室町時代 その10 1565年〜1567年 |
1565年 この頃の将軍義輝は? |
13代将軍足利義輝は、将軍の権威回復のため努力をし、かなりの権威回復に成功していました。 これがおもしろくなかったのが三好長慶でしたが、家臣である松永久秀にいいようにされてしまいボロボロに。 とうとう死んでしまい、松永久秀が主家を乗っ取ったのです。 が、この間将軍義輝はガンガン将軍の権威回復をしていました。 剣も上泉信綱から学び「剣豪将軍」と言われるほど。 大友家・島津家・伊東家を仲良くさせたり、大名をまとめる役を買って出ました。 また上杉謙信や織田信長とも会見したりと、政治に絡み始めたのです。 そのため「天下を治める器量がある」といわれ始めました。 これがおもしろくないのが将軍を操り人形とし、政治を思うままに動かそうとしていた人たち。 松永久秀と三好三人衆だったのです。 不穏な空気が京都を流れました。 将軍義輝は徹底的に三好家の息がかかった者たちを排除しようとしました。 これに対抗して松永久秀らは義輝のイトコである義栄(よしひで)を次の将軍とし、傀儡将軍として実権を握ろうと考え始めるのです。 |
1565年5月19日 永禄の大逆 松永久秀将軍を殺す! |
松永久秀らは、将軍義輝がめちゃくちゃ邪魔でした。 そしてとうとう、清水寺参詣という名目で兵を集め、義輝のいる二条御所を夜襲したのです。 将軍義輝は側近30人らと懸命に戦いましたが、とうとう久秀らに討たれてしまったのです。 「将軍殺し」をやってのけた久秀。 そして義輝の死により、将軍の権威復興の夢は途絶えてしまったのです。 この時、義輝の末弟である義昭は奈良でお坊さん修行をしていました。 兄が殺されたことにより、義昭は歴史の表舞台に出ることとなるのです。 |
1566年 島津義久 家督を継ぐ |
その前に、義久の父である島津貴久について。 貴久は島津本家の養子となり家督を継ぎました。 貴久の父は忠良で、養子先の父は勝久。 が、勝久の弟である実久が本家のっとりを企て、それに巻き込まれ貴久は、勝久・実久に狙われるように。 この争いは1539年に貴久が勝利。 以後、父・忠久とともに薩摩を固めていき、島津の基礎を築いてゆくのです。 1549年にはザビエルとも会い、キリスト布教を許可。 鉄砲をいち早く使用したのも貴久であります。 こうして貴久は、嫡男である義久に1566年家督を譲りました。 名将と名高い貴久の長男として義久は生まれましたが、実は評判が非常に悪かった。 義久には義弘・歳久・家久という3人の弟がいました。 この3人は非常に評判がよく、才能溢れた子供だったんですが、なぜか長男の義久だけがおとなしくて元気がなかったのです。 特に義弘は「鬼島津」というあだ名まででき上げるほどの名将でした。 そのため、周りから「愚兄賢弟の見本じゃ」と陰口を叩かれていました。 だけど祖父の忠良だけは、一生懸命義久に武人としての教育を行いました。 で、「お前のように大人しく軽々と動かないというのも大将らしい」と褒め育て、武よりも智を教え込みました。 そして島津家は九州統一を目指していくのであります。 |
1566年9月 木下藤吉朗 墨俣城築城 |
信長は美濃の斉藤龍興を攻めるべく、拠点となる城を作るよう秀吉に命令。 秀吉は蜂須賀小六らに協力を求め、夜中のうちに川の上流から城を構成する部品を流して、現地で組み立てるという今までにない方法を使用。 城をその夜のうちに完成させたのです。 今までも、秀吉は台風で壊れた石垣を直すのを命令された時に、チームにわけ一番早くできたチームには褒美をたくさんやるぞ!といってゲーム感覚でやらせたり、荷物を運ぶ人たちがぶつかり合わないよう、左側通行させたりと(日本の左側通行の始まり!?)今までにないアイデアで信長に気に入られていました。 1日で城ができたことは信長はもちろん、斉藤家もビックリ! ※これは実話でなく逸話らしい これでますます出世していくことになるのです。 |
