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江戸時代その4 目次 年表 1630年〜1650

1632年1月 徳川秀忠 死去
5月 加藤忠広 改易となる
6月 栗山大膳事件 黒田家お家騒動
1633年 御三家の尾張当主徳川義直 将軍の座を狙う!?
1634年12月 家光の弟 忠長 切腹!
家光のブレーンは?
家光 もう一人の弟 保科正之
好感度バッチリ★保科正之
日本三大仇討ち 荒木又右衛門
1635年6月 勤交代が始まる
入り鉄砲に出女 五街道が整ってきた
キリシタン弾圧!!!蓑踊り
踏み絵&宗門改
宣教師ママコスの予言
妊婦が水牢に!農民は激怒
1637年10月 島原の乱勃発!!
12月 板倉重昌 無謀な突入
1638年1月 松平信綱(知恵伊豆)到着
島原の乱 その後
1641年4月 オランダ人が出島へ
日本こひしや ジャガラダお春
1642年 1642年 家光 初の男児出産
尾張家VS将軍家
美少年大好き!家光の性遍歴
奴隷から将軍生母へ!おらんのシンデレラストーリー
1649年2月 慶安のお触書
1650年3月 剣客 柳生十兵衛 死去




江戸時代 その4 1630年〜1650年
1632年1月 徳川秀忠 死去
大御所として頑張っていた秀忠も54歳で死去。家光の時代となるのです。

家光は秀忠が嫌いでした。自分を全然可愛がってくれなくって弟ばかり可愛がっていたから。

そして家康のことを尊敬しまくっていました。

秀忠が死んだことにより、堂々と家康追慕の感情をあらわにし、日光東照宮をすごくキレイに作りなおしました。

家光はいつもお守りを持っていてそこには「二世権現 二世将軍」と書いてありました。

三世じゃなく二世となっていて、父の秀忠は外されていました。

「家光殿は家康殿に似ておられる」と言われるのが最高の褒め言葉だったのです。

1632年5月 加藤忠広 改易となる
加藤清正が死に、幼くして家督を継いでいた加藤忠広。

幕府は外様大名潰しに力を入れていたので、まさに豊臣恩顧の加藤家はターゲットでした。

名将清正が死んだ後の加藤家はちょっと弱くなってきました。

「加藤家に反抗の力はない」とみた幕府は「加藤家は大阪の陣の時に密かに豊丸方と内通をしていた」とか「新当主の忠広は女狂いだ!」とか・・・

とどめは「将軍が日光参詣にいくときに挙兵しようとした」でした。

これにて幕府は加藤家を改易することにしたのです。

豊臣恩顧の大名はことごとく取り潰されてしまったのでした。
1632年6月 栗山大膳事件 黒田家お家騒動
このお家騒動は福岡藩主黒田忠之と筆頭家老栗山大膳の対立のことです。

藩主の黒田長政は後継ぎである忠之の器量の無さに不安で仕方がありませんでした。

そして死ぬ時に「わが遺言の証拠は大膳なり」と告げ死んでいったのです。

大膳の父である利安は黒田家子飼いの老臣で黒田家内で力を持っていました。

大膳は長政の遺言を守るべく藩主忠之にたびたび諫言(注意)をしたのでした。

その内容とはお酒をほどほどしなさい・家臣に武術の稽古を勧めなさい・鼓ばっかりしてちゃいけません・夜更かししないで早く寝なさいなどなど。

忠之は次第にうるさいじじいだ!と思うようになるのです。

忠之は大好きな小姓がいました。倉八十太夫(くらはちじゅうだゆう)です。

美少年で小姓あがり。小さな頃から忠之の男色相手として仕えており忠之は十太夫を信頼しまくっていました。

ここに新藩主の家臣チームと、先代からの老臣チームの派閥が出来あがってくるのです。

十太夫という味方をつけた忠之は暴走し始めました。

豪華な船を造ったり、十太夫に命じて新たに足軽を雇ったり。

時はちょうど将軍秀忠による外様大名お家取り潰しラッシュ。老臣ら主君の暴走にはハラハラしまくっていました。

忠之爆走中の1631年 大膳の父利安が死去。忠之はここぞとばかり疎ましかった大膳に対し怨みを晴らすべく早速大膳の領地を没収。さらに幕府のお偉いさんに「大膳殺しちゃっていい?」と許可を得ようとしたのです。

