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安土桃山時代その6 1582年5月29日〜1582年6月4日


1582年5月29日 信長 本能寺到着
明智光秀 決意
6月1日 信長 本能寺でお茶会
6月1日 光秀計画を打ち明ける
光秀軍 斉藤利三
6月1日 PM10:00 斉藤利三 京都へ!
6月2日 AM4:00 敵は本能寺にあり!!!
6月2日 AM6:00 是非もなし・・・ 本能寺ショック!
本能寺の変 その時嫡子信忠は!?
6月2日 AM8:00 信長嫡男 信忠 二条城で死す!
本能寺の変 その時末弟有楽斎は!?
信玄の娘・信忠の妻 松姫 儚い一生
6月2日 PM12:00 光秀「信長の首はどこじゃー!」
6月2日 PM14:00 光秀 安土城へ向かう
光秀 書状を出しまくる
前田利長 慌てて安土城へ向かう
光秀 ちょっぴり足止めされる
安土城にいる蒲生賢秀らビックリ!
眼精常ならず 蒲生氏郷
本能寺ショック!その時 次男信雄は?
本能寺の変 その時徳川家康は!?
家康の伊賀越え
信玄の次女で穴山梅雪の妻 見性院
本能寺の変 その時他の人々は!?
6月3日 蒲生賢秀ら安土城を捨てる
6月3日 深夜 その時秀吉は!? 
6月4日 その時柴田勝家・前田利家は!?
北国軍の事情
6月4日 秀吉ドッキドキ
6月4日 午前 清水宗治切腹!!
6月4日 昼過ぎ 秀吉大忙し!中国大返しスタート!
6月4日 夜 毛利家ビックリ!「え?信長死んだの!?」