盗人の大親分!?蜂須賀正勝(小六) |
元は尾張の豪族といわれています。 蜂須賀小六をリーダーとする族党は、どこにも属さない一派として尾張にいました。 以前は斉藤家に仕えていました。 蜂須賀小六のおじいさんが、冬の寒い日に1人の行き倒れの油商人を助けました。 それが斉藤道三だったのです。 そのため「恩人」として、蜂須賀党は斉藤家に仕えることとなったのです。 が、道三が死んでしまったため、集団浪人となってしまいました。 小六は村を出て、丹羽郡の安井家という家に仕えることに。 この近くに、生駒家(信長の愛した女性吉乃の父)があったのです。 小六は生駒家によく出入りするようになりました。 この頃、同じく生駒家に出入りしていたのが秀吉です。 また、信長も吉乃に会いにたびたびやってきていたので、3人は何らか顔を会わせていたと言われています。 蜂須賀小六が「野盗のボス」と言われているのは、??といった感じですが、とりあえずヤンキー生活をしており、バクチなどをやって生活していたことから「野盗のボス」と「太閤記」などの伝記に書かれてしまったのです。 そのため、子孫はめちゃくちゃイヤな思いをすることに。 これは余談ですが、蜂須賀家は幕末まで続く家柄となります。 明治天皇時代、天皇の招待で食事会が開かれた時、慣例として記念に菊の紋章が入った銀食器を持ち帰っていいことになっていました。 徳島藩最後の藩主となっていた蜂須賀家当主が、慣例に従って銀食器を持って帰ろうとしたところ、持ち去る姿が滑稽だったことから、土佐藩主の山内容堂が「先祖の真似をなさるのか?」と笑い、明治天皇は「血筋は争えぬのぅ。フホホ・・・」とほくそえんだのです。 太閤記では「小六は村を襲って物を盗みまくっている。落ち武者の刀や鎧を狙う大泥棒集団のボス」とありますが、これはウソだそうです。 とまぁ、こんな小六は墨俣城築城の頃から11歳年下の秀吉の下につき、謀略活動で大活躍することに。 信長から名前を貰い、「正勝」と名乗ります。 ちなみに小六は「ワシは信長殿に仕えるのではない。秀吉殿にお仕えするのだ」と行って配下に入ったそうです。 以後、秀吉にかなり信頼されるようになっていきます。 ちなみに、小六は家を息子に譲った後「秀吉殿の側で死にたい」と言い、死ぬ直前まで秀吉とともに行動したそうです。 |
秀吉猿 みんなの妬みの的に・・・ |
墨俣城を一日で築城したりと、秀吉は信長に気に入られどんどん出世。 これがおもしろくないのは以前からの家臣。 得に柴田勝家なんかは、「サル!」と馬鹿にしてた百姓あがりの草履持ちが、今や自分と同じレベルまでのし上がってきたのが気に入らなかった。 そんな頃、秀吉が名前を木下藤吉郎から羽柴秀吉に改名。 これは信長の昔からの重臣である柴田勝家の「柴」と丹羽長秀の「羽」をいただいたもの。 一種のご機嫌取りでありました。 |
ねね 秀吉の浮気に腹を立て信長に愚痴る |
秀吉が持ち前の才覚でみるみる出世していくと、だんだん浮気癖が出てきました。 ねねはプライド高い女性っていうより、あけっぴろげなおっかさんタイプだったので、ぐずぐずとグチを言わず直接秀吉に「あんた!何やってんのよ!」とズケズケと言うタイプでした。 プライドの高い妻であったなら、じっと我慢し自分のプライバシーをベラベラ言ったりしないし、ヒステリックに怒ってダンナを出世街道から外してしまうような女性でもなかった。ほどほどのおっかちゃんタイプだったのです。 で、ズケズケものを言うねねに対し、秀吉も秀吉で「うるせいやい!」って感じだったので、ねねはとうとう主君である信長に愚痴ったのです。 すると信長からの返事は 「そなたは以前会った時よりもずっとキレイになったな。そんな美人な妻を持ちながら藤吉郎(ひでよし)は文句を言うのであれば、それは藤吉郎が悪いな。あんなハゲネズミにそなたのようないい妻は二度と見つからないのだから、そなたも気を大きく持って軽はずみな行動をしちゃいけないよ。ヤキモチなど焼かず藤吉郎の面倒をみてやってくれ。わしからも言っておくからな」というものでした。 あのオッソロシイ信長にこのような手紙を書かせたねねは、ほんわかしたいい人柄だったのでしょう。 おかげで秀吉は、以後ねねに頭が上がらなくなり、他の側室らもねねを一目置くようになったのです。 |