大膳はそれを聞き「あのバカ!今そんなこと幕府に言っちゃったら御家取り潰しの格好の餌になるじゃねーか!」と恩のある長政殿のためになんとしても黒田家存続させなければ!と翻弄することとなるのです。

そして大膳は「黒田忠之が幕府に対して謀反を企てている」など30箇所ほど忠之の失策を書いた嘘の手紙を書いたのです。その手紙を持った者が忠之に捕まってしまい忠之は仰天!大膳に切腹を命じました。だけど他の重臣らがそれを押しとどめ大膳は蟄居し妻と次男を人質に渡したのです。

この時大膳は手紙を2通作成していました。

そしてもう1通は豊後幕府惣目付け竹中采女正(うぬめのしょう・竹中半兵衛の甥)のもとへ。

竹中はビックリ仰天し、その手紙を江戸へ提出したのです。忠之は大膳を蟄居させいずれ殺そうと思ってたんだけど、こうなってはもう暗殺はできない。そして江戸から出頭しろと命令が来たのです。こないだ加藤家が取り潰しになったばかりだ・・・忠之は震え上がった。

そして翌年の3月に幕府の評定が始まりました。忠之はみんなの前で身の潔白を弁明しました。

黒田家重臣らも大膳の訴えの内容を否定しました。

大膳の父とともに黒田24騎と称えられた黒田美作らも江戸城へやってきて「長政殿の御恩を忘れたのか!主君のために身を投げてきたお主がなぜこのような偽りを言うのか!?」と涙を流しながら言った。

幕府の老中・酒井忠勝、井伊直孝らも謀反の証拠が挙がらず大膳の真意がわからないため大膳を別室に呼び出した。

そこで大膳は「主君忠之の性格を考えるといずれ筑前一国は滅亡する。それならば自分が悪者となって訴え出れば所領のいくつかは安堵していただけるであろう。藩の取り潰しだけは避けなければならず、これにて忠之殿が心を入れ替えてくれれば本望である」と涙して語ったのです。これに幕府の老中らは「さすがは長政殿の家臣じゃ」と涙を誘いました。

そして忠之の謀反の疑いは晴れたが、君臣が対立した騒動を起こしたということで筑前領地は没収。

ですが父長政の今までの戦功に対し、改めて旧領をそのまま与えるということになりました。

大膳は盛岡へ配流となりましたが、出歩くのも自由。

生涯150人扶持を与えられるという両者とも寛大な処置となりました。

倉八十太夫は黒田家追放となったのです。

大膳の荒治療によって忠之は心を入れ替え暴走は終わり、黒田家は安泰となったのです。

大膳が本当に黒田家を考えて行動したということが後わかりました。

大膳は江戸に行く前、長政が家康より与えられた感状を長政の子に預け、最悪の事態(お家取り潰しなど)になった場合はこの感状を幕府に提出し、罪を軽くしてもらうようにしろと託していたのです。