安土桃山時代 その6 
1582年5月29日 信長 本能寺到着
森蘭丸らを連れた信長は、宿舎である本能寺に到着しました。

そして6月1日に行われるお茶会の準備にとりかかったのです。
1582年5月 明智光秀 決意
55歳の明智光秀。

主君信長を討つべきか・・・心の中はさまざまな感情で破裂しそうでした。

接待した後の家康は、わずかな人数だけで堺見物をしている。

滝川一益は新しく得た関東の領地に行ったばかり。

柴田勝家は前田利家・佐々成政らと越中で上杉景勝と戦っている。

丹羽長秀は四国遠征のため大阪で兵を集めている最中。

そして最大のライバルである秀吉は中国地方で毛利と戦っている。

誰も光秀をさえぎる邪魔者はいない。

このチャンスを逃したら、次は二度とない。

そしてまた信長に罵られる毎日。

愛宕山(あたご)に詣で、祈願しました。

そして信長を討つ決意をしたのであります。

1582年6月1日 信長 本能寺でお茶会
この日のお茶会は、信長自慢の茶器を披露するのが目的でした。

疲労されたのは、松永久秀から貰った九十九茄子(つくもなす)など38種類。

信長の茶器コレクターぶりを、見せびらかしまくったのです。

実際、この時代に「名品」と呼ばれる茶器は、そのほとんどが信長の物でした。

茶事が終わると、酒宴が開かれました。

近衛前久ら公卿らと、博多の豪商である島井宗叱(そうしつ)・また所司代である村井貞勝らと楽しみました。

そこへ嫡男である信忠がやってきて、楽しい一時が繰り広げられました。

酒宴が終わると、囲碁の名人である「本因坊算砂(ほんいんぼうしゅうさく)」らが対局。

やがて夜もふけ、信忠は宿舎に帰りました。

宗叱らは別間へ行き、村井貞勝らも帰宅して行ったのです。

そして信長も寝所に入りました。
1582年6月1日 光秀計画を打ち明ける
光秀軍は京都盆地を進軍していました。

そして光秀は、もっとも信頼している5人の家臣に真意を告げたのです。

娘婿の明智秀満・斉藤利三らはめちゃくちゃ驚きました。

なんといってもあの信長に謀反を行おうとしているのです。

ですが光秀の思いが本物だと知ると、これは思いとどまらせるのは無理だ・・・と、驚きつつも主に従うことにしたのです。

用心深い光秀は、兵らには真意を伝えませんでした。

「秀吉を助けに行く前に、一度信長様に会うため京都へ向かう」と告げたのです。
光秀軍 斉藤利三 
斉藤利三は、美濃の稲葉一鉄の家臣でした。

が、一鉄が信長のもとへ寝返るというのを聞くと「武士道に反する!」と、利三は一鉄の元を去りました。

その後、光秀の家臣となったのです。

すると今度は光秀が信長の家臣へ。

利三は「あんないやなヤツの下で働きたくない!」と、光秀が止めるのも聞かず出て行ったのです。

それから数年たちました。

すると、「利三は浪人となり、さらに病気になって超貧乏生活をしている」という噂を聞いた光秀。

光秀は利三のマジメで義を貫く性格がスキだったので、再度家臣になれと誘ったのです。

「自分のことを忘れずにいてくれたんだ・・」と、利三は感動し、光秀の家臣になることに

しかも、光秀は利三をかなりいいランクに取り立てました。

ですが、それを聞いた稲葉一鉄が激怒!

「俺を裏切った奴を重臣にするなど許さん!光秀と一戦を構えるぞ!」と信長に訴えました。

信長は光秀に「斉藤利三を捨てろ」と、光秀に言いました。

が、光秀は「私は利三は優れた男だと思っております。それを捨てるなど・・・」と言い返しました。

すると信長ブチキレ!

もともと自分に口答えする奴は大嫌いなので、光秀をめっためたに殴ったのです。

そんな目にあいながらも、光秀は利三を雇い続けたのです。

そして、それを聞いた利三は、光秀に忠誠を誓うのでした。

利三には7男3女がいました。

その娘の一人が「お福」

のちに春日の局と呼ばれるようになります。

1582年6月1日 PM10時 斉藤利三 京都へ!
京都は静かな夜を迎えていました・・・

夜10時 先鋒の斉藤利三軍が京都へ先にむかいました。

そして軍勢が入りやすいように、木戸を開きまくったのです。

1582年6月2日 AM4時 敵は本能寺にあり!!!
光秀軍は桂川で止まりました。

そして13000人の兵らに新しいわらじを履けと命令。

兵らはなぜこんなトコロで?と疑問に思いました。

そこで光秀は「敵は本能寺にあり」と号令したのです。

もう後戻りはできない。

1582年6月2日 AM6時 是非もなし・・・ 本能寺ショック!
空がしらみ始めた6時頃、光秀軍は本願寺を包囲しました。

そして兵は塀や堀を乗り越え、すぐさま攻撃を開始したのです。

どこからか騒がしい音がするので起きた信長。

はじめはどこかの家臣らのケンカだと思った。

が、なにやら近くで鉄砲を撃つ音が聞こえる。

信長はこの時初めて、何者かが襲撃してきたことにやっと気がついたのです。

そこへ森蘭丸がやってきて「明智光秀御謀反!!」と叫びました。

光秀により謀反が起きたことを知った信長は「是非もなし」と言いました。

これが何を意味するのかわかってません。

「なぜ・・・」と言ったとも言われています。

信長は近くにあった弓を放ち、弓矢がなくなると槍を手に戦いました。

が、もはやこれまでとわかると、最後まで側にいた女を逃がし小姓たちに火をつけさせた。

そして奥の部屋に入り切腹したのであります。

蘭丸ら小姓らも討死したのです。

「人間五十年 下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり」

信長の愛した「敦盛」の一節と同じく、信長49歳で幕を閉じたのです。

本能寺の変 その時嫡子信忠は!?
妙覚寺にいた信忠はこの急報を聞いてビックリ!

