明治6年 1873年


明治6年  1873年 年表
1月1日 太陽暦実施(陰陽暦の廃止)

今現在使われている日付になりました

1月18日 妻妾でない女性が産んだ子供は「私生児」とすることが交付される

1月22日 尼僧の蓄髪・肉食・婚姻・帰俗の自由が認められる

2月2日 超近代的な病院 佐倉順天堂が湯島に開院

2月5日 年齢を○歳○月と数えることが決められました

2月7日 明治政府、「仇討ち」を一切禁止!

3月3日 皇后、率先してお歯黒・眉墨をやめる

以前、お歯黒や眉墨は禁止という通達があったんですが、なかなかずっと続いていた風習を辞めることができない人がいっぱいいました

そんな中、皇后がお歯黒をやめたのであります

これにならってお歯黒をやめる人がやっとでてきました

3月11日 岩倉使節団 プロシアへ

一行はフランスからベルギー・オランダをまわり、プロシアに到着しました

プロシアは2年前に成立したばっかりのドイツ帝国の中心であります

プロシアの鉄血宰相と呼ばれているビスマルクが、ベルリンで一行を迎えてくれました

3月14日 外国人との結婚がOKになる

3月15日 使節団 ビスマルクと会見

使節団はビスマルクが主催する宴に招待されました

で、主要メンバーのみを別室に招き、ホンネを話し始めたのです

ビスマルクの話を簡単に説明すると

今、世界各国の国々は表面上だけでは仲のいいフリをしているが、内面では強い国が弱い国を侮っている
私が小さかった頃、プロシアがいかに貧弱な国だったかは知っているでしょう?
この時に私が小国だということで、どれだけの思いをしてきたかは決して忘れることができない

今だって国際公法なんぞがあるが、大国が利権を争う場合、自分の国に利があれば公法に固執するが、不利と思ったら公法なんぞ気にせず兵を持ってくる
公法なんぞ、いつ破られるかわからないものだ

これにはみんな青ざめました

というのも、日本は国際公法があるから大国は日本を攻撃したりしてこないだろうと思っていたからです

それをビスマルクがあっさり「違うよ。自分の国に利があれば兵を出してくるよ」と簡単に言ったから

日本は海の中にある島国なので、悠長に構えていたんですね〜

青ざめる使節団に対し、ビスマルクは「私のところもそうですが、小国が自国の権利を守ろうとするならば、その実力を培う以外に方法はないですよ」

ビスマルクの話は日本の使節団たちを感動させました
そして、この時の思いが近代日本の方向性を決定づけさせたのです

大久保利通 西郷に手紙を書く

大久保利通もビスマルクの話に感動した一人でした

西郷隆盛あてに「いろんな人と出会ったけど、ビスマルクが最高の人格者だ」と書いたりもしました

ちなみに大久保は、今回の訪問中にビスマルクの悪口を聞きまくってました
「あいつは軍略を喜んでやる奴だ」「悪魔のような奴だ」「他国の権利を掠め取る奴だ」などなど

ところが、会ってみてわかったのは小国を列強と同じような大国に育て上げようとしている偉大な人物ということがわかったのでした

3月 ウサギの流行のあとは鼠が流行した

3月25日 最初の公園に上野・浅草・深川・飛鳥山・芝の5つが決定

3月28日 大久保利通 一足先に日本へ帰る

使節団はまだまだ見学途中でしたが、日本国内ではいろーーんな重要問題が起きてました

そのため大久保さん帰ってきてくれコールがあり、一足先に日本へ帰ることになったのでした

4月 凧揚げが禁止に

どうやらできたばっかの電線にひっかかりまくったらしい

4月18日 山県有朋辞職する「汚職がバレた!?」

さてさて、去年司法卿になった江藤新平は、政府高官の汚職に全力投球してました

まずひっかかったのが山県有朋であります

ぶっちゃけこの人、お金に汚いことで有名

山県は大村益次郎がいなくなった後、軍のことをぜーーんぶ握ったんですが、汚職・・・やっちゃってました

兵部省で権力を独占した山県は、山城屋和助という商人と結託して、公金で私腹を肥やしてたのです

山城屋はもともと長州の奇兵隊時代から山県の部下だった人で、維新後は商人となり兵部省の御用を一手に引き受けてました

で、大もうけしたお金を山県に渡してたんですねぇ

さらに儲けてやろう!と思った山城屋は、生糸相場に手を出しちゃって大失敗!!

