江戸時代その5 目次 年表 1651年〜1679 | |
1651年 | 4代将軍 家綱 |
7月 | 家康の甥 松平定政ご乱心!? |
7月 | 由井正雪の乱 |
とばっちりか?紀伊家頼宣焦る | |
さようせい様 家綱 | |
1652年 | 若衆歌舞伎禁止! |
1657年 | 水戸黄門の徳川光圀「大日本史」を作成 |
7月 | 元祖江戸っ子 幡随院(ばんずいいん)長兵衛 |
湯女風呂 営業停止 | |
1659年 | 高尾太夫吊り斬り事件 |
1657年 | 明暦の大火 振袖火事 |
世界一の大都市 江戸 | |
吉原炎上!新吉原 江戸一の社交場となる | |
下馬将軍 大老 酒井忠清 | |
1671年 | 河村瑞賢(ずいけん)航路を整える |
伊達騒動 | |
1673年 | 越後屋の三井高利 |
1679年 | 権八 辻斬りのお金で吉原へ! |
江戸時代 その5 1651年〜1679年 |
1651年 4代将軍 家綱 |
生まれながらの将軍も1651年に48歳で死去。 死ぬ間際に保科正之を呼び、幼い息子家綱のことを託しました。 正之は「私の命の続く限りお守りいたします。安心してください」というと家光は「安心した。もう心残りはない」と言い息を引き取りました。 そして生まれた瞬間から次期将軍が約束されていた4代将軍家綱が誕生したのです。 家綱は側室お楽の方との間に出来た子供で、この時まだ11歳でした。 老中の酒井忠勝は幼少の将軍なので、諸大名の中には反乱を起こそうとしている者が出るかもしれない。が、たてつく奴がいたら皆で相手になろうではないか!と家臣らは忠誠を誓ったのです。 11歳のちびっ子将軍の政治は家光時代からの松平信綱や阿部忠秋ら遺老に支えられ始まりました。 ちなみに将軍宣下は京都だったんだけど、今回は江戸城で行われました。 以後、江戸城で行われるようになります。 |
1651年7月 家康の甥 松平定政ご乱心!? |
この頃、黒染めの衣を着て刀を差しながら「松平能登入道にものを給えものを給え」と江戸を練り歩く僧が現れた。 これがその辺の僧なら何も問題ないんだけど、練り歩いてたのは三河国狩谷藩主の松平定政だったから幕府は仰天。 「あの乞食坊主は家康様の甥っ子だそうだ!」 と、江戸中パニックに。さらに長男の定知と従者を2人連れて歩いちゃってたから、幕府はどうする??状態でした。 定政は家康の甥で24歳で家光の小姓となりましたが家光死後なにか吹っ切れてしまったらしい。 そして仲間に「私は命を捨てて恩のある家光殿に報いたいと思ったが、今の老中の将軍補佐を見ていると世の中が乱れる兆候がある」と言い、この手紙を井伊直孝に渡してくれといったまま姿を消した。 その手紙には意味のわかんない歌が書いてあり、幕府は不審を抱きまくった。 そして定政は出家。再び井伊直孝に手紙を送った。 そこには「旗本が貧乏極まりない生活をしてるのに幕府は救済もせず自分達の権力強化ばかりに力を注いでいる。私は2万石もらってるがこれは返す」というものでした。 当時改易ラッシュのため30万人以上の浪人がいましたが、幕府は救済もしようとせず不満がたまりまくっていた世の中でした。 でも大名である定政が領地返上など前代未聞のことで、幕府はあきれ返った。 そのうち定政も落ち着くだろと気楽に構えていました。 ですが定政はマジでした。二回目の手紙を届けた後江戸中を歩きまくったのです。 幕府はこれはとんでもないことになったと「定政乱心」として処理した。 幕府は「困窮した旗本に救いの手を延べよ」という定政の思いを無視することにしたのです。 ですが江戸庶民は定政の行動を「反骨大名の反乱」と大喝采。 そして2週間後、幕府は由井正雪らによってまたまた衝撃を受けることになるのです。 ちなみに定政は松山で静かに余生をすごし、63歳で死去しました。 |
1651年7月 由井正雪の乱 |