急いで1キロしか離れていない本能寺へ加勢に行きました。

が、そこへ昨日まで一緒にお茶を楽しんだ村井貞勝がやってきました。

「私が今、本能寺を見てきました!もはやすっかり包囲されており、炎に包まれております!今行ってもどうにもなりません!」と叫びました。

さらに「もうすぐここにも明智軍がやってくるでしょう。ここは危ない!二条城へ逃げたほうがいい!」と言ったのです。

信忠は仕方なく二条城に向かいました。

二条城には天皇の家族や、公卿衆らがいました。

信忠の兵をあわせても500人ほどしかいない。

信忠は、天皇の家族や公卿達に逃げるように言いました。

ですが、突然の出来事にびっくりの公卿連中。

悠長に「あれも持っていかなきゃ!」などやっちゃったのです。

ぐずぐずしているうちに、明智軍がやってきてしまいました。

光秀は「天皇の家族および公卿連中は逃げよ!ただし信忠をさせるような動きをすればどうなるかわかっておられるな!」

こうして、天皇チームだけが無事退去しました。


6月2日 AM8:00 信長嫡男 信忠 二条城で死す!
天皇チームが逃げた後、明智軍は信忠に攻撃を開始しました。

信忠らは人数は少なかったですが、菅谷長頼らと、なかなか強い武将らが揃っていたため、3度ほど敵を追い散らして勇敢に戦いました。

ですが、やはり人数が少なすぎた。

もはやこれまでと悟った信忠は、自刃して果てたのです。

信忠26歳でした。

本能寺の変 その時末弟有楽斎は!?
信長と異母兄弟で11人兄弟の末っ子だった有楽斎(この頃の名前は長益)

