明治7年 1874年 


明治7年 1874年 年表 
1月4日 榎本武揚が最初の海軍中将に任命される

1月12日 板垣退助ら愛国公党を結成

征韓論に敗れた板垣退助らは、副島種臣の家に同志を集め、「愛国公党」を結成しました

初めての自由民権運動の結社となります

薩長出身者だらけの藩閥政治に不満を持ってた人たちが集まり、板垣退助らが民選議員設立建白書を出したことにより、以後自由民権運動がヒートアップします

1月 慶応幼稚舎ができました

1月14日 岩倉具視 暗殺未遂事件

午後八時ごろ、赤阪離宮で夜の食事をした岩倉具視が馬車にゆられて赤阪の喰違坂にさしかかったところ、突然9人の男が馬車の前に飛び出してきました

一人が馬の口を押さえ馬車をストップさせ、馬車の中をグサっと刺しました

岩倉具視は右肩と右の腰に傷を受け、すぐさま馬車から降りて暗闇の中飛び出し、そのまま草むらに転げ落ちました

暗殺者たちは「手ごたえはあった。もう死んだだろう」と、その場を引き上げたのです

馬丁の急報を受け、宮内省の役人が駆けつけると、倒れている岩倉を見つけました

傷は思ったいたより軽く、2箇所の突き傷ですみました

現場には一枚の羽織と片方の下駄などが落ちており、犯人をみつける有力な物証となりました

主犯格は武市熊吉で板垣退助の部下でした

板垣退助のもとで征韓論の下準備を必死で行っていた男で、征韓論が破れ板垣が下野すると新政府に恨みをもち「岩倉右大臣を斬るべし」とずっと唱えていました

どうやら板垣退助はこの暗殺計画を知っていたんじゃないか?という噂があります

ですが彼らは熾烈な拷問を受けても一切背後関係を白状しませんでした

そして彼らは斬首の刑となったのです

1月15日 東京警視庁が設置される 

内務卿となった大久保は、部下の川路利良に命じて司法省に属していた警察機構を「警視庁」としました

これから来るであろう不平士族や農民一揆の対策であります

1月18日 警察官に制服ができました

詰襟に六つボタンで、袖には黄色い筋が入ってました

そのため「横筋さん」と呼ばれました

1月27日 国際結婚第一号誕生

去年、外国人との結婚がOKとなって初めての国際結婚カップルが誕生しました

ドイツ人女性のクレーセンツ・ゲルストマイエルと宮崎県の士族・三浦十郎であります

築地の教会で結婚式をあげ、神父さんはアメリカ人

三浦十郎がドイツ留学中に知り合い、ゲルストマイエルが三浦を追って日本までやってきたそうです

ゲルストマイエルさんは、五カ国語を喋れる女性だったそうですヨ

1月31日 大蔵省の紙幣寮で初めて女工を採用しました

ところで江藤新平は??

さてさて、この頃の佐賀では、島義勇(しまよしたけ)をボスとする攘夷主義手的な憂国党と、江藤新平をボスとする征韓党の2つがめっちゃ仲が悪く、いつもバトルをしてました

が、どんどん今までの士族の身分改革が行われ、だんだん「新政府ってなんなんだよ!」といった、共通の不満が出てくるように

そして征韓論で敗れたのをきっかけに、憂国党と征韓党は急接近しはじめ、新政府に対して爆発寸前状態でした

東京でその話を聞いた江藤新平は、佐賀へ戻ってみんなの気を静めようとしたんだけど、なんとミイラ取りがミイラになってしまったのです

島義勇に「我々は今、生か死かの決断を迫られている時である。あなたはいかがするか?」と詰め寄られ、江藤も協力することになったのです

こうして険悪だった憂国党と征韓党が手を組み、幕府に対して反乱を起こすことを決めたのでした

2月1日 佐賀の乱

憂国党のメンバーは、この日小野組の支店を襲って金銭を奪い、軍用金としました

佐賀の不平士族の反乱が始まったのです

2月6日 大久保利通・大隈重信 台湾出兵を決定

なぜここでいきなり「台湾」が出てくるのー?とお思いでしょうが、コトの発端は明治4年までさかのぼります

明治4年の10月に那覇から出た2隻の船が嵐にあってしまい、台湾へ漂流してしまいました

そして漂流した66人のうち54人が、台湾の現地人である高砂族に殺害されたのです

生き残った8人は台湾の事実上の統治国だった清国に訴えたんだけど、全然かまってくれませんでした

このニュースを聞いた薩摩藩(長いこと琉球を支配下においてた)では、「台湾撃つべし!」とゆー声があがてったのであります

ですが日本国内も大変な時だったので、「もし清国が出てきたら戦争になるかもしれないよ?」とゆー声が上がり始めました

そこへ清国に滞在しているアメリカ領事のルセンドルから「清国に遠慮することないじゃん!台湾なんて征伐してしまえばいいのさ」といった、無責任な応援が入っちゃいました

でもって、この時の外務卿の副島種臣も「そうだよ!台湾はかつては日本領だったし!」と、威勢のいいことを言い出したのであります

が、このあとすぐに「征韓論」が出てきたため「征台論」は消えかけてたんですが、征韓論が敗れたため再度飛び出してきたのであります

大久保利通は「士族の不平不満のはけ口をどっかに持っていかなくては」と考えてたので、台湾出兵によってそれを交わそうとしたんですねぇ

しかもアメリカ領事からの激励もあるし、台湾は島なので征圧しやすいし・・・

ということで、台湾出兵が行われることになったのです

2月18日江藤新平らが佐賀県庁(佐賀城)を占領する

江藤らは県庁が置かれている佐賀城w襲いました

幕府側は敗北し、逃げていきましたがすぐに体制を建て直し新たな兵を出してきます

この頃の大久保利通は台湾(外国)のことも考えながら、国内のことも考えるとい超ハードな日々を送ってました

江藤はというと、「佐賀城を占拠し、東京に知らせが入って兵を収集・動員するには10日以上はかかるはず。それまでに九州や中国地方にいる反政府勢力と協力しあえば勝てる」と思っていました

