初期は大内家に従っていましたが、重臣であった陶氏に滅ぼされてしまいました。

なので陶氏についたんだけど、陶氏は村上水軍の雇用条件をめちゃくちゃ悪くしたのです。

正直村上水軍は「家臣」というより、お給料によって一時的に「従属」する一党でした。

それを給料下げられ、色々あった特権を剥奪されたら、「もう陶氏にはつきたくない」と思い始めたのです。

そして毛利家VS陶家の「厳島の戦い」の時に、毛利家へつくことになったのです。

理由は「毛利家の方が成功報酬が高かったから」

また村上水軍はすごく沢山の規律がありました。

・親子が一緒の船に乗っちゃダメ(親子がいっぺんに死ぬのを避けるため)

・合言葉・合印を忘れたヤツは斬り捨てろ(敵のスパイかもしれないから)

・遊女や子供を乗せるな。酒宴・バクチも禁止

などなど、さまざまな規則を作っていました。

そんな村上水軍は、現在日本で実力NO1。

毛利家は村上水軍と従属を結び、中国地方の覇者となっていったのです。
1576年5月 毛利輝元 宣戦布告
村上水軍と九鬼水軍が小競り合いをしているのを耳にしていた毛利輝元。

いずれ織田とは一戦を交えるだろうと思っていました。

そして毛利の両川である吉川元春・小早川隆景に相談。

結論は「毛利と織田はうまくやってきたけど、織田はわが毛利の敵である尼子家を応援している。将軍義昭も信長を討てと言っている。大義名分はできた。こうなったら織田と関係を絶ち、戦いほかない!」というものでした。

こうして毛利家は早速動き出しました。

村上水軍へ出動命令を出し、信長に攻撃されている宇喜田直家を助けにいくことに。

こうして毛利家は、織田家を倒し、将軍義昭を擁して京都へ行き、信長に取って代わって天下統一をもくろんだのです。
1576年7月 第一次 木津川口の戦い 毛利VS織田
対する信長は、織田の抱える水軍である「九鬼水軍」を出動させました。

こうして石山本願寺へ兵糧を運ぼうとする村上水軍と、それを阻止しようとする九鬼水軍が木津川口で接触したのです。

九鬼水軍のリーダーは、以前紹介した九鬼義隆です。

こうしてお互い小競り合いから、全面戦争に発展していきました。

ですが「船」が違った。

九鬼水軍は大型の船を中心とし、他は補助の船だったのに対し、村上水軍の船は「疾船」という機動力のいい船。

さらに村上水軍は、各船に役割を決め、それに応じた武器を船に積んでいたのです。

織田の船はみるみる間に海に沈んでいったのです。

この戦いは村上水軍の大勝利となりました。

惨敗を聞いた信長は、ムカついて数日口を開かないほどだったのです。
反信長派大喜び
大勝利を聞いた将軍義昭はめちゃくちゃ喜び、毛利輝元を褒めまくり。

武田勝頼や上杉謙信に「今のうちに信長を討て!」と手紙を書きまくったのです。

毛利輝元も上杉謙信に手紙を出しました。

「われらは木津川口の戦いで信長をコテンパンにしたぞよ。そなたも早く加賀の一向一揆衆をどうにかして、出兵されよ」というものです。

また、「信長大敗」を聞いた武田勝頼も大喜びだったのです。
助っ人!雑賀衆(さいかしゅう)
雑賀衆は紀伊の国下流を本拠地とする協力な軍事集団でした。

堺の町に近く、鉄砲の製造も盛んなところでした。

そのため鉄砲の扱いは、どこの国の鉄砲足軽よりも確かな腕を持っていたのです。

そこの中心勢力は地侍(じざむらい)と呼ばれる土豪で、リーダーは雑賀孫一(さいかまごいち)

ちなみに雑賀孫一は伝説的な人物です。

雑賀衆は普段は農業や漁業で生活していたんですが、地理的に海上交易も盛ん。

そのため、優秀な水夫や船も多く、雑賀水軍も持っていました。

そして雑賀衆は、合戦時になると大名に雇われ、優秀な射撃の腕を発揮しまくっていたのです。

雑賀衆は一向宗だったため、石山本願寺の要請により「反信長」となりました。

第一次木津川口の戦いでも村上水軍とともに大活躍したのです。
1577年 謙信上洛へ!
上杉謙信はかねてからずっと将軍であった義昭からも上洛するよう言われていたし、武田の脅威がなくなったため西へ進軍することを決意しました。