この頃、秀忠・家光の改易ラッシュにより浪人が続出していました。 江戸では徒党を組んだ浪人や若者のケンカが絶えず、武士の辻斬りも大流行!また島原の乱にこうした浪人らが参加していたこともあって、幕府は大名らに新規召抱えを制限したりしたのでますます浪人が増えてしまったのです。 そんな中、江戸に住んでいた浪人の軍事学者由井正雪が多くの浪人の窮状を見かねて立ち上がろうとしたのです。 由井正雪は1605年駿府で生まれた利発な少年でした。 寺に弟子入りし江戸で軍学を学びました。 やがて道場で講師となりましたが、話がうまかったため多くの弟子が集まりました。門人は5000人にもなったそうです。 丸橋忠弥(まるばしちゅうや)もその一人でした。 忠弥は長宗我部家の子孫と言われていて、今の御茶ノ水で道場を開いていました。 正雪の話を聞いてるうちに2人は意気投合したのです。 その計画とは江戸と駿府の二手に分かれて江戸チームは丸橋忠弥が指揮をとって大風の吹いている夜に幕府の火薬庫と市内各所に一斉に火をつける。 慌ててやってくる老中達を暗殺し江戸城に乗り込んで将軍家綱を奪い取り江戸城を占領するというもの。 駿府チームは正雪が久能山にある徳川家康の遺金を奪って京都や大阪で兵を挙げるというものでした。 ちなみに家康の遺金などありませんでした。 ところが丸橋忠弥がポロリと口をすべらせてしまいました。 すると3人の下級武士の密告者が出てしまい、老中松平信綱にばれてしまったのです。 幕府はすぐさま丸橋忠弥の道場を取り囲み逮捕しました。 そして駿府にいた正雪も取り囲まれてしまうのです。 そして「町奉行へ来い!」と言われると「支度してまいる」といい、そのまま自害してしまったのです。 ちなみに密告した3人は幕府の恩賞にあずかり300から500石の旗本に取り立てられました。 だけど世間はこの3人を「人非人(にんびにん)」と呼び、屋敷は「訴人屋敷」と呼ばれ、誰も近づこうとしませんでした。 さらに江戸城に行っても「こんな密告者らと席をともにしたくない」と他の旗本からイジメにあいました。 困った幕府は争いが起こるのを避けるために3人に俸禄だけを与え、なんの勤務もさせませんでした。 荻生徂徠は密告者だけど幕府の役に立ったんだからイジメはよくない!と主張したそうです。 その甲斐あってかこの3人の子孫は、吉宗の時代となった時に「小十人組」という将軍がお出かけする時に先駆けを務める役に抜擢されました。 だけど、この時も3人はのけ者にされイジメにあったそうです。 |
とばっちりか?紀伊家頼宣焦る |
正雪らの幕府転覆事件は未遂に終わりましたが、浪人を集める際に「紀伊家の頼宣殿から扶持を貰っている」と言い浪人を集めた。 頼宣は浪人の間では人気があったらしく、頼宣の名を出せば浪人が集まるだろうと思ったからです。 さらに正雪の家から書状が見つかり、そこに紀伊家の名と判があったのです。 江戸城でそれをみた頼宣は「これはこれはめでたいことじゃ」と言い放ったのです。 「御三家の自分の判に似せてあるからには心配ない。これが外様大名の判に似せた謀書だったら大騒ぎになるとこじゃったな。いやいやめでたい」と言ったのです。 頼宣は紀伊家の武備充実政策を頑張っていました。それが災いの種をまいてしまったのです。 頼宣はとんだとばっちりを受けてしまい、以後紀伊家は暗い影を落とすことになったのです。 頼宣は尾張義直の弟ですが、尾張家と同格になるように頑張ってきたのに、この事件以後はっきりと尾張より下と印象づけてしまいました。 |
さようせい様 家綱 |
幕府はあまりにも浪人が多くなりすぎたため、あんまり浪人を出さないようにしようぜ!ということで改易を少なくしました。豊臣系大名はほっとしました。 家綱を支えていたのは酒井忠勝・松平信綱・保科正之・阿部忠秋らでした。 家綱は病気がちで政治もあーんまりスキじゃなかった。 老中らが相談事を持ちかけると「左様に致せ」としか言わなかったので「さようせい様」というあだ名がつく始末でした。 家綱は温厚で穏やかな性格でした。絵画が大好きで絵師の狩野守信とは大の仲良し。 正室は朝廷からやってきた女性でしたが、形だけ。側室も何人かいましたが全員死産もしくは流産してしまったのです。 |
