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              歴代将軍プチ情報              



江戸幕府を牛耳ってた徳川将軍を紹介!


初代 徳川家康 いえやす
1603年 2月12日 〜 1605年 4月16日 
ポイント 豊臣をやっつけて天下をゲット!
鳴くまで待って徳川幕府を作った日本一の政治家
この人に関しては、ココでいうコトほとんどなし
誰もが知ってるニッポンの将軍

女性関係 正室には運がない
最初の正室・築山殿は織田信長に殺されるし、二人目の正室旭姫は秀吉の妹で政略結婚。どっちかというと旭姫のほうがお気の毒
女性のことは、子供を産む道具にしか思ってない感じがありあり
出戻りとか、とにかく子供を産める女性を側室においてた
じーさんになってからはピチピチギャル(今の中学生・高校生くらい)ばかりを側室においた

その他 大御所と言われ、二代目将軍秀忠にアレコレ指図していた

政治に関しての側近は本多正信・天海などなど





二代目 秀忠 ひでただ
1605年 4月16日 〜 1623年 7月27日
ポイント 三男でありながら将軍の座をゲット
マジメで誠実だったので、戦がなくなった時代にはぴったりの人
戦にかけては下手だったけど、政治にかけてはなかなか
家康が大御所として君臨してる間は影薄いけど、死んでからは政治手腕を発揮した

女性関係 正室は織田信長の姪・お江与
姉さん女房で、二度の離婚経験のあるお江与に、初婚の秀忠は頭があがらなかった
もともとマジメなので、側室もおかずお江与オンリー
が、一度だけお静の方という女性と浮気しちゃって子供までできた
バレたらお江与に殺されるぅーと、お静の方を追い出し、生まれた子供も見ることはなかった
ちなみにその子供は保科正之で、のちに家光の右腕となる

その他 家康の側近・本多正信に頭があがらなかった
そのため、秀忠の家臣は正信のことが大嫌いだった

また、長男の家光より次男の忠直のことが好きだったけど、家康に「次期将軍は家光!」と宣言され、すごすご引き下がった
家康には頭があがらない男





三代目 家光 いえみつ
1623年 7月27日 〜 1651年 4月20日
ポイント 生まれながらの将軍

が、実際は将軍になれるかどーかヒヤヒヤもんだった
お父さんの秀忠とお母さんのお江与が次男の忠直ばっか可愛がるので、みかねた乳母の春日局が家康に直訴
家康によって「お前が次の将軍」とお墨付きをもらい何とか将軍になれた

女性関係 おかーさんと春日局のバトルを幼い頃から見ていたため、女性恐怖症

ということで、進む道はもちろんホモ
美少年をはべらせている時が一番心休まる時だった
ケド将軍なんで、なんとしても跡継ぎを産まなきゃならんため、春日局が必死に側室探し
やっとこさ女体開眼してからは、ポコポコ側室を作った

その他 島原の乱という猛烈にすごいキリシタン弾圧を行った
あと、参勤交代制度つくり、幕府の体制をがっちりとさせた
お家取り潰しも家光の時でほぼ完成
邪魔な家を改易させまくって、徳川の世がほぼできあがった

重宝したのは弟の保科正之や、春日局




四代目 家綱 いえつな
1651年 8月18日 〜 1680年 5月 8日
ポイント 家光の側室・お楽の方との間にできた長男
11歳で将軍となった

が、幼い頃から病気がち
政治もほとんど側近まかせで、家来が何か相談すると「さようせい」といっつも言ってたので「左様せい様」というニックネームまでついた

女性関係 乳母の矢島局が大奥を仕切っていて、娘を家綱の側室にしたりと、権力ゲットをはかった

が、子供がうまれなかった

矢島局が嫌いな大奥御年寄・飛鳥井は、矢島局に対抗して側室を連れてくるも、こちらも子が生まれず・・・

家綱は子供を授かることなく終わった

その他 ちびっ子将軍だったので、政治のほとんどが家光時代の側近が行った
ブレーンは松平信綱や阿部忠秋・酒井忠勝ら
後半は下馬将軍・酒井忠清という超権力者が現れる

新将軍がちびっ子なので、由井正雪らが幕府転覆計画をはかったりした(慶安の変)

16歳の時は江戸で最大の火事「明暦の大火」が起きた
これによ江戸が燃えまくったので、整備開始
この火事のおかげで、江戸はすごい整備され、人口100万人という世界一の都市となった



