安土桃山時代その4 1578年〜1579年

1578年2月 伊賀忍者狙われる
伊賀忍者とは?
その他の忍者
3月 上杉謙信突然死 
謙信は男色家?不能だった?
上杉家臣 柿崎景家
10月 信長家臣 荒木村重謀反
村重家臣 キリシタン大名 高山右近
11月 第二次木津川口の戦い
11月 耳川の戦い 島津VS大友
ニックネームは備前の熊 龍造寺隆信
前代未聞の押しかけ女房 義信の母慶闇尼
1579年3月 上杉家 家督争い  御館の乱
5月 武田勝頼 巨額のワイロに目がくらむ
6月 竹中半兵衛病死
秀吉 もう一人の軍師 黒田官兵衛(如水)
半兵衛&官兵衛
9月 荒木村重逃げる!
9月 第一次天正伊賀の乱
信長激怒!「オマエは謹慎じゃぁ!」
9月 築山殿事件 信康&妻築山殿 信長に殺される




安土桃山時代その4 1578年〜1579年月
1578年2月 伊賀忍者狙われる
伊勢にいる信長の次男北畠信雄(北畠家に養子に行ってます)のもとに伊賀の下山甲斐という者が訪ねてきました。

そして「今、伊賀は弱っていますよ。私が案内するので、この機会に伊賀を征圧すればどうですか?」と提案してきたのです。

実は信雄は以前伊賀への足がかりとして、丸山とうい場所に城を築いたまま、何かと忙しくなり放置していたのです。

これはラッキーとばかり、信雄は家臣の滝川雄利(かつとし)に命令してその城の築城を再開しだしました。

が、伊賀の人々も黙って見てるわけにはいかなかった。

こんなトコに城を作れらたら、いつ伊賀征圧されるかわかんない。

ということで、伊賀衆は丸山城完成の前に、信雄がやってくる直前を狙って、家臣の滝川らをやっつけよう!ということになったのです。

たちまち伊賀忍者達は動き出しましたのです。

そして10月25日。

伊賀忍者は一斉に立ち上がり、滝川らに襲い掛かり、伊賀忍者達はまず一勝したのです。
伊賀忍者とは?
この時代、合戦による武力戦で完全な勝利を導くためには、外交的な謀略以外に、特殊謀報網として忍者集団が利用されていました。

