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安土桃山時代その5 1580年〜1582年5月21日

1580年1月 秀吉得意の城攻め 別所長治自刃
2月 上杉景勝 御館の乱 総攻撃じゃ!
景勝軍師 直江兼続(なおえかねつぐ)
3月 信長 女中を殺しまくる事件発生
4月 本願寺家 石山退去
8月 信長 佐久間信盛を追放
12月 秀吉を褒める
1581年2月 信長大イベント!超豪華な馬揃え
山内一豊の妻
9月 秀吉 200日の餓鬼地獄 鳥取城を落とす
1582年1月 大友家・有馬家・大村家 天正少年使節をローマへ派遣
その後の勝頼
家康動く!
2月 武田家臣 木曽義昌裏切る!
武田家臣仁科盛信 自刃!
3月3日 勝頼逃げる!
小山田信茂裏切る
3月11日 天目山 武田勝頼自刃 武田家滅亡
真田幸村の父 真田昌幸
信長 勝利の美酒に酔う
明智光秀 信長にボコボコにされる
武田家臣 高坂昌信
武人画家 武田信廉(のぶかど)
武田家臣 穴山梅雪(あなやまばいせつ)
3月 家康 信長をVIP接待
5月12日 信長 自分を「神」と言う
5月15日 明智光秀 信長に怒られる
秀吉 毛利家とバトル中 高松城攻略
5月17日 明智光秀 秀吉の手助けに行かされる
光秀 準備にかかる
信長の超お気に入り小姓 森蘭丸
5月21日 信長 本能寺へ向かう




安土桃山時代その5 
1580年1月 秀吉得意の城攻め 別所長治自刃
別所家は赤松家の流れを汲む名門でした。

別所長治は父が早く亡くなったため12歳で家督を継ぎました。

家督を継いだとはいえ、幼かったので裏で糸を引いていたのは叔父である三木賀相(よしすけ)。

長治が21歳の時、秀吉の中国攻めにおいて地理に詳しかったため先鋒に命じられました。

が、叔父である三木賀相は「たかが草履とりだった男に戦いの何がわかる?」と秀吉をバカにしており、会議の席においても秀吉の傲慢さを罵り、長治にトクトクとそれをグチってたもんだから、長治もだんだん秀吉を小ばかにするように。

そして「あんな草履とりが総大将なんでふざけるなや!」と、毛利とつながり反旗を翻すことになったのです。

怒った秀吉は得意の城攻めをスタートさせました。

三木城には立て籠もっているのは7500人。

まず周囲の城を一つづつ壊していき精神的に追い詰めました。

そして完全に三木城を孤立させたのです。

1579年2月 籠城1年。

食料も底をつき2500人の城兵が一丸となって突撃するも敗北。

9月になると、毛利は兵糧を送るも秀吉軍に逆にやられてしまい城内には米一粒も残らなかった。

さらに城内から内応者を出させ混乱に陥れた。

ねずみ・馬・草。

とりあえず口に入るもの全て食べましたが、とうとう長治は「自分と息子の友之。そして三木賀相手の3人が切腹するので、城内の兵の命を助けてください。兵を助けていただければ、長治今生の喜びであります」と言いました。

秀吉はこれを了解した。

そして切腹の日。

早朝に起きて行水し、長治は自分の妻と3歳の子供を刺し殺し、賀相の妻と子供を殺しました。

そして友之と最後の別れをし、切腹しました。長治23歳 友之12歳でした。

ちなみに長治の家臣である中村忠五郎は、自分の娘を差し出し、城内から門を開く約束をした。

で、秀吉軍が城内に入ると襲いかかったのです。

本来なら秀吉に殺されるとこでしたが、秀吉は忠五郎を「主君に忠誠を尽くした武士の鑑じゃ」と褒め、知行を与えたのです。

1580年2月 上杉景勝 御館の乱 総攻撃じゃ!
景勝と景虎の戦いはずーっと続いていました。

そしてとうとう雪の降る中、景勝は総攻撃を決意したのです。

景虎側の猛者 北条景広はかなり奮闘したが討ち取られ、脱走者が相次ぎ始め景虎の敗戦色は強くなってきました。

3月17日 もはやこれまでと山内上杉憲政が景虎に降伏を勧め、景虎の長男である道満丸(9歳)を連れて和議の交渉をするため春日山城へ向かいました。

が、途中で2人とも兵に斬殺されてしまったのです。

これを知った景虎は嘆き、再起を図るべく兄の北条氏政のいる小田原城へ逃亡を決意。

追手を振り切り、なんとか味方の鮫ケ尾城へたどり着いたのです。

が、鮫ケ尾城主の堀江宗親は景勝に寝返っていたのです。

景虎は堀江の謀反と景勝の攻撃に耐えることができなくなりとうとう自刃。

26歳の若さでした。

景虎が死んだ後も各地で景虎派は反抗しまくてったんだけど、景勝の猛攻によりとうとう全員降伏。

越後は景勝のものとなったのです。
景勝軍師 直江兼続(なおえかねつぐ)
兼次の父は城の炊事係でした。(謙信の重臣だったという説もあります)

幼い頃から利発だった兼続は、父と一緒にいたところを景勝の母の目に留まり景勝小姓に取り立てられました。

もとは樋口という名前だったんですが、御館の乱の時に老臣同士が大喧嘩!