信長は信玄&謙信を恐れていたので、武田と戦ってる時は「洛中洛外図屏風」を送ったりと、常に謙信のご機嫌をとっていました。

だけど、一向一揆を平定させる頃から信長の勢力は拡大していき、謙信はそんな信長に不信感を抱き始めていたのでした。

「謙信上洛!」のニュースを聞いた信長は恐ろしいほど緊張しました。

そして信長の所領である加賀に入ったのです。

1577年9月 手取川の戦い 信長VS謙信
謙信は加賀に入りました。

とうとう信長もこれは裂けられないと挙兵。

手取川で戦うことになりました。

上杉軍はかがり火を焚き、部隊がそこに駐留しているように見せかけ騎馬のみの精鋭部隊だけを本陣へ。

対する織田軍はまだ3日くらいかかるだろーとのんびりしてたところへ突然の奇襲にびっくり。

先陣の滝川一益と丹羽長秀の部隊はあっという間にボロ負け。

秀吉もこりゃヤバイと早々に敗走。

秀吉は、信長に「勝家の応援に来い」と言われていて、ちょっとムッとしてました。

勝家が嫌いだったし、頑張っても何の得にもならないので、さっさと敗走してしまったのです。

ちなみに、秀吉はこの時信長にかなり怒られました。

かろうじて粘ったのが柴田勝家。

勝家はなんとか反撃しようと頑張りましたが、すでに兵の士気は先陣の敗走により下がりまくっていたので、立ち直ることができず大敗してしまいました。

夜明けになると信長は残った兵をまとめて対抗しようとしましたが、上杉のかがり火チームもやってきて織田軍はぼろぼろに。

信長は残った兵とともに逃げ出すが、追撃され何とか美濃に逃げ帰った時には全身傷だらけでした。

謙信 畠山氏と余計なバトル
が、ここで謙信はせっかく加賀に入って信長を破ったというのに、畠山氏の行動がムカつく!と、謙信は引き返してしまったのです。

そして畠山氏とバトル!

が、この畠山氏との戦いは謙信にとってやらなくてもよかった戦い。

これが謙信にとっては「余計なこと」だったのです。

そんなの気にせずに上洛の道をたどっていれば良かったのです。

そして謙信と畠山氏とのバトルは続きました。

謙信は一度春日山城に戻って行ったのです。

大切な時間を畠山氏に費やしてしまうこととなったのです。

1577年10月 松永久秀 壮絶な爆死
信長はその後も、本願寺攻めの時に久秀を使いました。

が、1576年に上杉謙信が信長をやっつけにやってくるという情報をキャッチすると、久秀はまたも謀反。

今度は信貴山城にたてこもったのでした。

今度は信長も激怒。

信忠・秀吉に信貴山城を包囲させ攻撃させました。

信長は久秀が所有している「平蜘蛛の釜」を差し出せば許してやると言ったんだけど、久秀はそれを拒否。

いよいよ城に火をかけるか・・・と言う時、空に赤い星が現れた。

人々は神仏のタタリと恐れました。

久秀は「この釜と白髪首を信長に渡してたまるか!」と釜を鎖で自分の体に巻きつけ、火薬で木っ端微塵に爆死するという壮絶な死を遂げました。

信長に対する最後の意地。

ルイス・フロイスは久秀のことを「他にみることのない武将」とぶっちぎりで褒めていました。

そんな久秀は、信長の一武将として仕えていることが嫌で仕方なかったのでしょう。

この時久秀68歳。

死んだ日はちょうど大仏を燃やした日と同じで仏罰と言われました。

松永久秀 SEX HOW TO本
松永久秀は、緻密なSEXハウツー本を残したことでも有名

当時、出陣前の3日間は魚を食べることとSEXは禁止でした。

それどころか妊娠中の女性が軍衣を触ってもダメで出産後30日は手を触れることも禁止でした。

女性は不浄といわれていて、戦いにおいて女性は縁起の悪い存在でした。

だから小姓をつけて、男色も武士のたしなみということになったのです。

ちなみに秀吉は、天下をとってから男色を遠ざけたため肩身の狭い思いをしたらしいです。

松永久秀のハウツー本は、現代のSEX特集顔負けってくらい細かく書いてあり、家中に配ってました。

例えば

・井戸やトイレの側・屋外でやっちゃダメ
・落ち込んでる時・逆上してる時・病みあがりはやっちゃダメ
・髪が黄ばんでいて顔が黒ずんでる女性はダメ
・肌が荒れていて鎖骨が高い女性はダメ
・出産回数が多い年上の女性はダメ
・気が荒く、男のような声を出すような女性はダメ
・女性がやりたくない時にやっちゃダメ。こしけ(婦人病)になるから。
・老人は無理して若い女性とやっちゃダメ。失明しちゃうから。
・生理中の女性とやっちゃダメ。お互い腎臓が悪くなるから。
・酔ってる時にやると顔が黄色くなからダメ

などなど、すっごいたくさん書いてあり、正しいセックスマニュアルなんかもありました。