また大膳が手紙を渡したのは黒田家と仲のいい竹中家。

竹中家であれば絶対に黒田家に悪いようにはしないだろうと思ったから。

もし本当に黒田家をどうにかしてやろうとしたのであれば、もっと仲の悪い家に送った方がいいのに、あえて竹中家に送ったことにより大膳の真意がわかります。

1633年 御三家の尾張当主徳川義直 将軍の座を狙う!?
御三家の尾張家の当主徳川義直は家康の9男で、御三家の中で一番格上でした。

義直は8歳で尾張の国主となり、15歳の時に大阪の陣に行き大活躍をしたのです。

幕府内では秀忠に継ぐ有力者と扱われており、朝廷からも権大納言という地位を授かりました。

ところが、三代家光の頃になると「俺は家康の息子だっつーのに、なんであんな年下で自分の甥である家光にペコペコしなきゃなんねーんだ?」と思うようになったのです。

家光が将軍宣旨をした時も「俺様は生まれながらの将軍じゃ!」と言った時一番むかついたのもこの人。

なんてったって「みんな家臣じゃ」まで言っちゃったからね。

義直は家康の晩年の時の子で家康にすごく可愛がられてたので、家光の態度にはむかついてました。

1633年家光が病気になりました。家光は息子が生まれておらず、義直は家光の病気を知ると兵を率いて江戸へ向かった。そして病気の家光に将軍職を辞めてもらい自分がなってやろうと思ったのでした。

ところがこれを老中の酒井忠勝らが察知し、先手を取ったのです。

彼らは義直を呼びつけ「命令を待たずに江戸に来るとはいかがいたしたのかな?」と聞きました。

義直は焦って「いやいや将軍の後継ぎが決まってないのに家光が病気になったから万が一のためにと思って兵を備え将軍の手助けをしようと思ったのじゃよ」となんとかかわしました。

家光の病気は無事回復し、義直の野望は崩れ去ったのです。

以後、尾張家は「将軍の座を狙う家」として要注意とされるのでした。

1634年12月 家光の弟 忠長 切腹!
秀忠は忠長を蟄居させたまま死んでしまいました。

秀忠が死ぬと、家光は積年の恨み!と忠長の領地を没収し、身柄を高崎城主の安藤重長に預けたのです。そして安藤に「忠長を殺せ」と命じました。

忠長は自分の家が兵に取り囲まれたのを知ると、あんな奴に殺されるくらいなら!と切腹したのです。28歳でした。
家光のブレーンは?
家光は側近に恵まれた将軍でした。

秀忠の時からの忠臣 酒井忠世と土井利勝と阿部忠秋、そして春日の局の子稲葉正勝、知恵伊豆と呼ばれた松平信綱ら六人衆。

そして忘れちゃいけないのが保科正之。

優秀なブレーンに囲まれ、老臣のアドバイスによる協議制が整ってきたため、なんとか無事過ごせました。

そして浪人の発生を防ぐために、今までずっと続けてきた大名取り潰しも緩やかになりました。

豊臣系大名が心から安心できるようになったのです。
家光 もう一人の弟 保科正之
保科正之は1611年に秀忠が一度だけ浮気をした時にできてしまった子供です。

御台所のお江の嫉妬深さを怖がり、親子の対面もしないまま土井利勝に預けて密かに養われたのです。

1617年に信州高遠の城主保科正直の養子となりました。家光は正之の存在さえ知らなかったのです。

家光が25歳の時鷹狩に行きました。そして途中寺で一休みしたところ住職が「あなたにはもう一人弟がいる」ということを聞いたのです。

ですが家光、忠長のこともあり弟というものを信用していませんでした。

ここで将軍の弟だということをばらしたら調子に乗るかもしれんな・・・と様子を見ることに。

が、調べれば調べるほど18歳の正之は素行が良く、家光はどんどん正之を気に入るのです。

ある日、家臣らが集まる席に正之がやってきた。

「自分は二代目将軍の息子だぞ!」と暴露するかな・・・と思いきや、正之はただ黙って大人しく年長者の話を聞いていました。家光はその奥ゆかしさもすごく気に入るのです。

次に江戸城で集まった時、正之は末席だった。

で、その時も年長者に対して奥ゆかしさをみせた。だんだん歯がゆくなってきた家光。「正之より上座に座れる身分でもないくせに」とポツリ・・・。

それを近くで聞いていた人がいて、たちまち「保科正之は家光殿の弟!?」と大騒ぎに。

次の集まりの時、下座に座ろうとする正之にみんな大慌て。

上座を促すも正之は「私はまだ未熟者ですから」と遠慮して下座に座った。

他の大名らは正之より上座に座ることができない!というので、皆で下座へ移動。下座の場所が足りなくなって部屋は空っぽで廊下が大渋滞というアホな光景となったのです。

好感度バッチリ★保科正之
正之が将軍の弟!ということがバレると、正之に近づいてくる人がわんさか!

