明治33年 1900年 | |
日本・・・黒字 アジア・・・青字 アメリカ・ヨーロッパ・・・赤字 |
明治33年 1900年 年表 |
1月1日 紙幣が日本銀行券に統一 |
1月 日本楽器がヤマハピアノの製造を始める |
娼婦の自由廃業運動が盛んになる |
明治5年に起きたマリアルーズ号事件をきっかけに娼妓解放令が出されたんだけど、吉原などの遊郭は貸座敷と名前を変えただけで、中身は全然変わってませんでした そんな中、自由民権運動が始まり婦人解放!という声が盛んになってきていましt この運動はかなり活発になり、特に吉原の廃娼運動が注目を集めまくりました 自由廃業の方法を遊女に教えたお客さんが、吉原がやとった暴漢い教われたりなど、廃娼運動をめぐる事件が多発しまくり そのため吉原にはほとんどお客さんが来なくなりました 民衆から「女郎屋の軒に蜘蛛の巣がはらないのが不思議」なくらい、あれだけ賑わっていた吉原が閑古鳥状態となってきたのでした |
3月7日 未成年の喫煙が禁止される |
3月10日 治安警察法公布 |
3月24日 アメリカ最初の地下鉄道ニューヨークに開通 |
4月7日 牛乳配給規制 容器がガラス瓶になる |
4月17日 カナダで「日本人出ていけ!」 |
カナダのブリティッシュ・コロンビア州で、日本人排斥法が制定されそうに カナダ総督はこれを不認可しましたが、日本人は世界でめっちゃ嫌われていくのでした |
4月30日 初めて「軍艦マーチ」が演奏される |
5月5日 パリで日本美術館開館 |
輸入車第一号の自動車は・・・ |
日本に初めて電気自動車が輸入されました これは嘉仁親王の結婚記念として贈られました さて、この自動車ですが、東京の宮家坂で初運転をすることに 誰もが見るのは初めてで、見物人が多く詰め掛けました いよいよ初運転が始まったんだけど、すぐさまブレーキが故障してしまい、止めようとしても止らず、結局皇居の濠に落ちてしまうという、悲しいデビューとなってしまいました ちなみにこの後すぐに自動車の輸入が始まります といっても、まだまだ指で数えられるくらいの台数だったんですが、三井呉服店が商品配達用に使いました 走ってると誰もが振り返るため、もちろん宣伝用 が、困ったことに車を運転できる人がいないので、輸入したはいいけど数年お蔵入りだったそーです 運転免許や道路規制ができるのは明治40年になってからですよ〜 |
5月10日 嘉仁親王(大正天皇)結婚 |
嘉仁親王が結婚しました お相手は九条節子 まだ15歳であります 嘉仁親王は体が弱かったので、早めに結婚したほうがいいということで決まりました 結婚後はとっても仲がよく、初の一夫一妻制の天皇となります |
5月12日 山川均 皇太子の結婚を非難して逮捕される |
5月19日 陸軍省・海軍省官制改正 |
5月24日 18歳未満の女子が娼婦になるのが禁止に |
5月24日 男女混浴禁止令 |
今まで何度も出ていた「男女混浴禁止令」 外国人がいっつも「日本で考えられないのは、男女がお風呂に一緒に入ること。野蛮だ!」と言ってました とうとうほんとーーーに混浴禁止令が出されました 今後12歳以上の男女は混浴禁止!となります |
5月31日 義和団が破壊活動を始める |
清国で義和団という「扶清滅洋(ふしんめつよう・意味は清国を助けて侵入者の西洋を滅ぼす)」をスローガンとした民衆の武装集団による破壊活動が始まりました 最初は山東省から始まり、次第に北京へと到達していくこととなります なぜこのような事が起きたのか?というと、日清戦争の後、西洋列強が本格的な清国への利権獲得合戦が始まったからです 中国(当時はまだ清国)への西洋列強の進出はアヘン戦争をきっかけに始まりましたが、本格的な分割競争は日清戦争の後から というのも、清国が新興国である日本に負けたことで「眠れる獅子」の正体がばれてしまたtから 清国に対する分割競争はホントにえげつないもので、列強たちはほんっとやりたい放題清国にアレコレと認めさせてきました 各国の利権はというと イギリス・・・九龍(香港)と、威海衛(いかいえい・山東省にある黄海に面した港)の租借(そしゃく・ある国が、特別の合意のうえ他国の領土の一部を一定の期間を限って借りること) ロシア・・・東清鉄道の敷設権利と、旅順・大連を含んだ関東州(遼東半島の先端)の租借 フランス・・・雲南鉄道の敷設権利と、広州湾の租借 ドイツ・・・山東省・青島(チンタオ)の租借と膠済(こうさい)鉄道の敷設件と沿線の鉱山を採掘する権利 とまぁ、好き勝手に清国に認めさせてたのです こうした西洋列強の行為に対して、武力で立ち向かおうとしたのが義和団だったのです そしてこの状況を聞いた西洋列強は続々と兵を派遣する手続きを行いました |
6月14日 ハワイがアメリカと合併する |
6月20日 義和団の乱(北清事変)始まる |
義和団は北京に入って日本を含む列強の公使館を攻撃しました ここで日本公使館員の杉山書記が殺害されました またドイツ公使も殺害され、日本・イギリス・フランス以外の公使館は焼き払われました こうして北京は義和団の支配する場所となったのです |
6月21日 清国皇帝、列強(北京出兵8国)に対し宣戦布告 |