この時信忠とともに二条御所に入りましたが、味方も欺き一人でさっさと逃げてしまいました。

そのため京都では「織田の長益は人ではない」と唄われバカにされました。

ですが信長と一緒で茶の湯だけは熱心でした。

後「有楽派」を開くなど一流の茶人になっていきます。

東京の有楽町は、江戸時代に有楽斎の江戸屋敷があったことから名づけられました。
信玄の娘・信忠の妻 松姫 儚い一生
武田信玄には6人の娘がいました。

長女黄梅院は12歳の時北条氏政へ嫁ぎました。

1569年に北条との同盟が敗れると送り返されてしまい27歳で死亡。

次女は穴山信君。

三女の真理姫は木曽義昌。武田滅亡のきっかけを作っちゃった人です。

夫の裏切りを怒った真理姫は末子を連れ逃げ、なんと98歳まで生きました。

四女は死んじゃってて、五女は菊姫は信玄の死後、武田・上杉の同盟の証として勝頼によって上杉景勝のもとへ嫁がされました。

そして六女の松姫が織田信長の嫡男である織田信君へ1567年に嫁ぎました。

だけど、三方が原の戦いにおいて武田と織田の仲は険悪となり、翌年信玄が死ぬと2人は引き離されました。

だけど松姫と信忠は離れてからも手紙のやりとりをする仲でした。

松姫は北信濃に移ってたんだけど、勝頼が長篠の戦において破れだんだんと武田の雲行きが怪しくなってきて城から城へ逃げる日々。

仁科盛信の高遠城にもいて、盛信が攻められる時に「妹だけでも」と、お兄さんの盛信は松姫を逃がしたのです。

天目山において勝頼が死ぬのを聞くと、松姫は勝頼の娘たち女4人で北条の領地へ逃げていきました。

勝頼の妻が北条氏だったので、北条氏照はこの4人を見逃してくれました。

で、お寺に入ってたんだけど、松姫は京都に大好きな信忠がいることを知り、会いに行こうと決意。

が、本能寺の変で信忠が死んだことを知ってしまった。

その後北条氏もやられてしまい、松姫のいるところに家康が入ってきました。

家康は信玄を崇拝していたので、松姫に庇護の手をさしのべました。

そして松姫は信松院を大久保長安に建ててもらい、1616年56歳まで生きたのでした。
 
6月2日 PM12:00 光秀「信長の首はどこじゃー!」
朝の8時に信忠との戦いは終わりました。

すると光秀の家臣らは、京都の人々に「皆さんお静かに!今日からは天下殿は明智光秀殿でござる!」とふれ回りました。

さらに、信長の残党が潜んでいないかと、兵たちが色んな家に押し込み、探しまくりました。

京都は混乱の場となったのです。

光秀は、すぐさま信長の居城である安土城へ向かう予定でした。

が、ここで光秀は無駄な時間を過ごしてしまうのです。

というのも、本能寺の焼け跡から「信長の首」が見つからないのです。

光秀は「もしかしたら信長は生きているのではないか・・・」と、恐怖にさいなまれました。

ここに至るまで光秀は、迷い・悩み・恐怖と、さまざまな気持ちが入り乱れていました。

信長の首を見るまでは、不安がいつまでも続くのです。

信長に対する恐怖が、まだ払拭されていないのでした。
6月2日 PM2:00 光秀 安土城へ向かう
とはいっても、いつまでもこんなところでグズグズしているわけにはいかない。

光秀は「信長の首」を見つけることが出来ないまま、安土城を占拠するべく進軍を開始しました。

安土城にいるのは、留守役の蒲生賢秀・蒲生氏郷らでした。
光秀 書状を出しまくる
安土城へ向かう中、光秀は多くの諸将らに手紙を出しまくりました。

手紙を出したのは、仲間である細川幽斎(この時はまだ藤考)・忠興父子・筒井順慶・そして摂津衆の高山右近らです。

彼らに自分がしでかした「信長への謀反」の理由を述べ、味方につけるべく手紙を出しました。

そして織田の各軍と対立している諸大名ら。

毛利家・上杉家・北条家・長宗我部家などにも送りました。
前田利長 慌てて安土城へ向かう
この頃、前田利家の長男である利長(19歳)は、夫婦で京都に向かっていました。

妻は「永」。

織田信長の末娘で、まだ10歳でした。

信長は前田利長と永の若い夫婦を、京都に招待していたのです。

で、何人かの従者を連れて歩いているところに、信長の足軽が泣きながら走ってきたのです。

利家は、その男の顔をなんとなく知っており、泣きながらやってくるので何事か!?とビックリしました。

するとその男が「光秀殿の謀反でございます!今朝、信長殿が殺されました!」と、告げたのです。

一同、血の気が失せました。

今ここにいるのは、信長の末娘なのです。

京都に行くわけにも行かないが、引き返すのも難しい。

いつどこで明智軍に見つかるかわからないし、この騒ぎに乗じて野武士らも動き出す。

利長は「とりあえず、妻を尾張へ!」と指示しました。

すると家臣らが「われらも妻子ある身!こんな危ない状況で尾張などに連れて行けぬ!」と家臣らは、逃げていったのです。

それでも何人かの譜代衆が残ってくれ、「永」は尾張へ。

そして利長は急いで安土城へ向かったのです。
光秀 ちょっぴり足止めされる
光秀らは、安土城へ進軍していました。

瀬田川のほとりまでやってくると、瀬田橋が焼け落ちていたのです。

このあたりは山岡景隆の勢力下でした。

光秀は、この山岡にも味方になるよう伝えていましたが、景隆はそれを拒否し、橋と城を焼いて退却していったのです。

明智軍は足止めをくらってしまいました。

ですが、兵たちは疲れまくっている。

光秀は仕方なく、一度坂本城へ行くことにしたのです。

そして疲れきっていた兵たちは、坂本城に入ると死んだように眠ったのです。
安土城にいる蒲生賢秀らビックリ!
安土城の留守役をしていた蒲生賢秀に「光秀謀反!信長討死!」のニュースが入ってきました。

賢秀は顔色を失いました。

が、光秀軍がこの安土城に来ることは目に見えている。

まず、息子の氏郷にこのことを告げると、氏郷もビックリ!