その穴埋めを山県に頼み込んできたのです

今までさんざんお金を貰ってた山県は、仕方ないので公金をつぎこんじゃいました

そのお金たるや、当時の国家予算歳入の1.2%というものすごい金額!!!

江藤にこのニュースが入ってきたのは、パリ在住の外務省官吏からで、「日本から生糸相場の視察にきていた山城屋という男が、欧州の大富豪も驚くくらいの大散財してましたよ!!」というもの

これはおかしい・・・と、江藤が金の出所をしらべると、どうやら陸軍が絡んでるということに

で、陸軍には大量の使途不明金があることが発覚したのです

窮地に追い込まれた山県は、欧州から急いで山城屋を呼び出しました

そして山城屋は今年2月に陸軍省の中で切腹自殺したのです!!!

事件は闇に葬られる・・・・・かと思われましたが、江藤の追求はさらに続きました

江藤と一緒に近衛軍の桐野利秋らも怒っちゃって、「山県を暗殺する!!」といった大騒ぎに

こうして山県を辞職に追い込んだのです

そしてこの翌日、江藤は参議となったのでした

あ、ちなみに江藤を参議にしたのは西郷さんだよ

5月15日 妻の離婚請求権が認められる

5月28日 大久保ビックリ!!俺のイスはどこだ?

「大久保さん帰ってきてくれコール」を受け、一足先に戻ってきた大久保でしたが、戻ってきてみてビックリ

なんと、大久保のいる場所がなかったのです

それは、使節団がいない間にメキメキと頭角を現してきていた江藤新平の仕業だったのです

出てきた!!「征韓論」

征韓論とは「朝鮮に出兵しよう」というもの

実は征韓論は西郷が言いだしっぺじゃなく、幕末からチョコチョコと出てきてたんです

吉田松陰や島津斉彬なんかにも似たよーな計画してましたし

最初に出てきたのが1861年で、当時幕府の寺社奉行だった板倉勝静が「どんどん諸藩の勢力が強くなってきて幕府もヤバイですよ。このエネルギーを外に向けちゃいませんか?朝鮮半島に向かわせれば一石二鳥じゃないですか?」というもの

そのうち勝海舟が「いやいや、日本・清国・朝鮮の三国が協力しあって欧米列強に負けないようにしなくちゃなんない」という感じになってました

で、朝鮮に対して「あなたの国も開国してはどうですか?」という使いを出しました

日本は当時鎖国していた朝鮮を開国させ、日本と同じように文明国家にして、でもって一緒に欧米列強に対抗してこーよみたいな感じだったんですね〜

ところが、日本の申し出はぶっちゃけ朝鮮にとってはおせっかいとしか思えなかった

だって自分の国のことなんだから自分とこで決めるし、いくら隣の国が鎖国をやめてよかったから、あんたんとこもしなよ〜と言ってきたとしても、それにはいろーんな危険も伴うしね

ということで、お断りしてたんだけど、日本側も諦めず何度も何度も熱心にお誘い

こーして、日本のお誘いが6年を経過した頃、いーかげん朝鮮もいらついたのか、とうとう日本の使者を怒鳴っちゃった

すると日本は「せっかくこっちが親切に言ってるのに!!よくもーーー!」と怒り出しちゃったのです

正直、時期もめちゃくちゃ悪かった

日本国内でも士族がイラだってる時だったから

士族は今までの特権をぜーーーんぶ政府に奪われてしまい、不平不満が全国に充満していた時だったので、「朝鮮討つべし!!」といった感情が一気に流れ出ちゃうんです

西郷隆盛 征韓論をススメる

現在の日本の国際情勢をちょっとは知ってる人ならば「今は朝鮮とケンカしてる場合じゃないから!!」ということになりますが、士族の不平不満はほんっとに爆発寸前だったので話が違ってきちゃいました