1652年 若衆歌舞伎禁止! |
1629年に出雲阿国の女歌舞伎が風紀上よろしくない!ということで禁止されました。 すると「若いおねーちゃんがダメなら若い男で!」ということえ「若衆歌舞伎」が流行りだしたのです。 ここで踊るおにーちゃん達も「男色のお相手」としてお客さんに買われまくったのでとうとう幕府によって禁止されちゃいました。 それからはだんだん歌舞伎は「マジメ」になっていくのでした。 つまり出雲阿国の女歌舞伎もこの若衆歌舞伎も舞台に立って「わたし(ボク)を高く買ってくれるお客さんはだぁれ?」みたいに踊って体を売ってお金をもらっていたというもんだったのです。 ちなみに男色のお相手としてお客さんをとることを「陰間(かげま)」と言います。 |
1657年 水戸黄門の徳川光圀「大日本史」を作成 |
![]() なぜか後継ぎとして発表されてしまい大好きだった次男(松平頼重)を差し置いて二代目となってしまったためヒネクレてしまい、少年時代は人気ゼロ。 18歳の時に「史記」に感動しマジメになりました。 で、日本には時代の流れを追った歴史書がないということで「大日本史」を作ろうと家臣の佐々木介三郎(すけさぶろう)と渥美格之進(かくのしん)とともにスタート。 この2人が後に水戸黄門のスケさんカクさんのモデルに。 介三郎は資料集めに全国をまわったので、光圀が全国をまわって悪者を退治するという水戸黄門のモデルとなったんですが、実際光圀は千葉や鎌倉くらいまでしか出かけてない。 ちなみに副将軍という職もない。 |
1657年7月 元祖江戸っ子 幡随院(ばんずいいん)長兵衛 |
幡随院長兵衛は出生は不明。浅草に住み、口入れを稼業としているうちに強者をやっつけ弱者を助けるという男伊達が評判となり町奴のボスとなってきました。 対して水野十郎左衛門という男は旗本奴のボスでした。 1650年に三千石の家督を継ぎ遊びまくりの生活。この頃は旗本とはいえ活躍の場がほとんどなくなり、出世の道は狭き門でした。 そのため旗本でも一部の人々は派手な格好をして町を練り歩きケンカを売ったりしていたのです。 そんな偉そうな旗本奴に対抗して出てきたのが町奴だったのです。 そして旗本奴と町奴は何かと対立するようになってきたのでした。 ある日森田座へ旗本奴らを引き連れやってきた水野十郎左衛門。町奴らも観に来ていました。 すると町奴のところに割り込みしようとした客がいて言い争いになりました。 それをみた水野は「うるさい!静かにしろ!芝居の目障りだ!」と怒鳴ったのです。町奴は怒り、旗本奴にいちゃもんをつけ始めました。 そして乱闘となったところに出てきたのが幡随院長兵衛「この喧嘩俺が買った!」と言ったもんだから見物客はどっと沸いた。 場所が場所だけに水野は刀を振り回すわけにもいかずその場は引き上げた。 力の強い幡随院長兵衛にいつも負けていた水野十郎左衛門は悔しくてたまりませんでした。 そして3日後「森田座での一件は水に流して、今後は仲良くしませんか?明日水野の屋敷まで遊びに来てください」と使者を出すのです。 町奴らはこれは罠だ!と言いましたが、長兵衛は「ここで行かねば男がすたる!」と一人で水野の屋敷へ乗り込んだのです。 水野の家で長兵衛は勧められるがままに酒を飲み、酔ったところを水野らに斬り殺されてしまうのです。 のち歌舞伎では風呂場で斬られるようになりますが、これは創作だそうです。 水野はその後町奉行へ行き「幡随院長兵衛を無礼討ちにした」と自首しました。 理由は「長兵衛が遊郭へ行こうと何度も誘ったが、私が断ると、わしら町奴が怖いんだろう?臆病ものめと言われたから」だそうです。そして水野の処分はというと、長兵衛は浪人だから放っておけというものでした。水野は罪にならなかったのです。 その後の水野はというと、ますます素行が悪くなりとうとう7年後に切腹させられてしまいました。 そして悲壮な最期となった長兵衛は町人の意地と男伊達を褒め称えられ「江戸っ子」の元祖となったのです。 |
