明治15年 1882年 |
明治15年 1882年 年表 |
1月4日 陸海軍に「軍人勅諭」発布 |
「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」いわゆる軍人勅諭が発布される |
1月15日 フランス人画家ビゴー来日 |
2月1日 日本立憲政党結成。総理は中島信行 |
2月 大阪にて「玉突き賭博」が大流行 警察により取り締まり |
2300人もの人が捕まった |
2月8日 開拓使を廃止!函館・札幌・根室の3県を設置 |
2月25日 参議伊藤博文 憲法及び制度研究のため西洋諸国へ差遣を命じられる |
3月18日 東京、開店時などに景品を添えるのが流行し 禁止となる |
3月20日 上野公園内に動物園ができる |
3月24日 ドイツの細菌学者コッホ 結核菌を発見 |
4月 馬車会社が続々と開業 |
4月 西南戦争の時に「抜刀隊」として活躍した人たちが懇親会を開いた |
4月6日 岐阜事件 「板垣死すとも自由は死せず」 |
板垣退助は自由党懇親会のため岐阜へやってきました 300人の前で演説を行い、午後六時半、演説を終え玄関を出ました 見送りに集まった野次馬の中から、いきなり一人の男が飛び出してきたのです 男は板垣の後ろからいきなり抱きつき、右の胸をグサっと刺しました 板垣は「なにをするか!!」と叫び、男を突き倒すと、男は身を翻しもう一突きしてきたのです 次の瞬間、同志の内藤魯一(ろいち)が飛び掛って、男の襟首をつかんで倒しました この男は愛知県の田舎で小学校の先生をしていた相原尚ぶみ(あいはらなおぶみ) 村のインテリで、偏屈な堅物でした 板垣の考えを真っ向から否定しており、「学校の同僚らも板垣の思想をありがたがっている・・・。教育者ですらこんな状態では日本の将来は危ない」と思いつめるように こうして悪の元凶である板垣退助を殺すことを決めたのです ちなみにこの時、板垣退助の有名な名セリフ「板垣死すとも自由は死せず」という言葉が残ってますが、コレは本人が行ったわけではありませんゾ 相原は無期徒刑の判決を受け、北海道の監獄で服役していましたが、明治22年に出獄 すると彼はその足で板垣の家を訪れ、ひたすら謝罪したそうです 板垣は快く許しました が、その後の相原の行方はわからなくなってしまってます 自責の念にかられて自殺したとか、相原の黒幕が真相がばれるのを恐れて暗殺したとも言われてます |
5月12日 天理教が警察の弾圧を受ける |
5月29日 東京でコレラ発生 死者3万人以上を出しました |
7月23日 壬午事変 |
朝鮮京城に内乱起り暴徒王宮に乱入、日本公使館が襲撃される |
8月5日 戒厳令制定される |
10月1日 第1回内国絵画共進会開催(農商務省主催) |
洋風画の出品は拒否 |
10月10日 日本銀行開業 |
この日、日本銀行が営業を開始しました 目的は紙幣整理事業を推進するためであります 明治になってから、世の中は不況のどん底でした 農民の窮乏に、物価の大暴落、産業もめちゃめちゃで、人々は苦しみまくり 政府はなんとかして昔の制度を打破して、欧米のような生産方式をとりたかった が、まったく上手くいかず、産業の基礎を確立するために「紙幣」と「財政」の整理をすることに こうして資本金1000万円をかけ、日本銀行が開業したのです この後、金融機関建設ラッシュが始まります |
10月21日 大隈重信・小野梓ら、東京専門学校開校式を挙行(早稲田大学の前身) |
11月11日 板垣退助・後藤象二郎、横浜を出発し渡欧 |
11月23日 見延山久遠寺炎上する |
12月31日 陸奥宗光 禁固5年の刑を終わり出獄を許される |
この年の出来事 |
・全国人口、3670万人118人(東京98万2143人) ・外国人の猟により、北海道のラッコが絶滅寸前に ・記念碑の設立が相次いだ一年 |