さらにこの「朝鮮討つべし!」ムードが西郷隆盛のとこに届いちゃったので、話はさらに大きくなっていきます

西郷隆盛は考えました

あんなに必死になって幕府を滅亡させたものの、いつまでたっても元・武士たちの生活は楽にならないどころか爆発寸前

この士族の不平不満エネルギーを朝鮮に向けることで、国内の政治から目をそらさせるしかないと考えたのです

こうして西郷は「征韓論」を閣議に提出

本来なら反論が出るとこなんだけど、反対しそうな人たちはほとんど使節団に入って外国へ行ってる最中

ということで、西郷は征韓論を政府の決定事項にしてしまったのでした

6月5日 電車で初めて「定期券」ができる

6月 乞食の取り締まりをする!どうやら浅草あたりに多かったらしい

6月8日 山県有朋 復帰しちゃいました

汚職事件で辞職することになった山県でしたが、西郷隆盛が救いの手をさしのべました

どうやら山県がいないと軍の政治がどーにもならなかったようです

ということで山県は陸軍卿として復帰(今までより1ランク上の役職)

さて、ここで思い出して欲しいのが使節団が出て行くときに「勝手に人事を代えたりすんなよ!」という約束

めっちゃ簡単にこのお約束は破られてしまいました

6月11日 第一国立銀行が開業

この日国立第一銀行が誕生しました

江戸時代から両替商だった「三井組」と「小野組」に対して作るよう進めてたんだけど、最初は両方とも嫌がってました

が、大隈重信や井上馨らが説得し、とうとう誕生

頭取には渋沢栄一が就任しました

「丸の内の祖」渋沢栄一

渋沢栄一は1840年2月13日に武蔵国(現在の埼玉県深谷市」で誕生しました

家は大農家だったため、算盤勘定も上手くなり、14歳の頃には1人で仕入れにいけるほどに成長しました

そして推薦により、一ツ橋慶喜に仕える事になってから、運命が変わりました
なんと、慶喜が徳川幕府の将軍になったからであります

1867年にフランスで万国博覧会があり、栄一は幕府が派遣する一行に加わりました
パリ万国博に参加・出品しつつ商業を学ぶ一方、当時戦っていた幕府に刃向かう薩摩・長州に対抗するべく軍備強化のための資金作りなども行っていました