伊賀忍者では「上忍」として服部家・百地家・藤林家の三家がありました。

最初は伊賀の土豪たちから貰う報酬で過ごしていたのですが、組織が大きくなると土豪たちから貰う報酬では足りなくなってきました。

彼らはそれぞれ他国の豪族や大名達の需要に応じて報酬を得るようになっていったのです。

ですが組織はだんだん大きくなっていき、とうとう服部家が伊賀を百地・藤林に任せる!とし、12代将軍義晴に仕えるように。

百地家は南伊賀を担当し、藤林家は北伊賀を担当するようになりました。

ちなみに「上忍」の三家は忍者集団をまとめる指揮者です。

「中忍」は上忍の部下として隊長の役割をにないました。

「下忍」は上忍と中忍の命令のもと、忍術を駆使するのです。

忍術とは、敵に知られないように身を隠し、相手を打撃するというもの。

煙玉や音玉など、忍具も工夫されていきました。

ちなみに百地家の部下の「下忍」の中に、有名な大泥棒「石川五右衛門」がいました。

石川五右衛門は、リーダーである百地三太夫(ももちさんだゆう)の奥さんが死に、若い奥さんをもらったところを寝取ったため、追い出されたそうです。

で、その後の服部家ですが、将軍が衰退していったため見切りをつけ、松平清康(家康のじーちゃん)に仕えました。

そのため家康に重宝されていくこととなるのです。
その他の忍者
武田信玄のお抱え忍者軍団は「透波(すっぱ)」

透波の中から優れた者を選び出し、妻子を人質にとって武田家のために働かせたそうです。

上杉謙信は「軒猿(のきざる)」

北条氏康は「風魔(ふうま)」

風魔一族は代々ボスの名前は「小太郎」といいます。

ちなみに氏康時代のボスだった風魔小太郎は、身長2メートル20センチもあり、ヒゲを生やしたおっそろしい男だったそうです。

こうして忍者達は、それぞれの主の命令に従い、闇に生きていったのです。
1578年3月 上杉謙信突然死 
手取川で信長軍をやっつけた謙信。

が、やらなくてもいい畠山氏とバトルとなり、一度越後に戻って体制を立て直そうとしました。

そして3月9日。

春日山城にてトイレに行こうとしたところ、突然脳卒中で倒れてしまったのです。

お酒が大好きだった謙信の体は高血圧症だったのでした。

倒れてから5日間昏睡状態が続き、3月13日意識が戻らないまま永眠。

謙信49歳でした。

信長が想像するだけで脂汗をにじませたという謙信。

北条氏康は「あの男は一旦受けたことは骨になっても義理を通す。若い武将の手本にさせたい」と言っていました。

長年の宿敵武田信玄は勝頼に「何かあったら謙信を頼れ。そして甲斐の国を存続させろ」とまで言わしめた越後の龍謙信。

「毘」「龍」の旗印を京都に広めることはできませんでした。

そしてこの突然死が、後継ぎ問題を引き起こしていくのです。
謙信は男色家?不能だった?
美人さえみれば、家臣の妻だろうがなんだろうが妾にしていた戦国時代において49年間妻をも娶らなかった謙信。

清廉潔白・不犯の名将として称えられていますが、それによって「男色家」「不能」とまで言われています。

家臣である直江実綱の娘や、京都関白の娘の絶姫、敵の娘である伊勢姫と3人の女性が一応歴史上出てきています。

伊勢姫はすごい美人だったんだけど、謙信が攻めた平井城の城主の娘でした。

そのため家臣の柿崎に「敵の女を寵愛するのは間違いのモトだ」と非難されあきらめたという噂があります。

男色家説はというと、京都関白の娘である絶姫が男装した義経の舞を観せたことにより、絶姫に惹かれたという説があります。

この舞が終わって、義経に扮していたのが絶姫だとわかると、とたんに興味を失いさっさと帰ったといわれています。

謙信が30歳の時に、12歳から14歳までの少年親衛隊が誕生しました。

ここに美少年が多かったため男色家と言われるようになります。

また、小姓だった直江兼続もそのお相手だったという説もあり。

直江兼続はあくまでも噂で、むしろ謙信より謙信の養子である景勝に寵愛を受けていました。

また謙信が可愛がっていた少年として「諏訪虎王丸」というのがいました。

虎王丸は父を武田信玄に殺され、姉を信玄の妾にされていました。

ある日信玄を殺そうとするが逆に捕まり、姉の助命によって助けられ僧侶となったのです。

で、寺を抜け出し、謙信を頼ってやってきた。

この虎王丸がすごい美少年だったので寵愛したらしいです。

とまぁ、妻を娶らなかったことにより色々と言われている謙信ですが、新井白石によると「謙信は、武神の加護を得るために色欲を断っていた」とあります。
上杉家臣 柿崎景家
上杉家に仕えている家柄だった柿崎家。