なんと重臣であった直江家が断絶となってしまったのです。

景勝は長尾時代からの名門直江家が途絶えてしまうのは勿体無いということで、樋口家に直江家を継がせたのです。

それが兼続でした。

御館の乱の時は景勝の側近として貢献。

その時19歳でした。


1580年3月 信長 女中を殺しまくる事件発生
信長の残虐性は日に日に増してきていました。

ある日、信長の留守中に城の外に出て遊んだ侍女らを全員殺すという事件が発生しました。

家来達の誰もが暴君である信長を恐れており、ルイス・フロイスが書いた手紙によると「信長がちょっと手を上げただけで家臣達は信長の前から素早く退き、誰かを呼べば部屋の外で百人ほどの家臣が一斉に返事をする」とあります。

家臣に対しては規律・規則に厳格で、不正や怠慢が大嫌いでした。

信長が考えた拷問として「のこぎり引き」というのがあります。

土の中に体をう埋め、首だけを地上に出し首をのこぎりで斬るという処刑法。

これは江戸時代まで行われました。

家臣を採用するにあたっては、「能力主義」で、いい例が秀吉や明智光秀。

身分の低さや出生にこだわらず能力第一。

自分が命令したこと以上の結果をみせる家臣を出世させました。

逆にずっと織田家に仕えていた忠誠心の高い家臣でも必要じゃなくなればさっさと追放しました。

またイジメ大好きで、よくやられたのが光秀。人前で恥をかかせ、プライドを傷つけて楽しみました。

家臣達に相撲大会をやらせ、優勝のご褒美は何かと楽しみにしてる家臣に対して、そのご褒美に栗や草履だったりとイジメまくり。

残虐さも戦国時代NO1。

朝倉軍を壊滅させた時も、連日落武者狩りをして、捕らえたものは数珠繋ぎにして斬り殺しまくった。

一向一揆でも何万人も打ち首・磔・釜茹で・・・

信長が殺害した人数は、広島の原爆で死んだ人と同じくらいと言われています。

また、新しいものが大好き♪

和歌や漢詩には全然興味がなく、西欧文化に興味津々。

ビロードの南蛮帽子がお気に入りで、珍しいもの大好きだった。

宣教師が連れてきた「黒人」にびっくりして、寒空の中体を洗わせ洗っても肌が黒いと知ると「ヤスケ」と名をつけ家臣に加えました。

ちなみに「ヤスケ」は本能寺ショックの時も一緒にいて、戦いまくりました。

が、「ヤスケはわけもわからずやっただけ」とお咎めなしでした。

宣教師から「地球は丸い」と教わった時はすぐ納得して日本で最初に地球は丸いコトを理解したといわれています。
1580年4月 本願寺家 石山退去
信長包囲網により、長年続いていた本願寺VS信長との戦い。

篭城といっても他の城とはまったくやり方が違いました。

本願寺の味方をしたのは毛利輝元。

水軍を駆使し、本願寺に食料を運び続けました。

織田軍はこの水軍を迎え撃ったんですが、平安時代からの技術力のある村上水軍にはかなわなかった。

信長は伊勢志摩を拠点としていた九鬼水軍にお願い。

リーダーである九鬼嘉隆(くきよしたか)は信長とともに巨大な鉄甲船(軍艦みたいなもん)を作ることに成功。

村上水軍を押し返し、本願寺への食料ルートを止めさせた。

粘り強く戦ったものの、とうとう本願寺顕如は石山を退却することに。

顕如の子、教如は退散しないぜ!と徹底抗戦の構えをみせたため顕如と絶縁状態に。

そして教如は8月に退去しました。

この親子絶縁のため本願寺は分裂し、「西本願寺(顕如派)」と「東本願寺(教如派)」に分かれてしまったのでした。

顕如は信長に許してもらうことができて、各地の一向一揆を押させるのに大忙しの日々を過ごしました。

なお石山本願寺は炎上し、3日間燃え続けて消滅。

そのあとこの場所に秀吉が大阪城を建てました。

死をも恐れずむかってくる一向宗。

信長にとって一番しんどかった戦いが終わったのです。
1580年8月 信長 佐久間信盛を追放
佐久間信盛は信長の父 信秀に仕えていました。

信長が家督を継いだときに、柴田勝家・林通勝らが信長の弟の信行を家督相続させようと反乱を起こした時に、最初から最後まで信長の味方をして、信長から信頼され重宝されました。