そこへ、前田利長も安土城へやってきました。

ちなみに氏郷の妻も信長の娘(冬姫)

そのため、2人は仲が良く、特に利長は年上の氏郷のことを慕いまくっていました。

利長は、氏郷の顔を見ると、張り詰めいていた緊張が少し緩みました。
眼精常ならず 蒲生氏郷
蒲生氏郷は、信長に「眼精常ならず」(目の輝きは普通ではない)と言わせた武将です。

さらに千利休に「日本の武将の中で一番の文武兼備の名将」と言わせ、秀吉にも「あいつはワシに似ている。恐ろしい男だ」と言わせた氏郷。

蒲生家は、六角家の重臣でした。

1568年に信長に攻められた時に、父の賢秀(かたひで)は、13歳の息子氏郷を信長に人質として差し出したのです。

氏郷は信長の小姓となりました。

信長が小姓を集めて武勇を聞かせていると、一人目をキラキラ輝かせ「それで?それで?」と、毎晩聞いていたのです。

信長は賢そうな氏郷をとても気に入り、自分の娘・冬姫を与え、人質を解き日野を任せたのです。

ですがあまりにも賢すぎたため、のち秀吉から警戒されることとなります。
本能寺ショック!その時 次男信雄は?
信雄は丹羽長秀とともに伊勢にいました。

織田軍団の中で、一番近くにいたのです。

四国征圧のために、大坂で兵を集め待機してるトコだったのです。

信雄は事件の前日、信長のいる本能寺に信長の今後の予定を聞くために使者を出していました。

その使者が京都に入る直前、「本能寺の変」を聞いたのです。

ただちに信雄のもとに帰った使者。

ですが、信雄は「そんな話、信じられるか!」と、信長・信忠死亡を信じようとしなかったのです。

嫡男信忠亡き後の筆頭となるはずの信雄。

が、信じるのが恐ろしかったのか、動こうとしなかったのです。

本能寺の変 その時徳川家康は!?
家康は信長と会見したあと、信長の勧めで堺の町を観光してる最中でした。

2日の朝。

本能寺にいる信長に、最後にお礼の挨拶に行こうと堺を出たところでした。

先発を命じられ馬に乗っていた家康家臣の本田忠勝のもとに、京都の豪商・茶屋清延が必死の形相でやってきました。

何事か!?と、驚いた忠勝。

そして信長が本能寺において光秀により自刃というニュースを聞いたのです。

忠勝は慌てて家康に報告しに戻りました。

聞いた家康も血の気がなくなりました。

すると家康「わしは長年、信長殿の世話になってきた!だが、弔い合戦をするには人数が少なすぎる。ワシは長年の恩に報いるため京都に入って信長殿の後を追う!(つまり切腹する)」と言いだしたのです。

慌てたのは家臣。

ですが、数人しかいないこの状況。

もはや明智軍がやってきて、討ち取られるのは目に見えている。

家臣の酒井忠次・榊原康正・石川数正らは「確かにこの人数では、討ち取られるのがオチだ。こうなったら武家の習いに従い、我々も追い腹しようではないか!」と言い出しました。

それを本多忠勝が、「皆のもの!それは間違いでござる!確かに状況はきついが、なんとか国へ戻り、軍勢を出して明智光秀を討つことこそが信長殿への恩に報いることである!」と言ったのです。