北京を占領した義和団に加えて、清国の政府も列強に対して宣戦布告しました |
続々と兵が清国へ |
列強はそれぞれ軍隊を清国に派遣しました ここでイギリスが列強ではない日本に対して「派兵してくれない?」とお願いしてきたのです イギリスから兵を派遣するのには時間がかかるし、負担も大きい だからイギリスの代わりに、日本にお願いしてきたのです 日本はもtりおんOK! 第五師団(広島で編成されてる常備師団)を覇権しました でもって、日本が一番近かったので日本を中心とした八カ国の連合軍ができました 連合軍のチームは、日本・イギリス・ドイツ・フランス・アメリカ・ロシア・オーストリア・イタリア 全部で15000人で、そのうち日本軍は7200人であります |
7月2日 大型飛行船「ツェッペリン1号」がドイツで初飛行 |
7月10日 楠正成像が完成 |
高村光雲らが製作しました |
7月11日 義和団の乱(北清事変) 天津の激戦 |
連合軍が向かったのは天津攻略でした ここで清国の正規軍と激突しましたが、連合軍側の勝利となり、14日には天津を占領しました |
7月26日 清の孫文が日本へ亡命 |
8月1日 救世軍大尉矢吹幸太郎が東京新宿遊郭附近で人身売買反対運動を行う |
8月14日 連合軍 北京を占領 |
天津を占領した連合軍は、北京に向けて進軍を開始しました が、イギリス&日本は「早く北京に行って公使館を解放しなくちゃ!!」という考えなのに対し、ほかの国は「北京に進攻すると義和団や清国が怒るんじゃないの??」なんて意見が出てきました ということで、めーっちゃノロノロの進軍となってしまったのです それでも8月14日には北京を攻略開始し、すぐさま陥落させました |
9月7日 義和団の乱が終わる |
ぬるい状況の北京進軍でしたが、そんな連合軍にドイツからワルテルゼー元帥率いる数万人の兵力がやってきました ワルテルゼー元帥が連合国総司令官になると、すぐさま行動に移りました 全ての国を合わせると、78回もの義和団残党狩り(半分はドイツ)が行われたのです |
義和団の乱(北清事変)で日本が得たもの |
日本は西洋列強のように中国本土には何の権益も持ってませんでした が、この乱において中心的役割となったので、初めて西洋列強と同じように中国に権益を持つことができたのです 日本は天津に司令部がある清国駐屯軍(のちの支那駐屯軍)を置く権利を得たのです また、この乱が起きた当初はヨーロッパ各国では「黄禍論(おうかろん)」が出てました 黄禍論というのは、ドイツの皇帝ウィルヘレム二世が唱えたもので、「黄色人種(日本人)の進出によって、白人が禍を受ける!」という、人種差別の主張 始めのころは、日本軍が西洋列強とともに連合軍に入ることが大ブーイングだったのです が、この乱が終わる頃はだんだん見方が変わってきました というのも、この乱にあたって一番略奪や暴行行為が少なかったのが日本軍だったからです イギリスは「日本軍は極東の憲兵たり得る」とまで報道 といっても、かなり上から目線ですけどね 「黄色のくせにマナーいいじゃん」みたいなね ということで、日本は義和団の乱をきっかけに、西洋列強同様、清国に駐屯軍を置く権利を得たのでした |
おいおいロシア!なにしてんだ |
さてさて、義士団の乱も終わり事件の最終議定書が調印されました が!!いつまでたってもロシアが出て行かない それどころか、東清鉄道が破壊されたぜ!とゆー理由で、さらに軍隊を送り込んで満州を占領し続けました このままロシアの大軍が居座れば、ロシアによる独占的な支配が始まっちゃいそうな勢いだったので、日本は清国にロシアを出て行かせるように!と働きかけることとなるのでした |
9月15日 立憲政友会ができる |
伊藤博文は総裁となり、政友会を結成しました 以後、日本の代表的な政党となっていきます |
9月26日 山県内閣辞職 |
9月26日 津田英学塾設立 |
9月28日 鉱山王・古川市兵衛 ちょんまげを落とす |
鉱山王として名高い古河市兵衛が、とうとう日本橋にある理容室でトレードマークのちょんまげを落としました 古河は鉱山経営で最新の設備を導入したとういことで有名だったんだけど、その他に絶対にちょんまげを落とさない!ということでも有名でした どうやら従五位を叙せられたため、ちょんまげを落とす決心をしたそうです ちなみに古河は20以上の鉱山を経営し、銅にいたっては日本の全産量の半分を算出しております |
9月 上野・新橋駅に公衆電話ができる |
10月 娼婦取締規則ができる |
10月11日 シャム国王より皇太子嘉仁親王へ最高勲章を贈進 |
10月19日 第四次伊藤内閣成立 |
11月 女性だけの自転車倶楽部ができる |
12月1日 東海道線に初めて暖房施設ができました |
12月23日 陸相桂太郎が辞任!後任に児玉源太郎を任命 |
この年の出来事 |
・凸版印刷創立 ・東京市がペスト予防のためにネズミ買い上げを行いました ・滝廉太郎が郷里の竹田で「荒城の月」を作曲する ・ ・雑誌「明星」11月号が、一条成美の女性裸体図の挿絵で発禁処分となる ・醤油をビール瓶に詰めて野田土産として旅行者に売って好評、瓶詰の因とな ・「ブラジル帽子」「ストライキ節」が流行 |