その後は、六角義賢を攻めたり比叡山焼き討ち・三方ヶ原の戦いでは家康の援軍として派遣されたりと、目覚しい活躍をしていました。

その戦功が認められ、石山本願寺攻めの時は主将に抜擢。

そんな信盛を「本願寺攻めのときに明智光秀や柴田勝家はすごくいい活躍をしたのに、おまえら親子は全然ダメじゃ」といって突然子の正勝とともに追放しました。

さらに家康VS信玄の三方が原の戦いの時に、平手汎秀を見殺しにしたという罪も、今頃言われました。

信長は佐久間親子を、裸で追放したそうです。

その後、信盛は餓死してしまいました。

子の正勝はのちに許され、織田信雄に仕えます。

そして秀吉の御伽衆に加わり、秀吉が亡き後は家康に仕えました。

佐久間信盛は織田家の家老としてずっと忠誠を尽くしてきたのに、いらなくなったら追放されるという、信長の冷酷さが現れています。
1580年12月 信長 秀吉を褒める
秀吉は中国攻めを行っていましたが、一度年末の挨拶のため信長のもとへ。

この時秀吉は、めちゃくちゃ沢山のプレゼントを信長に渡しました。

その数は荷台200以上もあり、安土城の天守閣からおびただしい数の贈り物を見た信長はビックリ!

「みなの者!秀吉を見習え!あいつは天竺を退治しろといっても、嫌とは言わずにやりとげるであろうぞ!」とご満悦。

これを聞いた明智光秀。

「なんであいつ、あんなに出世して評判もいいんだ?」と不思議でした。

そして秀吉の元家臣に尋ねたのです。

すると「秀吉殿は私たちが何が手柄をたてると、こっちがびっくりするくらい褒美をくれるんですよ。ただそれだけです」と言いました。

確かに貰うほうからすれば、こんなに嬉しいことはない。

けど、与えるほうからすれば、相手がびっくりするほどあげるのは難しいし、それに何より光秀は「物」で、家臣の心をつなぎとめるなど「卑しいもの」のやることだと思ったのでした。
1581年2月 信長大イベント!超豪華な馬揃え
信長が、京で天皇に馬揃えを見せるというイベントを行うことに。

織田家の一大イベントに、みんな大フィーバー。

競って馬の手入れや、衣装を考えたりしてました。

この時に長男の信忠の馬は80騎 次男信雄は30騎 三男信孝は10騎でした。

前も書きましたが、三男信孝は本当は信雄より先に生まれている。

だけど母の身分が低かったため三男にされちゃいました。

また、信長は信忠と信雄の生母である「吉乃」がお気に入りだったので、この2人のことをとても可愛がっていたのです。

信孝は「長男が特別扱いされるのはまだ許せるけど、信雄よりオレの方が先に生まれてるんだぜ?っつーか、あいつこないだ伊賀の乱の時大失敗してんじゃん!」と、信雄に対してめちゃくちゃライバル意識を持っていたのです。

この時の馬揃えの時は、自分が信雄よりも馬が少ないことをめちゃくちゃムカついていたのでした。

山内一豊の妻
織田家一大イベントとなった馬揃え。

もうみんな一生懸命馬を洗ったり、飾ったりしていました。

そこへとぼとぼと家へ帰っていったのが山内一豊。

妻の千代が心配して聞いてみると

「今日、馬商人がやってきて東国一の名馬を売るというんだヨ。毛並みといい色艶といい名馬中の名馬なんだよなー。オレは織田家の新参者だけど、武士としてあんな馬に乗ってみたい。でも、黄金十両だってさ。あーあ、貧乏はツライよ・・・」とぼやきました。

すると千代は、自分の愛用している小さな鏡箱の中から、なんと黄金十両を取り出したのです。

一豊ビックリ!!