だけど正之は「私は養子に出された身分で保科家にとてもよくしてもらいました。

将軍の命令は聞くけれど保科家を大事にしたいので・・・」というお利口さんぶり。

家光はこんな正之をすっごく気に入るのです。

ある日馬を見に家臣団を連れて行ったところ、皆の前で「正之はいるか?」と家光は言った。

そして遠くから「ここにおります」と声が聞こえると、「そこは遠いので今度から私の傍にこい」と命令したのです。

このような場で特定の人を呼びつけるのはすごく異例なことでこのことにより、家光は皆の前で正之を認めたこととなったのです。

その後正之は家光に信頼されて幕府の中心の一人となるのです。

そして正之も将軍に対して忠誠を誓い、会津藩主となり家命として「何があっても将軍家に忠誠を立てろ」と言うのです。

そのため幕末で会津藩は悲劇を遂げるのです。

1634年 日本三大仇討ち 荒木又右衛門
岡山藩主池田忠勝の家臣に河合又五郎という男がいました。

又五郎は好きな男がいました。それは藩中一の美男子と言われている渡辺小才治。

ですが小才治は又五郎のことがあまり好きではなかった。

又五郎の誘いに「もうちょっと待っていてくれ」と延ばし延ばしにしていました。

そして元服してしまったのです。元服してしまうともう男色の相手にはできない。

又五郎は激怒して小才治を家臣に命令して殺してしまったのです。

池田家は又五郎の行方を捜しました。そして又五郎は旗本の安藤四郎にかくまわれていたのです。

そこで池田家では又五郎を引き渡すよう頼みました。

が、安藤四郎はそれを拒否。とうとう池田家の使者は切腹してまでも引き渡せと言ったのです。

自分の家臣の切腹を知った池田家は激怒!

「なんとしてでも又五郎を引き渡せ!」と言ってたんですが、とうとう肝心の池田忠勝が死んでしまいました。

そして小才治を殺された小才治の兄 渡辺数馬も黙っちゃいなかった。

池田家と交渉し、非公式に又五郎を討つ許可をもらったのです。

数馬は姉のダンナである荒木又右衛門に助太刀を頼みました。

そしてこの2人は鍵屋の辻という場所を仇討ちの場に選んだのです。

崖を正面に三本の道が通る辻で、北側に鍵屋という茶店があったため鍵屋の辻と呼ばれています。

そして数馬は又右衛門のほかに2人の従者を連れて待ち伏せ・・・。

又五郎側は叔父の河合甚左衛門の他に槍の名手桜井半兵衛らがいました。

そして鍵屋の辻で又右衛門はいきなり甚左衛門を斬ったのです。

この血闘は6時間にも及びました。

又五郎は死に仇討ちは終わりましたが荒木又右衛門は鳥取藩に引き取られた後急死。

暗殺の噂もあります。

1635年6月 参勤交代が始まる
家光は参勤交代という制度を作りました。

大名の妻や子を人質として江戸に住まわせ、大名は江戸と自分の領地を一年ごとに往復するというもの。もちろん江戸に家を作るお金なんかは全て大名もち。

これによって大名が江戸と領地を行ったり来たりするので道路や宿場が急速に発達しました。

さらに大きい大名は3000人ほどの従者を連れました。これは見栄もあります。

小さい大名でも100人ほど。

これが「大名行列」というもので、莫大なお金がかかりました。

島津なんかは遠いため今のお金で3億円くらいかかりました。

鍋島の佐賀藩なんかも藩の支出の20%が大名行列で、28%が江戸屋敷経営費と参勤交代制度は藩の財政をかなり圧迫しました。

最初はそうでもなかったんだけど、そのうち見栄のためにだんだんと華美になってきたのです。

大名達はこの行列にお金がめちゃくちゃかかるため、私財を貯める余裕がなくなり、軍事費なんか貯まるはずもなく幕府に対抗できなくなってくるのです。

参勤交代の制度によって、江戸幕府の存続にかなり大きな効果が出ました。

大名行列には特権があり、通行人には必ず土下座をさせ渡し場に到着すると一般人はずーっと待たされた。

さらに行列の前を横切ろうとする無礼者がいた場合は斬捨御免がまかりとおったのです。

ちなみに大名の中には、お金が足りなくなっちゃって出入りの商人にお金を借りたりする始末。これが「大名貸し」と呼ばれます。大名がお金を返せなくって、倒産する商人も沢山いました。