景家は猛将として名をはせていき、常に上杉軍の先鋒として活躍。

川中島の時は信玄の本陣に突撃するも、飯富虎昌の攻撃を受けてしまう。

1575年に死去したが原因は不明。

景家に謀反があるという信長の謀略にひっかかった謙信が、景家を殺してしまったと言われています。

謙信は死ぬ前、無実を訴える景家の亡霊に悩まされたと言います。
1578年10月 信長家臣 荒木村重謀反
荒木村重は子供の頃から怪力として知られていました。

1573年に信長が京都に来て将軍義昭を追放した時に、率先して信長に忠誠を誓ったのが村重でした。

ある時、信長が刀の先に突き刺した饅頭を差し出すと、村重は臆することなく剣先から饅頭を食べ「さすがは剛のものじゃ」と信長から褒められたという逸話の持ち主。

こうして村重は摂津をまかされることになったのです。

摂津の東端に石山本願寺があり、村重は本願寺制圧をまかされ、秀吉の播磨制圧の後方支援もすることに。

が、村重の部下が信長を嫌い、敵である本願寺に兵糧米を売り、ぼろ儲けしていたことが発覚!!

これがもし信長に知れたら・・・と恐れ、信長に反旗を翻すことになったのです。

これに驚いたのは信長。

本願寺攻略どころか、秀吉をも孤立させてしまう。

信長は明智光秀に説得を命じました。

村重は光秀の説得に、いったんは母親を人質に差し出すということになった。

が、家臣の中川清秀が「信長の性格からすると、一度背いた者を許すはずがない。」と忠告。

他の家臣も全て賛同してしまったのです。

秀吉も黒田官兵衛を説得に送りました。

ですが村重は官兵衛を城内の牢に閉じ込めてしまった。

激怒した信長は、明智光秀・丹羽長秀・滝川一益・織田信忠を向かわせることに。

村重の頼りだった中川清秀・高山右近らはすぐに降伏。

村重は毛利氏に援軍を要請しましたが、毛利からは援軍は来なかったのです。

長い篭城のはじまりでした。

村重家臣 キリシタン大名 高山右近
右近は、主君である荒木村重の謀反に非常に困っていました。

右近は摂津の高槻をまかされており、領民25000人のうち18000人がキリスト教という熱心なキリシタンでした。

村重謀反の時信長に「オレにつかなければお前の国の宣教師を磔にし、領民を皆殺しにするぞ!」と脅され、信長につくことに。

右近は信仰心厚く、領内の貧しい信者が死んだ時には父とともに棺を担ぎ、墓の穴掘りまでやるというキリシタン武将の中で最も敬虔な信者でした。

そしてのちにキリシタン迫害により、波乱の人生を過ごすことになるのです。
1578年11月 第二次木津川口の戦い
以前毛利家の村上水軍にコテンパンにやられた織田の「九鬼水軍」

信長は不機嫌で口もきかないほどでしたが、今度はこう考えました。

「毛利の水軍はちょこまかと動きが素早い。だったら、そんな小型の船が近づけないくらいデカい船を造ればいいんじゃ!」

こうして、九鬼嘉隆に常識を超えるくらいのデカイ船を造るよう命じたのです。

命じられた嘉隆はビックリ!

ですが命じられたことを断ったら信長に殺されかねないので、全造船技術を駆使してめちゃくちゃデカイ船を完成させたのです。

その船が堺の港に姿を現すと、人々はビックリ!

「人が5000人ほど乗る、たて12メートル・横22メートルの鉄張りで出来ており、今までに無い大戦艦」だったのです。

この頃、毛利輝元はまたも石山本願寺から「兵糧運んできてー」とお願いされました。

前回と同じパターンでしたが、今回は巨大な大戦艦があったのです。

が、村上水軍は「前に戦った時、ヤツラ惨敗だったじゃねーか!」と、全く用心していなかったのです。

ところが!!