が、栄一らがパリ滞在中になんと幕府が倒れてしまったのです
ちなみに滞在中に、フランスの経済・銀行・社債・公債の仕組みなどを全て勉強しました

帰国した栄一を迎えたのは新政府でした
新政府に呼び出された栄一は、大蔵省に就任したのです

そしてフランスで培ってきた手腕を次々と発揮したのでした


6月27日 飛脚の営業を禁止
7月10日 小塚原刑場が廃止される

7月18日 火葬の禁止されましたが、その後「火葬場設置」の条件が出てOKになりました

8月15日 福原有信 銀座に薬局を開く

福原有信が「資生堂」を銀座で開業しました

これが西洋医薬品の薬局のさきがけとなりました

が、のちに経営難に陥り、なんとか再出発
以後、名前が全国区になったのは明治21年
練り歯磨きを製造し、これが大人気に

ちなみにお値段は当時の価値観からしてものすごーく高価だった

さらに脚気の薬「脚気丸」も大人気に

医薬品から化粧品に進路変更したのは、日露戦争が終わってからとなります


大久保VS江藤

大久保は新たに出現してきたライバルにドキドキ

大久保は警察と地方行政を握る国内政治の絶対権利を持つ行政機関を作りたかったんだけど、江藤は法治国家の形で日本を統一しようとしてた

これからの目的も全然違う二人だったので、どっちかがどっちかを失脚させなければいけない状態

でも、正直この頃の江藤の勢いに大久保は勝てそうになかった

なんといっても岩倉使節団がまだ帰ってきてないので、大久保一人では動きようがないからであります

ということで、大久保は時間稼ぎするために政府に夏季休暇を設けたりとこちょこちょ動いてただけでした

大久保利通 大隈を動かす

大久保は「今は動く時じゃない」と、東京を離れ箱根や富士山に旅行に行っちゃいました

江藤を安心させるためであります

が、大隈重信を東京に残しときました

この大隈重信は、以前は大久保のライバルだった人です

使節団に行く前に大久保と大隈はバトルをし、大久保が勝ちました

大隈のすごいとこは「俺は大久保に勝てない。だったら・・」と、すぐに大久保の下についたことであります

大隈重信は佐賀藩の中級藩士出身なんだけど、藩主に対してまーったく忠誠心がなし

銭勘定が達者だったので新政府に入ったんだけど、そんな木戸孝允が「こいつ、使えるんじゃないか」と大隈を出世させました

が、大隈の神経質な性格に木戸はだんだんうんざり

大久保も「木戸派のこざかしい策士」とゆーイメージを持ってました

で、使節団の件で大久保とバトルし大久保が勝利

すると大隈は180度態度を変えて、執拗に大久保に接近して自分がどんな人物かを知ってもらうためにめっちゃ努力しました

大久保も自分がめっちゃ下級出身で、藩主の島津久光に必死で自分を売り込んで這い上がってきたという過去があるため、大隈のこのあがきにちょっと好感持っちゃいました
「お前の気持ちはわかるよ〜」みたいなね

ということで、だんだん大久保は大隈を重宝するようになっていくのであります

大隈は江藤のことをどう思ってたのか??とうと、どーやら自分の同質タイプで、しかも同郷だったので、多少目障りだった

ということで、大久保は大隈に江藤の動きをチェックさせる役をお願いしたのでした

9月 外国人用横浜グランドホテル開業

9月13日 岩倉具視・伊藤博文帰国

さてさて、やっとこさ使節団が帰国してきました

ようやく大久保がちょーーっとづつ動き出します

ブルーな伊藤博文 木戸にご挨拶に行く

2年ぶりに日本に帰ってきた伊藤博文

まず最初にやんなくちゃいけないのは、大先輩・木戸孝允にご挨拶に行くこと

「あーあ。またねちっこく怒られるんだろうなぁ」とブルー

が、木戸の口から出たのは「お前がいない間に、佐賀の江藤がすげーんだよ」という愚痴

この頃の木戸は深刻な神経衰弱になってたのもあり、「長州は佐賀のせいで滅びるかもしれない」とまで言ってました

これに驚いたのは伊藤博文

「え?江藤?誰ソレ?」みたいな感じだったんですねぇ

さらに木戸は

「今さぁ長州藩出身の政府高官がめっちゃ叩かれてんだよ。自分の地位を利用して権力濫用しちゃってるのが全部江藤によってバレそうになってんだよ〜。あいつは出遅れた佐賀出身だからさぁ、西郷隆盛に近づいて長州勢を切り崩そうとしてんだよ。このままじゃ長州勢はボロボロだよ」

へぇ〜!!と驚いた伊藤博文ですが、ここでフフフ・・・と、あることを考えたんですね〜

伊藤博文 謀略を考える★

木戸に愚痴を聞かされ「江藤ねぇ〜へぇ〜」だった伊藤博文

ここでひらめいちゃいました!!