五代目 綱吉 つなよし
1680年 8月23日 〜 1709年 1月10日
ポイント 家光の四男。家光の三男・綱重の長男綱豊と後継者バトルを繰り広げ勝利した

ホントは大老の酒井忠清は京都から新将軍をひっぱってこようとしたんだけど失敗
それを止めたのが堀田正俊で、綱吉は正俊のおかげで新将軍となれた
こーしてマジメ人間堀田正俊とともに綱吉政権がスタートするも、だんだん意見があわなくなってきて、柳沢吉保を大事にするように

柳沢吉保はまさに江戸時代を代表する立身出世男となる

女性関係 お母さんは家光の側室で八百屋の娘・お玉(桂昌院)
綱吉時代の大奥はとにかくすごいバトルが繰り広げられていた
まさに「大奥」である
ココには書ききれないくらい、激しい女のバトルが繰り広げられているので、詳しく知りたい人は大奥をチェック!

その他 この人の一番のポイントはなんといっても生類憐みの令

「子供が生まれないのは綱吉が前世で殺生をしたから。だから犬を大事にしなさい。そーすれば子供が生まれる」というお告げのためにできた
犬が人間より偉くなるというものすごい法律
が、結局子供は生まれなかった

また、綱吉時代は「元禄バブル」と呼ばれるくらいバブリーな時代で、江戸のバブル王紀伊国屋なども出てきた

忠臣蔵もこの時代




六代目 家宣 いえのぶ
1709年 5月 1日 〜 1712年10月14日
ポイント 綱吉に子供がいなかったため選ばれた

もともとの名前は綱豊で、家光の三男・綱重の子供
将軍に選ばれた時はすでに48歳

下々の心がわかるいい将軍だったんだけど、なんせ高齢
あっという間に家宣の時代は終わってしまった

女性関係 家宣の正室照子は京都関白の娘
側室は4人いて、それぞれバックには柳沢吉保や間部詮房がついていて、これまた熾烈な大奥権力争いがあった

結局権力をゲットしたのは四男・鍋松を生んだお喜世の方

全部で7人子供がうまれたんだけど、育ったのは鍋松一人しかいなかったからです

その他 あの悪法「生類憐みの令」を廃止した
綱吉の「私が死んでも後100年はこの法を守れ」という遺言を破った

が、将軍になって4年後に風邪ひいちゃったと寝込んだまま死んでしまった




七代目 家継 いえつぐ
1713年 4月 2日 〜 1716年 4月30日
ポイント お父さんの家宣が死んでしまったため、5歳で将軍になっちゃった

5歳なんで政治のことなんかちんぷんかんぷん
ってことで、裏ボス新井白石と間部詮房が操っていた

女性関係 大奥のボス争いもすごかった
家宣の正室天英院(照子)と月光院(お喜世・家継の母)の2大派閥でバトルを繰り広げ、絵島生島事件も起きた

肝心の家継は8歳で死んでしまい婚約者のみ


その他 ちびっ子なので政治的にやったことは特にナシ
ぶっちゃけ、新井白石の時代でもある





 八代目 吉宗 よしむね
1716年 8月13日 〜 1745年 9月25日
ポイント この頃の幕府は超ビノボーだったので、紀州藩で手腕を発揮していた吉宗に「財政立て直しヨロシク」と、新将軍に任命した

紀州の四男でありながら、将軍になったラッキーボーイ

32歳で将軍になり、かなり幕府建て直しを頑張った

女性関係 有名なのは財政立て直しのために大奥の美女をリストラしたこと

また女好きが発端で天一坊事件なども巻き起こした

好きなタイプは家康と同じ
目の覚めるような美人よりも、健康で子供を産めそうな女性がスキ

その他 元禄バブル後、やばい幕府の財政を享保の改革で立て直しをはかるも、実はたいして成功してなかった

江戸三大飢饉と言われる享保の飢饉もあり、大変だった

目安箱を設置したり、小石川養成所を設立したり頑張った
青木昆陽も吉宗が輩出
一番有名なのはなんといってもスーパー裁判官・南町奉行所の大岡越前

他、自分の血を将軍家にするべく、息子に田安家・一ツ橋家などを作らせ、のちに清水家もできて「御三卿」となる
以後、尾張などの御三家をしのぐ存在になった





九代目 家重 いえしげ
1745年11月 2日 〜 1760年 5月13日
ポイント 吉宗の長男

実は吉宗、ホントは長男より次男の宗武を将軍にしたかった
ってのは、家重は生まれつき言語障害があり、うまくしゃべれない
さらには武道が大嫌いで酒や遊びが大好きだったから