1657年 湯女風呂 営業停止 |
江戸は蒔代が高く、火事の恐れもあったので大名の家やお金持ちしかお風呂を持っていませんでした。町民らは銭湯に通っていたのです。 この銭湯に目をつけた人がいて「湯女風呂」をスタートさせました。今のソープランドです。 現在の東京神田あたりは湯名風呂が200件以上でき、さらに「勝山」という絶世の美女と噂になるほどの湯女が現れると、吉原をしのぐほどの賑わいとなりました。 この年、とうとう客を奪われた吉原が幕府公認の遊郭であることを盾に営業を停止させたのです。 ちなみにこの頃、普通の銭湯は男女混浴でした。考えらんないよね・・・・。 |
1659年 高尾太夫吊り斬り事件 |
19歳で仙台藩主となった伊達綱宗(つなむね)吉原が大好きでした。 そして吉原NO1の三浦屋遊女「高尾太夫」にいれあげまくった。 ちなみに「高尾太夫」というのは何代も続いてて、この高尾太夫は何代目かなのはわかってない。 で、綱宗は高尾太夫を押して押しておしまくるんだけど、高尾太夫は全然なびかない。 綱宗は62万石の大大名である。これでは面目丸つぶれじゃ!と無理やり三浦屋に大金を積み高尾太夫を身請けしたのです。三浦屋は大喜び♪ ですが高尾太夫には好きな人がいました。浪人である島田重三郎です。 重三郎は高尾太夫を身請けするために一生懸命働いていたのでした。 そして強引に船に乗せられた高尾太夫は泣きながら他に好きな男がいると言ったのです。 その言葉に激怒した綱宗は高尾太夫の髪を掴み、舟ばたで吊るし斬りしてしまったのです。 ちなみに高尾太夫のタタリで仙台には美人が生まれないという失礼な伝説があります。 これが幕府の耳に入って御家取り潰しを恐れた綱宗の叔父である宗勝や重臣らは、綱宗を辞めさせて2歳になったばかりの長男亀千代を藩主にしたいと幕府に願い出を出したのです。幕府はこれをOKし2歳の亀千代が62万石の藩主となったのです。 綱宗はこの動きを知らなかったので寝耳に水。さらに綱宗を吉原に誘ったという側近ら4人を暗殺したのです。 そしてこの事件が発端となり12年間に及ぶ仙台藩あげての御家騒動につながるのです。 |
1657年 明暦の大火 振袖火事 |
家綱16歳の時、江戸で大火事が起きる。 この火事は江戸を半分以上焼き尽くし10万人以上の死者を出すという大惨事になってしまいました。 またこの火事には「振袖火事」といわれるコワイお話が・・・。 あるところにお菊という娘がいて若い男いヒトメボレ。 だけどどこの誰だかわかんなくって、せめてものなぐさみにとその男が着ていた同じ模様の振袖を作るんだけど、恋煩いのため痩せすぎて(拒食症)死んでしまった。 両親は娘が気に入っていた振袖を一緒に棺の上にかけたのです。 当時お寺で働く男達は棺にかけられたモノは貰ってもOKで、ある男の手に渡りその振袖は売り飛ばされた。 この振袖を買ったのはお花という娘。お花はこの振袖をとっても気に入って愛用しまくった。が、突然ぽっくりと死んでしまったのです。お花の両親も気に入っていた振袖だからと棺の上へ。 同じ振袖が戻ってきたのでお寺で働く男達はびっくりしたけど、また売り飛ばした。 お次に買ったのは梅乃。だけどまた死んじゃったのです。そしてまた棺の上へ。 そこへ偶然お菊とお花の両親が娘の墓参りにやってきました。 すると自分の娘が気に入っていた振袖が棺の上にあるのでビックリ! 3度目の娘も死んだというのを聞いて、3人の両親はお寺の住職に相談したのです。 住職は供養しましょうと、振袖をお焚きあげすることに。 振袖を炎の中へ投げ込むと、突然強風が吹き、火がついたまま振袖は空へ飛んでゆき本堂の屋根へ落ちたのです。 火はたちまち燃え上がり湯島から日本橋へ燃え続け、江戸城の本丸・天守閣をも焼きつくしたのです。 この火事により江戸の町は整備され、大都市になっていくのです。 江戸城より町人の家作りをまず先に!ということになり、江戸城はそのまんまとなったのでした。 |