現れた九鬼水軍は遠くから大鉄砲をぶちかましまくった。

村上水軍の接近火術は何の威力も発することができないのです。

こうして村上水軍(雑賀衆も)はめちゃめちゃにやられてしまいました。

ちなみに雑賀衆はこの後も頑強に「本願寺」を指示。

意地でも織田家に従うもんか!と頑張りまくりました。

以後織田家であった秀吉に対しても反抗しまくり、秀吉によって壊滅的な打撃を受け歴史から姿を消すこととなります。
1578年11月 耳川の戦い 島津VS大友
このころ九州では、1572年に島津氏と伊東義佑がバトル。

1577年に島津は日向の伊東義佑のとこに総攻撃をかけます。

伊東氏に内通者が出たことから、伊東氏は日向を追放され、義佑は宗麟の娘を嫡男の妻に貰ってることから大友氏のとこに助けて!とやってききたのです。

大友宗麟は伊東氏の領地を奪回するべく島津に戦いを挑むことに。

だけど重臣達は大反対。

しかし宗麟は九州制覇という野望のもと、同じ九州の最大の敵 島津氏をやっつけようと決心したのでした。

1578年9月 大友軍45000人は日向へ向かいました。

島津家久の軍はこれをとめることができず、耳川近くの高城に立て籠もり、なんとか進軍を食い止めました。

大友軍は高城を何度も攻略しましたが、落とすことができずに損害だけを増やしていました。

11月に島津義久は4万の軍で救援にやってきた。

島津勢と大友勢は川を挟んで対陣する態勢が整いました。

翌日、大友軍の総大将である田原紹忍が、島津を侮り川を渡って島津軍を攻め込みました。

が、島津の猛攻撃にあってしまい総崩れに。

この総崩れは大友軍を混乱させてしまい、全軍総崩れに。

今がチャンスと島津軍は敗走し始める大友軍を追撃。

完璧なまでに叩きのめされ、大友軍は討たれまくり。島津の大勝利となりました。

大友軍の敗因は総大将田原紹忍の油断もありますが、大友宗麟にもかなり原因あり。

島津軍は当主である島津義久が自ら陣頭にたって頑張ったというのに、キリスト教にはまってた宗麟は200キロも離れたところにいて、お祈りをしてたってコト。

これによって、兵の士気が下がってしまっていたのです。

この大敗戦により、大友氏の地位は地に落ちることに。

大友家は敗戦後、謀反が続出。

家臣の心も離れていきました。

大友家衰退の始まりであります。

対する島津は日向を治めるとともに、念願の薩摩・大隈・日向の三国を統一。

勢力拡大していきます。

そして、負けた方を狙ってやろうと虎視眈々とチャンスを狙っていた肥前の龍造寺隆信が出てくることになるのでした。
ニックネームは備前の熊 龍造寺隆信
龍造寺家は平将門を鎮圧した藤原秀郷の末裔です。

隆信は平家物語の壇ノ浦の合戦部分を丸暗記するほどの記憶力の持ち主でした。

7歳の時に出家させられるんですが、隆信が17歳の時にお家騒動が勃発。

これを機に隆信は還俗となり、戦国時代の真っ只中に飛び出すこととなったのです。

成長するにつれ隆信は備前の熊と呼ばれるほどの猛将になっていきます。

ですが龍造寺家はまだまだ弱小で、大内義隆にバックアップしてもらっていました。

が、大内義隆が陶晴賢に討たれると後ろ盾がなくなり、ちょっとヤバイ雰囲気に。

その後九州において大友宗麟の力が強くなり始めると、龍造寺家内で内通者が出るなどして危ない雰囲気になったりもしました。

ですが、大友VS島津の耳川の戦いにおいて、大友家が衰弱してきたのです。

隆信は心は広く、罪を許してあげることもたびたびあり一族からは信頼を受けていました。

そんな隆信ですが、「あと何年かしたら九州はオレのもんだぜ」と言いはじめたのです。

それを聞いた大友家は怒って隆信を攻撃!