入り鉄砲に出女 五街道が整ってきた
参勤交代により必要性がでてきた街道。

幕府は江戸を中心に五街道を整えました。

東海道・・・・・江戸〜京都
中仙道・・・・・江戸〜草津
日光街道・・・江戸〜日光
奥州街道・・・江戸〜白河
甲州街道・・・江戸〜下諏訪

中でも江戸と京都を結ぶ東海道はとても賑わいました。そして交通の要所に関所を置きました。

幕府は「入り鉄砲に出女」をモットーに関所で厳しくチェック

大名の反抗を恐れる幕府は、大名の妻子を江戸に置いているので妻子が江戸から逃げること(出女)江戸への武器持込(入り鉄砲)をチェックしたのでした。

キリシタン弾圧!!!蓑踊り
九州 島原ではキリシタン大名の有馬晴信がキリシタンを保護していましたが、岡本大八事件により追放され、変わりに入った松原重治が厳しいキリシタン弾圧を行っていました。

松原重治は外様大名なので、徳川への忠誠を示そうと農民に過酷な税を課しさらに点数稼ぎのためにかなりひどいキリシタン迫害をしました。

そんな中大飢饉が襲ってきて年貢が納められない農民が出てきました。

すると松原重治は年貢を納めない農民に手を縛り蓑を着せ火をつけたりなどの拷問を行ったのです。

農民は熱いためぴょんぴょんと跳ねます。もだえる姿を役人らは「蓑踊り」と笑っていました。

またキリスト教を改宗しない者は雲仙の火口に放り込むなどひどい有様でした。

キリスト教迫害と飢饉・拷問。農民は絶望の中にいたのです。

踏み絵&宗門改
1629年頃から始まった踏み絵。長崎奉行の水野守信が考えたといわれています。

マリア像やキリストを描いた絵を踏ませて、平然と踏めない者をキリシタン信者とみなしたというもの。

また一人一人の信じる宗教が何であるかを調べ、キリシタンでないと判断した人には寺院の僧侶から証文書(寺請証文)を出させました。これが宗門改(しゅうもんあらため)と言います。

中には外面的には仏寺門徒として暮らしながらも、ひそかにキリスト教を信じる人が現れました。
これを隠れキリシタンといいます。
宣教師ママコスの予言
絶望の中、有馬から松倉に変わり天草を追放された宣教師ママコスの予言が農民達に広がりました。

「25年後に天変地異が起きる時、天草に救世主が現れるであろう。その救世主は幼き頃から天才で見目麗しい・・・」といった内容でした。

そしてまさに今25年後。

人々はママコスの予言にあった救世主とは小西行長の家臣であった益田甚兵衛の息子・益田四郎(16歳)のことではないか?という噂が広まるのです。

天草四郎は美少年で秀才だったらしい。人々は四郎のもとへ集まっていくのです。
妊婦が水牢に!農民は激怒
そんな中、妊婦が水牢に入れられるという拷問が起きました。

そして妊婦はおなかの赤ちゃんとともに死んでしまうのです。これには農民の怒りも爆発!

島原で役人がキリスト信者を殴っていた時、怒りに燃えた信者らが反対に役人を殴り殺したのです。

役人を殴り殺したとあれば、拷問され殺されるのがオチ。

こうなったら!と今までの恨みがたまりまくっていた信者らは怒りを爆発させ、島原 有馬村の農民は覚悟を決めて一揆を始めたのです。

1637年10月 島原の乱勃発!!
島原の農民が一揆を起こしたというニュースはたちまち広がり、各村のリーダーも立ち上がった!