世界一の大都市 江戸 |
明暦の大火によって江戸は整備されてきました。 そして江戸の町は人口が百万人を超えるのです。当時パリやロンドンでも60万人ほどだったので世界一の大都市となりました。 武家・寺社の人数が50万人 町人などが50万にと言われています。 また江戸の町の6割ほどを武家屋敷が占めており、2割が寺社、2割が町人でした。 男性が7割女性が3割です。武家・寺社の関係者が殆ど男性だったからです。 そのため吉原などの遊女が沢山出てくることになるのでした。 |
吉原炎上!新吉原 江戸一の社交場となる |
振袖火事によって吉原は全焼しました。 常日頃江戸の中心近くに吉原があるのを風紀上よくないと思っていた幕府はこれを機に浅草寺裏の田んぼの一角に引越しさせました。これが「新吉原」です。 そして不便になった代わりに夜の営業を認めたのです。 夜の営業OKによって今まで行けなかった町人も吉原にいける様になりました。 ちなみに吉原は何度も火事になります。これは遊女勤めが辛くで逃げ出したいがために放火する遊女が多かったから。 さてさて田舎に移された吉原ですが、吉原まで行く道は土手八丁(どてはっちょう)と呼ばれるようになりさまざまな男が嬉しそうに歩きました。 この道を歩いてる時知り合いに会っても知らん顔するのが礼儀となりました。 そして吉原遊郭の入り口には「大門」が作られ門の側には警備員が立ちました。 男性の出入りは自由なんだけど、女性の場合は一般人でも通交証が必要でした。 理由は遊女の脱走を防ぐためです。大門は明け六つ(朝6時)に開かれ夜四ツ(夜10時)に閉じられましたがその後も横の木戸から出られるように。 大門をくぐると大通りがあり両側には引手茶屋が並び、その間の横丁には妓楼(ぎろう)の張見世がありました。 張見世というのは格子の中で遊女が座って客を待ち、かつ自分をアピールするというもの。 今じゃ信じられない見世物小屋ですね。 通りに面した張見世の脇には入り口があり妓楼の中に入るのです。 妓楼では、売れっ子になれば専用の座敷を楼主から買うことができました。自分の部屋持ちとなって一人前の遊女となるのです。 妓楼にとって遊女は商品ですので、等級をつけ値段(揚代)をつけました。 最高級が「太夫」ですが1770年ごろには一人もいなくなってしまいました。 代わって「花魁(おいらん)」と呼ばれる上級女郎。その下に新造。ふりそで新造などなど。 低級遊女はてっぽう女郎や切女郎。格安でした・・・。 そして最高級の花魁は男性の憧れ「花魁道中」ができるのです。すごくキレイに着飾り、お供を引きつれ歩くのです。 初めての吉原通いのお客さんになくてはならないのが「吉原細見」というガイドブック。 格妓楼のお抱え遊女とその値段などが書いてあり、初めて行く人には便利でした。 そしてお客さんは遊女と親密になるには3回は通わなければ馴染みの客となれませんでした。 遊女は一度吉原に入ると「生まれては苦界 死んでは浄閑寺」と言われるほど哀しい最期を迎える女性が多かった。 いちおう吉原遊女は「苦界10年」といわれ10年務めたら自由の身になれるということになっていました。 が、10年の遊女勤めの間に一生の伴侶となる男性を見つけられる者は少なく病気になったり、吉原を出て売春婦となるしか生きていく道はなかったのです。 そんな中で身請けをしてもらった日には本当にラッキーでした。 妓楼も遊女がずっと働くことはできないので、高いお金を出して買ってもらったほうがラッキーだったのです。 吉原にとって最高にいいお客は江戸藩邸の「留守居役」でした。 藩のお金を交際費として仕える為金払いが良かったからです。