1566年11月 尼子家 毛利家に降伏 |
元就は、孫・輝元のため、「自分がまだまだ健在なうちに、尼子家を潰しとこう」と総攻撃をかけることに。 得意の謀略で、「尼子家一番の家臣宇山久信は毛利とつながってますぜ!」と噂を流し、当主尼子義久はそれを信じて宇山を殺してしまったりと尼子の家臣らも乱れまくってました。 元就は、「降参すれば許してあげますヨ」と尼子家臣らに言ったので尼子家臣はどんどん毛利側に逃げてきました。 とどめに、尼子義久に対して「命は助けてやるから降参しろ!」と言い、「とうとうここまでか・・・」と義久は降伏。名将・尼子経久を生み出した尼子家は滅亡しました。 が、忠臣山内鹿之助らが「尼子家再興」を目指し立ち上がるわけです。 ちなみに、尼子義久は71歳まで生きました。 |
尼子家軍師 七難八苦の山中鹿之助 |
尼子十勇士の一人山中鹿之助が生まれた頃は、尼子晴久の時代で尼子家が衰退に向かい始めている頃でした。 山中家は、尼子経久の父の弟が山中を名乗ったことから始まります。 鹿之助は13歳で初陣に出ましたが、幼い頃から弓を習い、軍法を学びとっても優秀な子でした。 16歳の時、病弱な兄から家督を譲られたんだけど、この時鹿之助がすっごーーく欲しかった甲冑も一緒に譲られました。 鹿之助は大喜びで、この時「我は主家を必ず守る!願わくば我に七難八苦を与えたまえ!」と言いました。 その後山中鹿之助の名は、「勇・力とも類を抜いている」と戦国の世に広まることになります。 尼子家はというと、経久とその子政久らがガンガン勢力を拡大してたんだけどあまりに急な拡大だったため、家臣らの調整が追いついてなかった。 政久が若くして死んでしまい、晴久の時に毛利攻めを失敗しちゃってからというもの、家臣らが毛利側に寝返り続出。 尼子家大ピンチに。 そして1566年に尼子家滅亡。 この時、鹿之助は晴久の子、義久に従い尼子家再興を考えていました。 が、これは毛利元就に見破られ「この2人を一緒にするのは危険」と鹿之助は追い出されてしまいました。 その後、鹿之助の消息は3年間ぷっつりと消え、再び歴史に出てくるのは3年後になります。 これはまた後ほど・・・ |
1567年5月 家康嫡男・信康 信長の娘・徳姫と結婚 |
信長と家康は、同盟をさらに強力にするために婚姻関係を結びました。 信康は気性が荒く老臣なんかにもガンガン怒ったりしていて、ちょっと不安要素がありました。 が、戦いの才能は抜群で駆引きも素晴らしく、家康は「今はまだ若いので気性も荒いが、それも大きくなったら落ち着いてくるだろう」と将来を楽しみにしていました。 家康の嫡男・信康は非常に優秀で、信長は自分の息子と比べ信康に不安を感じるようになっていくのです・・・・。 また家康正室・築山殿も、自分の一族(今川家)をめちゃめちゃにした信長のもとへ大切な息子・信康が行くことが腹ただしかった。 嫁である徳姫との間で、今でいう嫁VS姑の関係になっていき、この婚姻はのち悲劇を呼ぶこととなるのです・・・。 |
信玄「オレ、海欲しいな」 嫡男義信「ダメですよ!」 |