みんな「それはもっともだ!」と、忠勝の意見をとることにしました。

家康の伊賀越え
ですが家康が帰国するのは難しいことでした。

街道を通れば、明智勢がいるのは間違いない。

間道を通れば、こういう時に必ず出てくる野武士が襲い掛かってくる。

さらに一揆が始まっている。

家康一行はこのまま少人数でいつまでもここにいたら明智軍に討たれる。

この危機を逃れるためにはどうすればいいか?と相談。

すると服部半蔵が、「私に任せてくだされ。必ず家康殿を本国にお返しいたす」と言ったのです。

そして半蔵は、伊賀の山を越えて行くというルートを進言。

道々で、伊賀・甲賀の忍者仲間に呼びかけたのです。

さらに茶屋清延が多額のお金を用意しました。

三河までのルートにある村の人々にお金を握らせ警護にあてました。

茶屋清延は家康が今川から独立した時に甲冑を大量注文した時からのお付き合い。

この時の活躍が家康の信頼を得て、幕末まで「幕府御用達」の商人として重宝されることとなったのです。

家康の「伊賀超え」は、伊賀忍者達のおかげで無事に本国に帰ることが出来ました。

家康はこの時、伊賀忍者にめちゃくちゃ感謝しまくることとなるのです。


信玄の次女で穴山梅雪の妻 見性院
この時武田家臣であった穴山梅雪も、家康と一緒にいました。

伊賀越えの時に家康一行と離れて農民に殺されたといわれています。

42歳でした。

残された穴山梅雪の妻「見性院」ちなみに俗名はわかってない。

5年後嫡男勝千代が16歳で病死。

生きていく希望もなくなり、2人の菩提を弔うため仏門の世界に入りました。

その後家康は見性院を江戸城北の比丘尼屋敷へ呼んで600石を与えました。

そんな頃、家康の息子秀忠が女中に手をつけちゃって、産まれた男児を母子共々引き取り、7歳になるまで育てました。

その子がのちの保科正之です。

見性院は80歳に死にましたが、間際まで保科正之の幼名「幸松丸」の名を呼びながら死んだそうです。

本能寺の変 その時他の人々は!?
滝川一益は新しく得た領地に入ったばかりで、その領地の保持でてんてこまい。

とても京都にいける状態ではなかった。

6月3日 蒲生賢秀ら安土城を捨てる
蒲生賢秀・氏郷・前田利長ら3人は「これからどうする?」と話し合うことに。

そして決まったのが、ひとまず安土城を捨て、日野へ逃げるというものでした。

というのも、安土城には信長の家族や愛妾ら、女房らがいたからです。

こんな状況で、戦うのは無理だ。

こうして一行は、安土城を後にしたのです。

この時、安土城の金銀を一切持って生きませんでした。

そして蒲生父子と前田利長は、日野の城に立て籠もることとなったのです。
6月3日 深夜 その時秀吉は!? 
秀吉は、中国地方の高松城にいました。

和議は整い、あとは信長からの返事を待つだけ。

そこへ不審な男がうろついていました。

秀吉の兵が、その男を捕らえると、光秀が毛利にあてた手紙を持っていたのです。

毛利の陣へ行くはずが、間違えて秀吉の陣に入り込んでしまったのです。

その手紙を開くと「光秀謀反・信長自刃」

一同呆然とし、しばらく我を忘れた秀吉。

さすがの秀吉も大ショックで、ギャーギャー泣き出したのです。

するとそこに黒田官兵衛

「今こそ主君信長の仇を取りに光秀を討ちなさい!これはチャンスですぞ。そして天下を取るのです!」と言ったのです。

そこから秀吉は素早かった。

いつまでも悲観にくれているわけにはいかない。

秀吉は蜂須賀小六・黒田官兵衛らと話し合いました。

そして「4日に決まっている清水宗治の切腹を、午前中にしましょう!」

まず毛利家に信長が死んだことを悟られないよう慎重に対処しなければ!と、毛利方の使僧である安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を呼びました。