「俺、ここで長州の危機を救えばこないだの条約交渉の時のミスは帳消しになるんじゃないの??このままだとエリートコースから落ちちゃうから、ここで汚名挽回すれば道は開けるかも!!!」

ということで、考えに考えた作戦が・・・・

「大久保利通と江藤新平を闘わせること」なのでした

そして、今世の中で騒がれている「征韓論」を利用することにしたのです

ということで、伊藤は世論を「征韓論」に持っていくために、しきりと征韓論のことを宣伝しまくりました

大久保だったら征韓論のことを反対するに違いないと思い、征韓論を宣伝しまり、最初西郷たちが言っていた征韓論はもっと穏便だったのに、すっごい話をでっかくしてしまったんですね〜

ということで、伊藤は自分の汚名を挽回するために必死にみんなの周りをうろうろしまくるのでした

まず最初にやったことは大久保を参議にすること

なんとかで大久保に参議になってもらって、西郷との正面攻撃をさせることにしたのです

どんどんでかくなる「征韓論」

岩倉具視と三条実美が伊藤博文から「(話がでかくなった)征韓論」のことを聞かされました

この頃になると許しがたい亡国論になっちゃってました

ということで「征韓論を潰すには、西郷と同じような実力を持っている人物に登場してもらうしかない」ということになりました

そこで二人が選んだのが大久保利通だったのです

困った大久保 

二人に相談された大久保は困っちゃいました

大久保は西郷が考えている征韓論は、自分達の憧れ「島津斉彬」から影響されたものであることを知っていたからです

それに幕府を潰して成立した新政府が、西郷が思っていた政府と全然違っていることもわかっていました

長年一緒に行動をともにしていたため、西郷の「思い」を変えるのは難しいということが、いっちばん良くわかっていたのです

が、大久保にとってこの論争は、今一番目障りな政敵・江藤新平を潰すのにも大チャンスでした

江藤は西郷にくっついて色々やってますからねぇ

ということで、征韓論はどうなっていくのかみんな大注目だったのであります

10月 日本人による初の貿易商社「大倉組商会」 

大倉組商会の創始者は、大倉喜八郎です

新潟生まれの喜八郎は、17歳の時に江戸へやってきて鰹節店などで働き、鉄砲業の大倉屋を開業しました

ちょうど戊辰戦争だったので、官軍と幕府軍から大量注文が入り大もうけ

明治維新後は海外貿易に注目し、1年以上かけて海外を見てまわりました

ラッキーだったのは、使節団としてやってきていた大久保利通や伊藤博文らとローマで出会い、知り合ったこと

そして帰国後、貿易会社「大倉組商会」を設立したのです


以後、鹿鳴館建設など多くの事業を手がけていきます


三条&岩倉の腰抜け行為

10月14日に征韓論についての会議が行われることになりました

ここで大久保は三条実美と岩倉具視に対して

「征韓論派と戦う腹をくくってください」と念押し

裏切らないという書面を書かせました

が、三条&岩倉は「でもやっぱり、会議が紛糾するのは嫌だよな」と相談し、板垣&副島を三条の家に呼び、「14日の会議前に西郷に会わせてよ。で、会議を円満に終わらせるよう相談するからさ」と、さっそく裏切り行為

このことを大久保が知ったのは会議当日の朝

もーーーめっちゃ激怒して、三条&岩倉の二人を西郷に会わせないようにして、「国の行く末を左右する会議は正々堂々とやるべきでしょうが!!」と、怒ったのでした

10月14日 征韓論についての会議が開かれる

ということで、色んなゴタゴタがありましたが、ついに征韓論について話し合う会議が行われました

参加者をガガっと紹介しましょう!!

太政大臣・三条実美(37歳)
右大臣・岩倉具視(49歳)

あとはみんな参議です

西郷隆盛 (47歳) 
副島種臣 (46歳)
大久保利通 (44歳)
大木喬任 (42歳)
江藤新平 (40歳)
板垣退助 (37歳)
大隈重信 (36歳)
後藤象二郎 (36歳)

薩摩藩2名・佐賀藩4名・土佐藩2名、そして肝心の長州藩はゼロ!!

いかにこの時、長州藩出身者がピンチだったかがわかりますね〜

ちなみに長州の大物・木戸孝允はなんとボイコット!