これは千代の父が、嫁入りの時に一大事の時に使え!と渡してくれたお金でした。

一豊は喜んで、すぐにその名馬を買いました。

イベント当日。

13万人の見物客の中、ひときわ目立ったのが一豊の馬でした。

その立派な馬は信長の目にも止まりました。

あまりに高価なため馬商人も買い手がつかずに帰ろうとしてたところ、一豊が買ったという話を聞いた信長。

「信長の家臣じゃなければ買うことはできないだろうと、わざわざ持ってきた名馬を帰らせてしまったら、信長の恥となるところだった。」と一豊を褒めたのです。

以後、一豊は信長に目をかけられるようになりました。

一豊の運は妻のおかげで開くことになったのです。
1581年9月 秀吉 200日の餓鬼地獄 鳥取城を落とす
秀吉今度は、鳥取城を攻めることに。

1580年に城主である山名豊国はすでに投降したんだけど家臣らは納得できず、秀吉が一度姫路に帰った隙をみて毛利へ寝返ったのでした。

鳥取城にいた代表が「吉川経家」でした。

鳥取城は名城で、兵糧さえあれば充分戦える。

そう踏んだ経家は兵を用意し、籠城に備えることに。

それを知った秀吉は、兵糧ルートを全部絶たせる作戦に出ました。

鳥取城下に来た米商人に相場の倍値で買い、兵糧攻めを開始した。

そして城の周りに柵を立て包囲しました。

ルートを経たれ、食料を用意できなかった鳥取城に残っているのは草の葉のみ。

3日に一回鐘を鳴らし、兵らが柵のギリギリのとこまでいって草の葉を取ってきた。

柵の外ではこれ見よがしに秀吉軍がご飯を食べました。

牛や馬を次々殺して食べてもあっという間に食べつくしてしまい人々はやせこけた。

人々は柵まで「助けてくれ」と力を振り絞って歩いていくが、秀吉軍は容赦なく鉄砲で撃ちまくり。

すると、撃たれた人の肉を求めて城内から兵が出てきて人肉を食べたのです。

殺した兵のお腹を裂くと何も入っていなかったといいます。

自分の子が死ぬと、その死体をみんなに見つからないように隠して食べる者もいました。

とうとう経家ら重臣は切腹し降伏。

200日の餓鬼地獄は幕を閉じました。

降伏後、秀吉は城兵に「おかゆ」を食べさせたましたが、おかゆを食べた兵らは次々と死んでしまいました。

これは毒を入れたわけでもなく、突然食べたためです。

それほど兵は衰えていたのでありました。
1582年1月 大友家・有馬家・大村家 天正少年使節をローマへ派遣
この頃、九州のキリシタン大名である大友・有馬・大村が、宣教師ヴァリニャーノの発案で13.4歳の少年らヴァチカンにいるローマ教皇のもとに行かせました。

キリスト教の学校である有馬セミナリオ(神学校)から、伊東マンショ・千々木ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノらが選ばれました。

ヨーロッパにおいて日本というと、マルコ・ポーロが紹介した「地球の裏側にある黄金の国ジパング」と言われていたので、ヨーロッパの人々は地の果てから来た少年らを行く先々で歓迎しました。

