明治24年 1891年 | |
明治24年 1891年 年表 |
1月9日 内山鑑三不敬事件 |
1月19日 板垣退助、議員40名と共に立憲自由党を起こす |
1月20日 帝国議会議事堂全焼 |
2月18日 三条実美死去 |
2月21日 中江兆民が議会を批判し衆議院議員を辞職 |
3月13日 吉原五人斬り事件が起きる |
3月19日 立憲自由党、自由党と改称し、板垣退助を総理に決定 |
3月25日 板垣退助、自由党総理となる |
4月 西郷隆盛生存説の噂が流れる |
なぜかちまたで「西郷隆盛が生きている」という噂が流れました ちなみにロシアにいるということでした |
4月9日 幕末勤皇家へ正四位を追贈(橋本佐内、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作など27氏) |
5月6日 第一次松方正義内閣成立(山県内閣総辞職) |
四代目首相 松方正義(まつかたまさよし) プチプロフィール |
出身:鹿児島県 首相在職日数:943日 若い頃は血気盛んな志士で、島津久光の側近としてアレコレ動き回っていた 戊辰戦争後に明治政府に入り、経済に強くなるように 初代首相となった伊藤博文内閣では大蔵大臣になり、以後ずーっと大蔵大臣になり続け30年以上、国の財政を運営してた そのため「財政の神様」と呼ばれるようになる |
5月11日 大津事件 ロシア皇太子襲われる |
ロシアの皇太子であるニコライ・アレクサンドロヴィッチがシベリア鉄道起工式参列のため日本へやってきました 5月4日に長崎に上陸し、日本側では有栖川親王が接待役となり大歓迎の準備をしておりました ロシア皇太子は8日に京都に到着し、11日に琵琶湖を見学しました そして人力車で大津を通行中、警備にあたっていた巡査の津田三蔵に突然襲われ、後頭部を負傷したのです 事件を知った松方内閣は呆然!! 国政に及ぼす影響を重く見て、皇室に対する未遂罪を適用し犯人を死刑にしようとしました が、大審院長の児島惟謙は司法権の独立を守るため、これは通常の人の殺人未遂罪である!として、無期懲役としたのです これにて青木外務大臣・西郷内務大臣・山田司法大臣は責任をとって辞職 政府は緊急処置として、新聞の原稿検閲をし、吉原の貸し座敷を5日間の鳴り物禁止の処置をとりました 世の中も大混乱し、ロシアが報復に来る・・・お先真っ暗だ!と、自殺者まで出る始末 さて、なぜ犯人の津田三蔵はロシア皇太子を襲ったかというと・・・ ロシアは日本をコバカにしていて、たびたび失礼な態度をとっていました 日本ままだ文明開化したばかりで、必死で欧米に負けないような国づくりをしている途中 津田はロシア皇太子が日本を征服するための下見にきている・・・と思ったのであります で、襲撃後の日本は大パニックとなりました ものすごい慰謝料を請求してくるんじゃないかと、日本国中ビクビクしまくり が、結果的には賠償要求も報復もありませんでした 皇太子も日本側の迅速な処置や謝罪に対して寛容だったのであります ちなみに一番得した(?)人は、人力車の車夫 なんと勲章をもらい、年金36円もゲット さらにロシア皇帝からは一時金と勲章までもらっちゃいました 大金を貰った夜は、心配で寝れなかったそうですヨ |
5月20日 憂国の女性 畠山勇子自刃 |
ロシア皇太子がケガをしたってことで、日本中大パニックとなってました ロシアを怒らせて日本と戦争になったらどうしようーー!もうだめだぁ!!と、とにかくビビッてた すると事件とは何も関係の無い畠山勇子という女性が、お詫びのために京都府庁前で自刃したのであります!! この女性は「憂国の女性」として、めっちゃ褒め称えられました |
ロシア皇帝は日本をどう思ってた?? |
当時のロシアはロマノフ王朝時代であり、皇帝はニコライ二世でした ニコライ二世はぶっちゃけ日本が嫌い 日本人のことをいっつも「サル」と呼んでました 「日本人はサルのような、非人間的なものである」と、平気で言っちゃう人 常日頃から日本人をめっちゃ軽蔑してたのです 今回の事件では、あまりの日本の滑稽すぎる慌てぶりをみてどうおもったんでしょうね〜 |
5月13日 アホな条例ができちゃいました |
大津事件が起きたことにより、山形県最上郡金山村では村会が開かれ、すごい条例ができちゃいました 住民に「津田の姓」と「三蔵の名」をつけることが禁止!という条例であります 天皇陛下の国賓である皇太子を襲った巡査は、国家に対する反逆人であり「津田三蔵」という巡査の名前そのものが「恥」だ!という理由からであります 「津田さん」とか「三蔵さん」からしたら、迷惑ですよね〜 |
7月11日 東京音楽学校の卒業式で「君が代」が初めて歌われました |
9月 独身エリートの間で、土日限定の妾が流行 |
10月 牛飯屋がめちゃくちゃ増える |
12月18日 田中正造、足尾銅山の鉱毒問題に関する質問書を衆議院に提出する |
12月20日 ヤッツケロ節が大流行 |
12月22日 樺山資紀海軍大臣、海軍省経費削減反対演説で薩長政府の功績を力説。いわゆる「蛮勇演説」 |
日本人「はる子」がアメリカで人気 |
ニューヨークでとある日本女性が大人気となっていました その女性の名は「はる子」まだ16歳であります はる子は日本の踊りを教えており、特にアメリカ人に人気だったのが「深川」という踊り 乙女が情人を慕い、川辺で恨み言を述べるんだけど、次第にその乙女に情を抱いていくというもの 優雅だということで、日本踊りを教わる人が増えたそうです |
この年の出来事 |
・洋酒の一杯売りが出現する ・ ・横浜グランドホテルの食堂では、和服が禁止になる ・五目御飯が人気に ・井上円了が妖怪研究会をスタートさせる ・この頃の流行 尺八・紙風船・びっくり箱・かすりの羽織・黒ラシャの山高帽子・紺足袋 ・総人口4025万人となり、4000万人を突破。 |