病気とゆーのが理由だったんだけど、こんな大事な会議にボイコットするとゆーのはどうかと思いますな〜

ということで、このメンバーで征韓論についてのバトルトークが始まりました!

でもって、予想通り大久保VS西郷の討論に

では、両者の言い分を聞いていきましょ〜

大久保利通

今の日本は借金だらけだ!外債だって500万両もある!
もし朝鮮と戦争になったら国家の財政は破綻するし、貿易港だって債権国のイギリスなんかに抑えられてしまう。とにかく日本にはお金がないんだ!

西郷隆盛

いや。でも闘わなければならない
アジアを欧米列強から守るためには仕方ないことだ
討幕のために戦った薩摩や長州が、今度は全アジア規模で闘うべきだ
そのためには日本民族の大半が戦火に倒れても仕方のないコトだ

大久保利通

なにを言ってるんだ!日本国内ですらまだまとまっていないのに、何を好んで朝鮮を討たねばならぬのだ!アジアをまとめる国になるためには、まず欧米列強に負けない国を作らなければならない
朝鮮と闘っている場合ではない

西郷隆盛

我々の先輩は、今のような政府を作るために死んでいったのではない!
今、不平不満を持った士族の目を政治からそらし、闘っている間に国を改造すればいい


結局、話し合いは時間切れとなり、結論は翌日に持ち込まれることになりました

10月15日 征韓論会議 二日目

翌日、会議が再開されることになりました

が、西郷は欠席し、代わりに江藤新平が大久保とバトルトーク!!

江藤は

「西郷参議は本当に必死である。もしいうコトをきかなければ、国家にとって最悪の事態になる覚悟はできているんでしょうな!!」

と、西郷の下についている近衛兵がどう動くかわかりませんよ??と、暗に匂わせたのです

もちろん大久保も負けじと反論しました

が!!!