それでも家康の「跡継ぎは長男」というのを守って将軍にさせた

ちなみに吉宗は、家重の子供の家治が優秀だったので、孫に帝王学を教えた

家重はホントダメダメ将軍で、いっつもトイレばっかいくので「小便公方」なんてニックネームまでつけられた

女性関係 顔は歴代将軍の中で一番美男子と言われている
関係ないが歯ぎしりがすごかったらしい

政治が大嫌いで、女と酒に溺れた生活を送っていたため、側室もそれなりにいて、子供も2人産んでいる

ちなみに吉宗期待の孫・家治を産んだのはお幸の方
御台所はすでに死んでいたため大奥権力NO1だったんだけど、かなりのやきもち焼き

将軍生母でありながら、家重が他の側室とイチャイチャしてるとこに乗り込んで幽閉されてしまった

これを聞いた吉宗が「家治を産んだお幸を幽閉するとは何事じゃ!」と怒った


その他 将軍にはなったけど、吉宗が大御所として君臨していた

家重の小姓はあの悪名高い田沼意次






十代目 家治 いえはる
1760年 9月 2日 〜 1786年 9月 8日
ポイント 吉宗期待の孫!!!のはずだったが、田沼意次に牛耳られ出る幕ナシとなってしまった

というのも、おかーさんが死に、大好きなおじいちゃん吉宗も死に、さらには奥さんもお父さんの家重も死に、極めつけは大事な子供4人が全て死んでしまったから

天涯孤独になっちゃって、遊んで暮らすように

ということで、将軍らしい仕事は何もせず、田沼意次の賄賂政治に突入するのであります

女性関係 正室は吉宗が探した京都の女性
婚約期間が5年と長く、交流もしていたので将軍としては珍しく正室と仲がよかった

2人の側室がいたけど、将軍としては少ない方
よっぽど正妻と仲がよかったんだろうと思われる

二男二女に恵まれるけど、みんな早死にで、かろうじて成長した家基も18歳の時にいきなり具合が悪くなって死んじゃった
これはかなりショックで、家治は食事ものどを通らないくらいだった


その他 平賀源内や杉田玄白などがこの時代に出てきた

また、田沼意次の賄賂政治の時代で家治の出番ほとんどなし

大事件は浅間山の噴火
この噴火により天命の大飢饉が起きて日本中大変だった






十一代目 家斉 いえなり
 
1787年 4月15日 〜 1837年 4月 2日
ポイント 家治の子供はみんな死んだので、田沼意次が選んだ一ツ橋家の家斉が養子になり将軍となった

15歳で将軍になると、田沼意次をクビにし、松平定信をトップ老中に
定信は田沼の腐りきってた政治をどうにかしようと寛政の改革を推し進めた

家斉はというと、ほとんど政治は松平定信におまかせして、女遊びばっかしてた


女性関係 歴代将軍NO1の女好き
知られてるだけで40人以上の側室と、55人の子供がいる
オットセイ将軍というニックネームまでついた

家斉と大奥のことを書いた本まで出てベストセラーになるほど

とにかく子供が多すぎて幕府は貧乏になっていった
全部置いておけないので、外様大名なんかと婚姻関係結びまくった

また、お美代の遺言偽造事件なども起こっている

その他 大黒屋光太夫なんかもこの時代
まさに激動の幕末が始まろうとしていた

政治のことはほとんど松平定信がやってたけど、寛政の改革が厳しすぎたため江戸庶民からブーイング
とつとう定信は失脚し、かわって水野忠成が老中となった

他にフェートン号事件や伊能忠敬が日本地図を完成させたりした





十二代目 家慶 いえよし
1837年 9月 2日 〜 1853年 6月22日
ポイント オットセイ将軍家斉が大御所として君臨し続けたため、将軍になったのは45歳の時

将軍になっても実権がないので、なにを相談されても「そうせぇ」しか言わないので「そうせぇ様」というアホみたいなニックネームがついた

周りには中野清茂や水野忠篤・美濃部茂育(もちなる)などの家斉の寵臣がガッチリと固めており、家慶の出る幕はほとんどナシ


女性関係 身長が154センチで、あごがしゃくれて出っ歯だったらしい
しかも頭のデカさがは将軍の中で最大という、ある意味個性的な風貌

が、将軍なのでもちろん妻や側室はそれなりにいる

そうせえ様の子供もみんな早死にで育った男児は2人だけ
四男家定と一橋家を継いだ慶昌
が、慶昌は13歳で病死してしまったため、家定が後継ぎになることになりました


その他 水野忠成の後任として老中となった忠邦が、家斉が死んだ後張り切りだした
天保の改革をスタートさせ、贅沢三昧だった家斉のやり方を直していった

が、やりすぎたため失脚し、かわって出てきたのが阿部正弘





十三代目 家定 いえさだ
1853年11月23日 〜 1858年 7月 6日
ポイント 徳川の不幸はこの家定が将軍に着くことによって始まった!?