3月 東京女子師範学校ができる

現代では女の人が働くのは当たり前の時代ですが、この頃は働く女性のことを「職業婦人」と呼んでいました

明治新政府は日本も女性を少し活動させないと・・・ということで、女性教師を養成する東京女子師範学校(のちのお茶の水女子大)を作りました

100人募集しましたが、集まったのは80人

卒業する頃には15人になってしまいました

この学校ができてから、各地に「女子師範学校」ができるようになりました

でもどうしてこんなに人数が少ないのでしょう?

それは世の中の意識の中に「女が働くのはいけないこと」みたいな流れがあったからです

女性が働くのは当たり前のことではなく、男性の何倍も努力そして苦労しなければならなかったのです

女医第一号となった荻野吟子(おぎのぎんこ)は、女性であるがゆえ「女性がメスで切り刻むなんてとんでもない!国を滅ぼすもとだ!」とまで言われる有様でした

江藤新平

江藤は反政府勢力を集めるため、西郷隆盛に会いに行くことに

佐賀から鹿児島へ向かったのです

が、西郷に面会し支援を断られてしまいました

そして江藤が動いている間に大久保は兵をすぐさま募り、佐賀城を奪回したのです

3月21日 日本初の運動会

この日、築地の海軍兵学寮で始めて「陸上競技運動会」が開催されました

これは6年前に教官としてやってきたイギリス人のダグラスによって提案

年齢別・走行距離別で競技が行われ、入賞者には賞品もでました

種目はというと、幅跳びや高飛び、棒高跳びに競歩や二人三脚

変わってる競技はブタを放して逃げるのを追って、尻尾を捕まえた人が勝ち!というもの

3月29日 江藤新平 捕らえられる

江藤は西郷隆盛に断られた後、高知に入って同志の林有造(はやししゅうぞう)に保護を求めたが断られてしまいました

そして海沿いから徳島へ抜けようとしたところ、高知の甲浦で捕らえられてしまったのです

3月 吉原で苦情殺到!

吉原での夜回りは、今まで静かに行われてたんだけど、この頃なぜか太鼓を叩き、ラッパを鳴らしつつの夜回りをする人が出現!

おかげで馴染み客から苦情が殺到しちゃいました

4月4日 台湾出兵

4月 天皇皇后の写真売買が禁止に!写真を持ってる人は没収

4月10日 立志者創立 板垣退助ら高知で立志社を創立

4月13日 江藤新平 処刑される

捕らえられた江藤は佐賀に送られ、臨時裁判所が開かれました

ちなみに裁判長はかつての江藤の部下

そして島義勇とともに、すぐさま謀反の罪で斬罪梟首となったのです

江藤には上訴の機会も与えられず、最初から処刑が決まっていた暗黒裁判でした

江藤は昔の部下だった裁判長に、このような裁判の進行を行われたことがとても無念だったそうです

処刑される前に江藤は「ただ皇天后土のわが心を知るのみ」と高らかに言い、41歳の生涯を終えました

大久保利通の日記には「江藤の陳述 曖昧 実に笑止千万。人物推して知られたり」と憎憎しげに書いてあったそうです

またこの後、江藤新平のさらし首の写真が売買され、問題となりました

4月18日 参議兼文部卿木戸孝允 台湾出兵に不満をもち辞表提出

5月2日 台湾征伐 谷干城ら長崎を発つ

5月4日 大久保利通・大隈重信、西郷従道と長崎で会見!

5月22日 台湾征討軍が台湾に上陸

5月 フランス人ジュクローがフェンシングを指導する

6月 医療を邪魔するおまじないや祈祷が流行する

7月13日 道路での手ぬぐい被り・ほっかむりが禁止される

7月 天然痘が流行!約3400人が死亡

7月 銀座にジョージアン・スタイルの煉瓦街が完成

明治7年1月から工事が始まった銀座一帯

とうとう感性しました

建設したのはイギリス人のウォートルスで、建築の様式は18世紀末のジョージ王朝期のもの

ジョージアン・スタイルとして「別世界のようだ」と報じられました

が、2年後火事となりまた工事がスタートすることに

以後、銀座は憧れの場所となっていきます


7月22日 巡査の棍棒が廃止!帯剣となる

8月 子供を獅子舞に使うことが禁止に


8月16日 大久保利通が軍艦「龍驤]で長崎を出発し清国へ

9月14日 大久保利通 恭親王と台湾問題の交渉スタート

9月 横浜に外人相手の娼婦が多くなる

10月23日 台湾問題の日清談判不調に終わる(大久保利通が最後通牒)

10月 大伝馬町の牢獄から60名の集団脱走

11月 島崎正樹が天皇の御車に扇を投げて懲役50日となった

12月3日 西郷従道の率いる台湾征討軍 凱旋

12月18日 東京市街に初めてガス燈が点火

12月25日 築地の教会で日本初のクリスマスが開催される

この年の出来事

・双子・三つ子の順番(誰がお姉さんかとか)が決められる

・フランス軍人の真似をして、マントが流行する

・その他の流行は・・・「ざんぎり頭(流行継続!)・長い襟巻き・巻きたばこ・待合茶屋での出会い・新年宴会・コレラ・演説会・石油ランプ」

外国錦の輸入盛んになる