なんと午後になって太政大臣の三条実美が精神的にまいっちゃったのです

で、征韓論反対派だったとゆーのに、岩倉と相談して「もー疲れた」ということとなり、西郷を朝鮮に派遣することを決めてしまったのでした

三条&岩倉は戊辰戦争の時もそうだけど、いっつもドタンバになると動揺して平気で寝返っちゃう

大久保はこの時の二人にされたことをずーっと覚えていて
「公卿にはほんっと信念がない!!責任感もないし、勇気もない」と失望しちゃってます

その証拠に、以後明治政府は西園寺公望以外の公卿を誰一人政治家にしませんでした

この時の二人の豹変&だらしなさぶりが公卿出身政治家を日本から削除しちゃったんですねぇ

10月16日 大久保「負けちゃった。もう俺やめるよ」

征韓論に負けちゃった大久保は、この日薩摩藩出身の伊地知正治のところに行って、ノンキに囲碁を打ってました

夜になって岩倉に「私は心に決めていることがありますから。もはや論ずる気持ちはありません」と言い、辞表を提出しました

それを聞いた西郷は大笑いし、「薩摩で一番の腰抜けの辞表は、速やかに受けろ」と言いました

大久保に続いて、木戸・大隈・大木喬任も辞職を提出しました

ということで、大久保は勝負に敗れ、「もう勝手にしろよ!」と、全てを投げ出したんですねぇ〜


・・・・・

・・・・・というのは、表面上の話

大久保は自分の死を覚悟して参議を辞職し、位階を返上する辞表も出し、水面下でどんでん返しするべくチャンスを狙っていたのです

大久保は各方面に伊藤・大隈・そして黒田清隆を奔走させまくってました
彼らの運命も大久保にかかってましたからね

10月17日 閣議が開かれる

岩倉&辞表提出した参議が欠席した閣議が開かれました

出席したのは三条と西郷と征韓論賛成派の参議だけでした

岩倉は伊藤の入れ知恵で欠席しちゃってました

この日の会議では上奏手続きをして、天皇にOKをもらうことが決定するはずでした

西郷たちは「いますぐに上奏しろ!」と、三条に迫りましたが、三条は「岩倉が今日は来てないから明日までまってよ」とお願い

この時の西郷らは吠えに吠えました

今すぐ貰って来いやぁ!!といった感じで、三条はもう泣き出しそうな勢い

で、「一日だけ猶予をくれ」と、めっちゃ訴えてきたんだけど、西郷は「ダメだ!!さっさとやれ!」と、めっちゃ険悪ムードに

すると後藤象二郎が助け舟をだしました

「まぁまぁ、たった一日のことではないか。べつに支障はないだろう」

西郷は後藤のこの一言で、仕方ない。じゃあ明日なってことに

この後藤の一言が、運命を変えてしまったのでした

17日 夜 三条実美 ぶっ倒れる

閣議が終わった夜、三条実美はめちゃくちゃ疲れてました

そしてとうとう、心労に押しつぶされ倒れてしまったのです

これは「仮病」という噂もありますが、とにもかくにも太政大臣が倒れるということは重大なことなので、閣議は自動的に休みとなってしまったのでした

そして三条は、「もーやだ・・・」と、すぐに天皇へ辞表を提出したのです

黒田清隆が動く

三条が倒れたことを聞いた大久保は、黒田に秘密の命令を下しました

黒田は宮内少輔の吉井友美に会いに行きました

吉井はかつての精忠組のメンバーで、宮内省のNO2であります

黒田は吉井に「宮内卿NO1の徳大寺実則にお願いして、明治天皇に岩倉を太政大臣代理にするようお願いして!!」と言ったのです

徳大寺は明治天皇の学生時代の友人だったので、明治天皇はこれをOKしたのでした

10月20日 岩倉具視 太政大臣代理となる

明治天皇は倒れた三条の代わりに岩倉を太政大臣代理に拝命しました

でもって大久保はコトがスムーズにいくよう、西郷や江藤が天皇に会えないよう妨害工作もしちゃいました

さてさて、岩倉はというと、どうやら「死んだフリ」を決め込もうとしていたようです

ところが、伊藤博文が「どうやら長州は大久保を支持してますよ」と言いました

岩倉は考えた

うーん・・・。薩摩閣は大久保派と西郷派があるよな〜。でも長州は一つにまとまってるよな〜。長州が大久保についたならこっちに勝ち目があるよな・・・

と、すばやくどっちが得かと状況判断し、大久保支持派にまたも変わったのです

10月22日 西郷隆盛ら、岩倉具視邸で征韓論の正面衝突

西郷・江藤・副島・板垣らは三条&岩倉が病気ってことで閣議が出来ないことにイライラ

とうとう、「まだ上奏してないのか!!早くしろ!」ということになり、岩倉の家へ押しかけてきました

そこで岩倉がこう言ったのです

「私は病気になった三条に代わって太政大臣代行をつとめることになったが、私は三条閣下の決定を潔しとはしないのだ」

そして!!

「私は征韓論には反対という意見をそえて天皇に上奏する」と言ったのです

西郷らはビックリ!!!