![]() 色んな国に侵略したものの武田の領地は全て山。 信玄は「海のある今川の領地・駿河が欲しいな」と思い始めたのです。 信玄の姉は今川義元に嫁いでいましたが、1550年に死んでいました。 まだ今川と戦うのは得策ではないので、長男義信に今川義元の娘を結婚させ、同盟を組んでいました。 信玄にとって義信の娘は姪に当たり、義信と義元の娘はいとこ同士の関係でした。 が、今川義元が桶狭間の合戦で信長に討たれ、義元の子、氏真が後を継いだ。 氏真は信玄の甥になります。 それでも信玄は海のある国・駿河が欲しかった。 が、これに大反対したのが信玄の息子である義信。 「何言ってんですか!氏真はいとこですよ!?」と大反対。 それでも信玄は「いやじゃ!ワシは海のある国が欲しいのじゃ!」と譲らず、義信はとうとう幽閉されてしまうのです。 その後義信は自殺に追い込まれ、死んでしまいました。28歳でした。 信玄は「倅(せがれ)まで殺したんだから、何が何でも駿河をわがものにしてやる!」とさらに野望に燃えることとなったのです。 |
1567年 秀吉 中国攻略を命じられる |
このころ、信長は秀吉に毛利を攻略するべく中国地方制圧を秀吉に命じます。 秀吉をトップとして宇喜田秀家・蜂須賀正勝・黒田孝高 ちなみに北陸平定(上杉)には柴田勝家と筆頭として佐々正成・前田利家・佐久間盛政・金森長近 もうちょっと後になりますが、近畿平定には明智光秀をトップとし筒井順慶・細川藤孝 関東平定(北条)には滝川一益 四国には丹羽長秀・織田信孝を、それぞれ派遣してました。 |
織田軍団 |
小勢力だった織田家は、桶狭間の合戦を機会に飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力をつけてきました。 これからコチョコチョと出てくる人たちですので、とりあえずこんな感じの人と、軽く紹介します。 まだ家臣になってない人もいたり、最後まで(死んだトコまで)書いちゃってる人もいますが、とりあえず気楽に(笑) 前田利家&豊臣秀吉は紹介済みなので入れてません。 またそれなりに有名な人は、後に出していきますので、軽く読んでください。 |
鬼柴田 重臣NO1 柴田勝家 |
信秀・信長の2代に仕えました。 信秀死後、あまりの信長の素行の悪さに一度は弟信行を選び信長と対立したものの、その時の信長の立派な采配に感心し以後信長に従うことに。 さらにもう一度弟の信行が謀反を企てるが、この計画を信長に密告し、この功績により信長の重臣となる。 それからの活躍は素晴らしく「鬼柴田」の異名をとるほど。 そして織田家の家臣団の中でN01となり、北陸攻めの総大将に任命されることになったのです。 勝家の性格は思い込んだら一直線タイプ。 そのため調子が良くヘコヘコしている秀吉のことが大嫌いになっていくのです。 |
行政部門NO1 丹羽長秀 |
15歳の時から信長の側近となり、信長に重宝される。 信長の行政部門ではNO1として活躍。 信長から「珠光茶碗」という名器を貰いました。 滝川一益はこれをうらやましがり、自分も信長に同じような茶器を望んだんだけど、信長に一笑されました。 長秀がいかに家臣団の中で重宝されていたかが伺えます。 |
忍者出身!? 滝川一益 |
滝川家は甲賀出身の忍びの家柄でした。 射撃の名手だった一益は浪人中だったところを信長に拾われたらしい。 桶狭間の頃から信長に仕官することに。 勇猛果敢で戦いに挑み、瞬く間に織田家重臣となる。 先鋒でも殿でも「一益に任せておけば安心じゃ」と言われるほどとなっていきます。 1574年には北伊勢を任せられ「宿老」の座をゲットします。 |
佐久間信盛 |
織田家に古くから仕えていた家臣。 相続問題では信長の味方をしたため信頼されていました。 殆どの戦に出陣していて、ある程度の手柄をたてていましたが、本願寺攻めの時に信長にマジギレされてしまいます。 これはまた後ほど・・・ |
黒母衣衆のトップ 河尻秀隆 |
織田家に古くから仕える家臣。 織田家のエリート部隊である「黒母衣衆」の筆頭。 黒母衣衆とは、織田信長に仕える家臣(馬廻、小姓)から選ばれた二つの集団の名前で、もう一つは赤母衣衆。 定数は黒赤共に10名限定。欠員は補充されるようになってます。 信長の超側近です。 秀隆は信長の弟・信行が謀反を起こした時に暗殺を命じられました。 武田家攻めに借り出されることが多かったんですが、「本能寺の変」の後で一揆により死んでしまった人です。 |