この少年らのヨーロッパ訪問は、世界レベルのニュースでした。

これらの少年が日本に持ち帰ってきたものは「活版印刷」です。

その後の勝頼
長篠の戦のあと、死ぬ思いで逃げ帰ってきた勝頼。

名だたる武将がことごとく討死してしまい、武田家はぼろぼろでした。

そして家臣の心も一気に離れてしまうのです。

勝頼は国を立て直すために、古い政策を見直して、信長のような近代的な政策を取り入れようとするもますます反感を買ってしまいました。

また、北条氏政の妹を妻にしたりと政略結婚もしました。

だけど、やめときゃいいのに上杉謙信死後の家督争いに口出ししてしまい、上杉景勝にお金を積まれ景勝の味方しちゃった。

そのために北条氏政の弟で、謙信の養子となっていた上杉景虎が死んでしまい、怒った北条氏政は同盟を破棄してきました。

せっかく北条家と同盟を結んだのに、入んなくていいケンカに入っちゃって同盟破棄されてしまうという愚かなコトをしでかしてしまったのでした。

あれだけ強大であった武田信玄の国を、死後たった10年でぐらぐらにさせてしまった勝頼。

信玄が16歳になったら次期当主にと考えていた勝頼の息子信勝(のぶかつ)ももうすぐ16歳になろうとしていました。

無能な勝頼のうちに・・・と信長・家康は武田攻めを決意することとなるのです。

家康動く!
家康は調略により、武田家臣を寝返らせるように。

穴山梅雪らをゲットして駿河に侵略。

そして信長が攻めてくるというニュースが流れると、武田家臣はこぞって織田・徳川に寝返ったのです。

1582年2月 武田家臣 木曽義昌裏切る!
木曽義昌は信玄時代からの家臣でした。

信玄の娘である真理姫と結婚し、武田一門となりました。

勝頼時代となってから、勝頼が「新しい城(新府城)を作るから、木材調達頼むよ!」とエラソーに命令したことに腹を立てはじめたのです。

そんな中、徳川家から「本領も安堵するし、さらに他のトコもあげるから徳川に寝返れ」という要請が。

とうとう義昌は勝頼を見限り、寝返ったのです。

これを知った真理姫は激怒し、義昌と離婚して勝頼に「うちのダンナが寝返ったわよ!」と報告。

ですが勝頼は、めちゃくちゃブチ切れて、義昌と真理姫の子供を磔にしてしまったのです。

真理姫は大ショックを受けてしまいました。

こうして義昌は武田滅亡のきっかけを作り、案内人となったのです。
1582年2月 武田家臣仁科盛信 自刃!
家康が動き、信長も動き出しました。

武田家臣は続々と織田・徳川に寝返っていました。

そんな中、唯一戦ったのが仁科盛信だったのです。

盛信は信玄の5男で、勝頼の弟です。

高遠城の仁科家を攻略した際、名門仁科家が没落するのは勿体ないということで、仁科を名乗るように。

そんな中、木曽義昌が寝返ったというニュースが!

武田家は大パニック!