隆信は「もー!そんな怒ることないじゃんヨ。ちょっと言ってみただけじゃん」みたいな手紙を書いて、余計大友家を怒らせたのです。

困った龍造寺家。

そこへ鍋島直茂が「鬼の面をつけて奇襲しよう」と作戦を立てる。

鬼のような姿をしたヤツラの突然の攻撃に大友びっくり。

大混乱となり龍造寺家の勝利。

龍造寺家は九州で名をとどろかせたのです。
前代未聞の押しかけ女房 義信の母慶闇尼
隆信の母の「慶闇尼(けいぎんに)」は、夫(つまり義信の父)が死に未亡人となっていました。

その頃家臣団の中の鍋島清房が妻も死んじゃいました。

それを聞い慶闇尼は、「あたしと結婚しなさい!」と命令。

前代未聞の押しかけ女房となったのです。

鍋島清房には「直茂」というめちゃくちゃかしこい男の子がいました。

慶闇尼は清房と結婚し、直茂を龍造寺家の繁栄のために活かそうとしたのでした。

これは見事的中。

のちに鍋島直茂は龍造寺家にはなくてはならない存在となり、秀吉に「九州一の武将は直茂か立花宗茂」とまで言わしめるのであります。
1579年3月 上杉家 家督争い  御館の乱
上杉謙信は独身だったので子供がおらず景勝・景虎という養子をとっていました。

どちらを後継者にするか決めないまま死んでしまったため、謙信の本葬が終わらないうちにこの2人の後継者争いが始まります。

景勝は謙信の姉の子で5歳で養子となりました。

景虎は北条氏康の七男(末っ子)で「関東一の美少年」と言われていました。

北条氏と上杉氏が和睦した時に人質として送られ、謙信は養子として迎え自分の幼名である景虎を与えました。

また、景勝の妹を妻に娶りました。

謙信の死により景勝派・景虎派と家中が真っ二つに割れたのです。

そして景勝はオレが後継ぎだ!と春日山城を占拠。

自分が謙信の後継者であると宣言した。

景虎は妻子とともに春日山城を脱出。

越後に来ていた山内上杉憲政の家である御館にたてこもりました。

越後は揺れに揺れたのです。
1579年5月 武田勝頼 巨額のワイロに目がくらむ
景虎の兄である北条氏政は、妹婿の武田勝頼に救援を依頼しました。

軽くOKした勝頼。

兵を出し、景勝を討つために向かいました。

が、それを知った景勝。

謙信の莫大な財産を惜しみなく勝頼に振るまったのです。

この頃雲行きの怪しかった勝頼は、財産に目がくらみました。

そして、なんと景勝と和睦してしまったのです。

さらに勝頼は自分の妹を景勝に嫁がせちゃいました。

これには北条氏政大激怒!!