また町人のお金持ち客は「息子様」と呼ばれこちらもお得意様。 遊女として働くのは人買いと呼ばれる女衒(ぜげん)が全国をまわり、貧乏な家に住む美少女を見つけると、親にお金を払い買ってきたパターンが多かったのですが、これはまだマシな方で中には誘拐されて売り飛ばされたりする少女も沢山いました。 そして遊女となり働かされ、死んでも引き取り手がいないので「浄閑寺」という寺に埋葬されました。葬式の形が墓穴に投げ込むだけで終わりだから「投げ込み寺」と呼ばれるようになったのです。 ちなみに遊女あがりには「遣手(やりて)」という40歳過ぎの女性がいました。 楼主の代理として遊女を管理する役目で、刑罰の執行などもやりました。仕事上、情が厚い女性はなることができず強欲で人情味がない女性が「遣手」に抜擢されるのです。これが「やりてババァ」といわれる理由です。 |
下馬将軍 大老 酒井忠清 |
忠清は譜代筆頭の酒井家に生まれ、29歳で老中となりました。 家光時代からの老臣らが年をとってきたために次々と引退。保科正之が引退した頃には幕府の全権を掌握するようになったのです。 明暦の大火後、大手門下馬先に家を建てたので「下馬将軍」というあだ名がつき権力をふるいまくりました。 そして忠清が権力を握っていくにつれ、将軍家綱は次第に政務から離れていくのです。 |
1671年 河村瑞賢(ずいけん)航路を整える |
参勤交代により東海道などの五街道が賑やかになってきました。 幕府は江戸の大商人河村瑞賢に航路の開発を命令しました。 瑞賢は伊勢出身で、江戸で材木商を営み大商人となった人です。 この頃の年貢米の運搬方法は急な航路とか山を一度越えてからとかしかなくって心配がいつもつきまとっていました。 で、安全に早く運べる航路を・・・と瑞賢は命令されたのです。 そして1671年に日本沿岸から津軽海峡をへて太平洋沿岸を通り北陸と江戸を結ぶ東回り航路を開きました。 さらに翌年には瀬戸内海を通って北陸と大阪を結ぶ西回り航路を開き、瑞賢は旗本に取り立てられたのです。 新航路ができると大阪は「天下の台所」として商業の中心に発展していき、大阪の物価は全国の物価の基準となるほど栄えるようになったのです。 |
1671年 伊達騒動 |
1659年に19歳の綱宗が高尾太夫吊り斬り事件を起こしたため2歳で藩主となった亀千代。 まだ幼かったため伊達宗勝と田村右京が後見人となりました。 宗勝とは仙台藩の祖 伊達政宗の末っ子で、2代目藩主綱宗の叔父にあたります。 田村右京は綱宗の異母兄です。 宗勝と右京は後見人となり伊達家重臣らを抑えつけようとしましたが簡単ではありませんでした。 家老に原田甲斐を抜擢し反対勢力を抑えたのです。 宗勝は幕府老中(このあと大老になる)酒井忠清と婚姻し、それをバックアップにし次第に藩内で力を持つように。 10年で反対勢力である家臣120人を処分し17人を切腹させました。 1670年ごろ仙台藩は幕府から江戸小石川の堀普請を命令されました。 藩財政は貧乏となり、領地を持つ重臣らが自分達の領地の保全に必死になり始めたのです。 そして宗勝と一門の伊達安芸(あき)との間に領地紛争が始まったのです。 これは幕府が介入し1671年3月27日に大老酒井忠清の屋敷で話し合いが行われました。 尋問を受けたのは伊達安芸・原田甲斐・柴田外記らです。 そして判決が言い渡される直前の休憩中に原田甲斐が突然伊達安芸に斬りかかったのです! 伊達安芸は即死。甲斐も周りの人に斬られ殺されてしまいました。 ここに居合わせた関係者らは全員酒井忠清の家臣によって斬られてしまったため、結局事件は謎に包まれたまま終わってしまったのです。 伊達宗勝は土佐に流され、原田甲斐の家は御家断絶となり息子らも死罪となりました。 藩主亀千代は幼少のため不問となり仙台藩はお咎めなしとなったのです。 |
1673年 越後屋の三井高利 |