逃げ出すものが続出でしたが、仁科盛信は踏みとどまったのです。

織田家は武田家を一気に潰すために5万人もの大軍を送り込みました。

これを恐れた武田家では、どんどん城を逃げて行き、織田軍は一滴の血も流さず高遠城にやってきました。

そして仁科盛信にも「降伏しろ!」と使者を出したのです。

ところが盛信はその使者の耳を切り落とし「何を言われても降伏する気などないわ!来るならコイや!」と3000人の兵で籠城することとなったのです。

相手となったのは織田信長の長男信忠でした。

こうして若者同士の戦いが始まったのです。

ですが50000人の大軍に3000人では敵うはずがない。

もはやこれまでと悟ると、盛信は最後の意地を見せ、腹を十字に斬り、腸を壁に投げつけ自刃しました。

それを見た他の武将や女性達も、自刃して高遠城は落ちたのです。

盛信26歳。

武田家臣としてただ1人、最後まで戦った男でした
1582年3月3日 勝頼逃げる!
信長が甲斐攻略を本格的にスタートさせると仁科盛信のみが抵抗。

そのほかは我先に寝返りまくった。

織田軍はめちゃくちゃな勢いで、勝頼のもとへ攻め込んできました。

もはや新府城を攻められるのは時間の問題となったのです。

ちなみに「新府城」は甲府に新しい城を建てるという意味で新府城です。

信玄のモットーは「人は城 人は石垣 人は堀 情は味方 あだは敵」でした。

が、信玄の時代の時のように「家臣を国中にバラまいておいて、合戦の時に呼び集める」というのは、時代遅れとみた勝頼。

こうして今まで城に住んだことなく「お館様」だったんだけど、とうとう城を築城したのです。

この時、甲斐の人々は「信玄殿は甲斐に敵を入れることがなかったから、城など必要なかったのにな」と、勝頼をバカにしていました。

が、その新府城も攻められるのは目に見えてきたのでした。

そこに武田家臣であり山県昌景から絶大な信頼を受けていた小山田信茂が、ワシの岩殿城で再起を計ったらどうでしょうかと提案してきたのです。

この時、真田幸昌も「殿 なにとぞ私の城へ」と自分の城へ誘いました。

ですが他の家臣たちは、「真田よりも小山田の方が信頼できる」と、小山田の城へ行くこととなったのです。

そして1582年3月3日 2ヶ月ほどしか住んでいない新府城に火をかけ、妻や息子の信勝ら1000人で向かいました。

この時勝頼の妻・娘・叔母や信玄の側室らはほとんどが裸足で馬に乗っている者は20名ほどでした。

が、お供の家臣たちは次から次へと逃げていったのです・・・。

1582年3月7日 小山田信茂裏切る!
重臣・小山田信茂のもとへ逃げていった勝頼一行。

が、小山田信茂はもやは信長・家康に寝返っていたのです・・・・

3月7日に、小山田信茂が寝返ったという情報を聞くと勝頼は絶望に打ちひしがれました。

小山田信茂らの兵に包囲され、奮闘するも岩殿城から10キロ離れた天目山で勝頼らの動きは止まってしまいました。

千人いた従者らは脱落しまくっており、この時総勢43名

さすがに最後まで残っていた家臣たちの奮闘は凄まじかった。

敵と戦いつつ、なんとかこの状況を打破しようと途方もなく歩き続けたのです。

1582年3月11日 天目山 武田勝頼自刃 武田家滅亡
3月11日 勝頼は、つい先日までは武田家のものだった甲斐の山々を眺めていました。

一行はもはやこれまでと最期を悟ったのです。

最後までついてきた家臣・土屋昌次が盃の用意をしだしました。

16歳の息子信勝が、最後の甲斐の名酒を飲み、勝頼の妻である19歳の北条家の娘もそこへ座りました。

近くで兵の声がする。

もう敵はそこまできていました。

土屋昌次は、5歳になる自分の息子に「お前は幼く足も遅いので、先にあの世で待っていろ」と胸を刺しました。

信勝は追撃相手にかなり奮闘し、敵側を驚かせたましたが、信玄譲りの勇将ももはや遅すぎた。

花を開かせることないまま自刃したのです。

勝頼も最後の力を振り絞って奮闘しましたが、織田軍に討たれるくらいなら・・・と、その場にいた勝頼ら武田一族全員自刃。

勝頼37歳。

風林火山の旗印は消えたのです。

裏切った小山田信茂は、次期当主であるはずの信勝の天目山での奮闘振りを見て、武田家滅亡を非常に惜しみました。

そしてこの後すぐ、信長により「みろ!こいつが裏切り者だ!」と罵られ殺されてしまうのでした。

真田幸村の父 真田昌幸
真田昌幸は、信玄の家臣であった真田幸隆の三男でした。

昌幸は12歳の時に信玄の小姓となり、その賢さから信玄にとても気に入られたのです。

初陣は14歳の時の川中島の合戦。

乱戦中、土屋昌次とともにかたときも信玄の側を離れずにいたため、とても褒められました。

ですが長篠の合戦の時、昌幸の兄2人が死んでしまい、昌幸は真田家の家督を継ぐこととなったのです。

そして徳川が活発になってきたため、昌幸は甲府を離れました。

その時、長男の信之を勝頼のもとへ置き(勝頼に疑われたら困るから)、次男の幸村を連れて上田へ行ったのです。

この時、信之10歳。幸村9歳でした。

昌幸は一つ年上である勝頼に親近感を持っていました。

父を超える為に頑張っている勝頼を、応援していたのです。

が、武田家はもうボロボロに。

昌幸は仁科盛信が死に、続々と武田家臣が勝頼を裏切っていると聞くと、ただちに勝頼のもとへ。

昌幸は勝頼に会って大ショック。

久々に会った勝頼は、痛々しいほど憔悴しており、痩せていたのです。

昌幸は「ぜひわが城へ来て下さい!そこで耐えられるだけの兵糧や兵力を用意いたします。3年もたてば、必ずや武運が開けまする!」と言いました。

勝頼は一度は「そうか・・・それもいいかもしれぬ。悪いな。行かせて貰うよ」と返事しました。

昌幸は「では、ワシは一足先に戻り、準備を致します!」と、戻っていきました。

が、いつまでたっても勝頼がやってこない。

昌幸はどうしたのか?と、心配しまくり。

というのも、昌幸が急ぎ戻ったあと、他の家臣たちが「あいつは譜代の家臣ではないから信用できない」といい、小山田信茂のもとへ行くことを勧めたのです。

「おかしいな・・・。いつまでたっても武田の旗が見えない・・・」昌幸は嫌な予感でいっぱいに。

そこへ届いたニュースが「勝頼死去。武田滅亡」

昌幸は大ショック!!!

「なぜワシを信用してくれなかったのか!ワシならむざむざ死なせるなどしなかったのに!!」と、悔し涙を流したのです。

が、泣いているヒマはない。

こうなった以上、真田も危ない。

結果昌幸は、滝川一益に仲介してもらい、信長に黒葦毛の馬を送って織田信長に降伏したのです。

そして真田昌幸のもとには、仁科盛信の生き残った家臣や武田遺臣たちが続々と集まっていくのでした。
信長 勝利の美酒に酔う
勝頼自刃・武田家滅亡を聞いた信長。

信長は勝頼と信勝の首を自分の陣に持ってこさせました。

そして「お前の父親は生きていた時ワシに対して無礼なことばかりしていた!その報いがお前のこの首じゃ!お前の父親は上洛したがっていたが、このオレ様がお前の首を京都に晒してやろうぞ!」と首を前に勝利の美酒に酔ったのです。

そして家臣達に向かって「どうじゃ?この首はじつに心地よいであろう?」と笑ったのです。

信長は自分の権威が完全に確立したことを確証しました。

次に信長は、勝頼らの首を家康のもとへ届けました。

すると家康は、勝頼の首をきちんと置き、一礼をしたのです。

そして「このような形でそなたと会うとは思いもよらないことであった。これも勝頼殿が、若気の至りで血気盛んにしたせいでござるぞ?信玄時代の老臣らの言うことをきちんと聞いていれば、このようなことにはならなかったであろうに・・・」と、勝頼の首に言葉をかけたのです。

明智光秀 信長にボコボコにされる
信長重臣の明智光秀は、武田家滅亡の時、信長にこう言いました。

「我らの苦労も報われましたな」

これを聞いた信長。

「お前がいったい何をした!!!」と、突然光秀の胸倉をつかみ、殴る蹴るの暴行を加えたのです。

みんな唖然。

光秀は、重臣でありながら、皆の前でボコボコにされ、屈辱を味わったのです。

また、この頃から信長は、光秀のことを「きんか頭」とあだ名をつけるように。

それは光秀の頭がハゲているからで、皆の前で信長に罵られるのを、光秀は黙って耐えるしかないのでした。
武田家臣 高坂昌信
三方ヶ原の戦いでは、逃げいていく徳川軍を追撃するのを無益だといってやめさせた。