勝頼は外交に失敗した結果となり、北条と険悪になったのでした。

そして9月になると勝頼が撤退。

北条氏政は、弟・景虎を助けるべく北条氏政は自分の兵を出すことになったのです。

戦況は一進一退の状態が続きました。
1579年6月 竹中半兵衛病死
秀吉には軍師が2人いました。

一人は美濃からスカウトした竹中半兵衛。

「昔楠木・今竹中」と言われるほどの活躍ぶりでした。

ちなみに楠木とは、鎌倉時代の楠木正成のことです。

もう一人の軍師は黒田官兵衛。

のちの黒田如水です。

半兵衛が秀吉の軍師として活躍するのは姉川の合戦から。

この時秀吉直属軍があまりにも少なかったため、半兵衛がいろんなトコに声をかえてスカウトしまくり秀吉軍を盛り立てました。

そして浅井長政の重臣である堀次郎らを寝返らせたのも半兵衛でありました。

半兵衛は秀吉のもとで戦術を使うのが楽しかったらしく出世や領地などには興味を示さなかった。

秀吉の天下取りへの駒を急速に進めたのも半兵衛であり「知謀鬼神の如し」とまで言われましたが、36歳であっけなく病死。

そんな半兵衛とともに秀吉の名軍師として活躍したのが黒田官兵衛であります。
秀吉 もう一人の軍師 黒田官兵衛(如水)
黒田家は京極家の流れを汲む家です。

先祖が将軍であった足利義植の怒りを買ったことから別のトコに移り住み、「目薬」を売って財をなしたと言われています。

父が小寺氏という家に仕えたことから、官兵衛も自然と仕えることになりましたが、メキメキと頭角を現し小寺家の家老にまで上り詰めました。

1573年信玄が死に、将軍義昭が追放となり信長VS毛利が表面化してきたところに、官兵衛のいる小寺家は信長・毛利から「うちの陣営に来い」と誘われました。

このころは信長はまだ新勢力だったため、みんな毛利につこうと言ったが官兵衛は織田方につくことを主張。

この決断が、官兵衛を歴史の表舞台に立たせるのでした。

そして中国制圧としてやってきたのが秀吉でありました。

秀吉は全く知らない土地だったので官兵衛に頼りました。

官兵衛もそれに答えて自分の城を差し出したりして秀吉に協力をしたのです。

信長とも会い、官兵衛は長男の松寿丸(のちの黒田長政)を人質に差し出しました。

官兵衛は「秀吉に味方すれば所領を安堵してくれます」と他の将に話をしみんな従ったため秀吉は官兵衛を重宝するように。

「わしはそなたを秀長(秀吉の弟)と同じくらい信頼している」という手紙までもらうほど。

そして竹中半兵衛とともに軍師として活躍していきます。

そんな中、荒木村重が謀反を起こしました。

官兵衛を秀吉に引き合わせてくれたのは荒木村重だったので、官兵衛は村重を説得するよう命令されました。

が、村重は説得にきた官兵衛を城の牢獄へ閉じ込めてしまう。

官兵衛が戻らないので、村重の味方になったと思った信長は人質である松寿丸を殺せ!と命令。

それを「官兵衛に二心はなし」と信じて信長には殺したと言って密かに助けたのは竹中半兵衛でした。

その後官兵衛の疑いが晴れた時、信長は「間違いを犯さずに済んだ」半兵衛の計らいにすごく感謝したそうです。

ちなみに以後竹中家と黒田家はすごく仲良しに。それは江戸時代まで続きます。

官兵衛はというと、牢獄にいる間、蚊やシラミが官兵衛の全身を襲いました。

そのため皮膚病になってしまい、頭は禿げて足が腐り二度とモトには戻りませんでした。

ですが、それからも軍師としてさらに第一線で活躍。

活躍しすぎて秀吉に不審がられるようになっていきます。
半兵衛&官兵衛
竹中半兵衛と黒田官兵衛は性格的に全く違った二人でした。

ある時官兵衛が「秀吉殿は、オレが頑張ったらご褒美くれるっていう契約書まで書いたのに、まったくご褒美をくれる気配がない!」とブーブーぐちってると半兵衛がその契約書を破って燃やしてしまいました。

びっくりした官兵衛!

すると半兵衛は「こんなのがあるとまともに働くことができない。それはお前のためにならんぞ!」と言いました。

名軍師2人のエピソードでした。
1579年9月 荒木村重逃げる!
1578年の10月から、およそ11ヶ月籠城していた荒木村重。

とうとう逃げることを決意したのです。

村重は夜のうちに従者を数人連れてこっそり城を脱出。

主のいない有岡城はあっというまに落城してしまいました。

残された家老の荒木久左衛門は、「村重の妻子だけでも助けてくれ。かわりに他の城を明け渡す」という約束をしましたが、その荒木久左衛門も逃げてしまったのです。

結果、有岡城に残された男女120名は磔にされることに。

信長の三大虐殺と言われるこの虐殺は、凄惨なものとなりましたた。

磔しながら槍で突き刺したり、鉄砲の的にしたり。

さらに召使ら500人を四軒の家に押し込め、生きたまま焼きました。

村重は毛利の客人として生き延び、やがて剃髪します。

その後は秀吉に召しだされ茶人として生き「利休七哲」の一人に数えられることに。

剃髪した時、自分の名前を蔑みの気持ちから「道糞(どうふん)」と称しました。
1579年9月 第一次天正伊賀の乱
伊賀忍者達は家臣の滝川を追放し、せっかく出来上がりかけていた丸山城を焼き払いました。