島原城では鎮圧軍を100人ほど出したけど、行ってビックリ。100人じゃ手をつけらんない状態に。

そして天草にいる四郎にもこのニュースが届いたのです。四郎らは天草の富岡城に向かった。

幕府もこのニュースを聞き、細川と鍋島に兵を出すようお願い。

その使者には板倉重昌という家康時代からの忠臣を使いました。

幕府から大軍がやってくるというのを聞いた一揆軍は島原城&富岡城がなかなか落ちないのでとうとう諦め、二つの一揆軍は合流し島原にある廃城 原城にたてこもりました。

廃城とはいえ石垣とかは残っていたので防御にはある程度役に立ちました。そして一揆軍の数は37000人となったのです。

そしてこの合流した一揆軍は天草四郎を総大将とし、幕府軍を迎え撃つことに!

1637年12月 板倉重昌 無謀な突入
12月に幕府からやってきて板倉軍が到着。そして細川・鍋島軍とともに原城攻略に挑むんだけど、この細川・鍋島両軍が「板倉みたいな小さい大名の言うことなんか聞けるか!」と反発するのです。

板倉の言うことなんかバカにして全然聞いてくれず、幕府軍は負けまくり。

家光はそのニュースを聞き「こりゃヤバイかもな」と老中松平信綱(知恵伊豆)を出すことに。

12万の大軍で島原へ向かいました。

これを聞いた板倉。超大物援軍が来るのが大ショック。

家光から任されたのに全然ダメで面目が丸つぶれ。こんなんじゃ地元に帰れない!と討死覚悟で無謀にも原城へ突入してしまうのです。

そして板倉は松平信綱が来る前に討たれてしまったのです。

この時の幕府軍の使者は4000人。対する一揆軍は数百人でした。

1638年1月 松平信綱(知恵伊豆)到着
1月4日 松平信綱が到着しました。

こりゃ簡単に落ちそうにないな・・・ってことで甲賀忍者を使って城内の様子を探らせ、食料を盗ませたりした。

そして原城は食料が乏しくなり、草などを食べるようになったのです。

2月27日 時期を見た信綱はとうとう攻撃開始しました。

兵糧乏しい一揆軍はもはや戦う力もなく、ガンガン攻められ女子供も全て殺されるのです。

そして総大将 天草四郎もとうとう討たれてしまいました。

農民のおなかを割くと、草しか入っていませんでした。

この時一人だけ助かったのが山田右衛門という絵描き。

クルスの旗をデザインした人なんですが、幕府と密通していたので事情聴取のためただ一人生き残ったのです。

島原の乱 その後
島原の乱の後、島原藩主の松倉重治は責任を取って斬首。天草の寺沢堅高は所領没収だったんだけど、自ら責任を取り切腹。

細川・鍋島も板倉に従わなかったという理由で処分を受けた。

原城の死体は数年間放置されました。そして島原と天草には農民がほとんどいなくなったのです。

仕方なく幕府はしばらく年貢を免除するから!といって他の土地から農民を移住させた。

くじ引きとかで決められた農民もいたらしい。

ですが、とても優遇されたので引越ししてくる人も増えて豊かな新しい村に発展していきました。


1641年4月 オランダ人が出島へ
幕府はキリスト教はもう危なすぎると1639年にポルトガル船が日本に来ることを禁止しました。

これはオランダが日本との貿易を独占するためにしきりにキリシタンの危険性を説いたとも言われています。

貿易を許されたのはオランダと中国。

そしてオランダ人を出島に移動させました。ここに鎖国が完成したのです。

オランダ商館は日本で唯一の世界との窓となり、年に一度オランダ商館長が将軍に会い提出したのが「オランダ風説書」。これにより幕府は海外の様子を知ることができたのです。

日本こひしや ジャガラダお春
出島が完成した時12歳だった利発な美少女お春。が父の理右衛門はお春に「外に出ると悪い病気が移るかから外に出てはいけない」といつも言っていました。