信玄亡き後、血気盛んな勝頼を諌めるんだけど、逆に疎まれてしまう。

が、病気になってしまい、恩のある武田家が滅亡の一途をたどっていくのを心配しながら1578年に病死してしまいました。
武人画家 武田信廉(のぶかど)
長篠の戦では戦場に借り出されたが、逃げまくり惨敗。

その後、織田に攻められても逃げまくり。

勝頼が殺されたのを聞き、必死に逃げまくるも、とうとう残党狩りに捕らえられ斬首となったのです。
武田家臣 穴山梅雪(あなやまばいせつ)
信玄死後、勝頼の時代になってからは武田家臣軍の事実上のトップになるも新しい家臣を大事にし、口うるさいじーさんらを蔑ろにする勝頼とはウマが合わずにいました。

信玄の死後、勝頼を見限り、徳川・織田と内通。

家康からお客様扱いされます。

勝頼が敗れてから、武田親族で唯一存続した存命者となります。

1582年3月 家康 信長をVIP接待
信長は武田軍を壊滅させ、満足気に甲斐の国の絶景を楽しむ旅をしました。

お供は明智光秀・高山右近・筒井順慶らでした。

信長は生まれて初めて見た富士の山に深く感嘆しました。

そして家康に会いに駿河の国へ。

家康は至れり尽くせりの接待をしました。

信長軍の担ぐ鉄砲が道の両側の木にひっかからないように前もって枝を切り落としたり、織田軍が歩く道には兵用の小屋を作って食料をたっぷり備えたり。

馬で川を渡る信長軍の両側に、泳ぎの得意な男をずらりと並べて川の流れを弱めたりもしました。

それほどまでに家康は、信長に対して畏敬の念を抱いていたのでした。

もちろん信長は大満足。

信長は家康が自分に対してこれほどの配慮をするのを自分の権威が頂点に立ったと思いご満悦状態。

そしてお供としてついてきた明智光秀はこの時どんな思いだったのでしょうか?
1582年5月12日 信長 自分を「神」と言う
この日は信長の誕生日でした。

すると信長。

5月12日を「聖日」と定め、みんなに参詣することを命じたのです。

これは自分のことを「神体=神」と宣言したことです。

神仏を信じない信長が、自分を「神」だと言ったのでした。
1582年5月15日 明智光秀 信長に怒られる
信長の楽しい旅行が終わったあと、家康は信長に会いにやってきました。

接待役を命じられたのは明智光秀。

だけど光秀ここで失態の連続。

城から出る生ゴミが異臭を放ち、家康に指摘されるほど。

恥をかかされた信長は光秀に激怒した。

また、雨が降り続けていたということもあり、家康に出すはずの魚からも生臭い匂いがしてしまったのです。

それを怒った信長

「腐った魚を家康に食わすつもりか!」と光秀を殴り罵倒し接待役を解任したのでした。

信長は5歳年上である光秀をみんなの前で殴ったりと、恥をかかせることもしばしば。

人質に出していた光秀の母を信長が見殺しにしたのもショックでした。

この頃の光秀の心は、プライドを傷つけられまくってました。

信長に対する憎しみの感情が渦巻きはじめたのです。
秀吉 毛利家とバトル中 高松城攻略
この頃、信長は秀吉に中国地方を征圧するよう命じていました。

秀吉は順調な進撃をしており、鳥取城を落し、お次は備中へ入って毛利本軍とバトル!という所まで来ていました。

現在は清水宗治の高松城を攻略中でした。

が、秀吉は結束の固い毛利勢力にてこずり、この高松城にはなかなか落せずにいたのです。

秀吉はたびたび降伏するよう使者を出したけど、城主である清水宗治はかたくなにそれを拒み続けました。

こうなったら!と、秀吉は蜂須賀小六に、川をせき止め城を水びたしにする作戦を命じました。

おかげで、高松城は本丸と二の丸の間も小舟に乗って移動しなければならないほどに。

毛利もたびたび援軍を送っていたんだけど、秀吉の包囲網は簡単に崩せずにいました。

この頃、毛利の当主は長男である隆景の嫡男輝元。

補佐していたのが吉川元春と小早川隆景でした。

高松城では兵糧がなくなり、城の板まではがして食べているという状況となりました。

降伏をがんとしてはねつけていた城主の清水宗治らを助けるため、毛利輝元は、全軍で高松城に向かうことを決意!

