日本の女性史



         


平塚らいてう(らいちょう)

明治19年に東京で生まれたらいてう
父は会計検査院に務めており、母は田安家の専門医の娘
この時代においては裕福な家庭に生まれました

日本女子大に入学しましたが、「良妻賢母」の教えに嫌気が差してきたらいてうは、卒業後、津田塾や英語学校に通うことに

この時、生田長江(いくたちょうこう)が主催している閨秀文学会に入りました
ここで与謝野晶子に短歌の書き方などを教えてもらいました

その生田長江がらいてうに「女性だけの手で文芸誌を発行してみないか?」と持ちかけてきたのです
らいてうは悩み、姉の友人である保持研子(やすもちよしこ)に相談
すると研子が大乗り気にとなり、同級生の中野初子らを集め、女性だけの手で文芸誌を作ることとなったのです

この時、多くの費用を出してくれたのはらいてうの母親でした
「この子は普通の道は歩きそうにないわ」と、らいてうの結婚費用として貯めておいたお金を出してくれたのです

準備が整ってからは大忙し
社員募集や原稿書き・編集などでままぐるしい毎日

さて、その文芸誌の名前は「青鞜」ということになりました
これは生田長江が「18世紀、ロンドンで文学や芸術論議に花を咲かせていた新しいタイプの女性達は、みんな青色の靴下(ブルー・ストッキング)をはいていたわ」
ということで、それにちなんで「青鞜」という名前に決まったのです

創刊第一号は千部発行
表紙は高村智恵子(高村光太郎の妻)が書きました

そして明治44年
有名な「原始 女性は実に太陽であった 真正の人であった 今、女性は月である 他に依って生き 他の光によって輝く 病人のような蒼白い顔の月である」という有名な一文から始まる「青鞜」がスタートしたのです

「女性は今、青白い月と化している。原始、女性は太陽だったのだ。女性は主体性を取り戻して再び輝かねばならないのである」というものです

与謝野晶子は青鞜創刊を知ると「山が動く日がくる」と言いました

そして、その予言は当たり、青鞜は発売した瞬間い売り切れ、全国から多くの激励の手紙が舞い込んできたのです

青鞜には多くの女性が集まりました

長谷川時雨・岡田八千代・加藤かずこ・国木田治子(国木田独歩の妻)・森しげ(森鴎外の妻)小金井喜美子(森鴎外の妹)・与謝野晶子などです

社員には後に有名となる尾竹紅吉伊藤野枝・岡本かの子などもいました

そして、この中心でいつも静かに微笑んでいたのがらいてうなのです

この青鞜は一大センセーションを巻き起こしました
「新しい女」が時代へ躍り出たのです

が、時代は「新しい女」を批判しました
青鞜の教えは、今までの日本の女性のあり方を覆すものだったからです

とある教師は、自分の学生が青鞜の講演会に行ったと知ると「おお、哀れな彼女を悪魔から救いたまえ」とまで言ったほど
それほどまでに、この時代「女性解放」はスゴイことだったのです

さて、らいてうは年下の彼氏ができました
奥村博史といいます
尾竹紅吉のところで、この辺の恋愛模様は書いております

らいてうは博史と結婚せず、共同生活(同棲のこと)することにしたため、またも「新しい女」はスキャンダラスな話題となりました

大正四年になると、らいてうは「青鞜」を後輩の伊藤野枝にまかせ、評論家として活躍するように

大正七年からは母性主義を唱え、与謝野晶子と激しく対立
母性保護論争は、1年以上続きました

その後、市川房枝と知り合いました
房枝は「これが新しい女か・・・。でも目的のためには一緒にやっていくしかない」と、らいてうと共に日本で初めての女性運動団体「新婦人協会」を結成しました

ここで、女性を政治集会へ参加させることを実現させたのです

が、新婦人協会では、らいてうと市川房枝は「良妻賢母」を主張する人々から痛烈な批判を浴びました
そのため解散を余技なくされたのです

以後も、高群逸枝(たかむれいつえ)とも女性解放に向けて力を注ぎ、昭和46年85歳で死ぬまで、一生を女性運動に捧げたのです








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