実はお春の本当の父親はオランダ人で、理右衛門の娘と結婚したものの、娘は死んでしまいオランダ人の父親は自分の国に帰ってしまったのでした。

お春の容姿は色が白い美少女で自分でも「私は日本人っぽくない」と思っていました。

そんなお春が白昼堂々外を出歩いたら、きっと役人に取り調べを受けて国外追放となってしまう。

おじーちゃんの理右衛門はそう思い、外に出させなかったのです。

が、キリシタン取締りを強化している幕府の目はごまかせませんでした。

理右衛門の家に役人がやってきて、お春は捕らえられたのです。そして15才のお春はインドネシアのジャガラダ(ジャカルダ)に流されることになったのです。

お春の親友お辰は泣きながら見送りました。

お辰はジャカルタに行くオランダ船の乗組員にお春に宛てた手紙を渡しました。

1年後、お春からの返事が同じ乗組員によって届けられたのです。

「日本こひしや 日本こひしや かりそめに立ちいでて 又と戻らぬふるさと思へば 心も心ならず 涙にむせび・・・わが身は今日まで異国の衣装を一度も着ておりません。日本こひしや 見たや 見たや・・・」という日本へ帰りたいお春の心が切々とつづってあり、お辰は胸が締め付けられる思いでした。

「日本こひしや」と何度も何度も書いてあり、哀しいくらい切ない手紙だったのです。

ですが!20歳になったお春は東インド会社事務員で長崎生まれのオランダ人 シモンと結婚しました。

これが玉の輿だったのです♪

シモンはなかなかのビジネスマンで、家はすごいお金持ちとなり、お春は何人ものど奴隷にかしずかれながら暮らしました。

お春が48歳の時にシモンが死に、莫大な遺産を相続したお春。

4男3女をもうけ、子や孫に囲まれて70歳の大往生となったのです。ヨカッター。

1642年 家光 初の男児出産
家光38歳の時に初の男児家綱が誕生しました。

ちなみに34歳の時に女の子は生まれていました。

なんでこんなに生まれるのが遅かったのかというと、家光は男色家だったからです。

ちなみに美少年が好き。

22歳の時に、鷹司孝子(たかつかさ)という京都関白の娘が嫁いでいて御台所となったんだけど、家光とはあまり仲がよくなくしかも美少年好きなので朝廷と幕府の間を取り持つだけの女性でした。

ちなみに73歳で死亡。

焦っていたのは春日の局。このままじゃ後継ぎも生まれない!大変だわ!と色んな女の人を家光にあてがったのです。

尾張家VS将軍家
尾張藩主徳川義直は家光のことが大嫌い!ということは↑で書きましたが、将軍の初の男児出産の時もプチトラブルが!

家綱が生まれた時に老中松平信綱が「挨拶に来られたほうがいいんでは?」という連絡がきた。

ですが義直これを無視。家光も「将軍の子が生まれたんだから挨拶に来いよ!」と怒ったが義直は「親のことを言うなら、われら御三家3人は太政大臣の息子であるぞ!」と逆切れ。

