明治20年 1887年 | |
明治20年 1887年 年表 |
1月 カルタ・トランプが流行 |
そのため双六人気ががた落ち |
1月11日 接吻の奨励が新聞に掲載される |
1月17日 皇后、婦人の洋装を奨励する思召書を出し、華族婦人などで洋装が広まる。 |
1月20日 求婚の公告が新聞に掲載される |
1月20日 相馬事件 |
2月15日 徳富蘇峰、民友社を興し、雑誌「国民の友」を創刊。 |
3月 陸軍が東京〜伊豆間で伝書鳩実験をする |
ちなみに成功したので、軍用鳩の飼育に乗り出しました |
3月20日 伊藤博文、柳原前光、井上毅、伊東巳代治ら、皇室典範、皇族条例草案を検討する。 |
欧米化!!ヒートアップ |
ここ数年、欧米化熱がかなり高まってきております 政府公認でものすごーい勢いで諸外国に肩を並べる日本を目指しておりました 行われたことをちゃちゃっと紹介すると・・・ 発足した会は・・・演劇改良会・婦人洋食会・ローマ字会など さらに、いろんなものが改良され、男女交際論も飛び交いまくり 衣食住や小説、音楽・美術とどれもこれも欧米列強の愛弟子のようにマネばかり さらには人種改良まで、本気で議論されておりました |
4月16日 展覧歌舞伎で名俳優が倒れる! |
東京の麻布にある井上馨の茶寮が新築落成披露!ってことで、天覧歌舞伎が催されました 行われた歌舞伎は「勧進帳」で、弁慶が団十郎、義経が福助と名優が揃いまくり さすがに名優達も緊張しまくってました 福助も震えてたので、周りの人は「さすがの福助も緊張してんだな」と思ってたんですが、次第に福助の様子がおかしくなり、ばたっと倒れてしまったのです 客席は大混乱になっちゃいました 福助が倒れた理由は白粉による慢性鉛中毒でした この頃の白粉は鉛が使われてたので、すっごい体に悪かったんですね〜 ちなみにこれがきっかけで、無鉛の白粉が開発され始めるんですが、いまいち化粧ノリがよくなかったらしい 昭和9年には鉛白粉が使用禁止になります 仕事とはいえ、命にかかわっちゃう白粉をつけなきゃいけないのも大変ですよねぇ |
4月20日 伊藤首相官邸で仮装舞踏会を開催 |
この日、伊藤博文官邸で仮装舞踏会(ファンシー・ボー)が開催されました 参加者は井上馨・榎本武揚・山県有朋・大山巌・三島通庸などの大物たち で、どんな仮装があったかというと、えびす様や大黒様、浦島太郎にヤマトタケルなどなど 世間はというと、アホか!と批判続々でした |
6月9日 板垣退助、爵位を辞す |
6月9日 花井お梅の雇人殺害事件 |
24歳の花井ウメが雇人の八杉峯吉を殺害する事件がおきました 詳しい事件を知りたい人はコチラ |
7月8日 特使、板垣退助の旅館に臨み辞爵上表を返戻(板垣天恩に感激し受爵を決意) |
7月 仙台で貸自転車屋が大繁盛 |
9月16日 井上円了 哲学館創立(東洋大学) |
9月17日 井上馨外相辞職 |
さてさて伊藤内閣はめっちゃ苦しんでました 民間政党が条約反対!!!を訴えてて、さらに閣内でも反対の声が 農商務大臣だった谷千城がやめちゃったので、かわりに黒田清隆が起用され、でもって井上馨外相も辞任しちゃたので山県有朋が兼任したりと、ハチャメチャ状態でした |
10月3日 後藤象二郎、丁亥倶楽部を興し、民権運動団体の糾合を目指す。 |
11月6日 浅草六区に高さ32mの富士山の模型が置かれ、見せ物興業が行われる。 |
11月 三井洋服店(のちの三越)が、フランス人デザイナーを招き「洋服部」を設置 |
12月3日 ピストル強盗 清水定吉捕まる |
清水定吉は東京の本所の長屋に住み、あんま業を営み暮らしてました 家庭では良い父で、夜は流しのあんま師として暮らしてたんだけど、お金のありそうな家に呼ばれると、ひそかに家の様子を探ってました そして後日強盗に入り、ピストルを突きつけて金品を奪ってたのです また裏の顔として、スリなどの犯罪者を警察に教える密告屋もしてました 警察にこの強盗事件を聞かれると、ウソの情報を流して混乱させてたのです が、とうとう日本橋の馬喰町の商屋に強盗にはいったところを逮捕されたのです 定吉はこの4日後に東京重罪裁判所で死刑判決となり、処刑されました 死後、浪花節となって語られ、明治30年に映画化されました |
12月6日 島津久光死去 |
12月26日 保安条令の公布・施行 |
(星享、中島信行、中江篤介ら294名、皇居より三里以外に放逐) |
この年の出来事 |
・北海道で、先住民はアイヌかコロポックルかの先住民論争が起こる ・パン、ビスケットを専門に製造する木村屋開業 ・この頃の流行 束髪・ショール・黒襟・鶯を飼うこと・蘭 ・ゴム印発明(ただし高価のため、その普及は日清戦争後) ・二葉亭四迷の『浮雲』第一編刊される |