交通が発達し産業も盛んになってくると各地に「都市」ができ人々の消費も増え始めました。 大きな富を蓄える商人も現れ始めたのです。その一人の三井高利。三井財閥の祖となった人です。 高利は松坂(三重)で質屋をやっていた商人の四男。 高利は母を見習い立派な商人になりたいと思うようになります。 大きくなった高利は江戸で呉服屋を開いた兄のお手伝いをしながら商いを覚えましたが、母が老いてしまったので看病するために松坂へ戻りました。 ちなみに兄が高利の商才を妬んで追い返したという説もあります。 松坂へ戻った高利は母の面倒をみながら結婚し子供も生まれ両替商をやりつつの幸せな日々。 が、1673年高利53歳の時に江戸の兄が死亡。 高利は今しかチャンスはないと長男を江戸の呉服屋に行かせ自分は京都へ行き仕入れを始めました。 京都は高給呉服生産地なので、ここで安く仕入れて江戸で売る。 江戸の店の名前を越後屋とし、「掛け値なし」で呉服を売りまくった。 掛け値なしとは現金で売る代わりにはじめっから安い値段で売ること。 今までの売り方は「節季払い」といって代金を6月と12月(ボーナス時みたい)に払うシステムが主流でした。 それをヤメにして「掛け値なし!現金払いじゃー」とめちゃ安で売ったのです。 越後屋は大繁盛しました。 さらに今までの呉服屋は反物は一反単位で売っていましたが、切り売りするシステムとしました。 ちょっとだけ反物が欲しかった人達に大人気! さらに手代(てだい・店員の中の最高責任者)を生地別分業制にしたのです。 これなら店員が品質などに詳しくなりお客様サービスも万全。 また専属の細工人も置いてすぐ着物が欲しい!というお客様の声にあわせて翌日までには仕上げますというシステムも作りました。 さらにキズモノ・売れ残りはバーゲンセール!もー越後屋大ブレイク!越後屋はのちに三越となるのです。 今までにない商売のやり方で1687年に越後屋は幕府御用達を命じられることになったのでした。 |
1679年 権八 辻斬りのお金で吉原へ! |
鳥取藩の平井権八は、剣術の得意な青年でした。 17歳の時に自分の父が同僚にバカにされたのを怒って、その同僚を殺してしまったため江戸へ逃げたのです。 お金を全然持たずにあわただしく逃げたため、仕方なく強盗をしながら生き延びました。 そして江戸で何とか生計を立てていたのです。 が、二枚目で腕っ節も強い権八は次第に吉原へ行くようになりました。でも貧乏なため相手にできたのは下等の端女郎だけ。 ある日権八は吉原で華やかに練り歩いている小紫を見てヒトメボレしてしまったのです。 権八は25歳 小紫21歳でした。 小紫は吉原の遊女では最高ランクの「太夫」で、カムロ(身の回りの世話をする少女)や若衆・新造(若い遊女)を引き連れている程の最高級遊女。 今まで端女郎しか相手にできなかった権八にとって高嶺の花でした。 でも好きになっちゃったものは仕方ない!お金のない権八は手っ取り早く稼ぐには・・・と辻斬りをしてしまうのです。そして辻斬りをして盗んだお金で小紫太夫に会いに行き馴染みとなったのです。 権八の辻斬りは噂となり、江戸じゃやりづらくなったので地方まで進出。その数130人。とうとうお尋ね者となってしまいました。 権八は最後に一目両親に会ってから自首しようと故郷の鳥取へ帰りますがすでに両親は他界していました。 その帰りに病に倒れてしまい、大阪町奉行所へ自首したのです。 が、江戸へ護送される時 藤沢で脱走し、吉原の小紫のもとへ。 権八は最後に小紫に会ってからと思ったのでした。小紫は今までの権八の悪行を聞いてビックリ。 そして権八は小紫に別れを告げまた自首。今度は処刑され、死体は3日間晒されたのでした。 すると小紫が権八の墓の前で自害してしまったのです。 江戸庶民は小紫の後追い自殺に不審を感じていましたが、「美男美女の悲恋物語」として歌舞伎に取り上げられるようになると小紫に同情し、その意地を褒め称えるようになったのです。 |