危ない雰囲気に。

そしてある日、家光が京都に行った帰りに義直のいる名古屋城に立ち寄るというので、義直は将軍接待のため莫大なお金を使って準備した。

ですが、家光は義直のところに立ち寄らずさっさかと江戸へ帰ってしまったのです。義直は面目丸つぶれで大激怒!「もう金輪際江戸へは行かん!」ということに。

家光も家光で「義直が江戸へ来ないなら、こっちから名古屋へ戦いしかけたる!」という始末。

結局 弟である紀伊の頼宣がなんとか説得したけど危うく将軍家VS尾張家が始まっちゃうとこでした。

ちなみに紀伊家の祖である頼宣はあらゆる点で尾張家と同格でいようと努力していました。

が、イマイチうまくいかず8代将軍吉宗の登場まで尾張家より格下というイメージがぬぐえませんでした。

美少年大好き!家光の性遍歴
家光は幼い頃から美少年が大好きでした。

女性にほとんど興味をしめさずいつも若い小姓を近くにはべらせていました。

特にお気に入りは忠臣の酒井重澄で、もー大好きだったそうです。お忍びで城を抜け出しデートしたりしてました。

春日の局が焦って女性をあてがうんだけど、家光は仕方なくといった感じで女性とお付き合い。

またうつ病がちょっとあったらしくって、塞ぎこむ時は必ず小姓と過ごしました。

それでも頑張って正妻の他に9人の側室を置いて男子6人女子1人をもうけました。

奴隷から将軍生母へ!おらんのシンデレラストーリー
女性に興味を示さない家光に焦っていた春日の局。

ある日浅草観音に家光世継ぎ誕生のお参りに行きました。

そこで家光がすきそうな女性をゲットしてきたのです。それが「お楽の方」娘時代の名はおらん。

お楽の父は元百姓で、江戸に出てきて朝倉家へ仕えたんだけど、お金を使いこんでしまいクビに。江戸を去り、漁師になったんだけど密漁に手をだして死刑に。

その子供達も「奴」(どれい)の身分に下げられ筑後(福岡)の立花忠茂夫人に仕えました。

ですが夫人が死んでしまい、お楽の母は武士のところに嫁ぎました。

で、そのダンナが浪人となり今の神田あたりに古着屋をオープンさせたのです。

古着屋の店先に立っていたお楽を、お参りの帰りにみた春日の局は大奥に入れることに。

そして大奥でお楽が故郷の麦打ち歌を歌って踊ってるところを家光の目に止まりお手つきに。

そして名前をおらんから「お楽の方」に変えて20歳の時にはじめての男児を出産したのです。

産んだ子供はというと、春日の局にとりあげられ春日の局に育てられた。

お楽は子供は取り上げられるは、産んだ後家光はお楽に興味を持たなくなったらしくほっぽらかしに。そして病気がちになり32歳で死んでしまったのです。

奴隷から将軍生母と華麗なるシンデレラストーリーですが、最後は不幸でした。

1649年2月 慶安のお触書
この頃の武士達の生活は農民の納める年貢によって支えられていた。

家光は秀吉が行った身分制度をさらに整えたのです。

武士・農民・町人(職人・商人)に分け、農民は地主の本百姓・水呑百姓に分けました。

本百姓は検地帳に記録され年貢を納める義務があり、水呑百姓は検地帳に記録されず水を飲んで暮らすほど貧しい人々。

そして農民を「死なさぬように生かさぬように」と慶安のお触書をだしたのです。

全部で32条あり

・酒・茶を飲むな
・美人でも夫の言うことを聞かずに遊んでばっかりいる女房とは別れろ。
・独身の人に結婚相手を探してやれ
・朝早くかれ夜遅くまで働け
・病にならないようお灸をすえろ
・米を食うな!麦・粟を食べろ
・衣類は木綿にしろ

と、余計なお世話じゃ!というようなお触書を出したのです。

つまり農民は質素倹約な日々を送れというもの。

そしてお触書のシメは、「年貢さえ納めれば百姓ほど気楽なものはない」とあり、百姓らからかなり反感を買いました。

1650年3月 剣客 柳生十兵衛 死去
柳生家の新陰流(しんかげりゅう)は、上泉伊勢守信綱が戦国末期に編み出した剣術を継ぎました。

十兵衛の父 宗矩が家康・秀忠・家光と三代に仕えていました。

十兵衛は幼い頃父と剣術の稽古をしていた時、誤って目に突き刺さってしまったため片目を失明してしまったのです。

その後三代将軍家光の剣指南役として剣術を教えていましたが、家光が辻斬りの味を覚えてしまい、夜な夜な外に出て通行人を斬るという噂が。

困った十兵衛は、人々の噂になる前に・・と、女装して家光を待ち構えていました。

そしていいカモがいるぜ!と、斬りかかってきた家光。

十兵衛は斬りかかってきた家光を交わし、家光を塀の中に思いっきり突っ込んだそうです。

その後家光との関係がぎくしゃくしたものとなり十兵衛は指南役を辞め、故郷の伊賀へ。

そこで剣術を教える道場を開きました。道場は大反響。荒木又座衛門もここで教わったそうです。