議論にかけては右に出る者がいないといわれた江藤がめっちゃ岩倉にアレコレ言いまくったんだけど、ここまできてクソ度胸が据わった岩倉にはまったくききませんでした

結局、西郷らはあきらめるしかなかったのでした

岩倉邸を出た西郷は、「今日の右大臣には負け申したなぁ」と大笑いしたそうです

こうして、24日に明治天皇は正式に征韓論を退けたのでした

10月24日 西郷隆盛 参議を辞職

征韓論に敗れた西郷は参議を辞職しました

そして江藤新平・後藤象二郎・副島種臣・板垣退助ら留守番組の参議たちもこぞって辞職したのです

彼らに続いて100人以上の人たちが辞職していきました

10月28日 西郷隆盛 鹿児島帰郷する

西郷は鹿児島へ帰る事にしました

そして大久保のところに別れの挨拶に行ったのです

西郷は「おいは帰る。あとのことは頼む」と言いました

すると大久保は「おいは知らん」とそっけない態度

西郷は目をぎょろっと光らして「知らんとは何つうこつか」と言って、そのままプイっと出て行ってしまいました

二人にどんな思いがあったんでしょうね

明治政府の進む道

征韓論に勝ったものの、参議の大量辞職により政府内はめっちゃめちゃ

今まで薩長土肥で絶妙なバランスをとりつつなんとか保っていたものの、薩摩の大半は西郷とともに政府から抜けてしまい、土佐・土肥も多くの人員がいなくなってしまいました

かろうじて残っているのは、江藤に追い詰められていた不正ばっかやってた壊滅状態だった長州のみ

ですが長州閣は伊藤博文&大久保利通のおかげで息を吹き返してきました

でも政府トップの大久保は薩摩の人間

しかも、木戸孝允とは使節団の時に伊藤がしでかした早とちり以後、イマイチ仲が悪くなってました

ということで、大久保は頼るべき薩摩を失ってしまったけど、「日本」のために動くことになります

そして巨大組織「内務省」を創設するべく、準備を始めたのでした

この頃の木戸孝允

木戸孝允は明治政府のご意見番のような存在になってました

でも、はっきりいってちょっと性格がヘンになってました

個人的意見なんだけど、維新前はアレだけ大活躍して異彩を放ってたのに、維新後はなんだか輝きが無くなっちゃった感があるんですよね

どうも口うるさくねちっこい感じになっちゃった

また、病気がちになってたし、精神も病み始めていたらしいんですよ

人のことを批判するだけで、実際自分は何もしない安全な場所にいる・・・みたいなタイプになっちゃんったんですねぇ

11月3日 祭日に国旗を掲げることにしました

大久保利通の性格が変わった!!

大久保利通は今まで無口で近づきにくいタイプの人でした

薩摩藩には「三年片頬」というしきたりがあって、男子たるもの笑顔など見せるな!三年に一度片頬に笑みを浮かべるだけでいいというもの

それが欧米をまわり、西洋人の笑いとユーモアを見て「このままの自分ではいけない」と思ったのです

以後、ユーモアをもって相手をリラックスさせるというタイプの人間になっていくのでした

伊藤博文も大久保側!?

大久保のやり方は部下が失敗しても、一生懸命やった結果であれば叱らないというものとなっていました

でもって、これに一番カンドーしたのが伊藤博文

というもの、使節団でアメリカに行ってたときに伊藤博文が勘違いして「アメリカは条約改正OKっぽいっすよ〜」と早とちりした件で、日本まで戻ってきて面目丸潰れになった事件ありましたよね?

コレに対して大久保は一つも愚痴をこぼさなかったんです

ところが!同じ長州出身で伊藤の上司でもある木戸孝允は、伊藤のことを責めまくりました

公衆の面前で、伊藤がまだ貧乏だった幕末の話も持ち出して恥をかかせたり、「軽薄で参議の器じゃない」と、いろーんな人に愚痴っちゃいました

伊藤はこれをきっかけに木戸をうざったく思うようになり、代わりに大久保を慕うようになっていくのでありました

あ、余談ですが伊藤博文が総理大臣になった頃、木戸孝允の孫が伊藤に挨拶にやってきます
その時伊藤は「人間心が狭くてはダメだぞ。君のおじいさんのようにな( ̄ー ̄)」と、イヤミを言ったそうです

11月10日 内務省を設置!初代内務卿は大久保利通

大久保は「富国強兵」「殖産興行」「文明開化」といったスローガンにあわせ、政府を大改革しました

「内務省」を作り、地方行政・治安・土木・交通通信・民生など、すべてを守備範囲に置くことにしたのです

11月19日 初めて郵便はがき発行される


この年の出来事

・築地に精養軒ができる

・西洋料理店が人気に

・金銀の指輪が流行

・キッコウマンが醤油瓶詰めをウイーン博覧会に出品

・野球がはじめて日本に紹介される