家定は知的障害者
お料理が大好きで、特にカステラ造りはお手の物♪マメを煮るのも得意でした

30過ぎても庭のガチョウを追い回して遊んだり、刀を持って近習を追い回したり・・・

また幼い頃疱瘡を患ったため顔は醜く、祖父である家斉譲りの癇癪もちも手伝って「癇癪公方」というニックネームがつく始末・・・

そんな将軍だったので、色んな外様大名が徳川に対して口を出すように
大名以外にも、一般ピーポーまでもが徳川を批判するようになってくるのであります


女性関係 一人目・二人目の正室は京都から迎えたけど、二人とも死んじゃった

一応おしがというお気に入りの女性がいたけど、子供が生まれなかった
どうやら肉体的欠点があったらしい

時代はペリー到来の大変な時
ってことで、家定を操るよう命令されてやってきた薩摩の娘・敬子が正室になり大奥に君臨することになります

この敬子って女性は、名前を変えたり身分を変えたりしてアレコレ画策されてやってきた島津家のお姫様
ある意味、この人も激動の人生を送るハメになってしまいます


その他 ペリーがやってきて開港を迫るというまさに激動の幕末のど真ん中にいた家定

みんな「あの将軍じゃこの大変な時期を乗り越えられない」と思ってました

そんな家定は35歳で死去
タイミングがよすぎるため毒殺説もあります






十四代目 家茂 いえもち
1858年12月 1日 〜 1866年 7月20日
ポイント 家定に子供がいなかったため、壮絶な跡継ぎ争いが勃発してました

家茂VS慶喜(最後の将軍)です

が、実際はこの2人というより、この2人の取り巻きが熾烈な争いを繰り広げており、慶喜は「将軍争いなんかやめてヨ!」とお父さんに言ってたし、家茂もまだ13歳なので「将軍?エ?」状態

大老井伊直弼と大奥のバックアップによって生まれた将軍といっても過言ではないかも


女性関係 日本が外国に負けないように!というコトで、公武合体のために、なんと孝明天皇の妹と結婚することに

お相手は皇女の和宮
和宮は京都から出たことないので、結婚が決まったとき「東国なんて野蛮な国イヤ!」とずっと言ってた

が、実際家茂がとってもいい人だったらしく2人はラブラブ

家茂は側室も作らず、和宮を愛したらしい
ドロドロした政治の世界の中で、ちょっと安らぐ2人であります


その他 将軍になったものの、13歳だったため政治はほとんどお任せ状態

時代が時代だけに、ノンキにしていられなかった

今まで将軍といえば庶民からしたら雲の上の存在だというのに、幕末の志士達は徳川を潰すべく立ち上がっていた




十五代目 慶喜 よしのぶ
1866年12月 5日 〜 1867年12月 9日
ポイント 家茂が死んでしまったため、将軍になってしまった慶喜
時代は討幕へ突き進んでおり、正直やりたくなかっただろうと思われる

それでも将軍としてかなり徳川の権威を回復し、薩長らをビビらせた

が、時代の流れには逆らえず、大政奉還し264年続いた徳川幕府に幕を閉じた

女性関係 お父さんがかなりのエロオヤジで大奥から総スカンを食っていたが、慶喜もまけず劣らず女好きだった

が、さすがに動乱の時はあまり出てこないが、およしという女性だけは戦場に連れて行っている

その他 将軍になっていた期間は短いけど、最後の将軍としてかなり有名

ホントは死罪だったとこを命だけは助かり、のちに天皇と食事したりしている





番外編
16代 家達 いえさと 16代将軍になるはずだった人
将軍にはなってないけど、かなり活躍してる
イギリスへ留学したり、日本赤十字社の社長をしたりした
17代 家正 いえまさ 外交官になりました
慶朝 よしとも 現在フリーカメラマンをやっている
エッセイのような本も出していて、フツーの人っぽくてなんか不思議な感じ
慶喜のひ孫なのに、文章が軽い(笑)