歴史トリビア 

えっ!?と驚きの歴史無駄知識


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幕末トリビア


外国人ビックリ!「日本ニハ、ヤスミガナイ〜」

日本で初めてネクタイを締めたのはあの人!



西郷隆盛に惚れられた年下男


今ならただのセクハラオヤジ!佐久間象山の妻の選び方


岩倉具視は博打打ちに家を貸し、シャバ代を稼いでいた


間宮林蔵は幕府のスパイだった!?


遣米使節団ビックリ!?将軍が殺された!?


坂本龍馬は梅毒だった!?


勝海舟は最悪な艦長だった!


志士の間で日本刀「村正」が大流行






外国人ビックリ!「日本人ハ、ヤスミガナイ〜」

江戸時代まで、日本には「日曜日」とゆ〜のがありませんでした
日本に「日曜日」という休日ができたのは幕末
外国人が多く入ってきた長崎で、外国人が「アマリニモ休ミガナサスギデース!!」

と、ゆーことで外国人が長崎のお役所に談判したんですね〜
外国人からみたら、休みも無く毎日仕事する日本人にビックリしたよーです

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日本で初めてネクタイを締めたのはあの人!

初めてネクタイを締めたのは、幕末の有名人・ジョン万次郎
アメリカから帰国してくる時に、所持品の中に「白鹿襟飾(ネクタイ)」を三本持っていたんですねぇ〜

で、大正時代になると文士たちの間でネクタイが大流行!

だけど太平洋戦争が始まっちゃうと、ネクタイ禁止令がでちゃいます
戦後はもちろん解除されました

ネクタイってのは、もともとローマ帝国時代までさかのぼる歴史あるモノなんですよー
どうやら故郷を遠く離れる兵士たちの無事を祈って、恋人や奥さんが首に布を巻いたのが始まりだそうです

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西郷隆盛に惚れられた年下男

ある日、江戸の薩摩屋敷に福井藩士の橋本景岳(はしもとけいがく)という男が尋ねてきました
西郷隆盛より7つ年下で、体が小さく色白な男
思わず西郷隆盛は橋本を軽く見て失礼な態度に出てしまいました

すると橋本、豪傑な西郷にむかって「その態度は失礼ではないですか?」と堂々と、西郷の非礼に対して文句を言ったのであります
その迫力に西郷隆盛はビックリしてすぐさま謝りました
そしてその後二人が話をすると、橋本の意見がとても優れたものだったのです

翌日西郷隆盛は橋本のもとへ行き「おはんに惚れ申した!!」といったのでした
ちなみにこのとき橋本22歳
以後、西郷隆盛は「尊敬している人は二人いる。先輩では藤田東湖・同輩では橋本景岳。この二人の才学にはとてもおいどんはかなわない」と言うようになりました

彼は通称・橋本佐内といい、あまりの才能がゆえに四年後安政の大獄で処刑されてしまうのであります


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今ならただのセクハラオヤジ!佐久間象山の妻の選び方
佐久間象山といえば、大活躍した西洋学者で、あのペリーも佐久間象山の容貌をみて思わず挨拶しちゃったくらいのエラーイお人

そんな象山の奥さん選びのポイントは「自分の優れた血統を受け継いでくれる子供を生みそうな女」

自分のことを「大天才!」と言っていた象山は、自分のような息子を産んでくれそうな大きなお尻を持ち、さらに頭のいい女性を奥さんにしようとしていた
で、選ばれたのが勝海舟の妹・順子

が、順子には子供ができなかったため、象山は知り合いに「俺の優秀なDNAを受け継げそうな女を紹介しろ」と言いまくり、お雪・お蝶・お菊といった3人の愛人を作りせっせと子作りに励んだのであります