その反面、小早川隆景は秀吉との和解策を考え始めていました。

条件は「毛利家は5カ国を織田に譲る」「高松城の人々の生命保証」というもの。

が、秀吉にはこれだけは譲れないというものがありました。

それは「高松城主清水宗治は切腹」

毛利家は「宗治を殺すという条件は飲めん!宗治を亡き者にしてまでおぬしらと和解したくないわ!」と激怒。

直接対決寸前となったのです。

秀吉はわしら25000人の兵じゃキツイな・・・と、信長に「応援に来てください」と連絡。

が、清水宗治は「私が死ぬことで毛利家が安泰なら」と切腹を受け止めたのです。

毛利家は必死でとめました。

それでも宗治は「自分に命を預けてくれた城兵の命が助かるのなら、ワシは一命を投げうちます。ワシの名を後世に残すことこそ、武士の本望であります」と言ったのです。

毛利輝元にとっては、無念の選択でしたが、「6月4日を持って自害させる」ということになったのです。

こうして和議の条件は整いました。

もはや切腹を待つだけとなりました。

切腹後は、お互い陣をはらい、ひと段落となるのです。

秀吉は最後のイイトコを信長に渡すべく、信長を高松城へ呼ぶべく再度使者を出しました。

あとは、信長からの返事を待つだけとなったのです。
1582年5月17日 明智光秀 秀吉の手助けに行かされる
この頃、信長のもとに1回目の秀吉からの戦況報告が入りました。

内容は「高松城を水攻めしましたが、毛利輝元らが全力あげて応援にやってきました。毛利本軍との直接対決がありそうです。手伝いに来てください」というものでした。

「和議が整った」という2回目の使者はまだ到着してません。

信長は、秀吉を助けに行くことを決意。

が、織田の諸将はみな出払っている。

この頃柴田勝家は上杉攻略。

滝川一益は北条攻略。

織田信孝は丹羽長秀とともに南海方面。

ということで、すぐさま動けるのが明智光秀しかいなかったのです。

光秀は、客人接待という任務を解雇され、秀吉のもとへ行かされることに。

信長は光秀を呼び、「サル(秀吉)を手伝いに行け」と命令しました。

「秀吉の応援に行け」というのは「秀吉の下につけ」ということ。

光秀はライバル秀吉に負けたという精神的ショックを受けることになったのです。

光秀 準備にかかる
光秀は自分の国に帰って、準備を始めました。

一緒に行くのは細川忠興・幽斎父子・池田恒興・中川清秀・高山右近・筒井順慶ら。

こうして光秀は戦準備をし、信長は少し遅れてから行くこととなったのです。
信長の超お気に入り小姓 森蘭丸
蘭丸は信長家臣森可成(よしなり)の次男。

可成は道三に追われて信長に仕えるようになりました。

が、浅井・朝倉との戦いで可成が死んでしまい、長男の長可(ながよし)が家督を継ぎました。

森長可(ながよし)で猛将として知られており、蘭丸と13歳違いです。

当時13歳だった蘭丸は弟の坊丸・力丸とともに小姓となりました。

蘭丸は超美少年のうえに秀才でまれにみる逸材。

瞬く間に信長のお気に入りに。

側近ナンバーワンの座をゲットした。

信長は「オレは3つ自慢できることがある。1つは奥州から献上された白斑の鷹、2つめは青い鳥、3つめは蘭丸じゃ」とまで言わすほど。

エピソードとして
蘭丸が台に乗せたミカンを運んでると信長が「そなたの力じゃ危ない。倒れるぞ」と言いました。

するとその通り蘭丸は部屋の真ん中で転んじゃった。

翌日同僚に同情された蘭丸は「主君の判断が正しかったことを示すためにわざと転んだ」と言ったそうです。

その寵愛ぶりに、他の家臣は蘭丸を恐れるようになるのです。

蘭丸に対するご機嫌取りもすごくなりました。

小姓軍団に対してきっちりとご機嫌をとってたのは秀吉。

逆にそっけなかったのは光秀。

そのため光秀と蘭丸は仲が悪かったのです。

ある日、信長は欲しいものはあるか?と蘭丸に聞きました。

すると蘭丸は父の旧領である坂本城を欲しいと答えたのです。

坂本城は当時光秀の居城でした。

これを聞いて光秀は蘭丸をより嫌うようになっていくのです。

1582年5月21日 信長 本能寺へ向かう
秀吉の応援に行くため、信長は21日安土を出ました。

家康らも、この日「これから京都や奈良へ遊びに行ってきます」と安土城を去ったのです。

信長は、お気に入りの小姓森蘭丸ら100人ほどで本能寺へ。

6月1日に、本能寺で前々から決めていたお茶会をやる予定だったのでした。