6月4日 その時柴田勝家・前田利家は!?
織田軍団の中で、一番勢力の大きい柴田勝家率いる「北国軍」

この頃、勝家・前田利家・佐々成政・佐久間盛信らで、上杉景勝の魚津城を攻めている最中でした。

景勝は、自らが大軍を率いて出陣してきていました。

そこを織田の森長可が「景勝がいないうちに越後に行くぜ!」と、越前に向かったので、景勝は慌てて越前に戻って行きました。

勝家らは大喜びで、魚津城をガンガン攻めまくり。

とうとう6月3日に魚津城は落ちたのです。

みんな大喜びで騒いでいました。

そこに「光秀謀反!信長討死!」の使者がやってきたのです。

一同呆然・・・・・。

このニュースにみんなパニックとなり、魚津城を捨て、みんな自分の城へ帰ってしまったのです。

というのも、このニュースを聞けば、たちまち上杉景勝は「チャンス到来♪」と攻撃してくるだろうから。
北国軍の事情
勝家ら北国軍は、それぞれ事情を抱えていました。

佐久間盛信は、自分が住んでいる城を攻め落とす際、だまし討ちで奪い取ったのです。

そのため一揆衆の残党達が「隙あらば・・・」と、狙っていたのです。

佐々成政は上杉勢と直接バトルしている。

ここで自分があたふたと動いたら、上杉景勝は必ず攻撃してくる。

前田利家は畠山の旧家臣達が、上杉に寝返り能登を狙って絶えず動き回っていました。

さらに利家と佐々成政は不仲。

隙あらばとお互い思っている。

柴田勝家は動きたかった。

ですが「北国軍」で明智勢に立ち向かわなければ勝ち目はない。

また、北国軍同士でも小競り合いをしそうな雰囲気。

いわば勝家の監督不行き届きだったのです。
6月4日 秀吉ドッキドキ
秀吉はなんとしても和議を早く成立させなければならなかった。

もし信長の訃報が毛利家にバレたら、毛利は和議どころか、これをチャンスと攻め込んでくるかもしれない。

秀吉は毛利の使者である安国寺恵瓊が戻ってくるのをハラハラしながら待っていました。

そして恵瓊が毛利からの返答を持ってきました。

本日午前中に切腹する。という条件はOKとなったのです。
6月4日午前 清水宗治切腹!!
約束の時間、清水宗治は小舟を漕いだ。

敵味方見守る中で湖上で腹を切るのが条件だったのです。

秀吉側からも小舟がやってきて最後の美酒を贈りました。

これほどの大軍に見守られた切腹は始めてでした。

周りは静まり返り、固唾を呑む。

両軍にとって苦しかった戦いが終わろうとしていました。

小早川隆景は「宗治こそ忠臣である」と号泣。

清水宗治 46歳でした。
6月4日 昼過ぎ 秀吉大忙し!中国大返しスタート!
切腹の儀が終わりました。

秀吉軍の撤退がスタートしたのです。

まず城内の水をなくすべく、工事がはじめられました。

さらに人質交換。

秀吉は毛利家に悟られないよう、不安を抱きながらテキパキと指示を出しました。

早く撤去しないと、いつ毛利が信長の死を知り、「和議は破棄じゃ!追撃じゃ!」と言ってくるかわかんないのです。

夜になると、次々と秀吉や兵たちが撤退し始めました。

秀吉「中国大返し」のスタートです!

最後に残ったのは蜂須賀小六。

そしてほとんどが撤退した後、毛利の陣営に松明がつき始めました。

「本能寺の変」のニュースが毛利家に届いたのです。
6月4日夜 毛利家ビックリ!「え?信長死んだの!?」
夜、毛利家は本能寺の変を知りました。

もちろん毛利家は「秀吉め!こーゆーことだったのか!すぐに秀吉軍を追撃しよう!」ということに。

それを反対したのが小早川隆景と安国寺恵瓊。

隆景は「約束を破るなどの卑怯なやり方は、毛利家のやり方ではない。」と言ったのです。

腹の中は「そろそろ天下を取るやつが現れてもいい頃だ。秀吉はその才能がある。もしここで秀吉を追撃せずにいて秀吉が光秀を討ったら、秀吉は毛利家に感謝するだろう」

その隆景の読みは的中したのでした。

後日秀吉はこの毛利家のやり取りを聞き、小早川隆景ら毛利家に感謝し、その後毛利家を優遇するのであります。