順子はというと、子供はできないわ愛人を作られるわでもううんざり。どーやら夫婦仲はイマイチだったようです

そんな象山ですが、子供は恪次郎という息子ただ一人しか生まれませんでした
で、この恪次郎は象山のように育ったのか?というと、どーやら体格だけはいいが頭脳はイマイチだったのでありました
ちなみに恪次郎はのちに新撰組に入りますが、象山の息子ってことでやりたい放題
新撰組にとっても厄介者となるのでした


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岩倉具視は博打打ちに家を貸し、シャバ代を稼いでいた
公卿といえども貧乏だった岩倉具視。食べるものも事欠く生活で、ご馳走といえばニシンだった。

そんな具視が稼ぎ口が「シャバ代」

自宅の一部を博打うちに貸し、場所代を貰ってました

腐っても公卿なので、なかなか取り締まりにこれなかったんですねー

500円札にもなった岩倉具視も、若い頃は悪いことをやって稼いでいたのでした


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間宮林蔵は幕府のスパイだった!?
間宮海峡を発見した冒険家・間宮林蔵

が、この人実は幕府の隠密(スパイ)としてタレコミ業もしていた

「お上に不忠な人は殺さないではおかぬ!」というのが口癖で、幕府にたてつきそうな人をタレコミまくっていた

そのためみんなに嫌われまくっていた


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遣米使節団ビックリ!?将軍が殺された!?

日本発の遣米使節団は、1860年に米艦ポータハン号に乗って横浜を出発

遣米使節団がフィラデルフィアに滞在中のこと

なんとアメリカのニューヨークタイムズ紙が「日本の皇帝暗殺される!」という記事を掲載したのです

次の日には別の新聞が「プリンス暗殺!江戸城に向かう途中、14人の暗殺者がプリンスを殺した」

どうやらコレは、井伊直弼が殺された桜田門外の変のこと

次の日、ニューヨークタイムズは誤報ですと発表しましたが、遣米使節団の方々はかなりビックリしたでありましょう

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坂本龍馬は梅毒だった!?

日本のヒーロー・坂本龍馬

が、実は当時不治の病とされていた「梅毒」にかかっていたといわれている

中江兆民の弟子である幸徳秋水の本に「龍馬は梅毒のため、ハゲていた」と書いてあるのです

自分の命が短いのを知っていたので、近江屋で暗殺された時も、取り乱さなかったのかも・・・


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勝海舟は最悪な艦長だった!

勝海舟といえば、江戸無血開城などを行い幕末に欠かせないヒーローであります

ところが!勝海舟は咸臨丸の艦長をやってた時は最低最悪な男だったのであります

まず咸臨丸の艦長になるべく、海舟は自分を売り込みまくり無理やり艦長の座をゲット

で、船はというとブルック大尉らアメリカ兵が動かしてたんだけど、海舟は「オレにもあのくらいならできる」とエバりまくり

が、船が洋上に出た途端、船酔いをしちゃった海舟は、一歩も外に出なかった
んでもって、突然「オレはもう日本に帰る!」と、太平洋のド真ん中でわめきだした

部下達が何とかなだめてやっとこさサンフランシスコに到着

すると突然、海舟は自分の家紋をあしらった軍旗を取り出しあげようとした

ちなみに国際法では「国」の国旗をあげなきゃならないので、ブルック大尉たちが必死で海舟をなだめた

一緒にこの船に乗っていた福沢諭吉は、勝海舟の行動にほとほとあきれたらしく、ずーっと海舟をバカにし続けた。ちなみにこの2人、ずーっと仲が悪かった


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志士の間で日本刀「村正」が大流行

村正といえば「妖刀」で有名ですが、家康はこの刀が大嫌いでした

家康のおじいちゃんを斬り殺したのも「村正」で、他にも家康が殺されかかったりした時出てくるのはいつも「村正」

ということで、家康が将軍となった江戸時代になると、この刀は消え去っていったのであります

ところが、幕末において薩長らが幕府を倒すべく立ち上がってきました

このとき、志士達が持ったのが幕府に因縁のある「村正」だったのであります


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