信長の乳兄弟 池田恒興 |
生まれたときから癇が強い信長が、唯一乳首を噛み切らなかった女性の子供です。 つまりは信長の乳兄弟です。 そのため幼い頃から信長に仕えました。 恒興は信長の父・信秀に会うときに、蝶の紋がついた袴を着用していきました。 それを信秀に褒められて、うれしくなった恒興は、以後池田家の家紋を「蝶」としたのです。 常に信長とともに行動していた一人です。 信行と信長が対立した際、20歳だった恒興は信長に信行を殺すよう命じられ、川尻秀隆とともに信行を殺しました。 ちなみに信長の命令で、信行の妻を自分の妻に迎えました。 |
九鬼水軍を率いる男 九鬼嘉隆 |
志摩地方の九鬼家出身。 当時九鬼家はめちゃくちゃ不安定で、北畠家とバトルをしていました。 また九鬼家の所領は豊かな土地だったので、狙われまくっていたのです。 1560年に北畠家に攻められ、嘉隆と嘉隆の兄である浄隆は籠城しましたが、籠城の最中、兄が死んでしまったのです。 兄の長男であるまだチビッコの澄隆が後継ぎとなり、頑張って持ちこたえていたんですが、武田信玄に追放されていた信虎が北畠家の軍師となって攻め込んできたのです。 戦争慣れしていない嘉隆は、甲斐の大物だった信虎にコテンパンにやられてしまい、切腹を覚悟しましたが、なんとか逃げることができたのです。 逃げた先で出会ったのが織田家重臣・滝川一益でした。 嘉隆は滝川一益に助けを求め、信長の家臣となることができたのです。 そして、後に水軍で大活躍することとなります。 |
秀吉嫌いの佐々成政 |
織田家の黒母衣衆の一員。 柴田勝家ととも調子良く出世してきた秀吉が大嫌いでした。 ちなみに秀吉はそんなに嫌いじゃなかったらしい。 アルプス越えで有名な人です。これはまた後ほど書いてあります。 |
もう1人の守役 林通勝 |
林通勝は、平手政長とともに信長の守役となった人です。 信秀の頃から織田家に仕えていました。 が、あまりの信長の自分勝手さに呆れまくった通勝は、柴田勝家とともに、弟の信行を主君にすべく謀反を決行したのです。 これは失敗に終わり、通勝は許されましたが、信長はこの謀反を忘れることはありませんでした。これはまた後ほど。 |
森可成(もりよしなり) |
最初は斉藤家に仕えていたらしいですが、途中で織田家に仕えました。 桶狭間の合戦にも参加し、勇猛果敢な武将でした。 息子に森長可・森蘭丸がいます。 |
鬼武蔵 森長可(ながよし) |
森可成の長男。 父とともに、数々の戦に参加。 その働きは素晴らしく「鬼武蔵」の異名をとるほど。 家康からも「鬼武蔵の首を取ることは千人の兵を討つに等しい」といわれるほどでした。 |
蜂谷頼隆 |
黒母衣衆の1人。 戦いよりも政務などを担当していました。 仲良しは柴田勝家と森可成。 |
信長の弟 織田信包(のぶかね) |
信長の弟。 信忠・信雄についで一門では3番目の地位を持っていました。 ちなみに信忠・信雄は信長の息子です。 この2人は後ほど。 信包は信行のような野心家ではなかったため、信長死後はすんなりと秀吉の下につきました。 |
笹の才蔵 可児才蔵 |
美濃出身。 槍の名手として、有名でした。 はじめは斎藤龍興に仕え→柴田勝家→明智光秀→織田信孝→羽柴秀次→前田利家→福島正則という風に、主君を次々と替えた人です。 主君が次々と滅びたり、負け戦が多い人でしたが、いつも生き残って武勲を挙げていました。 「笹の才蔵」の異名は、福島正則の下にいた関ヶ原の戦いの時につけられます。これはまたのちほど。 |
鬼玄蕃・佐久間盛政 |
信長家臣・佐久間盛次の長男。 母は柴田勝家の姉なので勝家の甥になります。 勇猛果敢な武将で、合戦のたびに武勲をあげ、鬼玄蕃(おにげんぱ)と呼ばれるように。 が、賤ヶ岳(しずくがたけ)の戦いにおいて決定的なミスを犯してしまうのです。 これはまた後ほど |