これに怒ったのは信雄(信長次男)

ですが、荒木村重の謀反だのなんだので、中央は大忙し。

とりあえず信長は伊賀なんかに構っていられない状況だったのです。

が、信雄は動いた。

織田家の中で、大した働きをしていないオレ様。

なんとかヤツラを見返してやりたい!と、十分な下調べなどをせずに、功を焦り出発したのです。

一応信長に連絡はしたけど、それどころじゃなかったので「勝手にやれ」といった感じだったのです。

信雄は8000人の兵を率いてやってきました。

が、伊賀の忍者軍団はすごかった。

老若男女全員が武器を取り、織田軍に挑んだのです。

さすが忍者!といった戦いで、ゲリラ戦・スパイ戦と、ありとあらゆる手を使って信雄軍を攻め込みました。

正直伊賀衆をナメていた信雄はびっくり!

さんざんひっかきまわされ、逃げていったのです。
信長激怒!「オマエは謹慎じゃぁ!」
伊賀の乱の大敗を知った信長は超激怒!

信雄をただちに謹慎処分にしました。

ちなみに信長は伊賀忍者が大嫌い!

陣へ忍び込んで火を放ったり、流言をしたり。

さらに朽木越え(浅井長政に裏切られて逃げた時)も、必死で逃げてる信長の命を狙ったり。

いつか手痛い目にあわせてやろうと考えるのでした。
1579年9月 築山殿事件 信康&妻築山殿 信長に殺される
家康にとって重大な事件が起きました!!

コトの発端は、信康の妻で信長の娘である「徳姫」であります。

信康の母築山殿は、実家が今川なので今川を滅ぼした織田家が大嫌いでした。

そこに嫁VS姑が始まるわけです。

築山殿は「嫁いびり」をスタートさせ、息子の信康に妾まで斡旋するという徹底振り。

そんなことで徳姫と信康の間も険悪になり、信康の素行も乱れました。

怒った徳姫は、実家の父信長に「築山殿が武田のスパイと密通し、武田勝頼と内応して家康を狙っている。それに信康の乱交ぶりも目に余る」とチクりました。

常日頃信長は、自分の息子である信忠より信康の方が優れているのを妬んでいました。

「自分が死んだら信忠は信康に征服されるかもしれない」と思っていたので、この徳姫の訴えをチャンスと喜んだのです。

信長は家康に築山殿と信康の切腹を命じました。

これに驚いたのは家康。

信康を非常に可愛がっていて、自分の後継者にするつもりでいたし、築山殿のことも嫌いではなかった。

慌てて自分の家臣である酒井忠次(ただつぐ)をなんとか自刃だけは・・・と、説得に向かわせました。

だけど信長にコトの真実を聞かれると忠次は「その通りでございます」と全く言い訳をしなかったのです。

そのため、築山殿と信康は切腹させられてしまいました。

その時介錯を頼まれ、最後をみとったのは服部半蔵。

半蔵はいつまでも信康を斬ることができず、とうとうもう一人の家臣が信康を斬ったそうです。

家康はこの時の酒井忠次を非常に恨んでおり、のち徳川四天王として君臨する酒井忠次を働かせるだけ働かせ、最後に恨みを晴らすことになるのです。

これはまた後ほど。

家康は信長と戦っても勝ち目もないし、今ここで信長を怒らせたらやばいということが身に染みてわかっていたので、泣く泣く信康をあきらめたのでした。

信康が死んだという話を聞くと、3日間城に閉じこもって泣き続けました。

大阪の陣の時も、三男秀忠が真田にひっかきまわされるのをみて、信康の死後何年もたっているのに「信康がいてくれたら・・・」と嘆いたらしいです。